自殺未遂報道から思うこと
人によって賛否が大きく分かれがちなテーマを取り上げた前回記事「集団的自衛権を閣議決定」でしたが、コメント欄では本当に穏やかで理性的な議論が交わされていました。基本的な視点や立場が異なる場合、お互いが相手の考え方を蔑みながら辛辣な言葉で応酬しているサイトを見かける時もあります。大半の方々は後者よりも前者のような雰囲気を望んでいるはずであり、このブログにコメントをお寄せくださっている皆さんのご理解ご協力に対してはいつも感謝しています。
もちろん自分自身の考え方とかけ離れた意見に対し、苛立ちながら厳しい言葉で批判を加えることを一切自制して欲しいというものではありません。以前の記事「批判意見と誹謗中傷の違い」で示しているような峻別についてご理解ご協力をお願いしているところです。インターネットを介した匿名での関係は、本音の意見に触れられやすい点がメリットだと言えます。その一方で、相手のことを気遣う必要がなく、普段、面と向かって口にしないような言葉をぶつけてしまいがちな点はデメリットだと見ています。
さて、集団的自衛権を巡る新聞各社の報道姿勢には極端な差異があります。ここまで極端に支持する立場か、反対する立場か、旗色を鮮明にした事例はそれほど多くないような気がしています。安倍政権の閣議決定を支持している代表格が読売と産経、反対しているのが朝日、毎日、東京新聞という構図となっています。今回、集団的自衛権の閣議決定に対する直接的な記事内容の比較ではありませんが、ここまで気を使うのかと驚いた事例を紹介させていただきます。
29日午後2時10分ごろ、東京都新宿区西新宿の歩道
同署によると、同日午後1時5分ごろ、現場周辺にいた
上記は産経新聞の記事ですが、この報道では朝日や毎日の伝え方とほぼ同じ内容となっていました。要するに事実関係を淡々と報道したことになります。幸いにも一命は取りとめられたようですが、どのような事情があろうと自殺という行為は思いとどまるべきものです。さらに今回のケースは周囲にも被害を及ぼす恐れがあり、未遂者の行動を一理でも支持するようなことがあってはならないはずです。このような点は踏まえているつもりですが、下記の読売新聞の伝え方には正直なところ違和感を抱いていました。
29日午後2時10分頃、東京都新宿区西新宿のJR新
伝え方の違いについて、それぞれ赤字で示してみました。読売新聞は自殺未遂者が集団的自衛権の行使容認に反対していたことを伝えず、あえて未遂者の立場を曖昧にした報道姿勢が読み取れました。そもそも紙面上の扱いも小さなベタ記事で注意して探さなければ見落とすような位置に掲げられていました。それでも取り上げただけでも評価すべきことなのかも知れません。NHKは当日夜7時のニュースで一切報じなかったようです。30分の枠内で1秒も触れないという判断は読売新聞の扱い以上に違和感がありました。
これに対して国外のメディアは、事件そのものについては日本メディアを引用する程度だが、男が主張していた集団的自衛権の問題について背景を長めに報じている。AP通信は、事件を「まれにみる暴力的な政治的抗議」だとした上で、行使容認については、「戦争放棄を定めた憲法9条を壊すものだと批判する人もおり、反対派グループは首相公邸の外で持続的だが平和的な抗議を行ってきた」と伝えた。AFP通信も「日本ではこういった事件はきわめてまれ」と驚きを隠さない。事件の様子がツイッターなどで瞬く間に伝わる日本独特の事情も伝えた。「ソーシャルメディアは、通行人の間の前で起きた火事に関する書き込みや写真であふれた」
英BBCは、「国内で意見は二分されている。動きを批判する勢力は軍国主義の高まりを警告し、保守派は、(集団的自衛権を保持しているが行使できないという)制約は日本に押し付けられたダブルスタンダードだと主張している」と解説。ロイター通信は、今回の動きが大きな転換点になりうることを伝えた。「戦後平和主義から離れる大きな1歩で、日本の軍事的選択肢を広げることになる」「主張を強めている中国をいらだたせそうだが、同盟国の米国からは歓迎されそう」【J-CASTニュース抜粋2014年6月30日】
この自殺未遂の報道がNHKをはじめ、国内メディアの扱いが小さかったことに対し、集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとする安倍政権に気兼ねした及び腰であるように感じていました。メディアによっては、このような見方もあながち的外れではないのかも知れませんが、「新宿での焼身自殺未遂事件 報道が少なかったのはなぜ?」という記事をネット上で見つけました。「なるほど」とうなづける面があり、国内メディアの取り上げ方が全体的に抑え気味だったことの見方を少し変えていました。
外国メディアが報じるほどなのに、国内メディアの報道が淡白なことに対して、ネットでは「言論統制か」「何かの圧力?」「おかしいじゃないか」といった声も上がっている。なぜ、今回の報道は抑制的だったのか?自殺の報道を巡っては、「報道すれば、それが模倣の自殺を生む」という指摘が以前からあった。世界保健機関(WHO)は「自殺予防 メディア関係者のための手引き」を発行している。その中では、1774年にゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」が出版されてから、主人公に影響を受けた自殺がヨーロッパ中で相次いだことなどを紹介。
そのほか、いくつもの研究で「メディアが自殺を伝えることで、真似た自殺を引き起こす」という結論が出たことを示す。逆に、ウィーンの地下鉄でのセンセーショナルな自殺報道を減らした結果、自殺率は75%減少できた、という。このため、手引きでは、「自殺をセンセーショナルに扱わない」「自殺の報道を目立つところに掲載したり、過剰に、そして繰り返し報道しない」「写真や映像を用いることにはかなりの慎重を期する」といった注意を、メディア関係者に求めている。【THE PAGE抜粋2014年7月3日】
その記事の最後には「今回の場合、政治的主張があり、報道することでその主張を広く伝えてしまえば、今後、同様の手口で自らの主張を行う模倣、もしくは同一人物による再発の可能性も考えられる。そういう意味でも、報道を抑え気味にした理由があったと言えるだろう」と記されていました。海外では政治的主張の下に焼身自殺をはかる事例が少なくありません。前述したとおり決して望ましい行為ではないため、連鎖自殺を防ぐ観点からの報道基準であれば支持していかなければなりません。
報道のあり方から話題が少し広がりますが、この自殺未遂に絡み、北海道議会議員の小野寺まさるさんのツイッターがネット上で注目を集めていました。「集団的自衛権に反対して焼身自殺と?…これは公衆の場での迷惑極まりない行為であり、明らかに犯罪だ。又、死にきれずに多大な方々に迷惑をかけた愚行だが、これを「三島事件」と同列に扱うマスコミは完全にイカれている。日本の将来を憂いた国士と日本解体を目論む団塊の世代崩れは真逆の存在である」という内容です。
このツイートを知ったブログ「依存症の独り言」のコメント欄では「焼身さわぎの方は、まあ、論外ですね。あれを見て連想するのは、 申し訳ないですが、どう考えても韓国の抗議方法です」「目立ちたいだけのアホウ」「馬鹿は死ななきゃ治らない、、、死に損なったのなら、悲劇ですね。治るはずだったバカのまま生き続けなきゃいけなくなちゃって」「他人に迷惑を顧みずに騒いでも左翼の仮面をかぶっていればアカピは非難しません」などという意見を目にしていました。
このようなネット上の非難の声に対し、俳優の伊勢谷友介さんはFacebookで「『名無し』の人間が、焼身自殺と言う命をかけた行動を、頭ごなしに迷惑だとか、狂人扱いし、卑下することは許せない。命の使い方をどうするかは、意志のある人間が持てる大切な自由だ。それも社会の一大事に、命を賭して、その問題提起や変革のための切っ掛けを創るなら、なおのこと然りと言うべきだ」と怒りを示されていました。なお、伊勢谷さんは今回の主張について「自殺未遂者のメッセージを称賛したり自殺を推奨するものではない」とも強調されています。
「命の使い方をどうするかは自由だ」という言葉には少し違和感がありますが、私自身、自殺未遂者を非難する言葉の数々に驚きながら、伊勢谷さんの怒りのほうに共感を覚えています。もともと今回の事例に限らず、焼身自殺という報道などに接した時、「物凄く熱かったろうな」と自分自身の肌が焼かれることを想像してしまいます。このような感覚を持つこと自体、人によって差異があるのでしょうか。いくら赤の他人で一命を取りとめた未遂事件だったとは言え、「目立ちたいだけのアホウ」などという言葉は慎むべき礼節だろうと思っています。
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コメント
わざわざ、甲州街道の上で起こすようなことではないと思いますよ。
主義主張を自らの死をかけてセンセーショナルに発信するような時代ではないです。
まだ、そういう、社会のルール・モラル・お行儀をわかっていないひとがいるのは残念に思います。
重傷さえ負わなければ、その回復する時間だけ、思いきり官邸の前あたりで叫べばいいのですから。時間の無駄です。
賞賛なんか絶対しないけれども、これだけ世間が注目していることがらを、わざわざ焼身という行為で煽ったのなら、あまり、ほめられたものではないと思います。現代日本では。
焼身などしなくとも、世間はよく見てますよ。まぁ、渋谷や秋葉原に群がるこどもたちはどうだか知りませんけどね。
新聞がひんまがっているのは確かですけど。プレス向けの報道発表くらいしか載せなくなってしまった大新聞があるのは残念ですね。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月13日 (日) 12時28分
追記。「ウェルテル効果」という言葉を思い出しました。
鉄道事故も最近は人身事故としか書かなくなりましたよね。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月13日 (日) 13時29分
でりしゃすぱんださん、コメントありがとうございました。
私も記事本文で書いたとおり自殺という手法を支持できるものではありません。ただネット上での批判のされ方について残念な思いを強めていました。また平日はロム中心となりますが、そのような対応についてご理解ご容赦ください。
投稿: OTSU | 2014年7月13日 (日) 21時15分
主義主張の内容はともかく、方法が一般的なやり方でない場合、常識ある人間を賛同から遠ざける効果は生じると思うのですよね。
私が常識人かどうかは客観的な判断にお任せしますが(笑)、少なくとも私自身は、こういう行動をとる人はネジがぶっ飛んでいる、対話が成立しない人なんだろうと判断し、その主張内容とともに遠ざけたいと思ってしまいます。
投稿: とーる2号 | 2014年7月13日 (日) 23時42分
おはようございます。
早朝からワールドカップの決勝を見ていました。戦争ではなく、スポーツに
よる戦いは大歓迎ですね。
私は、独裁国家ならまだしも、今の日本で焼身自殺をでアピールするような
活動は頭ごなしに非難されるほうが健全だと思いますね。だから伊勢谷さんの
怒りには全く共感できませんね。
私は死生観はとても大事だと思うのですが、命を使って何かする行為は
徹底的に非難すべきだと思うのです。このような行為は頭から嘲笑し、卑下し、
狂人あつかいすべきでしょう。
わずかでもこのような行為が認められると、殉教テロや、かつての特攻攻撃を
賞賛することにつながる危険性があります。犠牲を賛美すると言いますか。
だから、あえて嘲笑し卑下し狂人あつかいすることで、このような行為は
無意味で侮蔑される行為だと知らしめることが再発防止策ではないでしょうか。
>伊勢谷さんは今回の主張について「自殺未遂者のメッセージを称賛したり自殺を推奨するものではない」とも強調されています。
真実このように思うのならば、擁護する必要性はなく、
>それも社会の一大事に、命を賭して、その問題提起や変革のための切っ掛けを創るなら、なおのこと然りと言うべきだ」と怒りを示されていました。
命を賭しての意味を勘違いしてるのでしょう。変革や切っ掛けになると言ってる
こと自体がテロを賛美してるのと変わりませんね。
投稿: nagi | 2014年7月14日 (月) 11時42分
私は、自死者を身内に抱えるものとして、どんな「命の使い方」があったにせよ、自死が許されるべきものとは考えていません。
その点、伊勢谷さんの書きぶりは不愉快極まりないです。
私は、祖父と嫁さんだった人を自死で失いました。
失ったあとに、想像以上の混乱がおきました。
伊勢谷さんがそういう、残された者たちのことをどのように思っているかはわかりません。また、OTSUさんが、なぜ、伊勢谷さんの主張の一部を共感するとおっしゃっているのか、私の理解を超えます。
かといって、この超高齢社会のなか、生きながらえたくなくても、生きなければならないという矛盾も分からないわけではないです。
ただ、これだけは言えます。長寿はいいことです。これは世間のコンセンサスを得ていると思います。
人類の進歩において、長寿は夢であったことは間違いない。
それを、(命において)たかだか、社会問題のためだけに、あんな目立つところで命をかけるなんて、どうかしているという世間の反応は、正常なものだと考えています。
個々の発言に程度問題があるのは理解します。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月19日 (土) 00時00分
とーる2号さん、nagiさん、でりしゃすぱんださん、コメントありがとうございました。
念のため、私自身も自死を「一理でも支持するようなことがあってはならない」と表明した上で今回の記事を綴っています。あくまでも自殺未遂者を非難する言葉の数々に怒られた伊勢谷さんの主張の一部に共感を覚えています。また、北海道議会議員の小野寺まさるさんは「三島事件」と同列に扱うマスコミを批判し、「日本の将来を憂いた国士と日本解体を目論む団塊の世代崩れは真逆の存在である」という書きぶりから場合によって自死を尊ぶニュアンスも感じていました。そのため、このような流れの中で今回の自殺未遂者を罵倒する言葉の数々にいっそう残念な思いを強めていました。
投稿: OTSU | 2014年7月19日 (土) 07時25分
自殺って、自分自身への暴力やと、オレは思う。心の病が原因の場合はここでは分けて考えてええやろ(自殺の大多数がこの心の問題なんやろうけど)。この暴力が他人に向けられたとしたら、どんな素晴らしい主義主張であろうが皆許さんかったハズや。民主的な手続きで決まっていくことに対し、暴力によって阻止する事を、俺は許さん。将来に絶望したんなら勝手に死んだらええ。訴えたいことが有るんなら、相応の手段でやれ。言論の自由が無い国で見られる抗議の自殺とも違う、ああいうパフォーマンスは許されるべきやないで。
て書こう思たけど、大方そういう意見やったから、安心したわ。
投稿: K | 2014年7月19日 (土) 21時17分
衆愚と集合知という正反対の言葉がありますが、世の中にバイアスがかかってしまうと、衆愚になりやすいということはOTSUさんもご存じだと思います。
罵詈雑言も表現の自由だと言えばそれまでですし、私は、昔はネットじゃなくて井戸端や地下鉄の中での雑談レベルの「瑣末な話」がネットに、かる~い気持ちで出てしまっているのかなと。
2ちゃんねるあたりが俗に「便所の落書き」といわれるように、あまり、ネットのひとつひとつの反応にこだわっていても仕方がないんじゃないかと思うんですよね。
オピニオンリーダーが誰かということにも関わりがあるのですが、口汚く語っていても、やはり、今回の件の「ネット上の大勢」は嫌悪感だと思うし、それはそれで、意見集約してみると認めざるを得ない事実なんですよね。
ただ、リアルワールドの井戸端会議などの人たちまでそう言っているかどうかは計り切れないので、ネット民のプロファイリングもそんなには進んでいないような気がしてますから、社会の断面として、そういう発言の事実が「あった」というだけだと思います。
ネット利用者が、昔みたく、技術志向のある愛好者の集まりではなくなってしまいましたからね。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月19日 (土) 21時20分
Kさん、でりしゃすぱんださん、コメントありがとうございました。
Kさん、お久しぶりです。関西弁でのKさんのコメント、いつも内容も含めてたいへん貴重だと考えていました。ギスギス感をやわらげていただく言葉の力や振る舞い方を感じています。ぜひ、またお時間等が許される際、お気軽に投稿願えれば幸いですので、よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2014年7月19日 (土) 21時29分