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2015年2月15日 (日)

言葉の重さ、雑談放談

「公務員のためいき」というブログのタイトルに照らし合わせた際、公務員やその仕事に関連した記事内容の少なさに戸惑いを与えてしまう場合もあるようです。右サイドバーのプロフィール欄にあるとおり自治労に所属している市職員労働組合の一役員の立場から発信している記事が多いため、政治や平和に関わる内容が多くなっています。このような関連性については最近の記事「民主党の代表選」の中でも記していました。

念のため、当たり前なことですが、このブログに書き込んでいるような問題意識で、いつも頭の中が一杯という訳ではありません。週に1回、ブログを更新するため、パソコンに向かった際、その時々に最も言葉に残したい題材や内容を選んでいます。ブログのサブタイトルに「雑談放談」と付けているように個人の責任で書きたいことを気ままに投稿してきています。ちなみにそのような「自由さ」がブログを長く続けられている理由の一つだろうと考えています。

以前に比べてコメント投稿の数は減っています。コメント欄に動きがないため、頻繁に訪れてくださる方は減っているはずです。アクセス解析による1週間のページビューの総数から読み取れることですが、訪問者の実数に関しては特に減っていないことも把握できています。コメント投稿に際した「お願い」や議論に対する手応えのなさに見限られ、かつて常連だった方が大勢去られているようです。それでも有難いことに当ブログを注目くださっている方の数に大きな変化がないことも実感しています。

引き続き注目くださっている皆さんの中には、私の書き込む内容を冷ややかな視線で閲覧されている方々も少なくないはずです。マイナーなサイトだとは言え、幅広い考え方や見方をお持ちの方々の目に留まる場であることの貴重さを感じ取っています。思いがけない批判を受ける時もありますが、不特定多数の皆さんに対し、自分自身の主張や問題意識を発信できるツールを持っていることに大きな強みや励みを感じています。

いわゆる左や右でとらえれば、私自身の主張は「左」に見られがちです。最近の記事「人質テロ事件から思うこと」の中で、もともとレッテルをはった批判やポジショントークは極力避けるように努めています。不特定多数の方々を対象にしたブログを長く続ける中で、思い込みや決め付けた批判はNGとし、一人でも多くの方から「なるほど」を思っていただけるような記述に心がけています。今回の人質テロ事件に便乗し、安倍政権を攻撃するような手法や発想は慎むべき点だと考えています、と記していました。

かなり前の記事に「運動のあり方、雑談放談」があり、運動とは「目的を達成するために積極的に活動すること、各方面に働きかけること、選挙運動、労働運動、学生運動」と電子辞書に説明が加えられていることを紹介した上、同じような問題意識を抱えた人たちが一堂に会し、気勢を上げるだけでは運動の広がりはあり得ません。あくまでもデモ行進などを通し、異なる問題意識を持った人たちに「働きかけること」が重視されなければなりません、と続けていました。

このような問題意識のもと、特に最近、支持率で言えば過半数となる安倍首相を支持されている方々から「どのように見られるか」という点を強く意識しています。自治労をはじめとする「左」に位置付けられる運動は、このような点を意識していかなければ先々の展望が開けないものと思っています。また、的確な情報発信を尽くしながらも、共感が広がらないようであれば運動の方向性そのものを検証するような謙虚さも求められていくものと考えています。

記事タイトルに掲げた本題に入る前に長々と綴ってしまっています。もう少しお付き合い願えれば幸いですが、今回の題材「言葉の重さ」を選んだ経緯はドイツのヴァイツゼッカー元大統領の訃報に接したことが切っかけでした。この訃報とともに「過去に目を閉ざす者は結局、現在に対しても盲目となる」という有名な演説の言葉を思い出す機会に繋がりました。1985年5月8日、戦後40年、ナチス・ドイツ降伏の日を記念する連邦特別議会での演説でした。

日本では「荒れ野の40年」という題名が付けられ、翻訳された全文をリンク先で目を通すことができます。演説の最後のほうで「ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」とヴァイツゼッカー元大統領は訴えています。ドイツ国内のみならず、冷戦の最中、世界中を感動させた言葉の数々が残されていました。

改めて調べていく中で分かったことですが、その頃の西ドイツでは「いつまでもナチスについて謝罪し続けるのはうんざりだ」という国民の感情が高まっていたそうです。そのような時代の空気を憂い、ヴァイツゼッカー元大統領は歴史を直視することで未来に責任を持つことを自らの言葉に託しました。その演説があり、現在のドイツに繋がっているという見方も的を射ているはずです。ナチスと戦前の日本を比べることを問題視する声もありますが、歴史を直視するという論点では同根のものがあります。このような論点については機会を見て改めて掘り下げてみるつもりです。

今回、焦点にした「言葉の重さ」、文字を読んだだけとなりますが、ヴァイツゼッカー元大統領の演説からはヒシヒシと伝わってきます。安倍首相の演説、支持されている方々にとっては感動や力強さも伝わってくるのかも知れません。先日の施政方針演説をはじめ、どのように話すべきか、著名人の言葉を多用するなど充分練って臨まれていることが見受けられます。しかし、日本人の人質事件に絡む安倍首相の言葉の数々には省みるべき点が多々あったように感じています。

安倍首相はエジプトでの演説で人道支援を言及した際に「イスラム国と戦う周辺諸国に2億ドルの支援」という言葉を使っていました。日本も有志連合の一員という自覚のもとですので、ある意味で正直な説明だったのかも知れません。しかし、この発言を逆手に取られ、「イスラム国」の身代金要求に繋がってしまったため、イスラエルでの会見では「2億ドルの支援は、地域で家をなくしたり、避難民となっている人たちを救うため、食料や医療サービスを提供する人道支援です」と非軍事面の援助であることを強調していました。

安倍首相はエジプトでの演説も「どういう発言するか言葉を推敲している。様々な観点から言葉を選んだ。選んだ言葉が不適切だとは考えていない」と述べています。テロに屈したと見られないためにも「不適切だった」とは答えられないのかも知れません。いずれにしても初めから「イスラム国」を名指しせず、中東地域全体の人道支援であることを強調していれば、もしかしたら別な展開があり得たことも一概に否定できません。安倍首相が2億ドルの人道支援を発表するまで日本は「標的として優先度は高くなかった」という「イスラム国」の言い分を鵜呑みにできませんが、今後の教訓化のためにも真摯な検証が欠かせないはずです。

さらに後藤健二さんの殺害が明らかになった直後、「残虐非道なテロリストたちを私たちは絶対に許さない。その罪を償わせるため、日本は国際社会と連携していく」という強い決意を言葉に表わしました。この文言は官邸の意向で付け加えられたそうですが、「罪を償わせる」という激しい表現は『ニューヨークタイムス』紙をはじめ、海外メディアでは「リベンジ」と理解され、日本が「イスラム国」に復讐あるいは報復するという政府声明を出したと伝えられていました。

しかし、その後の国会答弁で安倍首相は「二人を殺害したテロリストは極悪非道の犯罪人であり、どんなに時間がかかろうとも国際社会と連携して犯人を追いつめて法の裁きにかけるという強い決意を表明したものでございます」と説明しています。刑法犯を警察力によって逮捕し、法に従って処罰するという国家によって復讐することとは、まったく異なる当たり前な話に変わっていました。外務省が数日後に出した英訳でも復讐や報復とは受け取られないような柔らかい表現になっているようです。

それぞれ共通している懸念として、安倍首相は強い言葉や勇ましい言葉を好んで使っています。ただ非常に残念ながら、その言葉から派生する影響への配慮が少し不足しているように見ざるを得ません。なぜ、他者が誤解するような表現を選ぶのか、たいへん僭越ながら一国の首相としての言葉の重さをもっとかみしめて欲しいものと願っています。発言の趣旨を一転二転させることが、ご自身の深謀遠慮のもとの目論見だとしたら、それはそれで奥深く恐ろしい話だと言えますが…。

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コメント

ヴァイツゼッカー元大統領の演説にも巧みなトリックがあり、ホロコースト等の政策は、
政府機構をあげての政策であったにも関わらず、「少数の者たち」とされていること、
ヒトラーや少数のナチスをスケープゴートとする論法が、
ここでははっきりと使われていること。法的責任のともなうポーランド侵略の表現を避け進駐、
戦後、国土の四分の一を失い、
移住に伴い多くのドイツ人が犠牲となったことにも触れている
(侵略の罪の相殺を図る歴代政権のスタンス)など問題点もかなりあります。
(木佐芳雄著<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去)
もっとも、このトリックを使わないと諸問題に収拾がつかなくなるなど事情があるのでしょうが・・・

投稿: ためいきばかり | 2015年2月15日 (日) 22時11分

ためいきばかりさん、コメントありがとうございました。

いつもレスが間延びして申し訳ありません。不勉強でその書籍について知りませんでした。ヴァイツゼッカー元大統領の演説に対しても、いろいろな見方があることを知る機会となりました。ぜひ、これからも何か気になる点などがあり、お時間等が許せる際にご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2015年2月21日 (土) 20時38分

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