« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月31日 (日)

リベラルじゃダメですか?

8月28日から29日にかけて、大分県別府市で自治労の定期大会が開かれました。私自身、事情があって宿泊を伴う出張は極力控えているため、今年も連泊となる自治労大会の参加は見合わせていました。大事な会議の場に足を運べず、いつも心苦しく思っています。それでも私どもの組合の議案討議、議長代行を務めている連合地区協の宿泊幹事会など、これまでも1泊であれば調整して参加しています。

「たまには参加してほしい」という他市職の方からの声も耳にしていますので、今後、機会を見て1泊の出張であれば自治労都本部の会議にも参加できればと考えています。昨年の今頃の記事「大阪市で自治労大会」の冒頭に「決して自治労から距離を置こうと考えている訳ではありませんので、念のため(coldsweats01)、申し添えさせていただきます」と記したとおりですので、よろしくお願いします。

さて、前回記事「二極化する報道」は『安倍官邸と新聞 「二極化する報道」の危機』という書籍の内容を紹介しながら、今、私自身が思うことを綴らせていただきました。その書籍を購入した時、精神科医の香山リカさんの『リベラルじゃダメですか?』も一緒に手にしていました。書評ではありませんが、2週続けて書籍の内容に触れながら自分自身の問題意識を添えるような記事を書き進めてみるつもりです。なお、今回のブログ記事のタイトルも書籍名をそのまま使っていますが、引用元を明らかにした使い方ですので問題ないものと考えています。

昨今、ネット上では中国・韓国を批判する書き込みが目立ち、排外的なヘイトスピーチも問題となった。加えて安倍政権による集団的自衛権の行使容認が決まり、一連の動きを日本の「右傾化」と見る向きは多い。その背景には、単に「保守派」「タカ派」の影響力が増しているだけでなく、リベラル派の衰退がある。彼らの影が薄くなった要因は、他ならぬリベラル派自身にあるのではないだろうか。端的に言えば、リベラル派は「嫌われている」のだ。「自由・平等・公平」の実現を目指すリベラル派が、なぜ支持を集めることができないのか。リベラル派を自認する著者が、自戒を込めてその理由と対策を探る。 

上記は書籍カバーの袖にも書かれている言葉です。2冊同時に購入し、後から読み始めた訳ですので『二極化する報道』よりも私自身の興味の度合いは低かったことになります。しかし、良い意味で予想に反した面白さや様々な思いを巡らすことができた内容でした。そのため、読み始めてからは数日間で一気に読み切っていました。まず香山さん自身、自分の立ち位置や発言に対し、批判意見が日常的に寄せられていることを明かしながら、次のような戸惑いや悩み方を率直な語り口で綴られていました。

秘密保護法にはなんとなく反対しようかと思っていましたが、あなたみたいな人が反対してるなら賛成に転じました」という人たちさえいるのではないか、とまで考えたのだ。これは私の単なる被害妄想なのだろうか。いや、そうではない。実際にネットでは私も出席したシンポジウムのことを指して、「反対集会の顔ぶれを見たら、ああ、コイツらが声をそろえて反対するならきっといい法律なんだろうな、と改めて思ったわ(笑)」といった書き込みも複数、目にした。

これはいったいどういうことなのだろう。政権側のプロパガンダがうまいと考えるべきか。それともリベラル派側の問題なのか。いずれにしても、人権が侵害され自由が奪われるなどと警告を発したりしても、それが思ったような効果をもたらす可能性はないことはたしかだ。それに気づくことなく従来のやり方を踏襲しつづけ、デモ、集会、署名活動を続けるのは、まったく意味がない。というよりも、先に指摘したようにむしろ逆効果かもしれない。

このような問題意識、私自身も強く認識している点であり、書籍の内容に引き込まれていった記述箇所でした。この問題意識を出発点として、香山さんはリベラル派が嫌われる理由を探られていました。嫌われる理由を「根拠なき批判」「誤った批判」「もっともな批判」と三つに分類し、「リベラル派は北朝鮮からの資金で行動している」など陰謀論や妄想に基づく批判を「根拠なき批判」としています。いわゆる「反日」という言葉をよく耳にしますが、私自身も「日本を憎む」「スパイのような立場から日本政府を転覆させる」という意図を持つ日本人は皆無に近いものと考えています。

続いて順番を入れ替えて紹介しますが、香山さんの「もっともな批判」に対する分析や説明にも大きくうなづけました。例えば脱原発という共通の目的が一致しながらも、運動の「純血性」などにこだわり、簡単に結束できないリベラル派の硬直さを香山さんは指摘しています。また、前述したとおり旧態依然とした運動の仕方に問題意識を抱え、おのれの「正しさ」にこだわるあまり、あまりにマーケティングやポピュリズムに対して嫌悪感を示し、「きちんと訴えればいつか分かってくれるはず」「それでも分からない人は仕方ない」と一貫していることに焦燥感を持たれ、特に若い世代から批判されてしまうことの理由に繋げています。

以上の「根拠なき批判」「もっともな批判」に関しては基本的にそのまま賛同できる内容でした。もう一つの「誤った批判」に関しては少し首をかしげていました。新自由主義こそグローバル世界のスタンダードとし、弱者救済や格差拡大はやむなし、という考えに基づくリベラル批判があることを香山さんは指摘しています。さらに「第二次世界大戦における日本は正しいことをした」という歴史修正主義、「軍隊を持って強く誇りある国に」という国粋主義、「日本こそアジアの覇者、韓国、中国は愚かな国」という排外主義など、いわゆるタカ派的思想に基づくリベラル批判についても言及しています。

このような対立軸があることは確かですが、「誤った批判」と称してしまうことには少し引っかかりがあります。市場経済、経済成長を至上命題と考える新自由主義も、「強い国」をめざすタカ派的思想も、いずれも誤りであり、国も世界も到底維持できないものと香山さんは考えられています。その上で考え方の違いによるものは議論の余地があると記していますが、ハナから「誤った批判」と称してしまえば、香山さんと異なる考え方を持たれている方々を挑発する言葉に聞こえてしまうような気がしています。

加えて、新自由主義に関してはプラス面とマイナス面があり、功罪どちらに重きを置くかどうかという評価の問題に繋がります。歴史修正主義の中味もたいへん複雑な要素が絡み、国粋主義や排外主義という言葉もレッテルをはった印象を与えがちとなります。したがって、あえて二項対立に持ち込まず、冷静な議論に繋げるためにも「誤った批判」という称し方は避けるべきものと考えています。私自身の見方からすれば「価値観の違いからの批判」という言葉が思い浮かびます。

リベラルじゃダメですか?』は全体を通して、具体的な事例を紹介しながら現在の日本をとりまく状況がリベラル派の一人である香山さんの視点や立場から綴られています。運動の進め方や主張の伝え方の問題に関してはリベラル派側に強く反省を促している点に新鮮さや共感を覚えました。一方で、偏狭なナショナリズムの問題では「韓国って最低」などと他国を貶める言動が「権力者に利用されて全体主義の“駒”にされるかも、という自覚や警戒心がないまま振る舞うことの危険性」という記述などに目を留めていました。

私自身もそのような問題意識を少なからず持っているほうですが、ストレートな言葉として発することのプラスマイナスを考えてしまいます。率直な物言いが香山さんの持ち味であり、批判を受けがちな点なのかも知れませんが、最初に記したとおり予想以上に面白い書籍でした。共感する箇所が多い中、香山さんの「答え」が正しく、それ以外の考え方は基本的に「誤っている」という前提だけは少し気になりました。そのような傾向については賛否が分かれそうですが、最後に、私なりに受けとめた香山さんが最も訴えたかったと思われる箇所を書きしるして終わらせていただきます。

私としては、「リベラル」というのは何も特殊な主義信条とか政治的理念ではなくて、「個人の自由を大切に、でもなるべく平等、公平に」といったマイルドな考え方や姿勢の意味で使っていた。個人の自由が一切、認められない全体主義もイヤだし、かと言ってすべてが個人の自己責任で弱肉強食の世界になるのも困る。ほどよくお互い助け合いながら、個人も他人も世の中全体も、ついでに言えば他国との関係も大切に。これが私の中の「リベラル」の定義である。(「まえがき」の中の一節)

リベラル派の私が、「安倍政権を見習って」などというのは口幅ったいが、それでもさまざまなメディアを効率的に使い、いまいちばん国民が求めているものは、というリサーチに基づいて矢継ぎ早に政策を発表してきた安倍政権さながらのスピード感で、私たちは今後、自分たちの言動や活動を見直していけるだろうか。そして、遠くない未来に「リベラル・イズ・バック」と笑顔で言って、握手を交わし合うことができるか。これは決して、「サヨク特有の“お花畑”」的な発想ではなくて、そうならなければもうリベラル派にもこの国にも先はない、というかなり切羽詰まった話なのである。リベラルを嫌うことは、自分を、まわりの人を、そしてこの国を嫌うことだ。それでもリベラルじゃダメですか? もう一度だけ、そう問いかけたい。(最終章の結びの一節)

| | コメント (36) | トラックバック (0)

2014年8月23日 (土)

二極化する報道

高校時代、アルバイトで読売新聞の朝刊を配達していました。そのような絡みもあり、ずっと自宅で契約している新聞は読売です。このことを以前にもブログで触れたことがありましたが、「意外でした」という感想がコメント欄に寄せられていました。いわゆる左か右かの見方からすれば、左だと見られている私が読売新聞を選んでいることについての驚きの声でした。ちなみに組合事務所に届く新聞は、読売、朝日、毎日の3紙です。

そのため、最低3紙に関しては実際の紙面を読み比べることができます。最近の記事「自殺未遂報道から思うこと」の中で「集団的自衛権を巡る新聞各社の報道姿勢には極端な差異があります。ここまで極端に支持する立場か、反対する立場か、旗色を鮮明にした事例はそれほど多くないような気がしています。安倍政権の閣議決定を支持している代表格が読売と産経、反対しているのが朝日、毎日、東京新聞という構図となっています」と記していました。

特に最近、このような思いを強めていたところ『安倍官邸と新聞 「二極化する報道」の危機』という書籍を見かけ、さっそく購入して読み終えていました。著者の徳山喜雄さんは朝日新聞社記事審査室幹事という所属であるため、読まれる前に立ち位置や内容を想像される方が多くなりがちなのかも知れません。それでも下記の宣伝文句のとおり新聞各社の論調の違いなどを具体的に紹介しながら、そのような二項対立的な構図の是非を問うことが著書の主な内容となっています。

憲法改正、集団的自衛権、秘密保護法、靖国参拝、アベノミクス、対中・対米外交……。新聞は、それらをどのように報じた(報じなかった)のか。主要紙は「読売・産経・日経」vs「朝日・毎日・東京」という構図で分断され、相反する主張や論調が日々飛び交うなかで、私たちは何を信じればいいのか?本書では、各紙の報道の”背景”を読みとり、立体的に情報を収集するコツを、実際の記事に即して具体的に解説。また、安倍官邸の巧妙なメディア操作の手法についても分析を加える。この一冊で「新聞の読み方」が変わる!

前回記事「69回目の終戦記念日」も多面的な情報を提供する一つの場として、接しているメディアによって不足しがちな側面を少しでも補えれば幸いだと考えていました。個々人が積み重ねてきた知識や経験から基本的な考え方が培われ、その違いによって物事の見方や評価が大きく分かれがちとなります。加えて、様々な出来事に対する情報が断片的なまま、もしくは必ずしも正確に理解されないまま評価や批判が加えられる場合も少なくありません。

数多くのサイトをインターネット上で閲覧していますが、自分自身が正しいと信じている考え方や価値基準から遠く離れた異質な意見に対し、あきれ果てた気持ちや嫌悪感を前面に出し、他者を見下したり、揶揄した言葉をぶつけている場面をよく見かけます。この傾向は、いわゆる左か右かの立場に限らず、上から目線で「変態サヨクは…」「ネトウヨは…」というレッテルをはった論調になっています。私自身、信じている「答え」が必ずしも絶対的な「正解」とは限らない、このような謙虚さを極力持つように心がけています。

念のため、信じている「答え」の正しさについて、いつも疑心暗鬼を抱いている訳ではありません。異質な考え方や批判意見に接した際、頭から否定せず、その言い分や理屈を吟味し、自分自身の「答え」と照らし合わせるように努めていくという姿勢の問題でした。そのため、ネット上のサイトや書籍を通して多種多様な主張や情報に触れていくことを常に意識しています。そのような意味合いからも、このブログのコメント欄はたいへん貴重な場だと思っています。

いずれにしても偏った情報だけで物事の是非を判断していくことは非常に問題だと考えています。今回、紹介した著書の中でも、そのような論点が提起されています。まず同じデータを使い、同じような分析をしているのにもかかわらず、新聞社によって評価や見解が分かれていくことを次のように説明しています。新聞の論調とは、ファクト(事実)にそれぞれの立ち位置(社論)による解釈が加えられ、独自のコンテクスト(文脈)が形成されてつくられていくと記されています。

安全保障、原子力・エネルギー政策など国政の重要な問題や報道の自由の問題をめぐり、「朝日、毎日、東京新聞」と「読売、産経、日経新聞」の報道ぶりが、あたかも何者かに仕分けられたかのように、くっきり割れることである。さまざまな意見や考え方があることはいいのだが、言論界が「55年体制」のような構図をかたちづくり、単純な二項対立的な論戦をするようなことは避けなければならない。そうなると表面的には議論を戦わせているようにみえても、その実はお互いが自らの意見をいいっぱなしで終えるという不毛な状態にならないだろうか。

上記は著書の中の一節ですが、著者が最も訴えたかった問題意識だと受けとめています。多様な意見を自由に示せる社会は健全なことですが、報道機関が意見を言いっ放しにしていることを憂慮されているようでした。複数の新聞に目を通せる方のほうが圧倒的に少数であるため、新聞各社の立ち位置は否定しないまでも常に賛否両面、多様な見方があることも添えていくべきではないか、そのよう問題提起を主題にした書籍だったものと理解しています。

さらに戦争中の大本営発表のような情報だけでは、国民が正しい判断を下せません。二項対立以前の新聞が求められる原点として、公権力側に立つのではなく、市民目線での取材や報道姿勢の大切さも強調されていました。メディアが権力側にコントロールされるような事態や、おもねって自主規制するようでは問題です。より正しい判断や評価を行なうためにはメディア側に対し、情報は包み隠さず、正確に伝えていく姿勢が求められています。その意味で毎朝毎夕、くまなく紙面に目を通しているつもりの読売新聞の伝え方については少し疑問を持っています。

広島市での土砂災害の際、「ゴルフ切り上げ災害対応」という見出しを掲げ、安倍首相の判断を評価する論調でした。民主党の海江田代表の「深刻な事態と分かっていたはずなのになぜゴルフを強行したのか」というコメントを記事の最後に添えていましたが、「えひめ丸」衝突事故を教訓化したという説明もあり、あくまでも批判を受けないような心遣いが感じられる報道ぶりでした。また、この件で帰京しながら、すぐ別荘に戻って休暇を続けようとした話も特に問題視した記事は目にしていません。

もう一つ、他紙では報道され、読売には載らなかった事例を紹介します。フィギュアスケートの高橋大輔選手に日本スケート連盟会長の橋本聖子参院議員が「キスを強要」したという話です。都議会でのセクハラやじよりも、セクハラ、パワハラの問題として大きく取り上げるべき事例だと考えていますが、読売の紙面では目にすることができていません。高橋選手から「セクハラやパワハラを受けたという認識はありません」という釈明が加えられていますが、それこそ二人の力関係から「ああ言うしかない」という見られ方にも繋がっています。

もちろん紹介した二つの事例、それぞれ政治家の資質を評価する上で影響を受けるような話ではないと考える方も多いものと思います。しかし、そのように評価するかどうかは情報に触れた後の選択肢となります。読売にとって今回の事例に深い意図はないのかも知れませんが、万が一、情報が意図的に操作されたり、隠蔽された場合、政治家の資質や権力側の判断に対し、国民が正しい評価を下しにくくなるはずです。このような問題意識について、二極化した報道の中で私自身も少なからず憂慮しているところです。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2014年8月16日 (土)

69回目の終戦記念日

久しぶりに前回「7年ぶりに引き上げ、人事院勧告」は公務員の話題に特化した記事を綴らせていただきました。それでも話の流れの中で、69回目の原爆忌を迎えた長崎市の平和宣言にも触れていました。集団的自衛権の議論を機に「平和の原点」が揺らいでいるのではないか、そのような不安と懸念を示した言葉が式典で長崎市の田上市長から発せられていたことを紹介していました。人事院勧告の話を中心に書き進めていたため、その時は本当に短く触れただけでした。

今回も職場課題を中心にした内容の投稿を考えていましたが、金曜日に69回目の終戦記念日を迎えたタイミングですので、戦争と平和について考える題材のほうを選ばさせていただきました。特に長崎市の平和宣言に対し、自民党の土屋正忠衆院議員が自分のブログで田上市長を批判したという報道を目にしていたため、その話題を当ブログで取り上げようと考えていました。まず土屋議員が集団的自衛権について「語りたいなら国政に出ることだ」「長崎市長の権威が下がる」などと批判した報道内容を紹介します。

長崎市の田上富久(たうえとみひさ)市長が9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で読み上げた平和宣言で、集団的自衛権の行使容認に対する被爆者らの懸念に言及したことについて、自民党の土屋正忠(つちやまさただ)衆院議員=東京18区、2期=が自身のブログで「平和を維持するための政治的選択について語りたいなら、長崎市長を辞職して国政に出ることだ」と批判していたことが分かった。

ブログは9日付。土屋氏は、世界各地での紛争を踏まえ「抑止力を組み立てることが政治の責任」として、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定について「現実政治の選択肢の一つだ」と強調した。その上で「長崎市長は歴史的体験を踏まえた核廃絶について語るから権威がある。集団的自衛権うんぬんという具体的政治課題に言及すれば権威が下がる」と田上氏を批判した。田上氏は9日の平和宣言で「『戦争をしない』という平和の原点が揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれている。日本政府にはこの不安と懸念の声に真摯(しんし)に向き合い、耳を傾けることを強く求める」と要請した。

土屋氏の事務所は、本紙の取材に対し「日程が詰まっていて取材を受けられない。(長崎市長への批判は)ブログで書かせていただいた通り。それ以上はコメントできない」と話した。土屋氏は東京都武蔵野市長を6期務めた後、2005年に初当選。総務政務官などを歴任した。長崎市の田上富久市長は11日、自民党の土屋衆院議員に長崎平和宣言を批判されたことについて「今の長崎の思いをしっかり伝えられたかどうかが大切。平和宣言として伝えるべき内容だった」と強調した。記者団の取材に答えた。【東京新聞2014年8月11日

8月9日の平和祈念式典において、田上市長が読み上げた「平成26年長崎平和宣言」の中で問題視された箇所は下記のとおりです。国民の間には様々な意見があり、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定に対して批判や懸念の声が多いことは事実です。そのような点を踏まえ、直接的な批判ではありませんが、抑制的な言葉で問題提起しているものと受けとめていました。ただ式典に参列していた安倍首相にとってはチクリ、もしくはムッとした言葉だったかも知れません。

いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。

土屋議員のブログでの批判は多くの自民党議員の本音であり、安倍首相の不愉快さを代弁した形になっている可能性もあります。あまり推測で物事を語るのは好ましくなく、断定調に論ずるつもりも毛頭ありません。また、このような紹介の仕方について「自己の都合に合えば何でも利用する」という穿った見方をされる方がいることも承知しています。いずれにしても当ブログを続けている目的として、多面的な情報を提供する一つの場として不特定多数の方々と接してきているつもりです。

その意味で、ここまでの話題は多くの皆さんが既に見聞きし、あまり目新しさは感じられていなかったかも知れません。しかし、これから紹介する内容は、前掲した新聞記事などメディアによっては省かれていた事実関係であり、このブログでは必ず触れたいものと考えていました。『NEWS 23』の報道で知ったことですが、「そうだったんだ。それでは土屋議員の勇み足ではないか」と思うようになった事実関係でした。

そもそも「長崎平和宣言」は、被爆者や大学教授ら14人が委員を務める起草委員会(委員長は田上市長)での議論を踏まえ、長崎市として作ったものです。その内容を長崎市の代表である田上市長が平和祈念式典で読み上げている構図となります。そのため、土屋議員が田上市長に対する個人批判と取れるブログの内容は的外れだったように思っています。加えて、田上市長は宣言の中に集団的自衛権の問題を触れることに一貫して慎重な姿勢を示されていたという事実関係も知りました。

長崎市側は3回、集団的自衛権に言及しない案を提示しましたが、委員の多くが被爆地の懸念を示すよう再考を求めていました。最終的に田上市長の判断で平和宣言の中に集団的自衛権についても触れることになりましたが、行使容認の是非そのものについては言及しない内容としていました。ここまでの事実関係を知った上で、土屋議員は自分のブログの中で田上市長を批判されたのでしょうか。あくまでも推測の域を出ませんが、経緯の詳細を把握せず、田上市長個人を批判されたように思えています。さらに被爆地で広がる閣議決定への批判の声を過少に見ているような気もしていました。

この時期、テレビ画面から終戦の日にちなんだ特集や特別企画を目にすることができます。今年、立て続けにパラオ諸島にあるペリリュー島を舞台にした番組を見る機会を得ました。最初は水曜夜に放映されたNHKスペシャル『狂気の戦場ペリリュー~“忘れられた島”の記録~』で、終戦記念日だった金曜夜にはフジテレビのスペシャルドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』を通し、詳しく知らなかった激戦の島の話を知りました。平時であれば「普通の人」が、過酷な戦場では殺し合わなければならない姿が記録映像とドラマの画面から伝わってきました。

木曜夜のNHKスペシャル『少女たちの戦争~197枚の学級絵日誌~』も初めて知った話でしたが、戦争末期の小学生の心情や日常生活の変化が手に取るように分かる番組でした。戦争が終わった後、授業で書いた少女の作文の一節が最後に紹介されていました。「家族が仲良く、瀬田町が仲良く、日本中が仲良く、世界中が仲良くできることがいいと思います」という言葉、本当に誰もが同じ気持ちだと思いますが、たいへん残念ながら「仲良くできず、いがみ合い、殺し合う」現実から抜け出すことができていません。

NEWS 23』ではシリーズ「若者たちの戦争」という特集を組み、連夜、戦争体験者の証言の数々を伝えていました。木曜夜には中国戦線に派遣された94歳になる元日本兵の証言が取り上げられていました。「脱亜入欧」のもとアジア蔑視の教育がされていたため、その元日本兵の方も中国人を「チャンコロ」と侮蔑し、木の幹にくくられた生きた中国人男性に対して刺突訓練することに迷いはなかったと話されていました。赤ん坊を抱いた若い女性を数人で輪姦した後、靴だけ履かせ、裸のまま部隊とともに連れ歩き、最後は古参兵が赤ん坊を崖下に投げ捨てたため、あっという間に母親も子どもを追って崖下に身を投げたことが語られていました。

ある時は「三八式歩兵銃が何人貫通するか試し撃ちしようや」という話となり、中国人男性15~16名を並ばせて3回か4回で全員殺したことを語られています。「その折には相手に哀れとか何にも頭に出てこないんですね。自分が子どもを持ち、孫を持って初めてね、あー、俺、あんな悪いことやったなぁと、俺の一生の間に謝っても謝りきれんことをやったなぁと、今も消え去らんですけどね」と悲痛な言葉で悔やまれている姿を映し出していました。

69回目の終戦記念日を迎えた今回の記事、最近、メディアを通して見聞きした話を皆さんに伝えるスタイルを基本に綴ってきました。所々、私なりの感想的な一言二言を添えているため、行間を深読みされた指摘や批判も示されるのかも知れません。ちなみに今回の記事内容に続く私自身の思いとしては「再び、いがみ合わないことの大切さ」と「多面的な情報の一つとして」であり、機会があれば改めて整理してみるつもりです。さらに深読みされてしまうものと思いますが、最後に全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞内容を伝える新聞記事を紹介させていただきます。

安倍晋三首相は15日、政府主催の全国戦没者追悼式の式辞で、歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について昨年に続いて明言せず、「不戦の誓い」との文言も使わなかった。一方で「歳月が流れても変えてはならない道がある。今日はその平和への誓いを新たにする日だ」との表現を盛り込んだ。集団的自衛権の行使を認める閣議決定に世論の慎重論があるなか、平和主義の継続を強調した。首相は「ふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも決して忘れない」とも述べ、戦没者の遺骨収集に力を入れる考えを示した。首相は第1次政権の2007年の式辞では「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」として、「深い反省」を表明していた。【日本経済新聞2014年8月15日

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2014年8月 9日 (土)

7年ぶりに引き上げ、人事院勧告

このところ集団的自衛権の話を何らかの形で触れた内容のブログ記事が続いていました。それほど注目している問題だと言えますが、今回は久しぶりに公務員の話題に特化した記事を綴らせていただきます。加えて多面的な情報を提供する一つの場として、「そのような見方があるのか」と興味を引いたサイトなども紹介していくつもりです。先週木曜、人事院は2014年度の国家公務員一般職の月例給と一時金(期末・勤勉手当)を7年ぶりに引き上げる勧告を行ないました。

人事院は七日、二〇一四年度の国家公務員一般職の月給を平均0・27%、ボーナス(期末・勤勉手当)を〇・一五カ月分、それぞれ引き上げるよう国会と内閣に勧告した。プラス改定はともに七年ぶり。景気回復に伴う民間企業の賃上げの動きを反映した。月給とボーナスを合わせた平均年間給与は、七万九千円(1・2%)増え、六百六十一万八千円となる。民間に比べ高いとされる地方出先機関の職員給与を一五年度から引き下げることも盛り込んだ。

政府は、近く給与関係閣僚会議を開き対応を協議する。七月に人事院勧告を尊重する方針を確認しており、勧告通りに実施される公算が大きい。月給の引き上げ分は、人材確保の観点から初任給を二千円引き上げるなど主に若年層に充てる。一方、民間と比べて高いと指摘される五十五歳以上は据え置く。ボーナスは年間支給月数を現行の三・九五カ月から四・一カ月に引き上げ。増額分は勤務実績に応じて配分する。人事院が五~六月に実施した民間給与実態調査によると、月給で民間の水準が国家公務員を千九十円上回った。

出先機関職員の給与引き下げは〇六~一〇年度に続き二回目。今回は基本給を三年間で2%下げる。その分、勤務地に応じて支給している地域手当を増やし、民間の水準が高い都市部で給与が減らないよう調整する。また五十五歳以上の職員の基本給も一五年度から三年間で最大4%下げる。人事院勧告は〇八年度から月給、ボーナスとも、引き下げか据え置きが続いていた。勧告とは別に政府は一二、一三両年度、東日本大震災の復興財源を捻出するため特例で国家公務員の給与を平均7・8%減額していた。

<人事院勧告> 労使交渉で給与や勤務条件を決められないなど、国家公務員の労働基本権が制約されている代わりに、人事院が月給、ボーナスの改定などを国会と内閣に勧告する。民間企業の水準と差が出ないよう民間給与実態調査を基に内容を決める。勧告通り実施されれば、月給は4月分にさかのぼって差額が支給され、ボーナスは冬季分で調整する。地方公務員給与は都道府県などの人事委員会が国に準じて勧告する。【東京新聞2014年8月7日

人事院勧告の解説も添えられていたため、東京新聞の報道内容をそのまま転載させていただきました。ちなみに「公務員のためいき」というタイトルのブログですので、これまで人事院勧告について取り上げた記事は数多くあります。それでも人事院勧告の時期、必ずしも新規記事のメインの題材として取り上げてきた訳でもありません。週1回の更新ですので、その時々の流れの中で最も広く皆さんに伝えたい内容を選んできました。一昨年は「退職手当削減と人事院勧告という記事を投稿していましたが、昨年の今頃は「長崎市の平和宣言」でした。

記事本文の更新を前にした本日の土曜日も、69回目の原爆忌を迎えた長崎市の平和宣言の言葉に目を留めていました。集団的自衛権の議論を機に「平和の原点」が揺らいでいるのではないか、そのような不安と懸念を示した言葉です。また様々な見方や評価が分かれそうな言葉ですが、これ以上、この話題に触れていくと本題から離れてしまいますので、興味を持たれた方はリンク先の全文をご参照いただき、今回は人事院勧告の話を中心に改めて書き進めさせていただきます。

さて、地方公務員の給与にも大きな影響を与えていく人事院のプラス勧告を歓迎しています。ただ残念ながら今年2月の記事の中で取り上げた「給与制度の総合的見直し」を来年度から3年間で実施することも勧告されてしまいました。人事院は2006年から実施してきた給与構造改革について、2012年の人事院報告で「地域ごとの民間賃金との較差は収れん」「地域別の較差は縮小し、安定的に推移」と評価し、地域民間賃金の反映は所期の目的を達成したという見解を示していました。

それにもかかわらず、中立であるべき人事院は政権交代後、与党の意向に沿って見直しが必要という立場に変わっていました。地域給が導入された前回同様、基本給を一律に削減(今回は平均2%)し、地域手当による給与原資の配分変更を企図しています。現行の地域手当の率は0%から18%ですが、最高を20%に引き上げる勧告内容です。見直しを強いられた場合、大半の地方公務員の給与が純減される制度設計となっています。

この間、自治労は職場署名や中央段階での交渉を通し、見直しの動きに反対してきました。疲弊した地方経済に大きな影響を与え、ますます地域間の格差を広げる制度見直しであり、国とは異なり地域民間賃金とのかい離が指摘される状況ではないこと、国の地域手当支給率は自治体の制度にはなじまないことなどを訴えてきました。世代間配分の見直しに関しても、年功給の薄まっている民間の人事管理や組織形態の違いなどを考慮した検討が欠かせない点も指摘してきました。

人事院勧告が示された当日、自治労は総合的見直しに対して「恣意的に生み出した格差を用いて、拙速に実施勧告を強行した人事院は、政府・自民党の意向に迎合し、第三者機関としての役割を放棄したものであり、怒りをもって抗議する」との見解を示しています。一方で、一律の引き下げ幅を2%にとどめたこと、若年層の賃金水準の確保、経過措置期間を設けられたことなどについては、春闘期から中央・地方一体となった運動の成果という見解も添えていました。

ここで前述した「そのような見方があるのか」と興味を引いたサイトを紹介させていただきます。まず日刊ゲンダイの記事「消費税流用?公務員給与大幅アップで国庫負担820億円増」ですが、見出しのとおり「公務員は恵まれている」という批判が展開されています。このような論点に対しては当ブログの数多くの記事を通し、公務員批判への「答え」を探ってきています。これからも機会を見て掘り下げていくべき論点ですが、「こんなフザケた“勧告”を明るいニュースと受け入れようとしている安倍首相はどうしようもない」という政権批判に繋げている点が日刊ゲンダイらしいと感じていました。

続いてブックマークし、いつも興味深く拝見している朝霞市議会議員の黒川滋さんのブログ記事「人事院勧告と朝霞市職員の賃金」です。「職員団体のない朝霞市において、職員集団から要求もされていないのに、どこまで職員の賃金改善をすべきなのかは、考えどころです。今日のような精緻な人事院勧告制度を作り上げたのは、自治労などの自治体職員団体の全国組織の運動の歴史です。職員団体もない朝霞市で安易に賃金改善を認めると、全国の自治体職員が組合費という身銭を払い、政治的に職員団体が弾圧されながらたたかっている成果にただ乗りさせることになります」という記述に目が留まりました。

このような見方は組合に加入しない職員の問題にも繋がる論点でした。組合費という負担を分かち合わなくても、労働条件面でのプラスの恩恵を同じように受けられるという悩ましい問題です。しかし、それはそれで仕方ない現状だと受けとめながら「だから組合に加入してください」「組合の脱退を思いとどまってください」という説得材料の一つにしているところです。組合に加入できる資格を持ちながら入られていない方が、このブログを閲覧されていましたら、ぜひ、このような構図があることを改めてご理解願えれば幸いなことです。

最後に、私どもの自治体は地域手当支給地域が3級地から4級地に下げられてしまい、現行の支給率12%が据え置かれるという情報も入手しています。最新の組合ニュースで触れられませんでしたが、基本給2%削減という総合的見直しの痛みが直撃する見通しです。さらに情報を整理した上で、この問題は組合員の皆さんに詳しく伝えていく予定です。いずれにしても今後、東京都人事委員会勧告の行方も注視した上、自治体交渉に向けて労働組合の本分や役割を充分発揮できるように全力を尽くしていく決意です。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2014年8月 2日 (土)

多面的な情報の一つとして

その時々で書きたいこと、伝えたいことがあり、1週間に1回、ブログの記事本文をまとめています。記事タイトルを決めず、書き終えてからタイトルに悩む時が少なくありません。前回記事「再び、いがみ合わないことの大切さ」がそのパターンでした。迷った結果、今一つシックリ感がないまま投稿直前にタイトルを付けていました。そのため、今年1月に「いがみ合わないことの大切さ」という記事をPart3まで投稿し、その続きに当たるという説明を省いたまま記事タイトルに「再び」を付けてしまいました。

そもそも前回記事を通して訴えたかったことは「いがみ合わない」だけではなく、信じている「答え」が必ずしも絶対的な「正解」とは限らないという論点もその一つでした。物事一つ一つに対して個々人での見方や評価があります。最近の顕著な事例では集団的自衛権の問題があり、前回記事の中でも具体的な話を差し込んでいました。個々人が積み重ねてきた知識や経験から基本的な考え方が培われ、その違いによって物事の見方や評価が大きく分かれがちとなります。

自分自身が正しいと信じている考え方や価値基準から遠く離れた異質な意見に接した際、あきれ果てた気持ちや嫌悪感を抱く場合があろうかと思います。その際、他者を見下したり、揶揄した言葉をぶつけてしまう場面をよく見かけます。このような言葉のやり取りから「いがみ合い」に繋がり、お互いが激しく対立し合う要因になりがちです。念のため、批判すべき点は批判し、厳しい言葉での応酬そのものを否定している訳ではありません。

厳しい言葉の中にも相手を思いやる気持ちさえあれば、反論された側が異質な意見にも耳を傾けやすくなるのではないでしょうか。最初から挑発的な言葉だった場合、「売り言葉に買い言葉」の関係に陥りやすくなります。さらに念のため、このブログのコメント欄のことを想定している訳ではありません。おかげ様で基本的な立場や視点が相違していても、たいへん理性的な言葉での意見が交わされているものと思っています。あくまでも他のサイトのコメント欄や現実の場面で時折り感じがちな点を記しています。

さて、今回は記事タイトルを先に決めました。最も訴えたい論点を明確にするため、そのように試みてみました。信じている「答え」が必ずしも絶対的な「正解」とは限らない、この論点は「完璧な人間はいない」「人は過ちを犯す」という見方に繋がります。特に物事を判断する際の情報が少なかったり、偏っていた場合、より正確な「答え」を導き出せなくなるはずです。以前「多面的な情報への思い」「再び、多面的な情報への思い」「多面的な情報への思い、2012年春」 という記事を投稿していました。

同じモノを見ていても、見る角度や位置によって得られる内容が極端に違ってきます。一つの角度から得られた情報から判断すれば明らかにクロとされたケースも、異なる角度から得られる情報を加味した時、クロとは言い切れなくなる場合も少なくありません。クロかシロか、真実は一つなのでしょうが、シロをクロと見誤らないためには多面的な情報をもとに判断していくことが非常に重要です。 このような傾向があることを認識しているため、私自身、いわゆる左や右の主張を問わず、なるべく幅広い情報や考え方に接するように努めています。

そのような意味合いで言えば、たいへん便利な時代になっています。インターネットさえ利用できれば、幅広く詳しい情報を手軽に素早くコストをかけずに入手できます。そして、以上のような意義を踏まえ、このブログも多面的な情報を提供する一つのサイトとしてインターネット上の片隅に加わり、公務員やその組合側の言い分を発信してきました。とりわけ自治労への手厳しい見方がインターネットを通して散見できますが、せめて思い込みや事実誤認による批判だけは控えて欲しいものと願いながらブログを続けています。

誤解される時がありますが、このブログの記事本文の内容そのものが多面的で、幅広い情報を提供しているものではありません。書き込まれた内容や主張は、いわゆる左に偏っているという指摘を受けてしまうはずです。世の中には幅広く多面的な情報があふれている中、そのうちの一つとして当ブログも数えていただければ幸いなことだと考えています。なお、このブログのコメント欄は幅広い視点や立場からの書き込みが多く、記事本文とトータルで見ていただければ単体で多面的な情報を充分提供できるサイトだと言えます。

続いて、具体的な話に繋げてしまうと手厳しいコメントが寄せられるのかも知れませんが、多面的な情報を提供する場として、私自身が興味を持ったサイトをいくつか紹介させていただきます。機会を見てブログで紹介しようと考え、下書きに保存していたものです。まず日刊ゲンタイの記事(東大名誉教授・石田雄氏 「戦争に向かった戦前と似ている」) ですが、全文を転載すると分量の長さに加え、今回のブログ記事の論点が主客逆転しそうな内容面の重さもあったため、リンクだけはらせていただきました。

以前から述べていることですが、安倍首相は本心から「戦争を避けたいため」一連の判断を下されているものと思っています。そのため、「戦争に向かった戦前と似ている」という見出しは、集団的自衛権の行使に賛意を示される方々から反発を招く言葉だと考えています。しかし、戦争体験者である石田名誉教授の「平和というのは最初は、非暴力という意味で使われる。しかし、日本においては次第に東洋平和という使い方をされて、日清、日露、日中戦争において戦争の大義にされていく」などという言葉一つ一つ、たいへん重いものと理解しています。

そもそも戦前の為政者も、あのような悲惨な結末を予想できた訳ではなく、できれば対米戦争は避けたかったという史実が残されています。一つの一つの選択肢があり、為政者は正しいと信じた「答え」を積み重ねてきたつもりだったはずです。どこかで誤り、もしくは少しずつ誤り、後戻りのできない戦争への道を突き進んでしまったものと見ています。つまり安倍首相が正しいと信じた「答え」、果たして絶対的な「正解」なのかどうか、このあたりが厳しく問われているものと思っています。

最後に、どうしても書き残したかった話を紹介させていただきます。下記の報道のとおり徴兵制の問題が参院予算委員会で取り上げられました。徴兵制の問題は確かに扇情的な面があることも否めませんが、社民党の吉田党首の質問中、テレビ画面に映った答弁席での安倍首相の姿、相手を見下したような態度はいかがなものかと感じていました。そもそも「徴兵制は憲法上、許されない」という答弁ですが、集団的自衛権の行使も歴代の内閣が長らく「憲法上、許されない」と答えてきた矛盾に対し、まったく省みていないようであり、不誠実な印象を強めていました。

徴兵制についての問題が15日の参院予算員会で取り上げられた。社会民主党の吉田忠智党首は「政府は一貫して、憲法18条の意に反する苦役にあたるので、徴兵制は認められないとし、総理も全く考えていないと言われている。我が党も徴兵制は絶対あってはならないと思っている」としたうえで「安倍内閣は従来、憲法上、許されないとされてきた集団的自衛権を可能であると解釈変更した。法制局長官に伺いたい。将来、徴兵制が意に反する苦役にあたらないとの憲法解釈の見直し、解釈変更の閣議決定があれば徴兵制も可能になる。そうした危惧はあるのではないか」と質した。

横畠裕介内閣法制局長官は「徴兵制はわが憲法の秩序の下では、社会の構成員が社会生活を営むについて公共の福祉に照らし、当然に負担すべきものと して社会的に認められるようなものではないので、兵役といわれる役務を義務としてかされることは平時であると、有事を問わず、憲法13条、18条などの趣旨から見て許容されるものでないことは明らかであって、指摘のような解釈変更の余地はないと考えている」と答弁した。

また横畠法制局長官は「環境の変化によって、意に反する苦役になるかどうかが変化することはあり得ない」と明言した。吉田党首は「集団的自衛権の解釈変更時に、法制局は従前の解釈を変更することが妥当であるとの結論が得られた場合、変更することはおよそ許されないものではないと答弁された。安倍総理はやらないといっているが、将来、時の政権が徴兵制は意に反する苦役にあたらないと解釈変更を閣議決定する意思を持てば現憲法下でも徴兵制の可能性を排除できないのではないか」と再度、可能性について質した。

横畠法制局長官は「憲法解釈は合理的、論理的に行うべきもの。指摘の解釈が合理的、論理的に行われるとは思われず、恣意的解釈という事なら別だが、そのようなことがおこるとは考えられない」と断言した。吉田党首は「解釈ではありえないということを堅持して、時の政権に左右されないよう、職務を全うして頂きたい」とくぎを刺した。また、安倍総理は「徴兵制は憲法違反であると明確に述べている。あり得ない」と懸念払拭につとめた。【EconomicNews2014年7月16日

| | コメント (35) | トラックバック (0)

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »