改めて言葉の重さ Part2
3月31日に定年退職を迎えられる方、再任用や再雇用職員としての勤めを終えて市役所を去られる方がいらっしゃいます。4月1日には新たに採用された職員の皆さんと顔を合わせることができます。桜が咲き始めた季節、3月25日に人事異動の内示が出た後、何かと気ぜわしい年度替わりの時期を迎えています。この時期にちなんだ記事を投稿したことも少なくありませんが、今回、前回記事「戦後70年談話について」を少し補足するような内容を書き進めてみます。
このブログを開設した目的はプロフィール欄に掲げているとおり自治労に所属する職員労働組合の立場や主張を不特定多数の方々に発信するためでした。その上で、あくまでも個人の責任による運営だったため、私自身の個人的な意見や思いを託した記事内容を毎週投稿してきました。安全保障にかかわるテーマなど、いわゆる左か右か問われれば左に位置付けられる記事内容も並んでいます。前回の記事でも紹介しましたが、そのような内容をまとめた記事として「平和の話、インデックスⅡ」があります。
ちなみにブログの記事を綴る際、意識的に「思っています」「はずです」という語尾を多くしています。いろいろな見方や考え方がある事例において、自分自身の「答え」が絶対正しいと決め付けた論調だった場合、真逆の立場の方々を不愉快にさせる恐れや無用な反発を招く可能性を懸念しているからです。ただ多少やわらげられていたのかも知れませんが、左に位置付く記事内容に対しては辛辣なコメントが多かったことも確かです。
それでも当ブログのコメント欄に投稿くださる皆さん全体を見れば、理性的な記述に努められている方が大半だと言えます。おかげ様で「便所の落書き」のような書き込みは皆無に近く、感情的な応酬も少なく、穏やかな場になり得ているものと感謝しています。いずれにしてもインターネットを介した会話は文字のみ、つまり言葉のみで行なわなければなりません。そのため、コメント投稿に際した「お願い」をはじめ、言葉の使い方の難しさや大切さに関しても、たびたび記事本文を通して掘り下げてきました。
つい最近も「言葉の重さ、雑談放談」「改めて言葉の重さ」があり、今回も前々回記事のタイトルに「Part2」を付けながら言葉の重さについて考えてみることにしました。まず改めて言葉の重さに関し、私自身がどのような問題意識を持っているのか説明させていただきます。言葉の使い方一つで他者に与える印象が大きく変わっていきます。その言葉から発信者の本音や資質が明らかになります。伝えたい真意がそのまま他者に正しく伝わり、目的が達成していくのであれば何ら問題ありません。
真意がうまく伝わらない、誤解されてしまった、思いがけない批判に繋がってしまった、このような結果を及ぼすようであれば言葉の使い方を誤ったことになります。何気ない一言で他者を深く傷付ける場合もあり、後から訂正や謝罪しても簡単に取り返しのつかないケースもあろうかと思います。発信者の立場やTPOによって、ますます言葉一つの重みが増してくるはずです。したがって、できる限り言葉の使い方や選び方には慎重になるべきものと考えています。
誰もがうっかりする時があり、いつも完璧に振る舞える訳ではありません。それでも自分自身の発する言葉が他者からどのように受けとめられるのかどうか、想像力を働かせていく心構えだけは持ち続けられるのではないでしょうか。また、その反応を想像できる力は個々人の経験や知識の蓄積によって差が生じていくのかも知れません。問題ないものとして使った言葉が社会常識から照らしてNGだった場合、その方の資質や知識不足が問われていくことになります。
相手と良好な関係を維持していくことが第一の目的であれば、あえて相手を怒らせるような言葉は控えていかなければなりません。それでも何らかの意図を伝えなければならない場合、逆撫でするような言葉を避けながら、なるべく不愉快にさせない言葉に置き換えていくことになります。もちろん対立しても仕方ないと考えれば、単刀直入な言葉をぶつけて結論を求めていくことになろうかと思います。なお、前者のようなケースでの言葉の置き換えの際、偽りや極端な誇張が厳禁であることは言うまでもありません。
その場だけ取り繕っても後々、いろいろな面で問題が生じていくことになるはずです。この偽りや誇張が厳禁という点は当たり前な話ですが、すべての言葉の使い方に繋がるものです。嘘を混じらせた言葉に重さは一切感じられなくなります。嘘という自覚はなかったとしても、事実や実際の行動に裏付けられていない言葉にも重みは感じにくくなります。言行一致が信頼され、根拠のない願望のような言葉を堂々と断定調に語る人物は決して尊敬されないのではないでしょうか。
戦後70年、この言葉も日本が70年間、戦争に直接関わっていないため使える言葉であり、たいへん感慨深いものがあります。でりしゃすぱんださんからの前回記事へコメントを受け、「様々な意味で難しい関係性や現況の中、このタイミングで70年談話を出すと決めたことも適切だったかどうか評価が分かれるように感じています」と記していました。もう出すしかない訳ですが、近隣諸国と良好な関係を築いていくことが第一の目的であれば、偽りや誇張を排した中で他者の立場や気持ちを思いやる言葉を忘れないで欲しいものと願っています。
最後に、国会審議の中で最近取り沙汰された言葉の問題を紹介します。当初、この報道内容を中心に記事を綴ることも考えていました。言葉の重さについて、自分なりの総論的な問題意識を書き進めたところ予想以上に長くなってしまいました。そのため、端的な指摘にとどめ、今回の記事は終わらせていただきます。安倍首相と三原参院議員、政治的な信条や歴史認識が近しい方々だと見られています。「我が軍」と「八紘一宇」という言葉、単に言葉の選び方という問題ではなく、それぞれ奥深い論点があることを感じているところです。
安倍晋三首相は20日の参院予算委員会で、自衛隊と他国との訓練について説明する中で、自衛隊を「我が軍」と述べた。政府の公式見解では、自衛隊を「通常の観念で考えられる軍隊とは異なる」としている。維新の党の真山勇一氏が訓練の目的を尋ねたのに対し、首相は「我が軍の透明性を上げていくことにおいては、大きな成果を上げている」と語り、直後は「自衛隊は規律がしっかりしている、ということが多くの国々によく理解されているのではないか」と続けた。憲法9条は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定める。2006年の第1次安倍内閣の答弁書で「自衛隊は我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織で、『陸海空軍その他の戦力』には当たらない」とした。一方、自民党が12年に発表した憲法改正草案には「国防軍」の創設が盛り込まれている。【朝日新聞2015年3月23日】
自民党の三原じゅん子参院議員は16日、参院予算委員会で「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」としたうえで、同理念のもとに経済や税の運用をしていくべきだと質問した。八紘一宇は戦前、日本の侵略を正当化するための標語として使われていた。三原氏は企業がグローバル資本主義の中で課税回避をしている問題を取り上げた。この中で「八紘一宇の理念のもと、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、首相こそがイニシアチブを取って世界中に提案していくべきだと思う」と語った。答弁に立った麻生太郎財務相は「八紘一宇は戦前の歌の中でもいろいろあり、メインストリーム(主流)の考え方の一つなんだと思う。こういった考え方をお持ちの方が、三原先生の世代におられるのに正直驚いた」と述べた。【毎日新聞2015年3月17日】
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