普通に戦争ができる国について
はじめに
前回の記事「言葉の力、言葉の難しさ Part2」では言葉が及ぼす影響力について書き連ねながら、基本的な視点や考え方が異なる場合、同じ言葉に接していても受け取る印象が大きく変わってしまうことなどを提起していました。少しの前の記事「言葉の力、言葉の難しさ」から始まった一つの問題提起だった訳ですが、一般論の話である一方、「普通に戦争ができる国」という具体的な言葉に注目が集まりがちでした。
もともと「言葉の力、言葉の難しさ」は記事を書き終えた後、「普通に戦争ができる国」というタイトルも選択肢として思い浮かんでいました。ただ個々人によって受け取る印象が、それこそ大きく分かれそうであり、記事タイトルそのものは抽象的なものにしていました。結果的にそのような配慮は、かえって不信感を募らせる恐れもあったようです。また、「集団的自衛権は集団的自衛権という言葉で議論すべき」であり、わざわざ「普通に戦争ができる国」という言葉にすり替えるべきではないというご意見が示されていました。
以前の記事「もう少し平和フォーラムについて」「平和フォーラム批判から思うこと」などを通し、あえて侮蔑した言葉を使わなくても平和フォーラムは「平和フォーラム」と呼んだ上で批判意見を展開して欲しいという「お願い」を重ねていました。そのため、固有名詞であるかどうかの問題ではなく、集団的自衛権を「普通に戦争ができる国」という言葉に置き換えることは特定の意図を潜り込ませることであり、公正な方法ではない、わざわざ言葉を変えて批判を受けることは本末転倒であり、堂々と集団的自衛権の何が問題で何が反対なのかを主張して欲しいというご指摘も受けていました。
コメント欄常連のnagiさんからのものであり、建設的な議論のためにも物議を醸しがちな言葉は使わないほうが良いという忠告の趣旨は理解しています。それにもかかわらず、今回の記事タイトルが「普通に戦争ができる国について」であり、馬耳東風や無力感など不誠実な印象を与えてしまうのではないか心配しています。確かに本質的な論点から離れた言葉の問題で議論が平行線をたどるようであれば不毛な話であり、貴重な時間の浪費だと思います。
しかし、「普通に戦争ができる国」という言葉を巡る議論は決して単なる言葉使いの問題にとどまらず、集団的自衛権行使の問題の本質に繋がる事例だと考えています。加えて、私自身が説明や主張している内容に対し、必ずしも正確な理解を得られない中で批判を受けているような悩ましさを引きずっていました。このような思いが残っていたため、今回、改めて記事タイトルを「普通に戦争ができる国について」とし、真正面から私自身の問題意識や考え方などを綴らせていただくことにしました。
言葉使いの問題から本質的な論点として
まず言葉使いの誤解を解くことから始めます。先ほど紹介した以前の記事「もう少し平和フォーラムについて」の中で、「平和フォーラムは反日の組織だと思っている」と言われれば不本意ながらも仕方ありませんが、「売国反日フォーラム」という呼び方は誹謗中傷の類いだと考えています、このように記していました。あえて固有名詞を蔑称で呼ぶことと、個々人の評価や見方を反映した形容詞の使い方には大きな差異があるものと考えています。
つまり「普通に戦争ができる国」という評価や見方の問題と「売国反日フォーラム」という言葉の使い方には、たいへん恐縮ながら峻別すべき論点があるものと思っています。事例によって、使用する形容詞自体が誹謗中傷に当たる場合もあろうかと思いますが、最近投稿している複数の記事の中で説明しているとおり「普通に戦争ができる国」という言葉は、個々人の評価やとらえ方の是非に繋がる言葉だと考えています。そもそも「普通に戦争ができる国」という言葉を脈絡なく使っていた訳ではなく、その言葉に至る私自身の問題意識を添えた上で多用してきたつもりです。
「一期一会」の心構えも大事にしているため、改めて説明を加えさせていただきます。国連憲章によって外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が、第2次世界大戦後は国際社会の中で原則禁止されています。例外として、自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。集団的自衛権は前者に当たり、同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できるものです。後者は集団安全保障と呼ばれ、国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。
ご存じのとおり日本国憲法は国際社会の中では異質なものに位置付けられます。これまで専守防衛、個別的自衛権に限って武力行使ができる「特別さ」を守り続けてきました。この「特別さ」があるため、ベトナムやイラク戦争などに直接参戦することなく、結果的に戦後一度も戦争しない国として過ごすことができています。あゆさんから「普通に戦争ができる国」は「宣戦布告や先制攻撃」と概念的に近くなるというご指摘を受けています。前述したとおり現在「宣戦布告や先制攻撃」は認められていないため、あゆさんの思い描いていた「普通」と私自身の描く「普通」には大きな差異があったようです。
そのコメントが寄せられた際、あゆさんから利休鼠(りきゅうねずみ)の色をドブネズミ色と表現した場合の不適切さが訴えられていました。わずかに緑色を帯びた鼠色が「利休鼠」と電子辞書には書かれています。例示された二つの色がまったく別なものであれば置き換えは問題なのかも知れませんが、語感の問題としてドブネズミ色を利休鼠色と表現することはありがちだろうと思います。そのため、あゆさんが例示された会話で言えば、利休鼠色と表現している方に対し、わざわざドブネズミ色だと指摘するような場面を思い浮かべることはできません。
いずれにしても二つの事象に相似性がなく、強引な結び付け方であれば、意図的で不公正な言葉の置き換えであり、いろいろ批判や問題が生じるのかも知れません。この間、「普通に戦争ができる国」という言葉に対し、あゆさんらが違和感を抱かれたことは確かですが、私自身の問題意識の中では違和感がないという関係性だろうと見ています。言葉が与える力、影響力を重視していますので意図的に多用していることも間違いありません。その上で改めて詳述していきますが、集団的自衛権の行使に踏み出すことは「普通に戦争ができる国」をめざすのかどうかであり、この流れの中で使っている言葉が不公正な置き換えだと考えていないことを強調させていただきます。
たいへん有難いことにnagiさんから珍しく(?)分かりやすい記事内容だったと評価していただいた「もう少し集団的自衛権の話 Part2」の中で、箇条書きの1番目に政府の憲法解釈に長年携わってきた阪田雅裕元内閣法制局長官の言葉を紹介していました。「集団的自衛権の行使が許されることは今の国際法で許される戦争がすべてできることになり、9条をどう読んでも導けない、文章の理解の範疇を超えているものは解釈ではなく、無視と言うべきものではないか」という言葉です。
その後に、私自身も憲法第9条の解釈は個別的自衛権の行使までが限界と考え、集団的自衛権の行使まで容認することは日本国憲法の平和主義を捨て去る局面だと考えていることを書き添えていました。あくまでも日本国憲法の「特別さ」に対比した「普通の国」という表現の仕方であり、まして「普通に」という言葉に「気軽に」という意味はまったく含まれていません。現在の国際社会で認められた戦争の定義に沿って「普通の国」という言葉を使っています。
集団的自衛権の行使に関しても限定的な歯止めをかけるのであれば、まだまだ「普通に戦争ができる国」とは程遠いのではないか、そのような見方もあろうかと思います。このあたりについても「もう少し集団的自衛権の話 Part2」の中で私自身の問題意識を掲げさせていただいています。閲覧されている皆さんが必ずしもリンク先をご覧になっていただけるものではありませんので、改めて要点について少し書き進めてみます。これまでの日本の「特別さ」を重視し、今後も個別的自衛権の範囲を大前提に国会での審議を尽くし、現状における不備な点を改めていくのであれば、それはそれで情勢の変化に対応した政治判断だろうと思っています。
しかし、安倍首相や自民党のめざすべき先は自衛軍であり、国際的には異質な憲法第9条の「特別さ」を削ぎ、「普通の国」になることだろうと見ています。慎重姿勢の公明党や世論の風向きを意識し、安倍首相は集団的自衛権に対して「限定容認」の姿勢を打ち出したのかも知れませんが、「アリの一穴」を徐々に広げていく意図があるように見えて仕方ありません。さらに日本の行方を左右する重大な問題に際し、閣議決定で憲法の解釈を変えていく動きは論外だと強く憂慮しているところです。
続いて、労使関係と集団的自衛権の問題を同列視する意見が散見していることについて私自身の考え方を述べさせていただきます。労使交渉と人命の危機が表裏一体となる武力行使を同列視することに少し違和感もありますが、底意にある「助け合う」という趣旨の共通性は理解しています。その意味で「普通の国」である他国が集団的自衛権を行使することを否定するような発言は一度も記していないはずです。「特別な国」である日本の場合も個別的自衛権を否定せず、その延長線上に日米安全保障条約があることも認めているため、ダブルスタンダードという批判は短絡的すぎるように感じています。
最適な「答え」を探る一助として
このブログを通し、これまで主張している問題意識は「憎しみの連鎖が戦争やテロを招くため、武力によって平和は築けない」という思いです。このように発言すると必ず他国の脅威に備える必要性が指摘されがちです。外交や安全保障の問題は本当に個々人で様々な見方があろうかと思います。絶対的な「正解」は簡単に見出せないのかも知れません。そうであれば、自分自身の「答え」からかけ離れた主張にも謙虚に耳を傾ける姿勢が大切であり、よりいっそう「言論の府」である国会はそのような場になって欲しいものと望んでいます。
このような小さなコミュニケーションの場も同様で、自分自身の「答え」に照らして理解できない、納得できない意見だったとしても、蔑みや侮蔑した言葉は控え、分かり合えなくても、いがみ合わない関係性を大事にしていければと願っています。これから書き進める内容も個々人での評価は分かれるのでしょうが、私自身が「なるほど」と感じている言葉の数々を紹介させていただきます。初めに東京新聞編集委員の半田滋さんの新著『日本は戦争をするのか-集団的自衛権と自衛隊』の中の記述の一部です。
中国との間にある尖閣諸島の問題は、事態がエスカレートすれば、日中間の紛争に広がるおそれはある。だが、中国がソ連、インド、ベトナムとの間で繰り返してきた国境紛争をみる限り、領有権争いが本格的な戦争に発展した例はない。米国が中国との争いごとに巻き込まれる事態を歓迎するはずがなく、米国の参入による紛争の拡大を心配する必要はないだろう。むしろ、問題なのは外交による解決の方法がまったく見えないことにある。
安倍首相は中国の軍事費が桁違いに増えていることを持って防衛費の増額を正当化しています。半田さんは、日本が中国と競い合って軍事費を増やしていく軍拡競争は地域情勢の不安定化に繋がると見ています。国民の不安を解消していくのが政治家の務めのはずですが、安倍首相は「わが国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と繰り返し、国民の不安を煽り、だから集団的自衛権の行使を容認しなければならないと声を張り上げているとも記しています。
豊富な取材経験をもとに中国や北朝鮮の脅威や情勢を分析し、その著書では自衛隊によるPKO活動や隊員の気質なども綴られていました。自衛隊がイラクに派遣されている時、当時の防衛相は現地の部隊訪問を計画しながら3回も出発当日にドタキャンしたというエピソードが紹介されていました。自分自身の身の安全だけは過剰に意識するような政治家が自衛隊員の皆さんの生命を直接左右するような権限を持っているという強烈な話だと感じました。
次に朝日新聞のインタビュー記事「力の論理を超えて」の中からいくつか紹介します。60年前に米国に渡り、歴史研究を続けているハーバード大学名誉教授の入江昭さんが国家単位で考える「現実主義」の限界を問題提起されていました。安倍政権下の日本を「自国中心的な見方に陥っている」とし、『美しい国』という言葉に象徴される国家中心の思考は、あまり現在の世界のあり方を知らないと評され、次のような言葉に繋げています。
最近の歴史学は大国間の関係、領土問題やパワーゲームだけに注目するのではなく、多国籍企業やNGO、宗教団体などの非国家的存在や、国境を超えた人間のつながりに重きを置いています。環境問題やテロリズムをはじめ、一つの国の内部では理解も解決もできない問題がほとんどだからです。
国益の衝突が世界を動かすという史観は一面的とし、中国の拡張主義に対して旧来の地政学な発想だと入江さんは話されています。「これだけモノと人とカネが国境を超えて動いているのに、領土という動かないものだけを重視するのは世界の潮流に逆行します」と語られ、中国との関係を次のようにとらえられています。
中国もまた変わらざるを得ません。国民すべてが中国政府の命令で動いているわけではないし、私の知る中国の研究者や留学生はみんな政府とは違う考えを持っている。日中、日韓の間にはシェア、共有できるものがたくさんあります。世界各国が運命を共有する方向に向かっているのに、『中国が侵略してくる』とだけ騒ぐのは、全体が見えていない証拠でしょう。領土だけに拘泥し、東アジア全体の状況を深刻化させているように見えます。
憲法9条は現実に合わないという声があり、安倍首相は集団的自衛権に踏み込もうとしている現状について、インタビュアーが問いかけたところ入江さんは「時代遅れなのは憲法9条ではなくて現実主義者の方でしょう。過去70年近く世界戦争は起きていないし、武力では国際問題は解決しないという考えに世界の大半が賛成している」と答えられ、次のようにお話を続けられていました。
集団的自衛権を行使する代わりに米国に守ってもらおうというもくろみも、まったく第2次世界大戦以前の考え方です。戦後日本が平和だったのは日米安保の核の傘のおかげか、9条のおかげか、という問いに簡単に答えは出ませんが、少なくとも日本自身が近隣に脅威を与えることはなかった。これは経済成長に必須の条件だったわけで、日本こそグローバル化の動きに沿っていた。いまや米国もオバマ大統領の下で軍備を縮小しようとしており、日本は世界の最先端を歩んできたのです。卑下したり自信喪失したりする必要はまったくない。それを今になって逆行させるというのは、日本の国益にもつながりません。
この記事の最後のほうでは「グローバル化した世界では、国家を超えたつながりやシェアが鍵だという考えは確かに理想論かもしれない。だが理想こそ、あるべき未来をたぐり寄せる。今年80歳になる歴史家のしなやかな知に学ぶことは多い」というインタビュアーの感想が添えられていました。たいへん長くなった今回の記事、一人ひとりの見方や評価は大きく枝分かれしていくものと思っています。当たり前なことであり、幅広い情報や考え方に触れ合うことで最適な「答え」を探る一助になれればと心から願っています。
最後に
このブログを続けている意義について改めて補足させていただきます。集団的自衛権の問題に限らず、私自身が正しいと信じている「答え」に対し、少しでも共感が広がることを望んでいます。当然、賛同される声には心強く思う一方、手厳しい批判の声には胸を痛める時も少なくありません。ブログをやめれば、もしくはコメント欄を閉じてしまえば、そのような瞬間から解放されます。しかし、以前の記事「私の一冊」でも記しているとおり批判意見自体、自分自身の「答え」を客観視する機会だと考えています。伝え方の問題なのか、こちらの「答え」そのものに誤りがあるのか、そのような羅針盤としての意義深さをいつも感じ取らせていただいています。
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コメント
OTSUさん。
>日本の行方を左右する重大な問題に際し、閣議決定で憲法の解釈を変えていく動きは論外だと強く憂慮しているところです。
私もそう思います。憲法解釈を閣議決定で変えてしまえるのであれば、政権次第で閣議決定で解釈が変わってもいいということになるからです。
この点は野田聖子さんも指摘しています。
もっとも、解釈変更されても、関係法の改正ができない限り、実際の運用は難しいわけです。
国会の法の審査がこれからあるわけですが、その前に予算を組まなければ、関係法の改正もないわけです。実務的に。
ま、物資や訓練、装備品などの調達行為が必要になるので、8月を逃したら、来年なわけです。
合わせて、訓練のガイドライン、装備品の必要性などは法に規定することになります。
だから、おそくとも7月中には、解釈変更はされるはずです。どんなに延ばしても、8月中旬が閣議のタイムリミットです。
8月末に政府の概算要求が出ます。「通常」、その中に盛り込まなければいけないからです。
ということは、概算要求までに、だいたいの企画案の青写真は描かなくてはいけません。
こういう、ヤクショ都合のタイムリミット・・・お尻を切られた状態で、大切なものごとが進んでしまっていいのか?ということを、繰り返し、私のブログやこのコメント欄でも述べてきました。
私は、元・低レベル官僚として大変な危機感を持っています。いろんな意味で冷や汗です。
やっぱり、消費税導入のときの大騒動のようなことが起きるんじゃないかとも思っています。
結局、政府のやりたいようにやられてしまって、ロクな議論もせずに、出されたメニューだけ食べさせるという手法は飽き飽きです。
場合によっては、憲法解釈変更を材料として総選挙もありなんじゃないのかなと思っています。
しかしながら、自民が多数なので、そうはいかないのでしょうが。
私は解釈変更でも構わないと思っています。しかし、変更する確固たる絶対的な理由が見当たらないと思っています。
9条をさかさまに読んでも、現代の日本語では、どうやったって、現行法を飛び出すような理論が、「素直に読める」とは考えていません。どうやったら、そう読むのかと。
これは、もはや、国語の時間です。小中学生に理解させられるのか?
政府・法制局は、丁寧な説明が必要だと思っていますし、現在の状況がそのようであるとは、思っていません。
「明日」になれば、説明されるかもしれませんが。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月22日 (日) 21時29分
OTSUさん 連日組合等お忙しい事と存じます。私も金曜日は組合の会合で深酒となりつつ、土日も家族サービスやらなにやらで過ごしておりました。何人かの方から、拙文に過分なご反応をいただきつつもお返事も出来ずにいましたので、再び恐縮ながら、投稿させていただきました。
さて、その前に今回のOTSUさんのご指摘として、「安倍首相は中国の軍事費が桁違いに増えていることを持って防衛費の増額を正当化しています。半田さんは、日本が中国と競い合って軍事費を増やしていく軍拡競争は地域情勢の不安定化に繋がると見ています。」とありました。私は、中国をどう見るか、中国との関係を日本はどうしていくのか、この論点に関する見解の相違が集団的自衛権の賛否に決定的に影響しているのではないか、と思っています。それは例えば、以下のご指摘に表れています。
>武力を背景とした現状の変更の試みは、対等な力関係を築けない限り、これからも繰り返されるます。そして次第に既成事実化され、越は領土や利権を失っていくことになるでしょう。こういう相手をけん制する為に、集団的自衛権は有効な手段となり得る。それは、相手からの現段階での反応をみても明らかです。(シグ忘れさん)
>必要性は、ひとつは抑止力、ふたつは国には国民を守る義務があり、それは国内に留まるものではない。簡単な例で言うと海上輸送が生命線の日本にとって、その安全性を担保するのは国益にかないます。(nagiさん)
>日本の集団的自衛権を周辺国で反対してるのは、おもに中国です。(nagiさん)
このようにシグ忘れさんやnagiさんは中国の脅威を意識しておられます。先週の文春の見出しは「尖閣危機よそに「集団的自衛権NO」で共闘 朝日・公明売国オウンゴール」と扇情的に書きたてられています。即ち、抑止力とりわけ対中国への抑止力としての集団的自衛権肯定論です。こうした見方は賛成派には一般的なものなのでしょう。
しかし、私は素朴に疑問を持っています。
それは尖閣をめぐる中国との緊張に関しては、大事なポイントはそもそも日本が尖閣を実効支配しているという事実です。この事実は日中にとって重いものだと思います。「武力を背景とした現状の変更の試み」ということは、基本的にそのまま「紛争」から「戦争」に直結します。そのようなリスクを中国は本当に侵すでしょうか?私は懐疑的です。
そして、そもそもこの尖閣を巡る緊張の発端は尖閣諸島中国漁船衝突事件があり、石原東京都知事(当時)はアメリカのヘリテージ財団にて行ったシンポジウムにおいての尖閣を何故か東京都が買い上げると発言し、後に国有化されるという一連の経過がありました。これが中国からすれば挑発と受け止められたことは想像に難くありません。
この経過を踏まえれば、尖閣を巡る緊張は日中双方に原因がある、と私は思っています。ですから、安倍首相のように中国脅威論を煽るのはいかがなものか、と思います。「尖閣棚上げ論」を取ることによる緊張緩和もあり得るのではないでしょうか。
それに、「安保法制懇」において2007年当初に検討された類型は「①公海における米艦防護 ②米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃 ③国際的な平和活動における武器使用 ④同じ国連PKO等に参加している他国の活動に対する後方支援」でした。この文脈には中国脅威が前面に出ているとは言えません。そして、取るべき「具体的行動事例」についても「①我が国の近隣で有事が発生した際の船舶の検査、米艦等への攻撃排除等 ②米国が武力攻撃を受けた場合の対米支援 ③我が国の船舶の航行に重大な影響を及ぼす海域(海峡等)における機雷の除去 ④イラクのクウェート侵攻のような国際秩序の維持に重大な影響を及ぼす武力攻撃が発生した際の国連の決定に基づく活動への参加 ⑤我が国領海で潜没航行する外国潜水艦が退去の要求に応じず徘徊を継続する場合の対応 ⑥海上保安庁等が速やかに対処することが困難な海域や離島等において、船舶や民間人に対し武装集団が不法行為を行う場合の対応」ですから、アメリカ軍との協調は読みとれますが、対中国戦略とはストレートには読めません。
ですから、現在の安保法制懇の示した見解をベースにするなら、集団的自衛権を対中国抑止力とみるのは、論理の飛躍ではないでしょうか。検討されている内容と対中国抑止力との論理的整合性が私には腑に落ちません。
また、シーレーン防衛については、湾岸戦争停戦後の機雷掃海において、既に海上自衛隊は実績を上げており、国際的な評価を得ています。つまり、国際貢献をしているのであって、敢えて憲法を無視して他国が戦争中の機雷掃海を実施するのは理由が不明朗だと思います。
「本当にアメリカは日本を助けてくれるのですか?」という問いに
>わかりません。そればかりはわかりません。(nagiさん)
また、
>反対派の方は、集団的自衛権行使によって、日本が米国の下請けになって
各地で戦争に付き合わされる懸念が反対理由ですか?(nagiさん)
>アメリカと共に戦争に参加することが集団的自衛権の本質なのに 何を根拠に、これが本質であると言い切れるのか教えてください。(下っ端さん)
アメリカは中国と戦争をするでしょうか?私はこれも非現実的だと思います。パワーバランスの変化にともなう、様々な対立はあり得ると思いますが、中国との戦争がアメリカの国益とならないのは容易に想像できると思います。では、日本が尖閣を巡って中国と紛争、戦争になった場合、アメリカは日本を助けて中国と戦争をするのでしょうか。中国との戦争がアメリカの国益にならないなら、助けてはくれないのではないでしょうか。まして、アメリカは主権問題には立ち入らない、とも言っていますが、要するに尖閣は日本固有の領土であるとは言っていないのです。日本側の主張とはズレています。
安保法制懇の報告には「日米同盟なくして(省略)その安全を全うし得ないことは自明であるとともに、同時に半世紀以上前の終戦直後とは異なり、我が国が一方的に米国の庇護を期待するのではなく、日米両国や関係国が協力して地域の平和と安全に貢献しなければならない時代になっている。同盟の活力を維持し、更に深化させるためには、より公平な負担を実現すべく不断の努力を続けていくことが必要になっているのである。」とあります。日米同盟なしに、日本の安全保障はないという認識を踏まえて、アメリカとの「同盟の深化」とは戦争参加の「公平な負担」を意味していると分かります。
しかし、もしもアメリカが日本を助けないとしたら、その可能性はゼロではないと思いますが、集団的自衛権行使によって、日本が米国の戦争の下請けとなる事態を懸念せざるを得ません。日本は米軍に基地の負担もし、思いやり予算も支出しています。その上「公平な負担」として戦争まで突き合わせられるのでしょうか。これが国益となりますか?
>時には、例え戦争であっても世界の平和を守るために、危険であっても貢献をしなくてはいけない。それは、先進国であり平和を愛する国として、別の面から見た責務であると言えませんか?(下っ端さん)
これは戦争とは何か?正しい戦争はあるのか?というある意味で哲学的問いかけに繋がると思います。私は、戦争は「悪」若しくは「必要悪」だという考え方なので、良い戦争もある、という考え方はとりません。ですから、「平和のために」という戦争理由も信用できません。戦争になった以上、終わらせる以上に「正義」はないと思いますし、戦争をさせないことが「正しい」のだと思います。実際、イラク戦争のような国連決議に基づかない「間違った戦争」もありました。アメリカ、イギリスの攻撃理由だった大量破壊兵器は最後まで見つからず、イラクは今や内戦状態です。劣化ウラン弾も使用され、子ども達等が悲惨な被害にあっています。この戦争はなんだったのでしょう。そして、イラクの人々に対して誰が責任をとるのでしょうか。
その戦争は本当に「正しい」戦争なのか?そう考えることも私は大切だと思っています。
投稿: 勤続20年超 | 2014年6月23日 (月) 22時58分
勤続20年超さん
誤解の無いように補足させて頂きます。
どこをどう考えても、戦争に正義などなく、永遠に起こることがないのが望ましい。
これは大前提であり、絶対的なものでもあります。
その上で、世界では紛争や戦争が起こってしまう。
絶対に無いのが理想ですが、現実は理想の通りになってくれない。
理想はどこまでも追求すべきであり、そのためにも平和や反戦を声高に発信することに何の疑問もありません。
その一方で、現実を見据えて出来うる限りのリスク回避をすることも、これまた必要なことではありませんか?
イラク戦争が正しかった、正しくなかった。
その検証を行い、後の教訓にすることは大切なことでしょう。
だからといって、別の紛争や衝突はイラクの情勢とは違うことも事実です。
私はこの前も書きましたが、集団的自衛権を認めたとしても、それをどう運用するのか?
それこそが肝であり、平和を愛する日本人として正面から向かい合うべきことだと考えます。
大儀のない集団的自衛権など、絶対に認めない。
イラク戦争のような事案であれば、大儀など無いのだから参加しない。
そのような事案でも、集団的自衛権を行使をする政党があれば、選挙で選ばない。
その判断をする権利を、20歳以上の国民は誰もが持っているんですから。
それこそが、一番大切なことではないのでしょうか。
近くの超大国に少しでも脅威があるのならば、ありとあらゆる面でリスク回避をすべきである。
そのリスク回避には、外交による交渉は当然の事ながら、武力に対する備えだって必要ではないでしょうか?
イラク戦争は参加する意味など無いかもしれませんが、尖閣諸島に上陸、占領されたら大儀がありませんか?
結局は、集団的自衛権も憲法9条を変えることも、国民に選択の責任があるということなんです。
なので、私は現実をよく見ながら、起こる可能性のある不幸に対して、出来れば使いたくはない権利をどう使うべきか、国民が判断すべきと考えます。
投稿: 下っ端 | 2014年6月24日 (火) 21時07分
下っ端さんのコメントお借りして
>理想はどこまでも追求すべきであり、そのためにも平和や反戦を声高に発信することに何の疑問もありません。
>その一方で、現実を見据えて出来うる限りのリスク回避をすることも、これまた必要なことではありませんか?
このように書かれるならば、反対することは何もありませんし、
現実を見据えた上での反戦や平和活動ならば歓迎するところです。
但し、現実を見据えない理想だけの主張や反戦平和活動は拒否するしかありません。
前者は「言葉の暴力」に近く、後者は「破壊活動」に類似するとしか評価できないからです。
理想を追求して、何も手がうてない間も現実は日々進行していく。
従って、出来るリスク回避策は、あらゆる手段を尽くす必要があります。
そして、結果を評価し次の手段を検討することが必要であり、
その繰り返しがのみが、地域の安全保障に繋がっていくと考えます。
最後に、集団的自衛権について、
実際の有事の時に、どの国が助けてくるれるかは未知数です。それは否定しません。
しかし、日本の防衛能力が失われたならば、
中国はフリーで太平洋と行き来できるようになる。
これを歓迎できない国は、少なくとも複数あります。
米国や豪州などが、その代表でしょう。
従って、しっかりと交渉をしておけば、実効性はより担保のあるものとなる筈です。
少なくとも、これらの国とならば現状でも交渉できる関係には有るということです。
投稿: シグ忘れ | 2014年6月24日 (火) 21時48分
極論に対して極論をもって制す。
私はこの方法はアリだと思っています。
しかしながら、理念のない極論は、「極論」を旗印に踊っているだけです。
バカ騒ぎしているといってもいいでしょう。
日本は世代的に戦後の義務教育を受けた人が高齢者まで及ぶようになってきています。
みんながみんなリテラシーを持っている。一定以上は。
うちのじーちゃんは帝大出だったそうですが、ばーちゃんは字が読めません。ま、もう90超えてるからね。
こういった社会の中で、良いとも嫌だともいえない判断の人が増えてきている。
そうはいっても、現状についてはなんとなくわかるし、なんとなくわかりたくない。
そういうのが現実じゃないんでしょうか?現状認識を簡単にできる世代の厚みが増している。
集団的自衛権については、現政権で閣議決定されると見ています。これは回避できない。
運用についても、予算つきで、8月ごろに、少しずつ実態が見えてきます。
だいたいリークしますからね。それは市ヶ谷も例外ではないでしょう。
3原則ですか?私は、自民と公明とで「言葉遊び」しているに過ぎないと感じています。
基本、集団的自衛権を使うということになるのは同じです。
あとは、国会に実際の「法案」が上程され、審議入りしてくれないと、具体的な問題点については浮き上がってこないです。
それまで、野党は離合集散をやっていればよろしい。
これもまた、政党助成金の絡みで、「分党」なんてことで、スケジュールありきで動いてしまっている。
時節はそれどころじゃないんですけどね。
自治労さんが推している民主党さんも、大変ですよね。
カリスマがいないわ、中央省庁からの情報が入らないわで、立ち往生ですかね。
なんだかんだいって、いきいきしているのは、中央の自民くらいかな。
地方の自民はどうなんですかね。いろいろありますよね。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月25日 (水) 12時10分
>大儀のない集団的自衛権など、絶対に認めない。イラク戦争のような事案であれば、大儀など無いのだから参加しない。そのような事案でも、集団的自衛権を行使をする政党があれば、選挙で選ばない。(下っ端さん)
イラク戦争に大義がない、という点は全く同感です。しかし、今回論議の対象となっている集団的自衛権というのは、日本に直接攻撃や侵害がない場合にも自衛隊が戦争に参加するというものです。この点を踏まえた議論が大事です。日本が直接的に侵害されていないのに、機雷の掃海のためにペルシャ湾に自衛隊が出動することに「大義」はない、と思います。
>尖閣諸島に上陸、占領されたら大儀がありませんか?(下っ端さん)
日本政府としては尖閣諸島の固有の領有権を主張しているわけですし、そうであるなら「尖閣諸島に上陸、占領」という事態は、個別的自衛権の問題だと思います。つまり、戦争の大義というより、個別的自衛権行使そのものの問題です。これは集団的自衛権の問題ではないと思いますから、尖閣防衛の観点から集団的自衛権行使拡大賛成というのは筋が通らないと思います。しかも、オバマ大統領は来日した際、日本の施政下にあるなら、安保条約の適用対象となると表明し、日本政府等は安堵していました。そして、その意味では尖閣の実効支配を効果的に継続し、緊張状態を緩和することこそが、「抑止」の実効を強固なものにするのだと思います。
従って、尖閣問題で言えば、係争地であるという当初からの日中の認識を踏まえ、尖閣問題の棚上げに立ち返ることこそが紛争を「抑止」することだと思います。ですから、今回の集団的自衛権の論議と尖閣防衛とは直接的関係はないと思います。
>近くの超大国に少しでも脅威があるのならば、ありとあらゆる面でリスク回避をすべきである。(下っ端さん)
>しかし、日本の防衛能力が失われたならば、中国はフリーで太平洋と行き来できるようになる。(シグ忘れさん)
「リスク回避」であるとか、「日本の防衛能力」という観点で、集団的自衛権の行使拡大がどう効果的なのか、私は全く納得が出来ないでいます。例えば、安倍首相は戦闘段階でのペルシャ湾での日本の機雷掃海について、日本への直接的攻撃がなくとも、行うべきだ、といっています。これはまさに集団的自衛権行使ですから、その論理はわかります。集団的自衛権とは、まさにそういうものなのですから。
しかし、この点に関して、集団的自衛権賛成派の方々が中国への抑止力に繋がるという論理において賛成だとおっしゃるならば、全く私は理解に苦しみます。何故、ペルシャ湾での機雷掃海が中国に対する尖閣問題での抑止となるのか。ペルシャ湾での機雷掃海と中国との緊張緩和は別の問題であるから、問題解決には別の選択肢をとるべきです。
賛成派の方々の主張が、私にとって腑に落ちないのは、集団的自衛権の問題を「中国の脅威」と結び付けているおられる点です。しかし、具体的に集団的自衛権の行使拡大によって、アメリカとともに中国以外の他国との戦争に参戦する可能性を増大させることが、「中国の脅威」という点でどのような「リスク回避」の意味を持つのでしょうか?
また、現実的には日米安保体制に基づいて日本には多数の米軍基地が存在し、沖縄では基地撤去が課題となっているほどです。自衛隊の防衛能力も他国に比べて極度に劣るとは考えられません。自衛という点に徹すれば、自衛隊は質実剛健な装備と人材なのではないですか。にもかかわらず、集団的自衛権の行使拡大によって、アメリカとともに他国との戦争に参戦する可能性を増大させることが、「日本の防衛能力」をどの程度向上させるのでしょうか?
私は、少なくとも今回の安保法制懇や安倍首相の言う集団的自衛権の問題においては「中国の脅威」という問題を横において議論することが大事だと思います。
投稿: 勤続20年超 | 2014年6月25日 (水) 22時59分
人同士の関係で、一方のみが利益を得る関係は正常とは言えません。
その関係は搾取であり、当然に長続きできない関係です。
国同士の関係であっても同様で、一方のみが提供を受ける関係も正常とは言えません。
また、片方の国による軍事力の提供に対し、片方の国が資金を提供する関係では
それも正常な関係ではないし、有事の際に機能するかは怪しいでしょう。
従って、双方の国が同等のものを提供し合う関係の構築が必要です。
つまり、集団的自衛権で同意する国同士が軍事力で連携し合うことが、
敵対する国との交渉力になるということです。
人同士の関係に戻りますが、
例えば「助け合う」という言葉の「合う」はどういう事なのか。
何かしら「行動」による助力に対し「金銭」で応じれば、
それは「助け合う」ではなく「雇う」というべきものでしょう。
私は、相手の自由意思を金で買うことで良しとする感覚には違和感を持ちます。
↑のコメントでは、
しきりに中国に対応するのにペルシャ湾は関係ないと連呼していますが、
中国に対応してもらう為にも、違う場所であっても軍事力を提供することが必要です。
それこそが「軍事力で連携し合う」の「合う」という部分なのです。
従って中国との交渉力を持つために、集団的自衛権が必要との考え方に
矛盾はないと言えます。
まぁ、他人の成果に乗り合わせて、対価だけ得ようとする労組の考え方では
腑に落ちないだろうとは思います。
さらに加えると、集団的自衛権の行使に要件が設定されるので、
侵略などに行使されることも現状ではないと考えています。
投稿: シグ忘れ | 2014年6月26日 (木) 00時16分
集団的自衛権への反対意見の方へ
>>日本をより平和にする対案はお持ちですか?お持ちであればご教示頂きたい。
>「中国の脅威」という問題を横において議論することが大事
問題の本質を横においてしまうのは本末転倒でしょう
むしろ集団的自衛権を横において「中国の脅威」へどう対処すべきかを伺いたい。
また尖閣を巡る緊張の発端を漁船衝突や国有化という意見がありましたがずいぶん
と近視眼的ですねぇ。
(参考)比較的冷静的な記事だと思います
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3151?page=1
投稿: たろう | 2014年6月26日 (木) 02時20分
法制上、中国を名指しにした法整備は難しいのです。
しかしながら、現時点での想定される相手は、中国、ロシア、北朝鮮、マラッカ海峡の海賊などでしょう。
それらを名指しで法に盛り込めるかというと、これは、テクニカルな部分ですが、あまり現実的ではないんです。
ということは、ことによっては、現在の状況が変わった場合、相手方が変わる場合もあるような、法整備をしなくてはなりません。
目下の想定される相手方が中国であるという論理は、現政権での「クチヤクソク」でしかありません。
私は集団的自衛権は否定しないけれども、非常にこの辺が危ういと感じています。
だからといって、手をこまぬいているわけにもいかない。
抑止力として、リスクマネジメントとして必要悪なのかというと、そうだとしかいいようがない。
これは認めざるを得ないんです。
そうはいっても、法解釈は時の政権によって変わることがあります。
いくら、法制定時に議論を尽くして、制定時の政権が「そんな使い方はしない」といっても、のちの政権によっては、簡単に「すでに法整備できている」となりかねない。
まるで、憲法第9条の解釈変更のようにです。
ことは、限定的な法整備をしていくのか、すこし余裕を持たせるのかで変わってきます。
たぶん、議員立法ではないんです。政府立法になる。
私自身でも奥歯に物が挟まったような感覚がするのは分かるんです。
しかし、あとあとの「法の使われかた」を考えると、企画の現場はかなり悩ましいと思う。
とりあえず、集団的自衛権行使容認・9条解釈変更は決まったようなものなんです。
国民が納得いかなくても、「やっちまう」ことは明白なのです。
この期に及んでどんでん返しはありえない。
あとは、どう、選択肢を狭めていくかにかかっているし、希望的観測にしか過ぎない状況になってしまっている。
大多数の国民が気づくのは、そのあとです。
国民不在で、もう、決まっているんです。永田町と市ヶ谷あたりで。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月26日 (木) 06時49分
>中国に対応してもらう為にも、違う場所であっても軍事力を提供することが必要です。それこそが「軍事力で連携し合う」の「合う」という部分なのです。従って中国との交渉力を持つために、集団的自衛権が必要との考え方に矛盾はないと言えます。(シグ忘れさん)
しかし、シグ忘れさんご自身で「集団的自衛権について、実際の有事の時に、どの国が助けてくるれるかは未知数です。それは否定しません。」と書いていますが、アメリカが中国と戦争になることを好まないとしたならば、日本に必要な支援が得られない可能性があります。にも関わらず、日本がアメリカと共に地球の裏側でもペルシャ湾でも第三国と戦うことを可能にするのが集団的自衛権の行使拡大です。これは実質的にアメリカのために血を流すことではないですか。主権国家として、国民の安全と生命を守るという国益になりますか。
>まぁ、他人の成果に乗り合わせて、対価だけ得ようとする労組の考え方では腑に落ちないだろうとは思います。(シグ忘れさん)
>また尖閣を巡る緊張の発端を漁船衝突や国有化という意見がありましたがずいぶんと近視眼的ですねぇ(たろうさん)
シグ忘れさんご自身も、アメリカが確実に助けてくれるか確信を持てないのに、集団的自衛権の行使拡大に賛成することで、結果的に自衛官に無益な生命の危険を冒させるなら、それは無責任なお考えではないですか。インターネットや自衛隊後方の安全地帯で勇ましい発言をする方が沢山います。私はそういう姿勢に違和感を禁じえません。
アメリカが尖閣防衛において日本と共闘してくれるかという点について、元外務省高官の天木直人氏は「中国がどうしても譲れない事がある。それは日本の新政権が尖閣にあらたな施設などをつくって実効支配を行なおうとすることだ。(省略)その場合は中国人民解放軍と日本の自衛隊が部分的に交戦することもありうると覚悟している。場合によってはその事を中国は既に米国に伝え、米国も部分的交戦には米軍を出動させない事を中国側に伝えているかもしれない。そして部分的交戦が生じたら直ちに米国が仲介をとって停戦させるというシナリオが出来ているかもしれない」(ヤフー個人ブログ)という見解を示しています。
また同じく元外務省の佐藤勝氏も「ウクライナ危機が激化すると、米国はヨーロッパに釘付けにされる。さらにイラン、シリア、アフガニスタンの情勢も安定していないので、米国が中東から撤収することもできない。そのような情況で尖閣有事が起きても、米国には中国と構えて三正面作戦を展開する余裕はない。」(現代ビジネスHP「インテリジェンスの教室」)
要するにアメリカの要請に応えて集団的自衛権を行使拡大することで、一番徳をするのは当然アメリカであり、アメリカの国益のために日本の国益を捨てるのか、ということが問われているのだと思います。アメリカを助けて、逆に敵を増やすことになどなったら、それこそ本末転倒だと思います。
因みに、日本の貿易相手国として中国はアメリカに次ぐ第二位です。企業の進出先の一位も依然として圧倒的に中国です。また、アメリカにとっても中国は第三位の輸出相手国で、輸入相手国としても第二位です。これだけ見ても、日米にとって「中国脅威」を煽ることは短絡的だとは思いませんか。そして、アメリカにとって中国との対立が国益とはならないであろう所以です。
元外務省高官田中均氏は「日本のような国が軍事的な観点だけから安保戦略を論じるのが適切だろうか。確かに、防衛大綱を変える、自衛隊の配備のプライオリティを変える、離島防衛に力を入れることなどは正しい政策であると思うが、このような作業は静かに当然のごとく行われるべきである。あたかも中国を仮想敵国としたような議論を展開することは、単に相手を刺激するのみで得策とは考えられない。」(ダイヤモンドオンライン「世界を見る眼」)と書いています。
尖閣防衛は日本の個別的自衛権問題であり、既に存在している日米安保の対象であるとアメリカは言っています。しかし、現実にアメリカが日中の衝突において、日本を助けるかどうかは不明。アメリカにはアメリカの国益があるからです。これが現実だと思います。そうした複雑な国際社会のあり様を考慮せずに、アメリカと一緒に戦争さえすれば、中国との衝突にあたって助けてもらえる、というのは短絡的ではないでしょうか。
>人同士の関係で、一方のみが利益を得る関係は正常とは言えません。(シグ忘れさん)
日本は基地の負担も、思いやり予算も負担していることを忘れるべきではありません。
私は集団的自衛権の行使拡大など本来必要なく、現行の枠組みを効果的に使用し、徒に中国を敵視しない緊張緩和策こそが「抑止力」だと思います。しかし、残念です。自公の合意がなされることが確実な今、有事に際しての政権の暴走を止めるための私たちの反戦平和の声と行動が一層問われていると思います。
投稿: 勤続20年超 | 2014年6月26日 (木) 22時37分
・憲法解釈について
▼最終的には(訴訟があれば)裁判所における判断がある前提として、法を運用していくための解釈権限は基本的に行政(=内閣)にその権限が付与されているものと考えます。
その権限が内閣法制局にあるのか、閣議決定で良いのか、についてはよくわかりませんが、当然慎重な判断が求められるものだと思っています(だから駄目、という意味ではない)。
▼解釈を変えていいかという点は、憲法にしても法律にしても以前の解釈を尊重することは当然ですが、そこに論理的整合性が認められる限りにおいては、それぞれの時代やおかれた状況に合わせた解釈というのは必要だと思います。ただ、前政権のハト総理のような個人的「思い」などといった恣意的なものでは困りますが。
・普通に戦争ができる国について
▼前回私は「売り言葉に買い言葉で、勢いで書き過ぎてしまってませんか?」と書きました。なぜならこの言葉は、「大義名分があれば自分から戦争を仕掛けることもできる」という意味になるからです。日本の権利を侵害されている状態を回復するための手段として「戦争」を用いることが可能ということですね。現実問題として竹島や北方領土は他国に一方的に侵略されている訳で、やるやらないは別として「主権回復の手段として戦争を行うことができる」ということも含みます。逆にそれができないのであれば、自国領土が侵害されても、戦争に訴えられないということであり、すなわち「普通に戦争ができる国」とはとうてい言えないでしょう。
▼「普通に戦争ができる国」にするためには、国際紛争を解決する手段としての武力行使をフリーハンドで制約無く認める必要があり、それは現行憲法を真っ向から否定する以上相当程度改憲しなければならず、すなわち国民投票がステップとして存在する以上、国民の判断に委ねられているし、十分吟味、歯止めをかけることは可能だと思っています。
▼そういう訳で、私自身は「普通に戦争ができる国」ということと、「集団的自衛権」というお話には相当程度の開きがある、というふうに考えております。
▼とはいえ、最終的に目指す方向として「普通に戦争ができる国」ということがありうるとは思いますし、そういう憲法改正の動向があったとして、最終的にそれを国民が許容するかどうかの問題だと思います。
ちょっとくどかったかもしれませんが、前回のOTSUさんのコメントをみて、気になった者ですから、補足させていただきました。
投稿: とーる2号 | 2014年6月26日 (木) 23時30分
追記
▼中国という国に対して、話し合いで解決することが可能であれば、南沙諸島でのフィリピン、ベトナムは苦労せずに済むはずです。
東シナ海ガス田の問題にしても、今まで彼らが日本の意見に配慮して生産をストップした、などという話は聞いたことがありません。
現実問題そうなっていない以上、日本としては、アメリカの動向はどうあれ、打てる手は確実に打つことが必要ではないでしょうか。
▼あと、アメリカがいざというときに日本を守ってくれるかわからないのに日本人の血を流すのはナンセンス、というのは、論点がかみ合ってないと思います。
自国を守ってくれるかわからないのに日本に駐留させて、思いやり予算を使うのはいかがなものか、ということならまだわかります。
いずれにしても、自国領土防衛はまず自らが努力すべき話だと思います。アメリカが守ってくれないなら、自分の国守るのあきらめるって訳にいかないでしょう。
▼どこまでが集団的自衛権として認められるかについては判断の差はあるにしても、自分を助けてくれる相手のことは助けようという
普通の倫理観があれば、現状のような「日本のPKO部隊を守っている他国の部隊に対する防衛行動に入ることも許されない」という
現状のような集団的自衛権の行使が憲法違反になる、という解釈自体はやはり改められるべきなのだろうと思います。
投稿: とーる2号 | 2014年6月26日 (木) 23時52分
>>集団的自衛権について、
で改行しているはずですが。つまり「それ以下の段落全てにかかる」言葉です。
意図的にワンフレースのみ抽出し、印象操作をすることは止めて頂きたい。
読み方としては
>>実際の有事の時に、どの国が助けてくるれるかは未知数です。それは否定しません。
との前提をもって
>>しっかりと交渉をしておけば、実効性はより担保のあるものとなる筈です。
に繋がります。
つまりは、集団的自衛権を認めた後に、考え方が近い国同士で
利害が一致するように交渉を重ねることで、実効性は担保されるということです。
別に、矛盾した文章ではありません。
それ以降の、貴方の一節に対しては70年代で思考が停止しているようなので
とりあげる意味が皆無であるし、何も申し上げることはありません。
>>他人の成果に乗り合わせて、対価だけ得ようとする労組の考え方では腑に落ちないだろうとは思います。
>アメリカが確実に助けてくれるか確信を持てないのに、集団的自衛権の行使拡大に賛成することで、
>結果的に自衛官に無益な生命の危険を冒させるなら、それは無責任なお考えではないですか。
確信が持てない限り何も手を打てないのならば、
未来永劫に何もできないと言っているに等しいのですが、
何もさせないことが、貴方の考える「責任」なのでしょうか。
私の考える「責任」とは、考え方がまるで違います。つまり、
問題解決に向け一歩でも進める可能性を追求し続けるのが、責任のある態度であり、
実効性のある対案を示さず、ただ反対のみする姿勢こそ、無責任といわれるべきものです。
また、問題を棚上げし次世代に課題を先送りする姿勢も無責任といわれるべきものですね。
さらに確信を持てないことに賛同することは「無責任」と批判する本人が、
天木直人氏の「憶測」に基づく見解を紹介している。
これの何処に「確」信があるのですが。ぜひ「責任」を持って解説して頂きたい。
>>人同士の関係で、一方のみが利益を得る関係は正常とは言えません。
これもワンフレーズのみ抽出し印象操作をしている。
しかも続く文章で、私は
>>何かしら「行動」による助力に対し「金銭」で応じれば、
>>それは「助け合う」ではなく「雇う」というべきものでしょう。
とも書いているのに、貴方の答えは、
>日本は基地の負担も、思いやり予算も負担していることを忘れるべきではありません。
ですか。もはや反対する行為をつづけるためだけの主張としか理解できません。
最後に、中国を相手に緊張緩和策ですが・・・・、
それこそ、何処に問題解決への「確信」があるのですか。
あの国の思想や歴史を見れば、愚作だという「確信」こそある筈なのですが・・。
>有事に際しての政権の暴走を止めるための私たちの反戦平和の声と行動が一層問われていると思います。
以上のことから以前もコメントしましたが、貴方のような人が唱える
上の一行のような言葉の暴力や破壊行為に毅然と立ち向かう行動が
私たちには一層問われることになると思いますね。
投稿: シグ忘れ | 2014年6月26日 (木) 23時58分
中華思想が中国の深層心理にあるのは、たぶん間違いないでしょう。
日本のようなあなどれない国家については、挑発だけしてきて、政体が弱いベトナムやフィリピンといった国家に対しては実力行使するという、なんとも、大国論理ではあります。
かつての大日本帝国は、異民族の包括化を狙ったようなところがありますが、今の中国はちょっと違う。
もうこれ以上、異民族支配するのは、中国にとってはあまりよいことではないでしょう。
したがって、彼らが望んでいるのは、海洋支配であるのは、改めて言わないでもわかります。
一方で、こうした国家に対して、集団的自衛権が抑止となるとシンゾウAさんはお考えのようですが、実は、マラッカ海峡やイエメン洋上、紅海の不法行為に対処することまで盛り込まれている。これは、国家間問題の抑止力とは、あまり関係がない。
テーマは抑止力で語られているが、その実、自衛隊の活動範囲を拡大する方向性が見えてくるのではないでしょうか。今更なのは理解してます。
今の友はアメリカだけれども、明日の友は中国かもしれない。
日本の国益によって、風見鶏式に変えられるようなことを法に盛り込まれても文句は言えない。法の世界はそんなもんです。
将来のリーダーが悪用できない法制度にしていただかないと困る。
もう、昨日、公明も大筋了承してしまった。与党は一致です。集団的自衛権行使容認は、現政権では避けられない。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月27日 (金) 04時30分
おはようございます。
少々、激務続きでコメントできませんでした。
>勤続20年超氏
>徒に中国を敵視しない緊張緩和策こそが「抑止力」だと思います。
これは無意味です。敵視してるのは、中国が日本に対してです。尖閣以前から
はっきりしています。日本人は自分が我慢すれば、いつか判ってくれると思う
美徳がありますが、それは他国には通じません。いくらでも圧力をかけてきます。
中国政府がはっきりと反日政策をしてるので、日本側からの緩和策は困難ですね。
>有事に際しての政権の暴走を止めるための私たちの反戦平和の声と行動が一層問われていると思います。
私も反戦平和の声と活動は大事だと思います。しかしそれは偏った内容ではだめです。
私が以前から非難する平和フォーラムのような平和を騙る思想信条活動をする団体とは
一線をひき、平和活動をするなら賛同できますね。
私は以前にも言及したように、自衛権に個別も集団もないと考えています。
元々、自治労は自衛隊は憲法違反と言われていたのではないのですか?
すみません、これは勘違いかもしれません。よく覚えていないので。
集団的自衛権ではなく、個別自衛権で対応できると言われますが、自衛隊の
装備では離島奪取など難しいですね。ならば、個別自衛権の為に戦力増強する
ことに反対しませんね? ミサイル攻撃に備えてレーダー施設と迎撃装置を
置くことにも反対しませんね?
投稿: nagi | 2014年6月27日 (金) 09時38分
追加です。
反対派の方々は、中国の脅威を意図的に過少評価してる点と、アメリカの
軍事行為に巻き込まれることを誇張してると私は見ています。
「棚上げ論」に関しては、中国の得意の方法で、自国が有利な場合は
南シナ海で行ってるような強硬姿勢をとる。不利な場合は「棚上げ論」を
持ち出し、紛争地化していく。
まあ、中国の得意の方法ですね。だから「棚上げ論」には明確に反対しますね。
現状のアメリカは、単独軍事行動をしない方向です。複数の国家で対応する
ことを望んでいる。仮に北朝鮮が南進すれば、韓国、アメリカ、日本が団結して
活動する。これが明確に見えれば、北朝鮮もうかつな行動はできず、抑止力として
機能します。あくまでも「抑止力」は軍事的なオプション以外は存在しません。
その他の方法は、前段階の活動と思われます。
経済的に繋がりが深いかたと言って、紛争が無いと言えません。合理性だけで
みればメリットはありません。しかし国家は合理性のみで活動してないからです。
時には信念の激突が紛争につながるのでしょう。
先週のコメント欄で、「普通に戦争ができる国」という単語について私は避けるべきと
意見を出しました。主張を非難するのではなく、物議を巻き起こす言葉を避け
議論を進めるべきと言いました。そして、勤続20年超氏は譲歩して、その単語を
使わず、一方でOTSU氏は使用しました。もちろんOTSU氏が譲歩しなかったことを
非難しません。信念に基づいた言葉だと思います。
かつて、安倍総理が靖国神社に参拝した時に、抗議活動がありました。賛否は
あるし、安倍総理も不利益は予想したでしょう。しかし参拝しました。これは
彼の信念に基づく行為です。人によっては信念は利害を超えるのでしょう。
だから、OTSU氏も安倍総理も譲歩しないのでしょう。
国家が信念に基づき、譲歩しないのならば、行き着く先は戦争しかありません。
今週の記事を見たときに最初に思ったことです。
投稿: nagi | 2014年6月27日 (金) 11時43分
中国はこれから極端な超超高齢社会になります。
主にひとりっ子政策の失敗からです。
だから、強大なマンパワー頼みのところはなくなっていくし、内政に力を入れなくてはいけなくなる。
しかしながら、彼らは今、技術で国際社会をあっと言わせてやろうと思っている。
大気汚染がなんだ!という国です。ひとひとりの命の重さは、日本で考えているよりもはるかに軽い。
そういう国が、マンパワーのある今のうちに、利権確保したいのは、パワーバランス上、「ある意味」理解できるものです。
それが、国際法上の誤りであってもです。
それが、中国の生き延びる道でもあるわけです。
そのためには、他国の利益なんて無視しちゃっても構わないといったところなのでしょうね。
既成事実さえ作ってしまえばこっちのものというのは、大航海時代のヨーロッパや、アメリカ開拓、ロシアのクリミア占拠なんかと通ずるものがある。
やったもん勝ちだと思っている国に、道理なんて説いても無駄だと思います。
まして、ドMまがいの、お願いなんて通用しないです。
責めるだけ責めてくる。穴があれば責める責める。中国はサディスティックですよ。
現状はそう。だけど、私は、憲法の解釈変更の問題と潜在的脅威の問題は完全な整合性が取れているとは思いません。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月27日 (金) 13時01分
でりしゃすぱんださん、勤続20年超さん、下っ端さん、シグ忘れさん、たろうさん、とーる2号さん、nagiさん、コメントありがとうございました。
新規記事は少し流れが変わる予定です。それはそれで個々人の評価や見方が分かれる題材になるのかも知れませんが、今、個人的に思うことを気ままに書き進めてみるつもりです。まだ漠然とした内容が頭の中にあるだけであり、今夜中に投稿できないものと思いますが、ぜひ、またご訪問いただければ幸いですのでよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2014年6月28日 (土) 20時05分
>勤続20年超氏
>徒に中国を敵視しない緊張緩和策こそが「抑止力」だと思います。
申し訳ないですが全然理解できないので教えてください。
(1)敵視しないとはどういうことですか?
(2)緊張緩和策とは何ですか?
(3)(2)が何故抑止になるのですか?
(4)(3)の根拠は何ですか?
(5)アメリカを敵視しない緊張緩和策も「抑止力」になりますか?
投稿: たろう | 2014年6月28日 (土) 22時46分
やっぱり、今週中に閣議決定の見込みですか。
石破さんのおっしゃられるように、法整備できなければ、実際の運用ができないですからね。
実際の運用は予算付きでないといけませんよね。
じゃ、概算要求に盛り込んで、通常国会で揉むんでしょうね。
公明さんは下部組織の浸透を図ると。
そのほかの国民は蚊帳の外なんですかね。
ま、私のブログに書いたとおり、予想どおりの展開なので別に驚きはしませんけれどもね。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月29日 (日) 03時38分
たろうさん、でりしゃすぱんださん、おはようございます。コメントありがとうございました。
でりしゃすぱんださんのブログ、いつも更新を楽しみにしています。集団的自衛権に関する閣議決定と予算との絡みなど興味深く読ませていただいています。私自身、このブログの更新が手一杯であり、他のブログへのコメント投稿は控えていますが、ぜひ、これからも無理なさらない範囲で当ブログともお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2014年6月29日 (日) 06時52分
昨日、閣議決定でしたね。私の予想の範囲内でした。
大した文言は入れないのだろうと思っていましたが、そうなりましたね。
個別具体的にはこれから法整備が必要だと、複数の与党の要人が言っていますね。
また、これ以上のことは憲法改正だと、公明のナツオYさんが明言しましたね。
いろいろな党がいろんなことを言っていましたけど、私は、生活の党イチロウOさんが一番まともなコメントを出していたと感じています。
曰く「現実の要請に応じたいという政府・為政者の意思でもって勝手なおかしな議論がなされているように思う」
これから、通常国会なのか臨時国会なのか知りませんけれども、予算つきで市ヶ谷や霞が関が動きます。
NHKでは、関連法が軽く10を超えるということも指摘されていて、その中には市ヶ谷だけでなく、ウミザルの法も含まれていました。これも、私の書いていたとおりです。
ま、改正法案の提出は、省内審査、霞が関ルール、内閣法制局審査、事務次官会議、その間で自民の部会、総務会の決定、公明の了解取り付け、最後に閣議決定とありますから、秋の臨時国会には間に合わないと思いますけどね。
間に合ったら、奇跡か、超人が住んでるんだと思いますよ。市ヶ谷には。
どちらにしても、私の予想は、ことごとくあたったわけです。
官僚の論理は、なんだかんだいっても生きている。
国民の議論不在でものごとをすすめるきらいは、自民と官僚がつるむと、大胆にも推し進められてしまう。
もう、何を言ってもむだです。やっちまったんです。
気づかずに、中国脅威論なんかを戦わせている場合ではない。
やられてからあわてる人々が、消費税導入やPKO導入、郵政民営化などのときとたぶりますね。
こういった国家の意思決定プロセスを知ったうえで、日本の在り方を話していかなければいけないと、私は真剣に思います。
この内容は、加筆修正の上、私のブログに転載します。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月 2日 (水) 09時13分
>でりしゃすぱんだ氏
一市民にしかすぎない私には官僚の世界はわかりません。戦後70年において
国民が議論が不在だと言われる事象は多かったようですが、議員は国民を代表してる
のならば、議員が国会で議論することも代理の国民議論ではないでしょうか。
また、昨今の問題で、あまりにも国民の声を聴きすぎるのは、衆愚政治や
ポピュリズムと呼んだのではないでしょうか。
国民の大多数は今日しか生きていません。負担は嫌、義務も嫌、権利は最大限ほしいと
主張します。それを汲み上げかつ、未来の日本を創造するのが官僚であり政治家であると
信じています。
日本のあり方を変えるなんてできるのでしょうか、クーデターや民衆蜂起を興した国では
酷い混乱になってますね。英雄待望論ですが、素晴らしい指導者によって国が変わることを
期待してはだめでしょうか。
投稿: nagi | 2014年7月 2日 (水) 11時42分
nagiさん。
ポピュリズムや衆愚政治が想定されるような時代ではなくなったように感じています。
日本においては、少なくとも、義務教育を受けた人々が、高齢者と呼ばれる年代になっています。
基本的な意見を出せる世代が増えているということです。
しかも、国のありようを考えることができる頭脳が増えているのです。
世界では、字が読めない人々が、たくさんいる国もあります。
かのアメリカでさえ、選挙では、記号や写真で候補を判別するといったほどです。
日本のように、すべて文字を使って投票するしくみを持っている国は少ないです。
元・低レベル官僚として申し上げるならば、今のような、自民と官僚がタッグを組んだ意思決定システムは、そろそろ限界なのではないかと思います。
普通は私も代案を出すのですが、新しいしくみについて、これといったよい考えが思い浮かびません。
ただ、これだけ国民に知恵・リテラシーをつけてきた、今日の政体にあって、簡単にやすやすと衆愚政治が成立するようには思えません。
今、食べてきた田舎のおそば屋さんにさえ、9条関係のポスターが貼ってある。そんな時代です。
なんらかのレボリューションは必要ないと考えていますが、現状を脱皮するようなことは、これからの時代、考えていかないといけないだろうと思っています。
このような抽象的なことを書くと、カルトなんかにも通ずることもあって、書くのをはばかられていたのですが、今のような国家の意思決定システムが、そう遠くない時期に変わっていくことが考えられ、より、民意が反映されるようなしくみとなることを願っています。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月 2日 (水) 14時15分
>でりしゃすぱんだ氏
私は、「民意」こそあてにならない不安定なものと考えます。
すぐに利害が対決し、なんら解決策を持たない。まさに不幸なループにしか
見えません。たしかに教育レベルが上がり、確実な民意が存在すると思うの
ですがね。
官僚制度は千年以上も続く偉大な制度であり、公務員の方々は有能な
頭脳集団だと信じていますし、実際そうだと思っています。変わらなければ
ならないのは政治家と国民の関係性だと思います。選挙ばかり気にして
まともな政策や主張すらできない政治家には消えてほしいし、また聞こえの良い
中身のない主張をする人物を有権者はちゃんと見て、落選させてほしい。
投稿: nagi | 2014年7月 2日 (水) 15時45分
nagiさん。
官僚が有能であるとは思いません。
失礼ながら官僚であった私が思うのですから、そうなのです。
でなければ、かつて大蔵官僚がノーパンしゃぶしゃぶに行って、面目丸つぶれなんてことはしないでしょう。
よく考えたらわかるようなことも、官僚だから分かるのではないのです。
確かに職能集団としては機能してます。職能があるだけです。
だれでもなれます。官僚は。選挙があるわけではありません。
Fラン大学文学部出身の私がなれたのですから、間違いありません。
あえて、ひとつ言うならば、官僚は政治家よりも長い時間とどまり、ひとつだけのテーマを追いかけることがあります。
官僚も異動が頻繁にありますが、キーマンとなる低レベル官僚は、席次が上がらないまま、何年も同じポジションで過ごすヌシみたいな人がいます。
結局、企画専門のそういう職人みたいな人たちが、実際の国を動かしているというのが、私の実感です。
きっと、nagiさんのような、問題意識の強い方ならば、官僚組織で重宝されると思います。
要は、民間で過ごしたかったのか、官として過ごしたかったのか、無職でよかったのか、何かを立ち上げちゃったのか、あるいはそもそも社会に不適応な人だったのかの違いで、その違いはわずかであると考えています。
民意というのは、とても重宝です。
民意を利用して、国の在り方を変えることもできます。良いようにも、悪いようにも。
ただ、民意をまったく無視では、企画もくそったれもないんです。それは独裁というのです。
一部の少数意見でもつかみとらなくてはいけません。
だから、今回の憲法9条解釈変更については、政府としてはOKだったとしても、民意というか、一般的な日本語の読み方としてよいものであるか、小中学生にだって分かったかというと、これは疑問符を付けざるを得ません。
内閣法制局や市ヶ谷の説明責任については、以前にも書いていたと思うのですが、やっちまってから説明では、順序が逆です。
もう、この手法はやめた方がいいと思います。いい加減。
メニューを渡されて、これしかないと言っているようなもので、だったら、別のメニュー(店)に行くという選択肢を示し切れていないのです。
消去法で、やはり、これしかないという説明であれば分かりますが、出口だけはあると教えられた洞窟を電燈なしで進むような、無茶をしていないか?ということです。
ちょっと、まとまりがないのですが・・・。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月 3日 (木) 13時41分
>でりしゃすぱんだ氏
ノーパンしゃぶしゃぶの話はなつかしいですね。毎日過酷な労働してるん
だから、これぐらいの得な部分、勘弁してやれよと思いました。(笑)
私は集団的自衛権に賛成でも反対でもありません。元々自衛権に個別と集団を
分けるのはおかしいですし、さらに自衛権には先制攻撃も含むと考えます。
もっとも憲法9条をそのまんま読めば、自衛権があるから自衛隊も許される
との論法は間違ってます。潔く自衛隊はスーパーレスキューにでも変えて
しまいましょう。
しかしそれでは、日本は侵略されてしまいます。だから改憲して国軍を
整備しましょう。それを統制し、日本が侵略される場合、日本の利益が
著しく侵害される場合に軍事力を使う。
日本が平和国家として立脚するのは、決まり事があるからではなく、
その行為によって証明される。私はそのように考えます。
武力で平和は築けない。このことはよく理解できます。しかし例えば
イスラエルの状況を見れば、虚しい言葉ですね。
アメリカで銃による悲劇が起こるたびに、銃規制の話がでますね。
しかし規制しようとすると銃の販売が増える。
それは市民から銃を取り上げても犯罪者から取り上げることはできない。
銃が蔓延した社会では、当然のことでしょう。銃に対抗して銃を持つ
ことは、日本では愚かしいと思えても、現実の暮らしの中では止む得ない
選択肢です。
日本周辺の状況も同じではないでしょうか。日本が軍事力を捨てようにも
周辺国の状況がそれを許さない。一方的に日本のみが、軍事力の選択肢を
捨て去ることは警察に丸腰で勤務を求めるのと同じではないでしょうか。
投稿: nagi | 2014年7月 3日 (木) 17時59分
nagiさん。
>もっとも憲法9条をそのまんま読めば、自衛権があるから自衛隊も許されるとの論法は間違ってます。
小学生のころから思っているのですが、果たして、この9条と言う日本語文のおかげで、自衛隊はあるんだと教えられたとき、すごく違和感を感じました。
自衛隊の存在は、「戦力」じゃないらしいので、アレですが、国際紛争という言葉も出てきて、義務教育を受けた人間が、素直に9条を読んで、集団的自衛権の一部行使までを想像することは、非常に難しいのではないかと思っています。
しかし、目の前の脅威があるという旨の認識もnagiさんと一緒です。
戦力でいくのか、対話で行くのかの選択肢はありますが、ミサイル一発プレゼントされたら困るわけです。
また、ソウルに北朝鮮がミサイルを打ちこむことだって可能なわけです。
そしたら、湾岸戦争さながらの状態が、日本のすぐそばで起きてしまう。
湾岸戦争のとき、イスラエルにミサイルぶっぱなした国があったように、関係のないところで、アメリカの手先だ!みないな難癖つけられてやられてしまう。
もう、そういうことは、分かっていることだし、対話でなんかじゃ物足りない。
現実はそうだけど、慎重にやってほしい。国民の目先を、そういった具体的な脅威とともに、国が示さなければならないと思います。新聞・雑誌・メディアではなくて。政府自らが。
この際、外交のパワーバランスなんかは度外視です。外務省はホッチキス官庁なわけですから。極論ですが。
改憲が必要ならばすればいいのです。ただし、自民が出していた改憲草案は問題外です。雑すぎます。
いつまでも、70年間近くほったらかしにしていた憲法を、そのままにしておいてはいけないと思います。
だからといって、政権によって解釈変更があるような、おかしな日本語の条文を作らないことです。
投稿: | 2014年7月 3日 (木) 21時09分
失礼。2014年7月 3日(木)21時09分のコメントは私のものです。
投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年7月 3日 (木) 21時11分