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2015年2月 8日 (日)

後藤健二さんが残した言葉

国際社会に認められた正式な国家ではない「イスラム国」、このブログでも鍵括弧を付けて表記しています。2014年6月、シリアとイラクの武装勢力が「イスラム国」の樹立を宣言した後、これまで同組織を公式に承認した国は一つもありません。さらにイスラム教の信者に対する誤解や偏見を招きかねないため、最近はISIS(アイシス)もしくはISIL(アイシル)と呼ぶことが多くなっています。前者は「Islamic State of Iraq and Syria イラクとシリアのイスラム国」、後者は「Islamic State of Iraq and the Levant イラクとレバントのイスラム国」の略称です。

引き続き当ブログでは「イスラム国」と表記していきますが、その武装勢力の残忍さは想像を絶するものがあります。拘束されていたヨルダン人パイロットを焼き殺した映像がインターネット上に公開されました。ヨルダン側は直ちに「報復」を宣言し、人質交換を求められていた女性死刑囚の処刑を執行し、「イスラム国」への空爆を再開しています。イスラム教徒から「あれはイスラム教を詐称した犯罪集団だ。断じてイスラム教ではない」と指弾され、アメリカのオバマ大統領は「イスラム国」の壊滅をめざす強い決意を示しています。

人命を愚弄した卑劣なテロを繰り返す過激派組織「イスラム国」が許せないことは言うまでもありません。このことを強調し、言うまでもないことを大前提に言葉を繋げないと思いがけない誤解や批判を受ける場合があります。「テロリストに過度の気配りをする必要はない」というような論外な反論を受ける時もあります。実は前回記事「人質テロ事件から思うこと」の最後で、ある詩人の言葉を紹介するつもりでした。長い記事になりつつあり、前述したような誤解や批判を招く恐れがあったため、前回記事では見送っていました。

今回、改めて最後に掲げてみるつもりですが、その前に「イスラム国」に殺害された後藤健二さんがラジオ放送やツイッターに残していた言葉を紹介させていただきます。まず昨年9月24日、文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ』にゲスト出演した後藤さんは、中東情勢の現状と今後について「日本がアメリカの空爆を支持する。安倍さんがこれから国連でやる演説の中で、そこまで具体的に言ったりなんかしたら、もう日本も同じ同盟国と見られて、いろんなところに旅行に行っている日本の方々が、テロとか誘拐に気を付けないといけない」と語っていました。

そもそも有志連合の空爆イコール「正義」という見られ方になっていますが、罪のない一般市民の方々も数多く犠牲になっていることを忘れてはなりません。さらに「イスラム国」を生み出した背景として、イラク戦争後の混沌や「憎しみの連鎖」が指摘されています。遡れば9・11テロによるアメリカの怒りが対テロ戦争に向かわせ、後から「大量破壊兵器はなかった」という事実が明らかになり、イラク戦争には大義がなかったことも省みられています。このあたりは「後藤健二さんらのシリア人質事件を受けて今考える」緊急集会の報告を掲げたサイトから、いろいろな問題に思いを巡らすことができます。

戦場を取材すると、「暴力は暴力で止められない」「戦争は戦争で止められない」「テロは対テロ戦争や空爆では止めれない」という結論に至る。そしてこのことを、後藤健二さんはじめ戦場ジャーナリストはできるだけ多くの人に伝えたいがために自分の命をもかけて戦場で取材活動をしている。後藤健二さんがとりわけ戦火の中の子どもらに心を寄せていたのは偶然ではなく、戦争で最も犠牲になるのが罪のない子どもたちであることが戦争のリアルな実態であるということ。

緊急集会の報告の中の一節ですが、このような問題意識を抱えた後藤さんのツイッターの言葉が注目を集めています。「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」という言葉です。「憎しみの連鎖」は武力で断ち切れません。「イスラム国」を壊滅した後、新たな「イスラム国」が生み出される可能性を誰も否定できません。一方で、2月7日の『産経抄』は「憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい」とし、後藤さんが「処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか」と続けていました。

「仇(かたき)をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である」と主張し、「命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない」と結んでいました。後藤さんが最後に感じた思いは誰も分からないはずです。それにもかかわらず、自らの主張に繋げるため、勝手に忖度する姿勢は甚だ疑問です。仮に『産経抄』の見方が本当にその通りだったとしても、事実かどうか分からない中、過去に後藤さんが発していた問題意識を否定するような書き方は死者を冒涜する話ではないでしょうか。

今回のブログ記事の内容も閲覧されている方、個々人での受けとめ方は枝分かれしていくはずです。いずれにしても、このような問題意識に続く「だから、どうすべきなのか」という具体的な選択肢に対する判断が重視されていくものと思っています。しかし、その選択肢に対し、より望ましい判断を行なっていくためにも、後藤健二さんの残した言葉(遺した言葉と記すべきなのかも知れませんが…)を適切に忖度していく姿勢が欠かせないものと考えています。

繰り返しになりますが、卑劣なテロは絶対許せず、「イスラム国」の行為を正当化する意図は一切ありません。それでも「憎しみの連鎖」が新たな悲劇を招きかねず、武力によって容易に平和が築けない悩ましさも受けとめていかなければなりません。そのためにも国際社会の中で希少価値のある平和憲法を持つ日本ならでは役回りが求められ、これからも武力とは無縁の人道支援に力を注ぐブランドイメージを棄損しないで欲しいものと願っています。

最後に、前述したとおり最近のテレビ番組で知った詩人、吉野弘さんの言葉を紹介させていただきます。先日、たまたま見たNHKの『クローズアップ現代』が「“いまを生きる”言葉 ~詩人・吉野弘の世界~」でした。終戦直後、22歳の頃に書かれた未発表原稿が書斎から見つかったことを伝えていました。軍国青年だった吉野さんは、その反省から詩人として“人のために生きる決意”を記していました。今回の記事の最後にその一部を紹介しますが、念のため、「イスラム国」が「善」であるという短絡的な文脈で語っていないことも付け加えさせていただきます。

人間はその不完全を許容しつつ愛しあふ事です
不完全であるが故に斥(しりぞ)け合ふのではなく人間同志が助けあふのです
他人の行為を軽々しく批判せぬ事です
自分の好悪の感情で人を批判せぬ事です
善悪のいづれか一方にその人を押し込めないことです

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