戦後70年談話について
少し前の記事「言葉の重さ、雑談放談」、さらに前回記事「改めて言葉の重さ」の中で次のような記述を残していました。「ナチスと戦前の日本を比べることを問題視する声があります。ただ歴史を直視するという論点については同根のものがあるため、機会を見て改めて掘り下げてみようと考えています」という記述でした。前者は、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は結局、現在に対しても盲目となる」という言葉を紹介した時のものです。
後者は、来日したドイツのメルケル首相の講演での話を紹介した時のものでした。メルケル首相は、日本が歴史問題で中国や韓国と対立していることに触れ、ナチスによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の歴史を背負うドイツが「過去ときちんと向き合った」ことで国際社会に受け入れられ、かつて敵国だった近隣諸国との和解に至ったとし、日本も「歴史に向き合うべき」だと述べていました。
このような論点に触れる場合、時節柄、戦後70年談話についても取り上げるべきものと考えていました。ますます重たいテーマに押し上げてしまっていますが、あまり身構えずに自分なりの問題意識を私自身の言葉で書き進めてみるつもりです。ただ難しい論点であり、言葉が不足することも充分考えられますので、あらかじめ補足的な位置付けになり得る以前の記事「平和の話、インデックスⅡ」も紹介させていただきます。
まずヴァイツゼッカー元大統領とメルケル首相の言葉を額面通りに受け取ることに懐疑的な方、戦後のドイツと日本の置かれた立場や経緯が異なる中で単純に比べられないという見方などを示される方々も少なくないようです。したがって、比較的多くの方々が認めている見方として、歴史に直視して近隣諸国との関係を良好にしているドイツ、歴史認識に疑問を持たれるような政治家が目立ち、近隣諸国との関係が良好とは言い切れない日本、このような構図が根付いていることを前提に論点を掘り下げていきます。
「荒れ野の40年」という題名を付けられたヴァイツゼッカー元大統領の演説が行なわれた頃、ドイツでも「いつまでもナチスについて謝罪し続けるのはうんざりだ」という国民の感情が高まっていたそうです。釈明の余地のないホロコーストの歴史に対し、「悪いのはナチスであり、ヒトラーだった」という峻別は付けやすかったはずです。それでも連続性のある国家としての責任があり、ナチスの暴走を許したドイツ国民の責任が問われ続けていたものと思います。
そのような関係性の中で戦後40年が過ぎ、「いつまでも、ナチスのことで」という感情が高まっていたことも分かります。しかし、加害者となるドイツは基本的な姿勢を変えず、現在に至っているため、メルケル首相が日本へ助言できるような立場に繋がっているものと受けとめています。ここで押さえたい論点はドイツに関しても、加害者側が一方的に謝罪していくことを「もうそろそろ良いだろう」と考え、被害者側の感情を逆撫でする可能性があったという事実です。
中には悪質な被害者が相手の弱みに付け込み、理不尽なユスリをいつまでも続けるケースもあろうかと思います。しかし、一般的には被害者側の明確な赦しがない限り、加害者側はずっと謝罪する気持ちを持ち続けていかなければなりません。裁判や処罰を受けた後も、加害者が勝手に「もう謝る必要はない」と考えることは不誠実な関係性だろうと思っています。戦後70年談話に際し、70年も経ったのだから「謝罪は不要、未来志向で」と日本が一方的に考えることは、やはり問題が大きいものと見ています。
以上の論点は、日本とドイツの置かれた立場が基本的に同じであり、同根であるという認識です。一方で、日本とドイツでは事情が異なる論点も押さえていかなければなりません。南京大虐殺や従軍慰安婦の問題をはじめ、日本人の中でも事実認識に大きな隔たりが生じている事例の多さです。個々の事例を掘り下げていくと膨大な説明が必要になりますので、ここでは事実認識の隔たりの大きさに絞って話を進めさせていただきます。
「南京で大虐殺はなかった」という言葉を耳にします。以前、そのような言葉を耳にした場合、愚かな歴史修正主義者の発言だと決め付けていました。今はそのように考える方々の理由も分かるようになり、その方々が信じている歴史も、ある一面での事実だったものと認めるようになっています。例えば、30万人という数字は事実ではないのかも知れません。伝わっている残虐な場面で誇張や偽りも数多く含まれているのかも知れません。人道面でのモラルの高い日本兵が多かったことも事実だったろうと思います。
しかし、現時点で「南京大虐殺はなかった」と言い切れるほどの確証はないはずであり、単に「大虐殺はなかった」と規模の問題にすり替えるような姿勢であれば、あえて加害者側の立場である日本人が積極的に口にすべき言葉ではないように考えています。侵略についても同様です。「自衛のための戦争だった」「当時の国際法に則った併合や建国であり、インフラ整備などで日本人は尽くしてきた」という見方があります。ある面での事実だったかも知れませんが、やはり加害と被害という関係性が明確な中、日本人の側から強調すべき言葉ではないはずです。
戦後50年の村山談話は、社会党の村山首相の意思が強く反映されたことも確かです。しかし、自民党の閣僚も了解し、閣議決定した政府の公式見解という位置付けであったことも間違いありません。読み返した際、決して卑下しすぎた印象はなく、見解や評価の分かれる表現があったとしても、明らかな事実誤認に繋がるような言葉はなく、自民党の閣僚が反対しなかったことも理解できます。謝罪と反省が強調された村山談話は中国や韓国から評価され、戦後60年の小泉談話にも村山談話の歴史認識は受け継がれていきました。
日曜朝の『新報道2001』の中で村山談話に対し、平井文夫フジテレビ解説副委員長は「変な文章を出した」「党利党略で歴史認識を決めた」と批判していました。ゲストの一人、金美齢さんは「いつまでも過去のトラウマを引きずって歩いていたら幸せになれない。幸いにも総理大臣が安倍晋三なのよ、今、ちゃんとした前向きの談話を出さなければ日本は永遠に一本立ちできない」と訴えていました。本当に一人ひとり、いろいろな見方や考え方があることを知る機会となっています。
中国の李克強首相は15日、全国人民代表大会(全人代、国会に相当)閉幕後の記者会見で、安倍晋三首相が今年夏にも公表する戦後70年談話を念頭に「国家指導者は先人が作り上げた成果を継承するだけでなく、先人の犯罪行為がもたらした歴史責任も負うべきだ」と述べ、日本側をけん制した。日中関係では「現在の日中関係の困難さの根源は、先の戦争の歴史を巡って正確な認識を持てるか否かにある」と指摘。「日本の指導者が歴史を直視すれば、日中経済貿易関係の発展に向けた環境は自然と良くなる」とも語った。日中関係のさらなる改善の条件として安倍首相に歴史認識を改めるよう求めたものだ。【日本経済新聞2015年3月15日】
上記のような干渉を不愉快に感じ、強く反発される方も多いようです。ただ不本意であろうと現実的な問題として、何らかの対応をはかっていかなければなりません。昨日開かれた日中韓3か国外相会議の中でも70年談話の中味が注視されています。過去、安倍首相自身は「村山さんの個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られることはない。その時々の首相が必要に応じて独自の談話を出すようにすればいい」と発言していました。特に「侵略」という表現には著しい嫌悪感を持たれているようです。
現在は「安倍内閣として侵略や植民地支配を否定したことは一度もない」という言い方に徹し、70年談話に向けても有識者会議の議論を参考にしていく手順を踏んでいます。安倍首相は個人的な信条や金美齢さんのような支持者の声を踏まえた談話を出したいものと考えているのかも知れませんが、日本の国民にとって何が最も大事なのか、この論点を重視した判断に至ることを心から願っています。いずれにしても戦後70年という節目の年に安倍首相が総理大臣だったことの評価は、今後示される談話の内容によって大きく左右されていくのではないでしょうか。
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コメント
戦後、各国との国交が回復し、条約等が締結され、日本は、戦後70年間戦争をしていません。今日、直面している事態は、外交カードとして日本を揺さぶろうとしていることです。私は、外交カードとしての歴史認識であれば、贖罪意識ではなく冷静に対処すべきである問題だと思います。歴史を振り返れば、第二次世界大戦後も朝鮮戦争(中国政府の見解では北朝鮮の侵略ではなく「米国の侵略」だそうです。)、ベトナム戦争(韓国政府も参戦)等、残念ながら戦火が絶えることがありません。言論の自由も「天安門事件」で検索しても規制で検索できない。不法に占拠され続ける日本固有の領土竹島、領海侵犯を繰り返される尖閣諸島など、まともな議論が相手とできない状況もあります。
歴史を直視するとはこのようなことも視野にいれる必要があるのではないかと考えています。
投稿: ためいきばかり | 2015年3月22日 (日) 22時03分
「南京大虐殺」があったと言われる期間、南京にいたジョン=ラーベら15名の外国人で組織された南京安全区国際委員会は、日本大使館に宛てた書簡の中で、避難民への食糧の供与を依頼しました。
その中で、当初20万人としていた避難民が、1か月後の書簡では「25~30万人」に増えています。
南京は総面積35㎢の城塞都市ですが、国際委員会が定めた安全区は3.85㎢に過ぎません。
そのような区域に、国際委員会の指示のもと、南京市民は避難していたのです。
規模の大小を問わず、住民の虐殺が行なわれていた場所で、万単位で人口が増えるものでしょうか?
たったこれだけのことで、「南京大虐殺はなかった」と言えると考えます。
もちろん、便衣兵(ゲリラ)の処刑などはありました。
投稿: 一堂零 | 2015年3月23日 (月) 01時03分
たった一つの資料だけで決めるなんて過去の議論を無視した発言は
知性を疑われるから止めた方がよいと思うぞ。
それとも否定派を貶めるための書き込みなのか?
確定した歴史的事実を書き換えたいなら、サンフランシスコ平和条約を破棄して
連合国と再度戦いなさい。勝てば自由に歴史を修正できますよ。
戦う覚悟と勇気がないなら、負け犬の遠吠えでもしてればよい。
安倍晋三は幼稚で思い込みが激しく批判を聞かない性格だし、
取り巻きも類友の低レベルで野蛮な連中が多いので
安倍談話は未来志向と言いながらも中身はおもいきり過去志向で、
侵略と植民地支配の反省と謝罪を薄めるか消した文章となり
中国韓国の反発を受け、欧米からは「日本は民主主義陣営から離脱しつつある」と見られ
ヒトラー台頭時のドイツのように注視されるようになる。
という近未来が予想される。
投稿: ハルチャンド | 2015年3月26日 (木) 11時48分
>確定した歴史的事実を書き換えたいなら、サンフランシスコ平和条約を破棄して連合国と再度戦いなさい。
私は南京で多くの民間人が犠牲になったことは間違いないと思いますが
いまの中国の主張が「確定した歴史的事実」なのですか?
外交カードにしたり、人民解放軍の正当性の強化=共産党支配の正当化のため、
犠牲者数をどんどん水増しして現行で歴史を修正しているのは中国でしょう。
過去には当時の南京の写真としてねつ造したものを公表していたこともありますし。
>安倍談話は~中国韓国の反発を受け
なぜ中韓に限定するのでしょうか。
談話の内容は当時日本の統治下にあったアジア諸国にも及ぶはずで、
もしあなたのおっしゃるとおり侵略を否定し先の戦争を美化する内容であれば
なにも反発するのは中韓だけではないでしょう。
アジア全域から総すかんをくらいますよ。
もちろん日本と戦争状態にあった英米蘭にも文句を言われるでしょう。
どうして左翼の方って心情的に中韓に入れ込むのでしょうかね。
南京だ慰安婦だってよく叫ぶのを聞きますが、バターンデスマーチなどは一度も聞きません。
英米蘭では日本の戦争犯罪について、捕虜の扱いが何より大きく問題とされるのに。
ただ、それらの国は事あるごとに戦争を話題にはしませんからね。
節目にすることはあっても必ず日本の平和国家としての歩みを評価することも忘れません。
過剰な贖罪意識を刺激してくれるのは中韓だけってことなのでしょう。
>日本は民主主義陣営から離脱しつつある
あまり見ない言葉ですが、民主主義陣営とは具体的にどの国で構成されているのですか?
投稿: 上の方へ | 2015年3月26日 (木) 17時07分
ハルチャンドさん>
「知性を疑われる」ねえ。
私が示したのは、「南京で30万人もの大虐殺があった」ということが虚偽であることの根幹をなすものだと考えていますので、それを否定しようとするのであれば、あなたのその「知性」とやらで私の信じるところを突き崩せばいいだけの話です。
また、上の方へさんもおっしゃっていますが、「確定した歴史事実」とあなたは主張していますが、どこで「確定」した話なんでしょうか?
なお、私は、安倍首相を支持などしておりませんことを付け加えておきます。
投稿: 一堂零 | 2015年3月27日 (金) 00時31分
ためいきばかりさん、一堂零さん、ハルチャンドさん、上の方へさん、コメントありがとうございました。
私自身の見方や問題意識は記事本文に綴ったとおりです。今回のコメント欄の流れに沿った具体的なレスに至らず、一言のみにとどまることをご容赦ください。なお、新規記事は今回の内容に関連するような論点を掘り下げてみるつもりです。またご覧いただければ幸いですので、よろしくお願いします。
投稿: | 2015年3月28日 (土) 22時39分
わかっているのは、戦後70年の節目で、すでに、生で体験された方が少なくなっていることと、巣鴨プリズンなどで処刑された人が多すぎたために考証が進まないせい。これだけは言えるのでしょう。
東京裁判は、全記録が残っていますが、被告が確かな証言をしたという確証はなく、昭和天皇もどこまで関わったのか、資料も定かではありません。
歴史家にしか任せられない現実。それも、思想が入っているので、ややこしい。
確かな証拠が文書しか残されていない現在、大部分の国民としては、先の戦争は時代劇でしかありません。
あれは正しいこれは違うとは言いにくい。戦後70年とはそういう年です。
80年になれば、もっと難しくなる。いつまで10年おきに首相談話を出すのか。戦時中を知らない世代が談話を出すことに違和感を感じます。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2015年3月29日 (日) 01時58分
でりしゃすぱんださん、おはようございます。コメントありがとうございました。
ご指摘のとおりの側面があるものと思っています。さらに10年ごとに談話を出すことの疑問も同様です。特に様々な意味で難しい関係性や現況の中、このタイミングで70年談話を出すと決めたことも適切だったかどうか評価が分かれるように感じています。
昨夜、2015年3月28日(土)22時39分に投稿した際、名前とURLが自動登録できる機能が外れていたようです。そのことに先ほど気付きましたが、名前欄なしの匿名での投稿になっていました。投稿した後に確かめれば良かったのですが、それも怠ってしまい、たいへん失礼致しました。
投稿: OTSU | 2015年3月29日 (日) 07時09分