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2014年6月15日 (日)

言葉の力、言葉の難しさ Part2

サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会が開幕しました。W杯史上初めて前回大会決勝の顔合わせがグループリーグで再現され、前回王者のスペインがオランダに1対5で大敗を喫するという波乱の幕開けとなりました。4年に1回のW杯、ちょうど私どもの自治体の議員選挙の時期と重なります。その選挙は日曜日に告示されます。有権者14万5千人、定数28に対し、34名前後の立候補者が見込まれています。直近の記事として「市議選まであと1か月」「市議選まであとわずか」があり、その間に「言葉の力、言葉の難しさ」を投稿していました。

前回記事の冒頭ではコメント欄から距離を置き、記事本文に集中している現状について説明させていただきました。そのため、今回も最近の記事に寄せられていたコメントにお答えしながら、改めて「言葉の力、言葉の難しさ」について書き進めていくつもりです。前回記事の冒頭で「コメント欄には一切関わらないという方針であれば、それはそれで分かりやすい線引きなのかも知れません」と記しながらも、「一方通行とならない相互に交流できる機能の貴重さを感じているため、まったく関わらないという方針は今のところ自分の頭の中にはありません」と綴っていました。

その気持ちが揺れている訳ではありませんが、「組合の情宣活動の一環ということならば、意見を主張するだけで、反対意見が出そうなコメント欄はなくせばいい」というご意見が前回記事のコメント欄に寄せられていました。私自身のコメント欄での対応の不充分さから「高見の見物」をしているように見られ、「コメント欄で意見を開陳するということは、これは、悪く言えば、コメント欄諸氏に恥をかかすだけの罰ゲームのようにしか思えない」と非難され、「ブログ本文の書き込みが不足しているということです。猛省してほしい」という叱責を受けていました。

少し前から数多くのコメントを投稿くださっているでりしゃすぱんださんからのご意見でした。このブログを開設した目的は公務員やその組合の言い分を発信したい、同時に様々なご意見や批判の声も伺いたいと考え、最初の頃は「襟を正すべき点は正し、主張すべき点は主張する」という言葉を多用していました。組合の公式サイトの立ち上げが簡単ではなかったため、個人の責任で手っ取り早く開設できるブログを始めていました。このあたりは以前の記事「500回という大きな節目」や「私の一冊」などで詳述しています。

なお、このように以前の記事を紹介する手法が不誠実だと批判を受ける時があります。わざわざリンク先の記事まで読めないという指摘はその通りであり、私自身も「一期一会」の心構えをできる限り忘れないようにしています。とは言え、毎回同じような内容を記事本文に掲げられないため、あくまでも参考までに以前の記事を紹介しています。興味を持たれた方はリンク先で、もっと詳しい内容や説明に触れていただければ幸いなことだと考えているところです。

でりしゃすぱんださんのご意見に対し、単刀直入にお答えするならば「このスタイルを変える考えはありません」となります。「書き手の自分がピエロのように思えるんです」という印象を与えていることに対してはお詫びしなければなりません。「労組の立場で本文をお書きになるならば、きちんとした説明責任を果たしてほしい」という指摘に対しても、特に最近、コメント欄から距離を置き、さらに「一問一答」から離れているため、不充分さについて強く弁明できるものではありません。

このような距離の取り方やコメント投稿のサイクルになった経緯等については繰り返しませんが、私自身、このコメント欄の限界と可能性を踏まえ、これからも同じスタイルで続けていこうと考えています。おかげ様で今でも1日千件近くのアクセスがあり、その中には自治労本部や民主党国会議員関係者の方々が訪れている場合もあります。 このブログのコメント欄では「答え」を一つに絞ることを目的とせず、幅広い立場や視点から説得力のある主張や意見が交わさせることを願っています。

その「言葉の競い合い」を通し、閲覧されている皆さんが「なるほど」と感じられた時、それまでの考え方や実生活における行動パターンにも影響を与えていく可能性があることを信じています。その上で、コメント欄を最も注目している閲覧者が管理人である私自身で、主張する場の軸足が記事本文となっていますが、主張している内容がどのように受け取られ、どのように評価されるのかどうかは、コメント欄に投稿されるご意見の数々と基本的には対等な立場での「言葉の競い合い」だと考えています。

でりしゃすぱんださんの「コメント欄で議論しても、OTSUさんの胸に届かない」という言葉に継ぎ足し、nagi さんからは私の中に最初から「正しい」ことや「結果」が決まっているため、いくら何かを投げかけても「貴重な意見をいただきました」「これは決まりですから」という答えにとどまる見方が示されていました。もちろん私自身、正しいと信じている「答え」があり、そのことについてブログを通して発信しています。

これまで本当に多くの皆さんから数多くのコメントをお寄せいただいています。私自身の知識や認識の誤りを指摘いただいた場合、すぐ改める機会に繋がっていました。「なるほど」と感じながら徐々に思考パターンが変化していったケースもあります。その一方で、執拗に「変えるべき」という指摘や批判を受けながら、私自身の基本的な姿勢や考え方が変わらないケースも多数あります。そのような時、でりしゃすぱんださんやnagi さんらの言葉と同様、落胆や憤り、徒労感を示されるコメントに繋がっていました。

ただ立場を置き換えて考えていただければ幸いですが、私自身から見た時、自分なりの思いや言葉を懸命に訴え続けていながら、その主張や趣旨についてご理解いただけず、厳しい批判の言葉が返ってくる、非常に残念なことでした。どなたにも伝わるような言葉や表現を駆使できない私自身の力不足を棚に上げるものではありませんが、もともとの視点や考え方が異なる場合、同じ言葉に接していても受け取る印象が大きく変わってしまうことも留意しなければならないようです。

ここの管理人さんは人を騙すのが快感なんでしょうか。「集団的自衛権」という言葉を恣意的に「普通に戦争ができる国」と言い換えている記事で「言葉の力、言葉の難しさ」というタイトルをつけるなんて、狂気の沙汰としか思えません。「集団的自衛権」という言葉を使ってはいけない理由があるのでしょうか。

「集団的自衛権」の意味する範囲と「普通に戦争ができる国」との意味する範囲は違っており、管理人さんが敢えて「普通の戦争ができる国」と言い換えるのは、言葉の範囲を自分の都合の良いように改ざんし、その上で自分に有利に議論を進めようとする行為そのものです。そのうえで、もっともらしい理屈をいくらこねても、そんな卑しい行為から発せられる言葉が届くわけないでしょう。

>「普通に戦争ができる国」という言葉は決して思い込みや的外れな表現だとは考えていません。

あなたがそう思うのは勝手ですが、他人の使う「集団的自衛権」という言葉を「普通に戦争ができる国」という別の意味の言葉にすり替えるのはおやめ下さい。相手の「A」という発言を「B」という別の言葉に改変、ねつ造して批判や議論を行う人が公務員の要職に居座り続けることができるとは、他のまっとうな公務員にとって大きな迷惑です。

上記の指摘は、あゆさんから前回記事のコメント欄に寄せられたものです。本当に残念な批判の受け方です。集団的自衛権行使の是非について賛否があり、批判意見が寄せられることは覚悟しています。ただ集団的自衛権という言葉を使ってはいけないなどと一言も記した覚えはありません。言葉の範囲を都合の良いように改ざんという見方をはじめ、「そんな卑しい行為」「他のまっとうな公務員にとって大きな迷惑」という批判の仕方には強い違和感がありました。

たいへん長い記事になりつつありますが、少し集団的自衛権の問題についても書き進めてみます。日本の行方を左右する時節柄「憲法記念日に思うこと 2014」「もう少し集団的自衛権の話」「もう少し集団的自衛権の話 Part2」という記事を投稿してきました。それらの記事を通し、日本は個別的自衛権に限った「特別な国」であり続けるべきという主張を重ねていました。その「特別さ」を活用することで国際社会の中でのブランドイメージを高めていく道があり、実際にアフガニスタンでの武装解除等で効果を発揮してきた事例を紹介していました。

集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、要するに「普通に戦争ができる国」と同義語です。この表現が「すり替え」だと批判を受けること自体、逆に戦争という言葉を意図的に隠すような「すり替え」であるように感じています。集団的自衛権を行使できるようになっても戦争に直結するものではない、そのように考えられているため、「普通に戦争ができる国」という言葉を嫌悪されているのかも知れません。

念のため、私自身も「見直しイコール戦争」という短絡的な発想は持っていません。これまで自衛戦争のみ行使できた権利が、自国の防衛以外でも他の国と一緒に戦闘行動ができるという権利拡大の問題だととらえています。どのような結論に至るのか分かりませんが、戦争をしたいために集団的自衛権の問題が取り沙汰されているとも考えていません。及ぼす結果や可能性に関する評価は分かれるものと思いますが、しっかり自衛権を整えることで抑止力が高まり、戦争を避けられるという説明も一概に否定するものではありません。

国際社会の中で認められた権利を普通に行使できる国になるのかどうか、そのことを「普通に戦争ができる国」という言葉で表わしていますが、憲法の「特別さ」から踏み出すのであれば国民投票で是非を問うべき問題だと考えています。このような説明を加えていますが、きっと言葉が不足し、中国との関係なども含め、まだまだ補足しなければならないことが数多くあるはずです。いったん区切らせていただき、不充分な点は次回以降の記事本文で書き足していければと考えています。

最後に、nagiさんからミサイル攻撃に関する問いかけが寄せられていました。先送りになりがちですので、このタイミングで私からも一言答えさせていただきます。個別的自衛権の範囲として敵基地攻撃はあり得るはずですが、自衛に繋がらない場合の報復は「必要最小限度」の実力行使から離れるものと理解しています。「そうならないように外交を尽くすべきとの回答は不要です」という注文もありましたが、あえて言うまでもなく、人命の尊さを考えた時、そのような事態を避けるための外交努力が何よりも重要であることだけは強調させていただきます。

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コメント

結局、コメントについて、まとめているだけですね。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月15日 (日) 04時14分

でりしゃすぱんださん、おはようございます。さっそくコメントありがとうございました。

でりしゃすぱんださんの期待や注文に答えられず、でりしゃすぱんださんが思い描くブログになれそうにありませんが、今回の記事本文の内容も含め、私自身、背伸びせず自然体で投稿しています。その姿がプラスに働くのか、マイナスとなるのか、個々人で評価が分かれるのかも知れませんが、私自身は一定の意義を感じながら続けています。次回レスできるのは今夜9時過ぎになる予定ですが、ご理解ご容赦ください。

投稿: OTSU | 2014年6月15日 (日) 06時26分

以前からなんどもご指摘していますが、このブログはOTSUさん個人の意見の発信場所ですか?それともソシキの意見の公表の場ですか?
ソシキとしての意見が多いような気がします。ソシキにまみれているのなら話は別です。
だから、書き込みが足りないのではないか?組織の広報担当者がやっているブログのようだと言っているわけです。

そのブログにコメント欄でシモジモの者が言い争っている。コメントは取りまとめるだけ、シモジモの者はなんら意見を拾ってはもらえない。頂戴したとも言わない。

私が公務員時代のときであったならば、個人で情報発信することさえできなかったような時代でしたから、ブログで組織の情報発信なんてしませんでしたけどね。かれこれ10年以上も前の話です。
ですから、そういった状況はよくわかるんだけれども、逆方向から見れば、情宣活動として労組という「ソシキ」が役割不足であるということが言えるのではないか。ソシキが機能不全状態にある。

そりゃ、労組のトップが動くわけだ。ソシキは動かん。でも、何か情報発信しなければいけない。個人責任でブログでもやりますかね・・・と。

OTSUさん個人の意見を言う場でないと、OTSUさんにとっても、ソシキにとっても、T市市民の方々にとっても、この状況はいろんな意味で不幸でしかないと考えます。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月15日 (日) 16時06分

また新規性のない記事ですね。いやW杯のことは新しいですが。

>以前の記事を紹介する手法が不誠実だと批判を受ける
「答が書かれていない記事を紹介する手法が不誠実だ」の間違いでしょう

>集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、
>要するに「普通に戦争ができる国」と同義語です。
私は「普通」が「戦争ができる」に掛かっているから、気軽に(安易に)戦争を
仕掛けていく国(中国やロシアみたいな)という印象を
受けました。多分狙い通りでしょうが誤解ですか?

集団的自衛権反対はいいんですが、相変わらず対案は示されませんね
別に平和憲法で本当に国が守れればそれでもいいんですよ

ただし以下は勘弁してください。
・国防の脅威は存在しない
・他国に貢ぎ続ける
・他国に蹂躙されても止む無し


投稿: たろう | 2014年6月15日 (日) 21時30分

でりしゃすぱんださん、たろうさん、コメントありがとうございました。

今回指摘されているような問いかけに対し、私自身は私なりの言葉を尽くし、答えているつもりですが、そのようにはご理解いただけていない…。「答が書かれていない記事を紹介する手法が不誠実だ」という言葉などは本当に残念なことです。私自身が主張する場の軸足は記事本文としていますが、1週間空けるときめ細かい対応から離れがちとなります。そのため、この場でも可能な限りのレスに努めてみます。

①個人の責任で、個人の言葉で運営しているブログですが、組合委員長という立場を常に意識しています。「ソシキ」にまみれているつもりはありませんが、組合活動を身近に感じてもらえるような記事内容の投稿にも努めています。書き込みが足りないのかどうかは他者からの評価の問題ですので、私自身は制約された時間の範囲内で全力を注いでいるつもりです。

②「シモジモの者はなんら意見を拾ってはもらえない」という見られ方は誤解です。今回の記事本文でも改めて説明しましたが、私自身の記事本文、それぞれのコメントの内容が閲覧されている多くの皆さんからどのように受け取られ、どのように評価されるのか、基本的には対等な立場での「言葉の競い合い」だと考えています。さらに私自身への問いかけよりも、ここ数年、「自分はこのように考える」というコメントの投稿を歓迎していることも確かです。しかし、決して上から目線や「高見の見物」という姿勢は微塵もありません。

③「この状況はいろんな意味で不幸」というご指摘ですが、たいへん恐縮ながら私自身はそのような認識に至っていません。

④「普通に戦争ができる国」という言葉に「気軽に」という意味はまったく含まれていません。現在の国際社会で認められた戦争の定義に沿って「普通の国」という言葉を使っています。そのような誤解のされ方に正直驚いています。

⑤対案ですか?今後も個別的自衛権で対応できるという考えです。その範囲内で不備な点は国会での審議を尽くし、改めていけば良いのではないでしょうか。

投稿: OTSU | 2014年6月15日 (日) 23時01分

では、相当、世間様とはズレているんじゃないんでしょうか。
こういう組織を内包している市役所からサービスを受けている住民はいろんな意味で不幸だと思います。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月15日 (日) 23時23分

たろうさんからの質問にも本筋をずらして「誤解のされかたに驚いている」ですか。
公務員というかお役人は、文章の巧さで自分の不利にならないように筋違いの議論に収束させるのがお上手ですね。

「集団的自衛権」と「宣戦布告や先制攻撃」とはかなり遠い概念です。
しかし、「普通に戦争ができる国」は「宣戦布告や先制攻撃」とそこまで遠い概念ではありません。すくなくとも、「集団的自衛権」と比較すると、「宣戦布告や先制攻撃」よりも概念的に近くなっています。
管理人さんの行為は、「集団的自衛権」を「普通に戦争ができる国」と言い換えることで、このような「言葉の力」を悪用している人と見分けがつきません。

そもそも、ここの管理人さんは、なぜ「集団的自衛権」という言葉を「普通に戦争ができる国」という違う言葉に言い換えたうえで、「これはすり替えではない」と言い張るのでしょうか。
すり替え、すり替えでないをいうなら、「集団的自衛権」をそのまま使えば、これこそ100%「すり替え」になりようがないでしょう。

なのに、「すり替えではない」と頑なに主張して「別の言葉」である「普通に戦争ができる国」を使いたがる理由はどこにあるのでしょうか。何故、そのまま使える言葉があるのに、別の言葉を使いたがるのでしょうか。

結局、管理人さんの行為は、「言葉の力」を利用したいがために、わざわざ「普通に戦争ができる国」と言い換えている人と見分けがつきません。

ところで、管理人さんに質問があります。
管理人さんは、例えば自分が「好きな色は利休鼠です」と言ったときに、「ああ、ドブネズミ色だね。ドブネズミ色も利休鼠も同じ色だよ。その証拠にドブネズミ色のRGB値と利休鼠のRGB値はほぼ同じだ。だから、貴方の好きな色はドブネズミ色だ。それを利休鼠と言い張るのは、ドブネズミを隠そうとする不自然な行為だ」といわれて、「なるほど、その通りだ。貴方は正しい」と考える人でしょうか。

まあ、答えたくなければ答えなくても良いですが。ここは管理人さんのHP。下々の者の問いかけを無視しようが嘲笑しようが、あなたの自由ですからね。

投稿: あゆ | 2014年6月16日 (月) 00時46分

あゆさん。
本来、OTSUさんが答えるべきですが、官吏には、「クロでないものはシロ」という変なことが言われます。
限りなくクロに近いグレーであっても、それはクロではないのだから「シロ」であると言ってよい・・・のように。
こういうことが、日常、普通に言われていることがあります。
もちろん、ぜんぶがぜんぶのヤクショではありません。
官吏の考え方とはそういうものであることが多いです。ご参考までに。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月16日 (月) 04時44分

OTSUさん。
私はOTSUさんが誰だか分かっている。
私のことも調べれば分かるはずです。
前記①に対して。
そうおっしゃるならば、こういう言い方はまったく持って不謹慎極まりないとお断りしますが、OTSUさんの言葉の力と世間への想像力が足らないのです。
世間に対する公務員への風当たりは、私が公務員になったころに比べて、格段に強くなっていることを認識できていないのかなと勝手に想像しています。想像するだけです。
それしか私には考えられないし、そうでなければ、世間を愚弄している。なめている。

こういった公務員がいることに腹が立ちます。問題意識をもっと持つべきだし、持っているとするならば、熱く語らなければならない。
天下国家を思ってこその公務員。ひとりひとりが日本の統治機構を動かすものとして、考え行動しなければならないと思う。個人的意見です。

権利は主張するが・・・ということばがよく言われます。OTSUさんの立場が非常に難しいのも分かる。
しかしながら、飄々とこうかわされたのでは、コメント欄諸氏が遊ばれているような気がする。

OTSUさんのやっていることが見えない。何を言いたいのかがわからない。
端的に表現されているのが、今回の「普通に戦争ができる国」のフレーズなんだと思う。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月16日 (月) 05時00分

おはようございます。

以前と比べれば、OTSU氏も判り易い主張をしてるなあと思います。
ただ、OTSU氏の強いこだわりが議論の方向性をずらしてますね。

本来、「自衛権」とはどのようなものか、どうあるべきか、について
議論をしなければならないのに、「普通に戦争できる国」という言葉に
ついて議論をしている。あゆ氏が指摘してるように、元々の言葉を置き換える
必要はなく、集団的自衛権という言葉で、互いの言葉を競いあうべきでは
ないでしょうか。現状は特定の言葉にこだわるOTSU氏に強い反発がおきてるにすぎません。
主義主張をぶつけ合うのは当然ですが、互いに認め合い言葉を競うべきと
言われるのならば、時には議論を進めるためにこだわりを一旦取り下げるのも
方法ではないでしょうか。


ようやくOTSU氏から、自衛権に関する答えをいただきまして感謝してます

>個別的自衛権の範囲として敵基地攻撃はあり得るはずですが、自衛に繋がらない場合の報復は「必要最小限度」の実力行使から離れるものと理解しています。

自衛権があるならば、当然このような回答になるのですが、自衛に繋がる報復と自衛に繋がらない報復の
線引きはどこにあるのでしょうか。またお考えを聞かせて下さい。それと、

>そうならないように外交を尽くすべきとの回答は不要です」という注文もありましたが、あえて言うまでもなく、人命の尊さを考えた時、そのような事態を避けるための外交努力が何よりも重要であることだけは強調させていただきます。

私が、「外交を尽くすべきとの回答は不要です。」と付け加える理由は二つです。
ひとつは答えを明確にする為、もうひとつは外交努力は前提条件であるからです。
仮に労働安全の会議で「職場での事故対策をどうすれば良いか?」との議題に
「事故が発生しないように注意を尽くすべきです。」との答えは意味があるでしょうか?
そのような努力はする上で、事故は発生すると想定し、対策を考えるのが安全対策です。

このようなことはOTSU氏は充分理解してる思います。それでもあえてそのような
発言をするのは、やはり議論を違う方向に誘導しようとの意図を感じてしまいますね。

投稿: nagi | 2014年6月16日 (月) 09時21分

追加です。

>集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、要するに「普通に戦争ができる国」と同義語です。この表現が「すり替え」だと批判を受けること自体、逆に戦争という言葉を意図的に隠すような「すり替え」であるように感じています。集団的自衛権を行使できるようになっても戦争に直結するものではない、そのように考えられているため、「普通に戦争ができる国」という言葉を嫌悪されているのかも知れません。

やはり、集団的自衛権は集団的自衛権という言葉で議論すべきですね。
以前に私が平和フォーラムを他の言葉に置き換えて批判した時に、OTSU氏は言葉を
置き換えなくても批判はできる。平和フォーラムは平和フォーラムとして批判してほしいと
言われていました。これは固有名詞であるかどうかは問題ではないと思います。
言葉を違う言葉に置き換えれば、それは特定の意図を潜り込ませることが可能に
なります。やはり公正な方法とは思えませんね。
さらに「集団的自衛権」=「普通に戦争ができる国」が同意義ならば、
「自衛権」=「戦争」でなければなりません。
すでに個別自衛権を有しているならば、日本はすでに「普通に戦争できる国」と
言えます。

やはり言葉をすり替えてるのはOTSU氏と言わざるをえません。
そして、私はOTSU氏が集団的自衛権を反対することを批判しません。これからも
反対の立場で意見を言われるべきと思います。わざわざ言葉を変えて批判を
受けることは本末転倒であり、堂々と「集団的自衛権」の何が問題で何が反対かを
主張されるほうがよろしいのではないでしょうか。
主題は名称ではなく、行為にあるのでしょう。ならば日頃OTSU氏が言われるように
言葉で競う為にも、すり替えはやめて下さい。

投稿: nagi | 2014年6月16日 (月) 11時53分

管理人さん、こんばんは。

今回は、nagiさんの言葉に真実を感じてしまいます。
賛成、反対の話ではない。まさにそこなのでしょう。

私の感覚から言わせていただくと、集団的自衛権を得ることは歯止めを失うことを主張しているように思えます。
つまり、日本人は平和憲法があるから戦争をしないだけで、その防波堤を失えば好戦的で戦争をしまくる国民なんだ。だから、日本には平和憲法が必要なんだ。

そう主張されていませんか?

だって、制度なんて使う人間でどうにでもなること。
私は根本的に、日本人の平和を尊ぶ決意や決心というものを信じているので、集団的自衛権があろうと、憲法9条が改憲されようと、何一つ今と変わることはないと確信しています。

個人的には、世界の平和を守るために日本も戦わなくてはいけない時もあるかもしれない・・・・とは思っています。
積極的に行くかどうかはよく議論すべきだと思いますが、少なくとも平和維持軍への参加を否定する理由は、今の日本にはどこにもないと思っています。
それは世界の中で先進国と呼ばれ、世界に誇れる平和を愛する国家として、必要不可欠な責務だと考えるからです。

ただ、そこは色々な考えがあると思うので、1つの考えとして受け止めていただければいいです。

私も同じ組織に身を置く者として、最近はその組織が何をしたいのかあまり見えてこないのです。
そして、残念ながら私の周りの構成員にも、同じ思いを持つ人が多くなっていることに気が付いて欲しいと思っています。

投稿: 下っ端 | 2014年6月16日 (月) 21時17分

もう、OTSUさんに言っても、なにも変わらんのです。
OTSUさん自身が変わらなければ、このブログの主張は変わらないんです。
コメント欄で吠えようがなにしようが、馬耳東風。無力感。
いいところは「それはいいね!」といい、悪いところは対案を出して悪いと言う。それがないんです。

集団的自衛権は、以前にも現政権は「やってしまうと思う」とコメントしたか、ブログに書いたかしてますが、どうも、そうなる模様ですね。
公明さんも頑張ったけど、しょせん、数の威力にはかなわないし、与党でいるということは、それなりのメリットもあるので。
野党には、ヤクショからの情報提供が極端に不足するからなんですが。

なんだか、最近はパワーゲームを見ているようで、それも、できすぎたものを見せられているような気がします。
法治国家がないがしろにされてしまうような時代が来るかもしれないと思うのは、私だけでしょうか。遠い将来に。
集団的自衛権には積極的な賛成はしませんが、反対もしない。
いろいろな例外を設けて、結局、現場で困ったら、その場の判断になってしまうので、賛成・反対は今さらあまり意味がないように思えるからです。
政府・与党がそういうふうに動くのであれば、いろいろときしみがでてくるのかもしれませんね。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月16日 (月) 21時34分

OTSUさん 奮闘に敬意を表します。

私は首都圏のとある自治体の職員です。そして、OTSUさんの仲間、自治労組合員です。

最近たまたま、マイナンバーのことをあれこれネットで検索していたところ、偶然このブログを「発見」し、その内容とOTSUさんのプロフィールを拝見しまして、あまりの大胆さに仰天しました。勿論良い意味です。

ここでの論議を興味深く拝見しておりました。それで、この間の集団的自衛権の論議において、「集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、要するに「普通に戦争ができる国」と同義語です。この表現が「すり替え」だと批判を受けること自体、逆に戦争という言葉を意図的に隠すような「すり替え」であるように感じています。」というOTSUさんの考え方は全く正当だと考えています。

その証拠にあの右派の重鎮、田母神氏は実際「社民党の党首だった福島瑞穂さんなんかは『戦争できる国』にするんですかというわけですが、福島さん、実はその通りなんです。『戦争できる国』のほうが、戦争に巻き込まれないんです。」(産経ニュース)といっています。戦争できるほうが抑止力がある、という論理ですね。

また、作家の高村薫さんも毎日紙上で、集団的自衛権反対の立場から「集団的自衛権の行使を容認するとはどういうことか。戦争に参加することを可能にするということだ。自衛隊が戦場に行き、他国民を殺したり、自衛隊員が戦死する事態が起きる、ということだ。」と懸念しています。

どちらも集団的自衛権の本質を普通に「戦争が出来る」ようにする、と捉えていると思います。ですから、別にOTSUさんは論理をすり替えてなどいないし、集団的自衛権のとらえ方の一面を正しく述べているに過ぎません。

勿論、戦争ができること=戦争をする、ということではありません。しかし、集団的自衛権の行使拡大によって、これまで「自衛」に縛られていた日本が、自衛の範囲を超えて戦争をする、あるいは巻き込まれる可能性が拡大することは間違いないと思います。

集団的自衛権に反対する私達はそのことが危険ではないか、平和憲法を踏みにじることにならないかと懸念しているわけです。

集団的自衛権の行使拡大とは普通に戦争が出来る国となる、ということに他なりません。これはすり替えなどではなく、「一面の真実」というべきことです。その認識を私自身も共有しますし、世論調査を見ても、それは日本人の少なからぬ人達が懸念していることに他なりません。

最後に公務員・労組役員という立ち位置を明白にして発言しているOTSUさんの勇気に敬意を表します。とはいえ、あまりご無理もなさいませんよう。匿名のネット空間は自由ですが現実世界とはまた別次元ですよね。労組幹部としての現実世界にキチンと関わることの多忙さは、私ごときでも察するに余りあります。


投稿: 勤続20年超 | 2014年6月16日 (月) 23時26分

コメント欄にて貴重な一答を得られて有難いことです。

>④「普通に戦争ができる国」という言葉に

まずはそういった印象を受けるということが伝えられてよかったです。
「一面の真実」は否定しません。印象操作ってそういうものですから。

>⑤対案ですか?今後も個別的自衛権で対応できるという考えです。

「説得力のある」対案が示されていない認識です。
「もう少し集団的自衛権の話 Part2」を見ても、日本の平和の危機が
高まっていることは認識されているものの、無策かと。
個別自衛権(1国平和主義)で平和を保てるという安心材料・現実解
(実現できないベストでなく実現可能なベター)を示して欲しいです。


投稿: たろう | 2014年6月17日 (火) 00時25分

ところで集団自衛権って労働闘争とちょっと似ていませんか?
強大な力を持つ敵の横暴に対して1人では太刀打ちできないかもしれない。
だからどちらも自分の権利を守るために仲間と組んで力を合わせて戦うん
ですよね。

投稿: たろう | 2014年6月17日 (火) 00時47分

「普通に戦争ができる国」が「集団的自衛権のとらえ方の一面を正しく述べている」が仮に正しいとしましょう。
では、何故、あなた方は、「集団的自衛権」という概念を、その一面しか正しく述べていない「普通に戦争ができる国」に置き換えたいのでしょうか。
あなた方は、「普通に戦争ができる国」が表しきれない概念を抹殺したいだけに見えます。

で、勤続20年超さんも、利休鼠をドブネズミと違和感なく言い換える方でしょうか。
まあ、自分の都合の良い一面しか見たくない人は、上記質問には答えないかもしれませんが。勤続20年超さんは、そのような方ではなさそうですのでお聞きしました。


>でりしゃすぱんださん
ああ、そういう「黒でなければ白」的な考え方は、お役所や公務員から感じられますね。ご教示ありがとうございます。

投稿: あゆ | 2014年6月17日 (火) 08時54分

しかし、

「集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、要するに「普通に戦争ができる国」と同義語

という定義をしておきながら、

「普通に戦争ができる国」は「集団的自衛権の 一 面 の 真実」

と、「全部ではなく一部」という定義を併存させることは、通常の思考からは導き出されないと思うのですが。
公務員さんは頭が良すぎるのか、その思考についていけないことが多いです。

投稿: あゆ | 2014年6月17日 (火) 08時57分

費用と効果という話をよく聞きますね。あるいは投資効果といいますか。

どれほど費用を掛けても、効果がなければ方法を見直すか違う投資を
行う選択肢になります。

平和運動家にとって、重要なのは「集団的自衛権」の行使を反対することであり
「集団的自衛権とは、普通に戦争できる国 である。」というCMを広める
ことではないでしょう。

勤続20年超氏は一面の真実があると言われてますが、一面しか真実がないと
言えますね。ならば言葉をする替えることによる心象操作をするよりは
「集団的自衛権」の行使はこのような危険性があると主張されるほうが
よろしいでしょう。

私には提示するデメリットが現実と照らし合わせて、無理が多いので
言葉をすり替えて心象操作するしか方法がないと見えます。

さらに、同意義であると言われるならば、それこそ言葉を変える必要は
ありません。外国語や、よほど難解な言葉であるならば、平易な言葉に
置き換える必要はありますが。

「集団的自衛権」 = 「普通に戦争できる国」 ならば
「個別的自衛権」 = 「????  」 なんて置き換えるのでしょうか?

>OTSU氏
>勤続20年超氏
是非、適切な言葉を教えて下さい。

投稿: nagi | 2014年6月17日 (火) 11時24分

万が一の場合、自衛権が円滑に行使できなければ意味がないので、法整備などの備えは常に必要であると思っています。自衛隊の増強等(陸・海・空)を行う必要も当然あります
。身にかかる火の粉はふり払わなくてはいけません。「普通に戦争ができる国」の議論も大事かなとはおもいますが、武力を背景に恫喝してくる国があるため常に備えは必要です。

投稿: ためいきばかり | 2014年6月17日 (火) 22時03分

こんばんは、ご無沙汰しています。

ここのところ忙しくて全く見に来ることもできていなかったのですが、ずいぶん叩かれている印象ですね。

なんというか、ブログ主であるOTSUさんにとってのフォローに回せる時間、コメントする側が書かれてあることを読み込む時間、
それぞれに時間的制限があることが、荒れる原因だとは思うのですよね。
こればっかりは、あまり解決方法はないのですが、なるべく個別の言葉にとらわれるのではなく、文脈を読んでいくことと、あまり
「おまえはこう考えてるんだろ」と決めつけたコメントは荒れる元になるだろうから避けましょうねというくらいしか思いつきませんが。

・・これって、結局以前OTSUさんが言ってたことと大して変わらないのかもしれませんけどね。

さて。
今回のコメントにあたり、ここに書かれているリンク先のうち「憲法記念日に思うこと 2014」「もう少し集団的自衛権の話」
「もう少し集団的自衛権の話 Part2」については取り急ぎ本文のみ拝見してきました。

で、正直なところ、そちらではOTSUさんがそこまで的外れなことを言っているようにも思えないです。

ただ、リンク先の「憲法記念日に思うこと」などの中で書いてあることと、今回書いてあることとでやや印象が違うのですが、
今回書かれた「集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、要するに「普通に戦争ができる国」と同義語です。」
という部分、売り言葉に買い言葉で、勢いで書き過ぎてしまってませんか?
ちょっと普段のしつこいまでの(失礼)丁寧な説明をすっ飛ばしている印象があります。

OTSUさんが書かれていた「自国の防衛以外でも他の国と一緒に戦闘行動ができるという権利拡大の問題だととらえています」というのは、
例えばPKOにおける集団防衛行動を踏まえれば、私の理解と同じです。

また、『ただし、第9条の「特別さ」を徐々に削ぎながら「普通に戦争ができる国をめざしている」という指摘であれば、
決して的外れな批判ではなく、そのような方向性を支持するのかどうかの問題だろうと考えています。』の部分も、
特段の違和感はありません。

むしろ「そのような方向性を支持するのかどうかの問題だ」と一歩引いているところには好感を持ちます。
実際のところ、憲法9条を改正しようということは、「普通の国になろうとする」ということだと理解しています。

だから、改憲を公言されている方々の最終的な目標がそこにあるであろうことを否定するつもりもないのですが、
とはいえ、その9条を改正しようという話と、現時点で議論されている「集団的自衛権を憲法解釈の範囲で認められるのではないか」という
論点には、まだ大きな隔たりがあることはOTSUさんも十分ご存じでしょうし、そこを理解しておられないとはとうてい思えないのです。

 少なくとも9条を改正しないまま「普通に」戦争ができる国になるとか論理的にありえないと思いませんか?
(日本が攻め込まれるという限定条件付きであれば、今でも実態としての戦争は可能)。

 ちなみに勤続20年超さんが「集団的自衛権の行使を容認するとはどういうことか。戦争に参加することを可能にするということだ。
自衛隊が戦場に行き、他国民を殺したり、自衛隊員が戦死する事態が起きる、ということだ。」と書かれてます。
自衛というのは「相手を殺してでも自分(国)を守る」ということであり、武器による戦闘が生じうる以上、
個別自衛権を容認した段階で、他国民を殺したり自衛隊員が戦死する事態は生じうる訳です(それを戦争と呼ぶかどうかは規模の差でしょう)。
そう考えると、高村さんという作家の方は、むしろ自衛権自体を認めていらっしゃらないような気がしますね。


最後に、「もう少し集団的自衛権の話」に投稿されていた長島議員のコメントを拝見しました(ブログ本文に書かれていたので、ここだけ見ました)。
論理立ててわかりやすく書かれており、誠実さと好感を感じました。私の好きな民主党の議員に玉木雄一郎さんがいるのですが、同じような誠実さを感じます。
どこの政党に属しているかとは関係なく、きちんとした議員さんには、日本の将来のためがんばって欲しいと心から思います。

投稿: とーる2号 | 2014年6月17日 (火) 22時59分

>「一面の真実」は否定しません。印象操作ってそういうものですから。(たろうさん)
>何故、あなた方は、「集団的自衛権」という概念を、その一面しか正しく述べていない「普通に戦争ができる国」に置き換えたいのでしょうか。
あなた方は、「普通に戦争ができる国」が表しきれない概念を抹殺したいだけに見えます。(あゆさん)

私は「印象操作」も「置き換え」もしてはいません。そのような意図の問題ではなく、集団的自衛権行使の拡大ということは「普通に戦争をできる国」になる、ということを意味しているだけです。

ですから、印象操作であるとか、すり替え云々という話はいたずらに本質的論議をかく乱、混乱させるだけだと思います。

>「普通に戦争ができる国」は「集団的自衛権の一面の真実」と「全部ではなく一部」という定義を併存させることは、通常の思考からは導き出されないと思うのですが。

いえ、「言葉」というのはもともと多義的なものです。一つの「言葉」が指し示す概念は多様でありえます。そうした一面を無視して全体を語ることもいかがなものでしょうか。

私は先に「集団的自衛権の行使拡大とは普通に戦争が出来る国となる、ということに他なりません。これはすり替えなどではなく、「一面の真実」というべきことです。」と書きました。ここで私がいいたいことは、集団的自衛権行使拡大の意味を「普通に戦争が出来る国」と規定した上で、それが良いか悪いかという判断の問題がある、ということです。

例えば元自衛官の田母神氏は、普通に戦争が出来る国は、抑止力にもなるから良いことだ、と判断し、賛成しています。こうした考え方も「一面の真実」でしょう。

しかし私は、これも繰り返しで恐縮ですが、先に書いたとおり「集団的自衛権の行使拡大によって、これまで「自衛」に縛られていた日本が、自衛の範囲を超えて戦争をする、あるいは巻き込まれる可能性が拡大することは間違いないと思います。集団的自衛権に反対する私達はそのことが危険ではないか、平和憲法を踏みにじることにならないかと懸念しているわけです。」

私は上記のような見解の相違を、集団的自衛権を巡る「一面の真実」と言いました。いずれにしても、その前提は集団的自衛権行使拡大=「普通に戦争が出来る国」という規定です。

もし、仮にこれを「すり替え」といい、集団的自衛権賛成の論陣を張るのなら、まずは集団的自衛権に関して、「普通に戦争が出来る国」という意味以外の積極的で有意義な意味づけをすれば良いだけです。

それなしにOTSUさんにすり替え批判をするのは、いかがなものか、という印象を私は持っています。

集団的自衛権行使の拡大ということは「普通に戦争をできる国」になる、ということを意味している、という点に少し説明をします。もともと日本の憲法学の通説は、自衛権は認められるが交戦権が否認されているので、自衛戦争も含む全ての戦争が禁止されているというものでした(芦部信喜『憲法』・岩波書店)。政府見解もこれと同じ立場でした。しかし、政府レベルでは自衛隊の創設や安保条約やPKO活動という形で自衛権や戦力という考え方が拡張されてきました。しかし、それでも憲法との整合性からは、日本は未だに個別的自衛権と集団的自衛権を峻別して、自衛戦争は認められるが、自国の実態的権利が侵されないにも関わらず「普通に」戦争をすることは認められない、という論理に縛られてきました。ですから、今回の集団的自衛権行使拡大の論理は、普通に戦争が出来る国になる、ということになるわけです。

問題はそれが、良いか悪いかです。私は悪い、と思うので集団的自衛権行使拡大には反対です。

>「集団的自衛権」=「普通に戦争できる国」ならば「個別的自衛権」 = 「????」 なんて置き換えるのでしょうか?(nagiさん)

「????」には、私は「普通に戦争が出来ない国」を入れます。


投稿: | 2014年6月18日 (水) 00時24分

上のコメントに重要な質問がありましたね。


武力を背景に自分の都合をゴリ押ししてくる国がある。

一つの小国では、その強大な力に対して対等な交渉が出来ないから
集団的自衛権というもので、力を合わせて対等な交渉に持ち込む。

しかし、自治労の方々は「普通に戦争が出来る国」と置き換えて
力を合わせて交渉力を持とうすることを否定している。


対して、理事者が立場を利用した力を背景に自分の都合を押し付けてくるとして

個々の労働者では、その強大な力に対して対等な交渉が出来ないから
労働組合というもので、力を合わせて対等な交渉に持ち込む。

こちらは、自治労の方々は当然の権利と主張し、
あまつさえ組織内議員などを擁立までして、理事者側に干渉しようとまでしている。


私には、これら二つの考え方に違いを感じることは出来ません。
ほんとダブルスタンダードにしか思えないです。


さてさて、集団的自衛権を否定するなら、
労働組合も解散して、個別の労働者ごとの交渉にするべきでしょう。

たぶん、これが個別的自衛権と同じ考え方でしょうから。


集団的自衛権に追記、
他国同士の争いに加担することになるとも言われるかも知れませんが、

それならば労働組合だって、
他社の労使間の揉め事に、支援と言って加わっていましたよね。
これって結局のところ集団的自衛権と同じ意味の活動ではないですか。

投稿: シグ忘れ | 2014年6月18日 (水) 00時32分

整理しておくと、

集団的自衛権が有ろうが無かろうが、
実際のところ、武力衝突を望んでいるのでは無いというのが前提になります。

当然に、交渉(話し合い)で解決すべきことですが、
重要なのは、交渉は対等な立場でなければ成立しないということです。


話が少し逸れますが、
公務員の方々は、日々少なからず理不尽な要求やクレームに晒されているはずです。
おそらく説明を尽くしていると思いますが、理解は得られず減ることも無い。

なぜなら、要求やクレームを言う者は、公務員は絶対に反撃してこないことを
十分に知っているからです。つまり確信犯として行っている。


国同士の交渉であっても同じことです。
十分な力を持たずに交渉を求めてみたところで、絶対に有効な反撃がないと
判っていれば、相手が譲歩することは無く、要求は日々増していくことになる。

今、盛んに行われている力での現状変更の試みとは、こういうことです。


しかも、公務員への要求やクレームは、度が過ぎれば警察に通報などで対応が可能ですが、
我が国に対する要求や現状変更の試みが幾ら過激になってみても、
国連などの助けや仲裁は期待できません。
なぜなら、相手の国は拒否権を持つ常任理事国なのですから。


つまり、交渉(話し合い)に持ち込むためにも
集団的自衛権で交渉力を担保することは必要なことと考えています。


集団的自衛権の否定こそ、武力衝突を望んでいる立場の人の言い分。
そのようにしか写りません

投稿: シグ忘れ | 2014年6月18日 (水) 00時53分

>もし、仮にこれを「すり替え」といい、集団的自衛権賛成の論陣を張るのなら、まずは集団的自衛権に関して、「普通に戦争が出来る国」という意味以外の積極的で有意義な意味づけをすれば良いだけです。

凄いなぁ。
「集団的自衛権」を勝手に別の言葉で置き換えて、それが嫌なら「意味づけ」しろ、とは。

もしかして、強引な手法で言葉を置き換えているのはこちらなのか、と勘違いしてしまいそうです。

PSE法、私の仕事館、グリーンピア、高年齢者雇用安定助成金(関連事業も含め約70億円の予算の99%が余ったが、今年度は予算を84億円に増やした。)等、お役人や公務員は、無駄なモノを必要なモノに見せかける文章力が凄い。白を黒にするのも朝飯前ですね。

まあ、いくら「完全に無駄」なものを美辞麗句で「必要なもの」に見せかけても、無駄は無駄なんですけどね。

http://www.asahi.com/articles/ASG6G5FP3G6GULFA005.html

投稿: あゆ | 2014年6月18日 (水) 08時52分

> 2014年6月18日 (水) 00時24分

上記の投稿は以前に投稿された、勤続20年超氏と思われるので、コメントします。

>印象操作であるとか、すり替え云々という話はいたずらに本質的論議をかく乱、混乱させるだけだと思います。
>集団的自衛権賛成の論陣を張るのなら、まずは集団的自衛権に関して、「普通に戦争が出来る国」という意味以外の積極的で有意義な意味づけをすれば良いだけです。

すでに、あゆ氏が指摘していますが、意味づけする必要がありません。

かつて福田政権時代に、「後期高齢者医療制度」を「姥捨て山制度」と名付け非難して
いました。その後、民主党政権時代を経て、現在も制度は存在します。
このような行為は意味があったのでしょうか?
あなた方の手法はこうです。

「集団的自衛権」= 「普通に戦争できる国」 ⇒ 「戦争反対」

このような流れにしたいだけですね。このような印象操作をすればするほど
議論の本質からそれてしまいます。
集団的自衛権の行使拡大により、紛争や戦争に巻き込まれるとの主張は
かまいません。しかし言葉を置き換える行為こそ、議論の本質から外し
混乱やかく乱させる行為です。

>しかし私は、これも繰り返しで恐縮ですが、先に書いたとおり「集団的自衛権の行使拡大によって、これまで「自衛」に縛られていた日本が、自衛の範囲を超えて戦争をする、あるいは巻き込まれる可能性が拡大することは間違いないと思います。集団的自衛権に反対する私達はそのことが危険ではないか、平和憲法を踏みにじることにならないかと懸念しているわけです。」

主張として良く理解できます。

>いずれにしても、その前提は集団的自衛権行使拡大=「普通に戦争が出来る国」という規定です。

あなた方が規定するのは自由ですが、それを他者に当てはめては困ります。
他者と意見を交えるならば、あなた方の規定ではなく、元々の言葉で
議論すべきではないでしょうか。
私は、なぜ集団的自衛権が必要か不要か、自衛権とは何か、憲法は今後どのように
あるべきか、それらを知りたいと思い、また議論を望みます。

投稿: nagi | 2014年6月18日 (水) 10時11分

>勤続20年超氏

集団自衛権への反対意見はわかりましたが、日本をより平和にする対案
はお持ちですか?お持ちであればご教示頂きたい。

※個別自衛権(1国平和主義)で平和を保てるという安心材料・現実解
(実現できないベストでなく実現可能なベター)を示して欲しいです。


補足:印象操作について
集団自衛権について「日本が自衛の範囲を超えて戦争をする」デメリット
のみを主張されて真実といわれていますが、当然メリット=本来の目的は
「日本の自衛に他国を巻き込むこと」でしょう。
そのことに言及せず、かつ不用意に戦争という表現に置き換えていること
から印象操作と判断しています。


投稿: たろう | 2014年6月18日 (水) 21時15分

>凄いなぁ。「集団的自衛権」を勝手に別の言葉で置き換えて、それが嫌ならあゆさんやnagiさん
>すでに、あゆ氏が指摘していますが、意味づけする必要がありません。(nagiさん)


何故でしょうか?集団的自衛権に関して賛否を問うのに、集団的自衛権とは何か、という問いへの答え、意味付けは当然必要です。


>あなた方が規定するのは自由ですが、それを他者に当てはめては困ります。他者と意見を交えるならば、あなた方の規定ではなく、元々の言葉で議論すべきではないでしょうか。


では、集団的自衛権の「元々の言葉」とはどういうものですか。

私は、あゆさんやnagiさんのおっしゃっていることの中身を突き詰めると、集団的自衛権とは何か、という問いに対して、「集団的自衛権とは集団的自衛権だ」という無意味なお話をされる形となると思います。

とはいえ、あゆさんやnagiさんも「集団的自衛権とは何か」との問いに対して、まさか「集団的自衛権とは集団的自衛権だ」などという無意味な回答をされることはないでしょう。そう思うからこそ、あゆさんやnagiさんによる「意味づけ」が大事なのでは、とお伝えしています。同時にその意味付けこそが、集団的自衛権とは何か、そして賛否に関する本質的論議となります。

私は集団的自衛権の行使拡大とは普通に戦争をできる国となることと規定しています。そしてそれは私だけではなく、この論議に参加している方の多くが共有している認識です。繰り返しませんが、右派の田母神氏の発言であり、集団的自衛権に反対している作家の高村薫さんの発言です。さらに今日も毎日の夕刊を読んでいて、毎日新聞編集委員の与良正男氏も集団的自衛権を取り上げたコラムで「本質は「戦争をできるようにする」という話なのである。」と書いています。ですから、集団的自衛権の行使拡大=普通に戦争ができる国という規定は、「あなた方が規定」というより、巷間に流布している一般的規定というほうが事実です。まして、自治労特有の「すり替え」「印象操作」などというのは、根拠なき誹謗中傷のようなものではないでしょうか?


私は自分の考えを述べているだけですから、「それを他者に当てはめては困ります」というお話にも違和感があります。そんなことはしていません。「集団的自衛権とは集団的自衛権だ」という意味付けは無意味である以上、問われているのは、あゆさんやnagiさんの「意味づけ」なのです。それについてご意見を述べればいいだけの話で、それこそあゆさんやnagiさんの自由ではないですか?


>私は、なぜ集団的自衛権が必要か不要か、自衛権とは何か、憲法は今後どのようにあるべきか、それらを知りたいと思い、また議論を望みます。


同感です。ですから、もはや「すり替え」や「印象操作」なる的外れなお話は終わりにしたほうがいいと思います。

さて、では、集団的自衛権の具体的問題点に関しては、真に勝手ですが、シグ忘れさんの発言を素材にさせていだきます。


>武力を背景に自分の都合をゴリ押ししてくる国がある。


これは趣旨としては侵略戦争を想定していると思われます。そうであるなら、当然個別的自衛権により対応可能なのであって、集団的自衛権の論議において、賛成をする根拠とはならないと思います。また、国連憲章において侵略戦争は否定されています。明白な侵略行為には国際社会が味方になってくれることも想定できます。


>相手の国は拒否権を持つ常任理事国なのですから。


これは尖閣での領土問題をイメージして中国を敵国と想定しているのでしょうか?しかし、集団的自衛権の問題とはアメリカが第三国と戦うに当たって、日本に対する侵害がなくても日本がアメリカを支援することが第一に想定されています。現実的想定として、アメリカと中国が戦争を行うことが考えられるでしょうか?私は非現実的だと思います。


今論議されていることの本質は、日本に対する実質的な侵害がなくても、アメリカを支援して戦争をするかどうか、結果的に戦争に巻き込まれることを良しとするかという問題だと理解しています。そして、それが日本の国益になるのか、ということです。


私はアメリカと一緒に日本の主権の範囲外で戦争をすることは日本の国益にはならないと考えます。


>力を合わせて交渉力を持とうすることを


集団的自衛権行使拡大と外交交渉力の問題とは次元が異なると思います。アメリカと共に戦争に参加することが集団的自衛権の本質なのに、どうして一般的な外交交渉力の話にすり替わるのでしょうか?例えば、中東での紛争において、アメリカと集団的自衛権を行使して戦争に参加するとして、どんな外交交渉力を発揮するのでしょうか?おそらく、敵国を中国と想定しているから、そのような論法になると思いますが、しかし集団的自衛権行使拡大の本質はアメリカと一緒に戦争をするということであって、敵国がどこなのかは想定されていないと思います。


>個々の労働者では、その強大な力に対して対等な交渉が出来ないから労働組合というもので、力を合わせて対等な交渉に持ち込む。こちらは、自治労の方々は当然の権利と主張し、あまつさえ組織内議員などを擁立までして、理事者側に干渉しようとまでしている。私には、これら二つの考え方に違いを感じることは出来ません。ほんとダブルスタンダードにしか思えないです。さてさて、集団的自衛権を否定するなら、労働組合も解散して、個別の労働者ごとの交渉にするべきでしょう。


労使交渉や争議と集団的自衛権とは次元が違います。労働組合は社会的組織であって、国家対国家に関する集団的自衛権とは次元が異なる存在です。単純に比較することは無意味です。ですから、ダブルスタンダードではありません。例えば、目上の人に敬語を使うことをダブルスタンダードとは言わないし、一般に大事なことには慎重に対処することもダブルスタンダードとは言いません。国家による殺人行為としての戦争は合法となりえますが、個々の人間の間のそれは犯罪となります。しかし、一般にこれもダブルスタンダードとは言いません。次元の異なることについて、いくら似ている要素があるからといって、ダブルスタンダードだという批判は的外れだと思います。


以上のように、私は集団的自衛権行使拡大という必要性について、全く納得がいきません。個別的自衛権で対処可能な点もあるでしょうし、非現実的な想定を前提として、アメリカの支援のために普通に戦争に巻き込まれては、一国民としてはたまったものではない、と思っています。

投稿: 勤続20年超 | 2014年6月18日 (水) 22時50分

↑ コメントの順番を入れ替えての印象操作、お疲れ様です。
  印象操作の効果を高めるために要素省略もお見事です。
  扇動は手馴れたものということでしょうか。


ちなみに考え方に次元(事の大小)など関係ありません。
筋の通った考え方が出来ているかが問題となると考えます。
自分の都合のみで二重基準で物事を語る人間は信用するに値しない。

これは過去も今も変わりの無いことです。
だから、組合のやり様はいつまでも大勢になれないのでしょう。

投稿: シグ忘れ | 2014年6月18日 (水) 23時58分

いちおう説明だけはしておきます。

労使交渉の例を出したのは、
対等な力関係がなければ交渉は成立しないということを
組合の関係者(及びそれを支持する者)は、
正確に理解しているということの証明です。

しかしながら、
組合の関係者(及びそれを支持する者)は、
対応な力関係(軍事力や経済力)がなくても
地域紛争等も含めて外交問題は交渉で解決できるとしています。

この詭弁は、ダブルスタンダードではないとは言えない筈ですよ。


つまり交渉で解決する為にも、対等な力を持つことは不可欠であり、
その一つの手段が集団的自衛権なのでしょう。

よって集団的自衛権は対等な力関係を築くものであり、
「諸課題を交渉によって解決する為のもの」と定義すべきと思います。

投稿: シグ忘れ | 2014年6月19日 (木) 00時19分

 長文かつ美文でも肝心なことには触れないですね。
 ・「普通に戦争ができる国」は、「集団的自衛権」と比較すると、「宣戦布告や先制攻撃」よりも概念的に近くなっている。
 ・「集団的自衛権」を「普通に戦争ができる国」と言い換えることで、このような「言葉の力」で印象操作している。
 ・利休鼠をドブネズミ色と言い換えても良いのか。
 何か、徒競走で自分のスタートラインだけゴールに近くずらしておいて、「まずは走らなきゃ」と演説されてる気分。

投稿: | 2014年6月19日 (木) 08時59分

あ、上の投稿は私です。
徒労感で名前書くの忘れてしまいました。

投稿: あゆ | 2014年6月19日 (木) 09時01分

なるほど、言葉が伝わらないとOTSU氏が悩まれるのが、ようやく少し
理解できました。

>勤続20年超氏

過去の私のコメントを全て見て下さいと言えないので、簡単に説明します。
私は、集団的自衛権推進派ではありません。自衛権を集団と個別を分ける
必要性がないと考えているので、自衛隊が憲法に違反するならば、
現状に則した憲法に改憲すべきと考えています。

言葉のすり替えについて、簡単な例えをしますと、今日の会議は日本語で
会話して下さいと宣言しました。しかし出席者の一人が、日本語では本質が
説明できないから、英語で会話しました。単純に日本語でのみ会話して下さいと
再びお願いしました。
勤続20年超氏の文言から引用します。

>集団的自衛権行使拡大と外交交渉力の問題とは次元が異なると思います。アメリカと共に戦争に参加することが集団的自衛権の本質なのに、どうして一般的な外交交渉力の話にすり替わるのでしょうか?

これを、「集団的自衛権」=「普通に戦争できる国」理論ですり替えます。

>普通に戦争できる国行使拡大と外交交渉力の問題とは次元が異なると思います。アメリカと共に戦争に参加することが普通に戦争できる国の本質なのに、どうして一般的な外交交渉力の話にすり替わるのでしょうか?

どうでしょうか? 文言の意味合いがおかしくなりませんか。表現の問題にすぎないの
ですが、言葉を変えてしまうと、議論がゆがんでしまう可能性があります。
本質や意味づけをするのは自由ですが、その前提として、議論ベースでは
元の言葉を使わないと、よく理解してない人が考える際に、思考を誘導する
ことになります。

>集団的自衛権とは集団的自衛権だ」という意味付けは無意味である以上

意味付けでは無意味ですが、説明上の言葉として正しいので問題はありません。

私は本質や定義の話をしてるのではなく、議論におけるルールの話をしています。
これで伝わりましたか?

本質や定義について説明しない理由は冒頭のとおりです。

投稿: nagi | 2014年6月19日 (木) 09時24分

追加です。

この集団的自衛権に関するおもな論点は二つです。
 ① 集団的自衛権により他国に対する抑止力となるか
 ② 集団的自衛権により他国(おもにアメリカ)の戦争に巻き込まれるか。

①について、反対派がよく言う、
>国連憲章において侵略戦争は否定されています。明白な侵略行為には国際社会が味方になってくれることも想定できます。
国連は第二次世界大戦戦勝国が自分たちの既得権を不平等のまま維持するのが
目的です。だから新興国が常任理事国を増やせと主張しても却下します。
非常に不平等で不公正な現状です。
さらに、人権を重視する欧州でも、自国の経済的利益を優先するのははっきり
しています。
だから、明白な侵略行為があっても、国際社会が味方になることは想定できにくいです。
現在、あちこちで紛争がありますが、国連は機能していますか?

このような現況を考え、同盟国同士で抑止力を高めるのは利益があると判断します。

②について、集団的自衛権は権利であり義務ではありません。よって紛争に参加するか
どうかは日本が決めるので、世界中で戦争をするとの考えには賛同できません。
また過去に日米安保条約の時も、そのような論がありましたが、事実として
そうならなかったので、ないと言えます。
もっとも、日米の関係性で見ると、紛争に参加すること強く求められることも予測
できるので、巻き込まれ論を全部は否定できません。不利益が存在します。

①と②を足し合わせて、利益がまさると判断しますね。

投稿: nagi | 2014年6月19日 (木) 09時47分

要するに、9条をどのように読んでいくかという「程度問題」を「政権」が行っているということなんです。
肝心なところを「程度問題」にしてしまっていることが、ことを大きくさせていると思います。
他の政党に政権が移れば9条の読み方も変わってしまう。
右にも左にもです。

今、現政権がやっていることは、どのへんまでなら許せるかチャレンジ!しているということです。
その議論を、国民にふっかけてもしかたがないんです。
なんだか、かつてのPKOの論争しかり、消費税導入時の大混乱しかり。
どこまでなら大丈夫なんだろう?ということを、世間に問うている。

程度問題ということは、おのずとみなさんの意見が違ってきます。
違ってあたりまえなんです。
総論にも幅がでてくるにもかかわらず、各論の議論をしている。
総論は揺れっぱなし。
それじゃ、まとまりっこないんです。

まず、集団的自衛権について、そもそも日本はどういったポジションであるべきなのか。
そこが抜け落ちていると思います。総論とも言うし、理念とも言うでしょうね。
そこさえ固定させれば、あとはキメの問題です。

投稿: でりしゃすぱんだ | 2014年6月19日 (木) 15時54分

勤続20年超さん

>アメリカと共に戦争に参加することが集団的自衛権の本質なのに

何を根拠に、これが本質であると言い切れるのか教えてください。

もちろん、今後そういう場面も有り得ることは否定しません。
でも、日本はそんなに好戦的な民族なんですか?

こういう例題はどうでしょうか。

ある村が大雨の影響で、川の堤防が決壊する恐れが出てきました。
このままだと、村は濁流に呑み込まれて壊滅してしまうかもしれません。

そこで、村の男達が集まって、危険を承知の上に命を惜しむことなく、堤防を守るため土嚢を積み出しました。
しかし、村でも有力な資産家の家からは、誰も参加者が来てくれません。
村人達は資産家にお願いし行きました。
「村の一大事で一刻を争うときだ。どうか手伝って欲しい」

しかし、村の有力者はこう言いました。
「ウチは先祖からの家訓として、危険な事には関わらないという決まりがあるんだ」
「だから、悪いが危険な土嚢積みを手伝うことは出来ない。その代わり、道具やお金ならいくらでも出すから」

時には、例え戦争であっても世界の平和を守るために、危険であっても貢献をしなくてはいけない。
それは、先進国であり平和を愛する国として、別の面から見た責務であると言えませんか?

投稿: 下っ端 | 2014年6月19日 (木) 21時25分

>>勤続20年超氏

>集団自衛権への反対意見はわかりましたが、日本をより平和にする対案
>はお持ちですか?お持ちであればご教示頂きたい。

スルーでしたので管理人様と同様、所詮無策なのですね・・・残念

もっとも管理人様よりも危機意識はかなり薄いようですが


投稿: たろう | 2014年6月19日 (木) 23時02分

(シグ忘れさんへ)
>ちなみに考え方に次元(事の大小)など関係ありません。筋の通った考え方が出来ているかが問題となると考えます。
>労使交渉の例を出したのは、対等な力関係がなければ交渉は成立しないということを
組合の関係者(及びそれを支持する者)は、正確に理解しているということの証明です。


労使交渉・労働組合と集団的自衛権を同列に論じるのは、「筋が通」りません。

何故なら
①労使交渉が機能するには法的な基盤が必要です。法律を作るのは国家による裏付けが必要なのですから、「労働組合」は国家的枠内での法的社会的規範において初めて成立します。しかし、国家間関係はこうした一定の規制と強制力を伴う規範は弱いか、もしくはそもそも機能すら全くありません。

②国家間関係は各国が固有の利益即ち国益において対等な権利主体です。ここにおいて使用者(資本家)対一般的利益共同体としての労働組合的団結は成立し辛いと考えられます。実際、集団的自衛権では同盟関係としてアメリカに従属することも厭わない日本ですが、TPPではアメリカと鋭く利害が対立しています。

③ですから、国家間関係、外交関係では、労使対立のような単純な図式を考えるのは誤りだと思います。国益をめぐる外交問題に、対立の図式が単純明快でしかも法的社会的規範としての裁定主体(国、裁判所)が機能している労使交渉・労働組合を当てはめて論じることは、単純に誤りだと思います。簡単に言えば、アメリカの国益は日本の国益とは完全に同じではありません。本当にアメリカとの「団結」は可能なのですか。

④だからこそ、外交には国益をめぐる複雑で高度な叡智が必要なのであって、集団的自衛権という形でアメリカに従属することが、本当に国益か、問われているのはそこだと思います。

⑤従いまして、労働組合における団結を肯定するなら、集団的自衛権を支持するべきだとというご意見は単純な考え違いであり、論理の飛躍に過ぎないと思います。


>利休鼠をドブネズミ色と言い換えても良いのか。(あゆさん)


それが同じ意味なら、何の問題もありません。あだ名もよくある社会風習ですよね。文脈や場面で「言葉」の表現は可変的です。例えば、「ごみ箱」を「護美箱」と言い換えることも、よく見受けます。

しかし、そもそもご理解いただきたいのは、私は集団的自衛権を「利休鼠をドブネズミ色」というような形で、言い換えてはいません。集団的自衛権とは、普通に戦争が出来る国と意味が同じだと言ったに過ぎません。つまり、集団的自衛権という言葉は文脈において適切に、「言い変えず」に使用しています。私もOTSUさんも「集団的自衛権とは何か」という意味において、それを「普通に戦争が出来る国」という意味に解釈し、そのことに反対しているだけです。

これは事実です。

そして、私は、あゆさんにしてもnagiさんにしても、「すり替え」「印象操作」などという非難をすることは、その意味では単に事実を捻じ曲げているだけだと思っています。


>私は本質や定義の話をしてるのではなく、議論におけるルールの話をしています。


会議でも議論でも、何かの判断や賛否を考えるのに、対象である事柄の「本質や定義」を考えることなし、話が出来るのですか?「議論におけるルール」において、議題のテーマにおいての「本質や定義」はどうでもいいのですか? nagiさん、申し訳ありません。この問いにチャンと答えられますか?


正直、「すり替え」「印象操作」談義は集団的自衛権問題の本質とは関係ない無益な議論だと思いますが、根拠なき非難という点についてご理解いただきたいという一点で、野暮な話を長々としました。お詫びします。


>人権を重視する欧州でも、自国の経済的利益を優先するのははっきりしています。だから、明白な侵略行為があっても、国際社会が味方になることは想定できにくいです。現在、あちこちで紛争がありますが、国連は機能していますか?
>このような現況を考え、同盟国同士で抑止力を高めるのは利益があると判断します。


上記で私は外交とは国益のぶつかり合いだという趣旨を書きました。だから、「欧州でも、自国の経済的利益を優先するのははっきりしています」という指摘は理解できます。しかし、そうであるならば、「盟国同士で抑止力を高めるのは利益があると判断します」というのは、矛盾していませんか?アメリカは欧州とは何が違う、というのですか?

集団的自衛権論議において、アメリカは信用できるが、欧州は信用できない、というのなら、その根拠はなんなのですか?


>集団的自衛権は権利であり義務ではありません。よって紛争に参加するかどうかは日本が決めるので、世界中で戦争をするとの考えには賛同できません。


では、日米安保体制を含むアメリカ等との集団的自衛権論議において、相互に権利であって義務ではないなら、それはアメリカも同様でしょう。それならば、なんのために「そんなもの」が必要なのですが、義務でないなら、本当にアメリカは日本を助けてくれるのですか?


>利益がまさると判断しますね。


上記の論法を前提とするなら、仮に、中国との戦争があったとして、アメリカは助けてくれない可能性がある。しかし、アメリカが他国と戦争をするときには日本だけ進んで支援する。だとしたら、そういう考え方がそれは国益なのか否か。問われているのは、そういうことではないのですが、「備えあれば憂いなし」などというなら、そこまでの最悪の想定もしてほしいものです。

投稿: 勤続20年超 | 2014年6月19日 (木) 23時49分

自分の都合の良い結論を押し付ける為には、何でもありという方のようですね。
あなたは、その結論に導くために「すり替え」も「印象操作」もしていますよ。
少なくとも私は、そう感じています。


昨日、中越間で交渉がありましたが、解決する気のないアリバイ作りで、
越にとっては強盗の開き直りを聞かされたようなものです。

武力を背景とした現状の変更の試みは、対等な力関係を築けない限り、
これからも繰り返されるます。そして次第に既成事実化され、
越は領土や利権を失っていくことになるでしょう。


こういう相手をけん制する為に、集団的自衛権は有効な手段となり得る。
それは、相手からの現段階での反応をみても明らかです。

他に、地域均衡を保つ具体策があるのならば、聞いてみたいものです。

投稿: シグ忘れ | 2014年6月20日 (金) 01時22分

おはようございます。

>勤続20年超氏
>会議でも議論でも、何かの判断や賛否を考えるのに、対象である事柄の「本質や定義」を考えることなし、話が出来るのですか?「議論におけるルール」において、議題のテーマにおいての「本質や定義」はどうでもいいのですか?

もちろん、「本質や定義」は重要です。意見の異なる人どうしが議論するならば、
①集団的自衛権は普通に戦争できる国だ
②集団的自衛権は積極的平和主義だ

仮に①と②の主張をする両者が意見をぶつけて、それを聞く第三者はどのような
判断をするのでしょうか。恐らく、よく理解できない状態になると思います。
双方が答えありきで議論すれば、事象を掘り下げて検証できません。
だからこそ。〇〇は△△だ! と結論ありきでの議論は、結果を誘導するように
しか見えません。過去にいくらでもそのようなことがありました。
〇〇は△△だ! の△△に込められた意図のみが浸透し、議論が深まらない。
結果何も変わらない。それは双方にとって不利益ではないでしょうか。

>そうであるならば、「盟国同士で抑止力を高めるのは利益があると判断します」というのは、矛盾していませんか?アメリカは欧州とは何が違う、というのですか?

例えが悪かったですかね。人権を至上とする欧州ですら、理念より現世利益を追求する姿を
見たので、それを例示したのですが、特にアメリカと欧州で何かが変わるわけではありません、
ただ、欧州と日本は友好関係にありますが、日本はNATOに所属しません。軍事的に
関係があるのはアメリカです。日米同盟の観点から同盟国同士の抑止力を高めることは
利益があると言いました。わかりくい内容でしたね。すみません。

>では、日米安保体制を含むアメリカ等との集団的自衛権論議において、相互に権利であって義務ではないなら、それはアメリカも同様でしょう。それならば、なんのために「そんなもの」が必要なのですが、義務でないなら、本当にアメリカは日本を助けてくれるのですか?

必要性は、ひとつは抑止力、ふたつは国には国民を守る義務があり、それは国内に
留まるものではない。簡単な例で言うと海上輸送が生命線の日本にとって、その
安全性を担保するのは国益にかないます。

>本当にアメリカは日本を助けてくれるのですか?
わかりません。そればかりはわかりません。

反対派の方は、集団的自衛権行使によって、日本が米国の下請けになって
各地で戦争に付き合わされる懸念が反対理由ですか?
他の米国の同盟国でそのような事例はあるのですか。それが事実ならば
まさに日本は米国の植民地ですね。

日本の集団的自衛権を周辺国で反対してるのは、おもに中国です。
中国が反対する理由はなぜでしょうか? そこに重要なポイントがあると
思いますね。

投稿: nagi | 2014年6月20日 (金) 09時32分

>勤続20年超氏

今日は金曜日ですね。週末も仕事予定ですが、コメントを返せないかもしれないので、
改めてお礼を申し上げます。一週間お付合いいただきありがとうございました。

自分と立場も考え方も違う方と率直に意見交換できて、本当に勉強になります。

願わくば、今後も熱く率直に冷静に激しく意見交換できれば幸いです。

暑い日々が続きますが、体調に留意の上、平安にお過ごしください。

投稿: nagi | 2014年6月20日 (金) 13時57分

でりしゃすぱんださん、あゆさん、nagiさん、下っ端さん、勤続20年超さん、たろうさん、ためいきばかりさん、とーる2号さん、シグ忘れさん、コメントありがとうございました。

平日はブログに関わらなくなっているため、本来、私からも答えるべき論点について勤続20年超さんが矢面に立って対応いただいていました。幅広い視点からの意見交換に繋がることができ、たいへん有難く思っています。今回のコメント欄でのやり取りを受け、明日日曜に新規記事に集中する予定です。どのような言葉や表現を尽くせば、さらに建設的な議論に繋げられるのか、頭の中でアレコレ熟考しています。

また、とーる2号さんから久しぶりにコメントをお寄せいただきました。安全保障に対する基本的な考え方は必ずしも一致していない方からも「そこまで的外れなことを言っているように思えない」と述べていただき、少し安堵しています。集団的自衛権行使の是非や評価は個々人での温度差が大きいものと思っていますが、新規記事では私自身の問題意識が一人でも多くの皆さんと少しでも共有化できることを願いながら「言葉の競い合い」に努力していきます。ぜひ、引き続きご注目いただければ幸いですのでよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2014年6月21日 (土) 07時01分

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