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2015年5月 2日 (土)

2015年初夏、節目の600回

初夏とは立夏から芒種の前日までの期間を指します。立夏とは夏の気配が感じられる頃の意味で2015年は5月6日となります。ちなみに芒種とは種まきの時期で今年は6月6日です。もともと知っていたかのように説明していますが、このブログの記事タイトルに「初夏」という言葉を使おうと考えたため、インターネットを検索して書き込んでいます。取りあえず5月初旬が初夏を迎える頃だろうとは思っていましたが、正確な時期は把握していませんでした。

ネット上に誤った認識の記載を残したくないため、今回に限らずブログの投稿画面に向かった際、曖昧な知識や情報は必ず確認してから書き込むように努めています。それでも疑問を持たずに投稿した語句や内容に誤りがあり、コメント欄で指摘を受けた時も少なくありません。そのような関係性も含め、このブログを続けていることで知らなかったことを知り、勘違いしていたことを改められる、いろいろな意味で自己啓発の機会となっています。細部の話にとどまらず、ブログの記事に取り上げるテーマや題材に関しても同様です。

投稿内容の正確性を期すためには、まず自分自身がその内容の理解を深めなければなりません。「社会保障・税番号制度」「子ども・子育て新制度」「生活困窮者自立支援法が施行」などの記事を投稿した際には事前に可能な限り資料や関連サイトを閲覧していました。生活困窮者自立支援法の記事を投稿した後、生活保護の面接担当の係長から「ブログを見ましたが、しっかり勉強されてますね」という一言をいただきました。一夜漬けの勉強ですが、的外れな記述ではないことを確かめられ、たいへん心強く励みとなる一言でした。

さて、記事タイトルに掲げた通り今回、節目の600回を迎えます。このブログを開設した当初は毎日のように記事本文を更新していました。しばらくして週2、3回のペースとなり、1年後ぐらいから週1回の更新が定着し、現在に至っています。実生活に過度な負担をかけないペースとして毎週1回、土曜日か日曜日に更新するようになってから1回も途絶えずに「週刊」を習慣化できています。

もし定期的な更新間隔を定めていなければ、日々の多忙さに流され、いわゆる「開店休業」状態が続いていたかも知れません。それでも年月は過ぎていくことになります。一方で、投稿した記事の数は自分自身の労力を惜しみ出したり、続けていく熱意が冷めてしまった場合、停滞してしまう数字です。そのような意味で、これまで記事の回数が100を刻んだ時をメモリアルな節目に位置付け、下記のような記事を投稿してきました。

100回の時は、あまり投稿数を意識していなかったため、100回目の記事という認識がないまま普段通りの内容を書き込んでいました。その直後、たまたまココログの管理ページを目にした際、直前に投稿した記事が100回目だったことに気付きました。そのため、101回目という少し半端なタイミングでのメモリアルな記事内容となっていました。毎週1回の更新が定着し、先が読みやすくなっていた200回目以降は失念することなく、上記のような記事をピンポイントで綴ることができていました。

訪問されている方々にとって、この記事が何回目だろうと関係ないことは重々承知しています。それでも節目のタイミングを利用し、当ブログがどのような性格のものなのか改めてお伝えさせていただく機会としていました。いずれにしても週1回の更新ペースを崩さず、継続できているのも毎回多くの皆さんが訪れてくださり、貴重なコメントをいただけていることが大きな励みとなっているからです。ちなみに500回目の頃と比べ、コメント欄の雰囲気が大きく様変わりしています。

500回目の記事の中に「普段のアクセス数は千件から2千件ぐらいの幅で推移し、コメント数が100を超えた記事も数多くありました」と書かれています。現在、寄せられるコメントの数は大きく減っています。記事本文の更新が週1回で、コメント欄での動きが少なくなっているため、アクセス数も当時に比べれば減っています。1日千件まで届かない日が増えています。ただアクセス数に比べれば1週間の中での訪問者数の減り幅は小さく、同じ記事を頻繁に閲覧いただく方の数が大きく減っているように見受けられます。

ここでどれほど素晴らしい意見を述べても無意味ですよ トピ主さんには何も響きません。さらにトピ主さんはご自分の答え以外は認めることはありません。以前はたくさんの素晴らしい意見がコメントされてましたが、トピ主さんにより全部排除されてしまいました。もちろんこんな発言をすれば全力で否定されますが、現在のコメント欄がすべてを表しています。訪問者の数は変わらないと言われてるので そうゆうことです。

上記は最近の記事「南京虐殺の問題から思うこと」のコメント欄で、はぐれ猫さんが一堂零さんに対して伝えた言葉です。どうして上記のような理解に至るのか、たいへん不思議なことであり、とても驚いていました。しかし、このような見方をされる方がいらっしゃるということは残念な事実であり、偏見や誤解に対しては丁寧に説明していかなければなりません。ちょうど600回目の記事投稿の時期が近かったため、その機会に説明させていただくつもりでした。

無意味かどうかですが、一堂零さんは「管理者さんには響かなくとも、読んでくださった方のうち、お一人でも東京裁判史観に疑問を持ち、近代史の実相に迫ろうとする方がいらっしゃれば幸甚です」と返答されていました。考え方や見方の違いは横に置いた上で、まったくその通りであり、そのような場になり得ることを願いながら当ブログを続けています。いろいろな「答え」を認め合った場としてこのコメント欄の限界と可能性を閲覧されている皆さんにご理解を求めてきていました。

私自身の信じている「答え」が安易に変わらないことはその通りです。ただ懇切丁寧な説得力あるコメントに「なるほど」と心を動かされてきたことは数多くあります。「何も響きません」「ご自分の答え以外は認めることはありません」と決め付けられてしまうことは非常に不本意な見られ方です。さらに「たくさんの素晴らしい意見がコメントされてましたが、トピ主さんにより全部排除されてしまいました」という指摘ですが、このような見方は偏見や誤解だと言わざるを得ません。

コメント投稿は即時に反映され、明らかなスパムではない限り、削除されることはありません。「コメント欄の話、インデックス」の中で記してきた通りですが、どのような辛辣な言葉でも、そこに投稿された思いや意味をくみ取ろうと心がけながら批判意見も含め、幅広い視点や立場からご意見をいただける貴重さを感じ取ってきています。その中で批判意見と誹謗中傷の違いに関しては再三再四説明し、せめて特定の人物や団体を誹謗中傷するようなコメントだけは慎むように「お願い」を繰り返してきました。

その「お願い」に理解いただけず、コメント欄の常連だった方が去られてしまったこともあります。しかし、あくまでも出入り自由な場としての個々人の判断であり、強制的な退去を求める言葉を発した訳ではありません。あまりにも「全部排除」という言葉が実情からかけ離れていたため、いろいろ説明を加えさせていただきました。はぐれ猫さんは投稿したご自身のコメントが、このように記事本文で取り上げられることを望まない方のようですが、私自身がコメント欄から距離を置くようになっているためご理解ご容赦ください。

もともと3年前まで毎日最低1回はコメント欄に関わるように心がけていましたが、「コメント欄雑感、2012年春」を投稿した頃から徐々にコメント欄から距離を置くようになっていました。記事本文の更新が土曜日か日曜日であり、寄せられたコメントへのレスも含め、現在、このブログに関わるのは休日に限るようにしています。その上で、コメント欄に寄せられた難しい問いかけに対しては、なるべく記事本文を通してお答えするように努めています。

そのため、コメント欄で頻繁な問いかけがあったとしても管理人からのレスが遅い、手応えのないブログになっています。このような現状は、やはり以前に比べてコメント投稿数を大きく減らしている理由の一つだろうと考えています。今回、節目の600回を迎え、時事の話題も交えながら多面的な情報を提供していくことの大切さについても触れるつもりでした。とは言え、ここまでで充分長い記事となっていますので、その内容は次回以降の記事に送り、600回目の記事は誠に恐縮ながら目新しい内容が薄いまま終わらせていただきます。

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コメント

管理人さま

先ずは600回達成。おめでとうございます。
色々なブログが多忙を理由に更新が止まるなか、
これだけの期間、継続されることに敬意を表します。

さて、私がこのブログに訪れるようになって、おそらく5年以上になると思います。
ほぼ全てのトピックと、コメントについても8割方は目を通して来ています。
その上で申し上げると、はぐれ猫さんのコメントは誤解でも偏見でもなく
十分に的を得たコメントと思いました。

いつも思うのですが、管理人さまが自分の意に沿わないコメントに対して、
誤解や偏見という姿を多く見てきましたし、レッテル貼りと断じ、誹謗中傷とする姿も目にしました。
逆に、意にそうコメントの投稿者には甘いというか、十分に誹謗中傷の類でも
貴重なご意見という姿も、少なからず見てきました。
それなのに異なる意見を認め合ってなどという姿には、疑問符です。

多くの常連だった方がさるなかでも私がとどまれたのは、交わされる意見の
中間くらいの価値観を持っていたことと、コメントの投稿から
距離を置いていたというところが大きいと感じています。

最後に以前もコメントしましたが、管理人さまが勤める団体の職員の方は何故コメントしないのでしょう?
管理人さまの意見と同じ価値観なのでしょうか?

組合の長とはいえ、所属する団体においても反対の意見の表明が無ければ、
管理人さまの意見は、観察者からはその団体の価値観の代表と認められます。
それが最大の疑問符であり、私がここを離れない理由でもあります。

投稿: いつも疑問符 | 2015年5月 4日 (月) 19時07分

いつも疑問符さま

横レス、失礼します。

私は、管理人さんが、決めつけがひどい人だとか、レッテル貼りをしてるなんて、ぜんぜん思いません。

むしろ、「荒し」みたいな輩に対しても、可能なかぎり穏健に対応しようとしている我慢強さに、敬服すると同時に、呆れてもいます。
と言うのも、批評の基本は「良いものは良い、ダメなものはダメだと、根拠を示して語る」ことだと考えるからです。そこから言えば、管理人さんのスタンスは、組織の責任者としてやむを得ない部分があるとは言え、八方美人的であることによって、個人としての言論責任を十全には果たし得ていないのではないか、とも思うからです。

さて、管理人さんが長をつとめる組合員の中から、なぜ異論が出ないのかとの疑問についてですが、私なら「普通は出ないだろう」と思います。

組合員という段階で、その思想的な方向性はだいたい決まっていますし、その方向性を代表し、かつ八方に気配りが出来て、しかも筆(あるいは弁)がたつからこそ、管理人さんは長に選ばれたんじゃないでしょうか。
その場合、管理人さんの考え方と真っ向から対立するような意見を持つ人は、組合にはほとんどいないはずだし、仮にそんな異端児的意見を持っていたとしても、それを組合の中に留まっていながら、わざわざ表明し、わざわざ物議をかもして、周囲から「なんだ、あいつは」と白い目で見られたい者など、まずはいないでしょう。

また、組合員の人数がどれくらいかは知りませんが、ある程度、説得力のある文章の書ける人は限られているし、こういうところにまで異論を書かねば気が済まないような人なら、日頃からある程度はそういうことを周囲に漏らしてもいるだろうから、ここへ匿名で書いたとしても、身内の組合員にはバレてしまう可能性が高いので、管理人さんの意見に真っ向から対立するような異端児的な組合員がいたとしても、その人が書き込みをする公算は低いと思います。

そもそも組合の活動とは、理論的運動ではなく、実行的な運動ですから、このブログでなされているような言論活動は、あくまでも組合運動のなかでは補助的な位置しか占めないでしょう。ですから、多くの組合員が、こういう仕事(雑務)は(書くのが好きな)管理人さんに任せておけば良いと丸投げ状態になるのも、いたって自然なことだと思います。

また、一般には左翼に分類され、そうした立場から発言される管理人に引寄せられるかたちで、反左翼的言説をネット上で弄ぶことを趣味とするような人たちが、ここへたびたび書き込みをするため、そういう人とは関わり合いになりたくないとか、関わったところで不毛だと考える人も少なくないはずで、その結果、管理人さんが長をつとめる組合員さんの書き込みが少なく、ましてや組合員さんによる異論など登場すべくもない、ということなんじゃないでしょうか。

以上は、あくまでも推測にすぎませんが、私はこのように考えるので、組合員さんの異論が出てこないことに対しては、少しも疑問や不審は感じません。

ネット上に平気で議論的な書き込みが出来る人というのは、あくまでも少数派であって、大半はROM専だと考えるべきなのではないかと思います。

あと、蛇足ながら若干苦言を呈しておきますと、自分で立証もできないのに、自身が公平中立的な立場から発言しているかのように「自己申告」するというのは、いかにも手前味噌でみつともない振る舞いだから、やめておいた方がよい。
その発言が、公正で誠実な発言者によるものか否かの判断を読者がする場合、その発言者の自己申告を鵜呑みにしてもらえるなどと期待するのは、愚かな独り善がりに過ぎないからです。

投稿: アレクセイ | 2015年5月 5日 (火) 00時53分

私もアレクセイさんと同じような感想も持ってます。

このブログを数年見てますけど、
「市役所の窓口で難癖つけて喚いているクレーマーにまじめに対応する市職員」
を見ているようで、

誤解や偏見、レッテル貼り、誹謗中傷は
反左翼的言説をネット上で弄ぶことを趣味とするような人たちの書き込みに多いと感じます。

そういう人たちは理屈が通じないから何を言ってもダメで、議論にならない
一方的な主張だけが多いですね。


民間企業なら客は選べるけど公務員は国民や住民を選べないからなあ。
まあ頑張ってください。

投稿: ハルチャンド | 2015年5月 7日 (木) 12時16分

ハルチャンドさま

まったく同感です。

それにしても、
「市役所の窓口で難癖つけて喚いているクレーマーにまじめに対応する市職員」
とは、本当に卓抜な喩えですね。

つまり、管理人さんが、クレーマーにも丁寧に対応している役所の窓口係さんというわけですが、だとすると、さしづめ私は、またまたその場面に行き当たった一般人で、クレーマーの態度に腹をたて義憤に駆られて、窓口係さんが望んでもいないのに、横槍をいれた短気なおじさん、といった役どころでしょうか(笑)。

それにしても、クレーマーさんは、管理人さんが、いちおう形式だけでも礼儀さえわきまえれば無下に扱わないのを良いことに、言葉づかいだけは丁寧に、しかし中身はお話にならない一方的な言いぐさを書きつらねます。

こういう、クレーマーに特有の見え透いた偽善的態度を、私は「猿芝居」と呼んでおります。

投稿: アレクセイ | 2015年5月 7日 (木) 15時58分

管理人さん、600回目おめでとうございます。
私も見るだけになって久しくなりました。

ハルチャンドンさん、アレクセイさん、組合員は意見を言わないとのことですが、さすがに少しだけ・・・・・

「組合員という段階で、その思想的な方向性はだいたい決まっていますし・・・・」

これはちょっとどうでしょう。

私は、純粋に労働条件の改善のみを目的として、組合に籍を置いています。
正直、護憲や沖縄基地問題、原発全廃などなどなど、組合の活動としては微塵も必要性を感じていません。

当然、署名も動員も一切参加しません。
組合員として、するべきことではないと考えるからです。

このように感じている組合員の方が、多いのが実情と思われますが・・・・・・
少なくとも、私の周りにこういったことに興味を持った組合員は、ほぼいません。

もちろん、個人としての考えは、同意する面も反対の面もあります。
それは個人の意見であって、組合員としては関係ないと思ってます。

労働条件(職場)の改善、その一点のみで組合の存在理由があるのでは。

投稿: 下っ端 | 2015年5月 7日 (木) 21時08分

下っ端さま

おっしゃることは、よくわかります。ただ私の言った「組合員という段階で、その思想的な方向性はだいたい決まっていますし・・・・」というのは、端的に言えば「弱者の側に立つ」という一点です。
ですから、労働組合の場合は、労働者の側に立つ、ということです。
したがって、

>労働条件(職場)の改善、その一点のみで組合の存在理由があるのでは。

という考えは、原則的には正しい。
しかし、労働者として弱者の辛さを知っているのであれば、違ったかたちで弱者の立場におかれている人たちに同情をおぼえ、可能な範囲で力を貸してあげたいと考えるのもまた、自然なことです。

もちろん、労働組合の活動として本筋ではない、例えば反戦・反原発・反差別などの活動を、組合員に「義務的」あるいは「政治イデオロギー」的、「問答無用」的に課するのは間違いですが、賛同を得られる範囲で、せっかくの組織力を、他の弱者との連帯に利用するのは悪いことだとは思いません。
つまり、悪いのは、その気のない人にまで無理強いすることなのですが、その一方、組織の恩恵を被り助けられている組織人としては、組織の意向にもある程度は従う義務があるでしょうから、その兼ね合いが難しいところなのでしょうね。

ただ、いずれにしても、組合運動をしている人が、経営者の側、権力の側、強者の側につくというのは、方向性として、組合運動の本質に反しているのは確かだと思います。

もっとも、私個人は「組織」というのが、基本的に嫌いなので、可能なかぎり、非力な個人として、好き勝手にやってはいます。
私の好きな作家は、大西巨人です。
こう言えば、わかる人には、私のスタンスがわかると思います。

投稿: アレクセイ | 2015年5月 7日 (木) 21時58分

アレクセイさん

おっしゃる意味はよく理解いたしました。
「賛同を得られる範囲」が大事な線引きであると考えます。

組織が大切なのはわかります。
ただ、今の組合はその「組織」を、少し違う方向に使ってしまっているのでは・・・・・

最近、特にそう感じています。

労働条件の改善は、何も待遇を良くするだけが改善ではないと思います。
職場環境の改善は必要ですが、時には市民に理解を得られる環境を整えるために、自らに厳しい選択を課すのも大切なことと考えます。

「市民に理解を得る」の部分は、あえて述べませんが。

そう考えると、「組合は、もう少しするべきことがあるのではないのか?」と、感じることが多いのです。

投稿: 下っ端 | 2015年5月 7日 (木) 23時14分

まずは、600回更新おめでとうございます。
が、このところ、前にも増して、OTSUさんの「自分語り」ならぬ「自ブログ語り」が多くなってきたように思います。

いわく、このブログへの訪問者数云々、アクセス数云々…。 特にコメント数の減少については随分気になさっていらっしゃるように感じます。
しかし、昔からのこのブログのファンの一人としては、そんな人数の増減は気にせず、OTSUさんの考えをストレートに書いていただければいいのに、と思っています。(最近のブログ記事は、冒頭の気配り文章が長すぎるような気がしているので…)

それと、「以前はたくさんの素晴らしい意見がコメントされてましたが、トピ主さんにより全部排除されてしまいました」などということがなかったのは昔からのこのブログを見ている人間なら誰でもわかることです。
まして、そのようなコメントを「十分に的を射たコメント」だとする人も含めて、あまり信頼ができる方々だとは思えません。

このブログに対して批判的な人のコメントを拝見すると、OTSUさんが自分たちに完全に同意しない限り認めないというような強い考えを感じます。
私自身は、このブログで示されるOTSUさんの考え自体には必ずしも全面同意ではありませんが、異なる相手の考え方は異なったままでも尊重しようと思います。
そんな私から見ると、ありもしないことをあったと言う人や、そういう人を評価するコメントを発する人より、OTSUさんの方に信頼性を感じています。

OTSUさんには、これから700回に向けて、あまり内省的にならずに、また気配りはほどほどにして、思うところを素直に書いてくれることを願っています。

投稿: 対人手当 | 2015年5月 8日 (金) 00時06分

下っ端さま

おっしゃるとおりだと思います。

私は労働組合に直接関わらない者として、組合の理想的なあり方を、非現実的なものとして一概に否定したり冷笑したりできる立場にはないと思っているので、あえて理想的なことを書いただけで、現実の多くの組合が、私の描いたような理想的な組合には遠く及ばず、時に真逆であったりするという現実の存在も承知しております。例えば「経営者の御用組合」などといった悪しき現実ですね。

そこまで酷くはなくとも、組合が「実行力」を求めれば、おのずと「力ある者」と結びつこうとします。例えば、政治家・政党などですね。
そのために、おのずとギブアンドテイク、あるいは貸し借りの関係が生じ、その結果、本来なら興味すらなかったことにまで協力しなければならなくなり、何のための組合か、という状態にもなってしまう。

結局、力なき弱者が強者に打ち勝つための力を求めた結果、弱者のための組合という本来のあり方から逸脱してしまうという現実もある。

弱者と言い強者と言っても、それは確定的なものではなく、可変的なものにすぎません。
だから、弱者という観念を絶対化し理想化するつもりはなく、弱者の組織がいつまでも弱者のための組織であり得るとも思いません。

人は身の丈以上の力を求めた時に、堕落の淵に直面しているのだと思います。
しかしまた、それでも力を求めなければ、生きていけないという瀬戸際に立たされている人もいる、というのは確かなのでしょう。

投稿: アレクセイ | 2015年5月 8日 (金) 01時28分

労働運動の歴史上、階級闘争から始まっていることからすれば、いわゆるサヨク的なポジションとならざるを得ないのは、「ある程度」は仕方のないことでしょう。

構成員の思いに幅があるのは、どのような組織体、コミュニティーでも同じこと。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年5月 9日 (土) 10時07分

結局、古典的なテーマである「組織と人間」の問題ということになるんでしょうね。

人間である以上、個人の尊厳は可能なかぎり尊重されなければならない半面、組織に所属する以上、個々人がばらばらに自由を追求するわけにはいかない。

究極的には両立されられない両面を、それでも両立させなければならない。
そこに現実の難しさがあるのでしょうが、まあ、これは現実における何事においても、多かれ少なかれあることでしょう。

そこで我々が気をつけなければならないのは、「人間の現実」を無視して、変に理屈一辺倒になることが「論理的」であると思い違いすることでしょう。
そういうスタイルに固執し、形式上の一貫性を整えるために、嘘や隠蔽に走るというのは、人間の歴史で繰り返されてきた過ちです。

ですから、私たちに必要なことは、人間の度しがたい現実を直視しつつ、しかしそれでも理想を捨てないという、困難な両立にしかないと思います。

投稿: アレクセイ | 2015年5月 9日 (土) 13時59分

いつも疑問符さん、アレクセイさん、ハルチャンドさん、下っ端さん、対人手当さん、でりしゃすぱんださん、少し前の記事に投稿くださった皆さん、コメントありがとうございました。

やはり同じ文章や同じモノを見ていながら、もともとの個々人の立ち位置や視点の違いから評価やとらえ方が枝分かれしていくようです。何人かの方からコメントをいただくことで、そのような点について改めて確かめることができています。

4月に入所された皆さんが閲覧されているかどうか分かりませんが、このブログについて案内していた絡みもあり、最近「自ブログ語り」が増えていたものと思っています。ちなみに組合員数は1,200人強です。その他にも私自身からお答えすべき点がいくつかあろうかと思いますが、いつものことながらきめ細かい対応に至らず申し訳ありません。なお、新規記事は明日投稿する予定ですので、引き続きご注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2015年5月 9日 (土) 20時26分

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