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2014年6月29日 (日)

民主党に期待したいこと

先週日曜、最近の記事「市議選まであと1か月」「市議選まであとわずか」でお伝えしていたとおり私どもの自治体の議員選挙が行なわれました。定数28に対して34名の立候補があり、泡沫候補が皆無に近い激しい選挙戦の中、組合が推薦した候補者(民主党公認)は1,261票を得て、26位で当選することができました。この間、ご支援ご協力いただいた皆さん、改めてありがとうございました。

投票率は市議選史上最低の41.67%にとどまりました。昼頃まで強い雨が降っていた影響もあるようですが、前回の49.13%から大幅な低下となりました。このような低投票率の中、組合が推薦した候補者の得票は前回の1,997票から736票も減らしていました。ただ前回より得票を増やした候補者も多く、政党や会派で見た際、自民党(8名擁立7名当選)、共産党(5名全員当選)は前回よりも得票数を伸ばしています。

これまで1議席しか得たことがなかった生活者ネットワークは候補者を2名擁立し、共倒れの恐れがささやかれていました。それが二人合わせた得票数は3,162票で、みごと2名とも当選を果たすことができました。前回2名擁立し、二人とも及ばなかった社民党は今回1名に絞りながらも912票にとどまり、議席を得られませんでした。公明党は堅実に立候補者7名全員が当選していますが、得票数は前回の16,282票から2,046票減らし、14,236票となっています。

市議会議員選挙は有権者の顔が見える中での一票一票の積み重ねによって、結果が左右されるはずであり、あまり「風」には影響されないものと考えていました。しかし、今回の市議選の開票結果は予想を大きく裏切る数字を示していました。民主党系は7名の会派でしたが、今回、現職6名(内1名は無所属の推薦候補)に絞って選挙戦に臨んでいました。先ほど組合推薦候補が736票減らしたことを記しましたが、他の候補者5名の結果も次のとおり予想以上の落ち込みを見せていました。

I候補は前回2,781票から1,064票減らし1,717票、連合も推薦しているO候補は2,305票から748票減らし1,557票、M候補(無所属)は1,899票から258票減らし1,641票、U候補は1,649票から459票減らし1,190票、T候補に至っては1,729票から959票減らし770票で議席を得られませんでした。今回、立候補しなかった女性市議の前回の票は2,525票でしたので、民主党系の得票数は14,885票から6,749票も減らしたことになります。

民主党の支持率は低迷したままですが、これほどまで市議会選挙に影響を及ぼすことについて事前に見通せていませんでした。本来、労働組合など団体からの支援を受けている候補者は投票率の影響が少ないはずですが、連合推薦の2候補者とも前回の票から大きく後退していました。もともと組合の政治方針を組合員全体に共有化していくことが難しい時代になっていますが、ますますギャップが深まっていることを受けとめていく機会に繋げなければならないのかも知れません。

このような結果を受け、民主党内では来春の統一地方選挙をにらみ、野党再編代表交代の話がくすぶり続けていくのでしょうか。これまで民主党を中心とする政権が発足した直後には「新政権への期待と要望」「民主党との距離感」 という記事を投稿し、連合や自治労が民主党を応援しているからと言って当たり前なことですが、その構成員すべてが民主党を支持している訳ではなく、私自身も民主党の方針に全面的に従う必要性がある立場ではないことなどを記してきました。

その上で私どもの組合員の皆さんに対し、民主党への支持を強く訴えてきた責任者であることを重く受けとめながら、このブログで「民主党を応援する理由」「海江田代表に願うこと」「民主党との距離感、2013年春」など民主党に絡んだ内容の記事を数多く投稿してきました。このような話題を当ブログで取り上げること自体、批判の対象になる場合もありますが、広く発信していきたい一つの問題提起として今までと同様、個人的な思いを個人の責任で気ままに書き進めさせていただきます。

まず労使交渉を通して体感してきた思いがあります。立場や視点が異なる者同士、対等な立場で率直な議論を重ねていくことの重要性です。協議事項を多面的に検証することで、問題点を改められる機会に繋がります。経営者側の目線だけでは見落としがちとなる点、もしくは働く側にとってアンフェアな提案に対し、労使交渉という手順を踏むことで、より望ましい修正や改善がはかれるようになります。

このような仕組みは政治の場でも同様に求められているものと考えています。例えば労働法制の見直しの問題では、あまりにも経営者側の視点に偏ったまま進められていくことを危惧しています。他にも具体例をあげれば切りがないほど政府与党が示す法案等に対し、視点を変えれば問題が大きい場合もあります。見方を変えれば、民主党政権の時も同様な問題があったろうと思います。物事の是非に対して絶対的な「正解」は簡単に見出せないものと考えています。

だからこそチェック機能を効果的に働かせる仕組みが重要であり、より国会審議の場などで発揮して欲しいものと願っています。「決められない政治」が批判されていましたが、与党多数の結果、問題点が修正されないまま「決められていく政治」のほうが余程批判を受けるべき話だと思っています。現在の巨大与党に対し、チェック機能を充分働かせられないバラバラな弱小野党という構図になっています。さらに今後、総選挙の際、いつでも政権交代できる緊張感を持った2大政党制の必要性からも野党再編が取り沙汰されています。

先日、民主党の前原元代表は報道番組で大阪市の橋下市長との合流について「(確率は)100%だ」と言い切られていましたが、非常に強い違和感を抱いています。以前の記事「海江田代表に願うこと」の中でも綴ってきましたが、日本維新の会、みんなの党との選挙協力の問題などについて疑問視しています。「強い者を優遇し、もっともっと強くして、勝ち上がった一握りの大企業や大金持ちが日本経済を活性化させる」「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する」という競争を過度に重視した路線に異を唱えたのが民主党政権だったものと理解しています。

その点で見れば、日本維新の会、みんなの党は自民党よりも新自由主義の色彩が強いように感じています。加えて、労働組合との関係性をネガティブな「しがらみ」だと批判している点では結いの党も同様であるため、めざしている野党再編の動きには常に違和感が生じがちです。アメリカの民主党は一般的に中道からリベラルの立場の議員が所属し、労働組合が応援している政党です。イギリスの労働党は文字通り労働組合が支持基盤となっています。

いっそのこと労働組合との関係性をいっそう深めるべきと言うつもりはなく、せめて労働組合との関係性を決して負の側面だととらえず、逆に強みとし、そこを起点にした理念や政策の再構築を願っています。「働くことを軸として、安心できる社会を作っていく」という言葉は民主党と連合が共通認識に立っているものです。また、野田前首相は総選挙戦で「強い言葉で外交・安保を語る風潮が強まってきたが、極論の先に解決策はない」と訴えていましたが、民主党そのものの立ち位置を表した言葉だと思っています。このような立場性一つ取っても、今の自民党との対抗軸をしっかり打ち出していけるものと考えています。

そもそも自民党との対抗軸が曖昧なまま、野党の再編が進んでしまった場合、単なる与党の補完勢力にとどまり、前述したような視点や立場の相違からのチェック機能を充分働かせられない恐れもあります。もちろん野党だから「何でも反対」と言って欲しいという訳ではありません。もともと備えている民主党としての基本的な立ち位置、リベラルな色合いを持ちながらもイデオロギーが前面に出ない政党としての存在感を高めることで、おのずから自民党との対抗軸が浮き彫りになっていくように見ています。

付け加えれば、各選挙区には捲土重来を期している民主党の候補者が数多く控えています。そのような現状の中で進む野党再編やギブ&テークを求められる選挙協力について、どうしても懐疑的な思いが付きまといます。大きく後退した市議選の結果から書き進めているため、失笑されてしまうのかも知れませんが、明確な対抗軸の打ち出し方によっては改めて政権交代の受け皿になり得る潜在的な基盤や可能性があることを民主党には期待しています。

海江田代表は「団結した民主党が中心にいることが極めて重要だ。他党との共通項を広げる流れを作りたい」とし、民主党主導の再編に向けて党の結束を訴えられています。たいへん危機的な状況であることに間違いありませんが、支持率が低迷しているとは言え、5%前後のコアな支持者がいる政党であることも確かです。ぜひ、このような根強い期待感をはじめ、政権を担った経験や各選挙区に再起をめざす候補者がいるという心強さを自覚され、特に民主党国会議員の皆さんには一致結束して頑張って欲しいものと心から願っています。

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2014年6月22日 (日)

普通に戦争ができる国について

はじめに

前回の記事「言葉の力、言葉の難しさ Part2」では言葉が及ぼす影響力について書き連ねながら、基本的な視点や考え方が異なる場合、同じ言葉に接していても受け取る印象が大きく変わってしまうことなどを提起していました。少しの前の記事「言葉の力、言葉の難しさ」から始まった一つの問題提起だった訳ですが、一般論の話である一方、「普通に戦争ができる国」という具体的な言葉に注目が集まりがちでした。

もともと「言葉の力、言葉の難しさ」は記事を書き終えた後、「普通に戦争ができる国」というタイトルも選択肢として思い浮かんでいました。ただ個々人によって受け取る印象が、それこそ大きく分かれそうであり、記事タイトルそのものは抽象的なものにしていました。結果的にそのような配慮は、かえって不信感を募らせる恐れもあったようです。また、「集団的自衛権は集団的自衛権という言葉で議論すべき」であり、わざわざ「普通に戦争ができる国」という言葉にすり替えるべきではないというご意見が示されていました。

以前の記事「もう少し平和フォーラムについて」「平和フォーラム批判から思うこと」などを通し、あえて侮蔑した言葉を使わなくても平和フォーラムは「平和フォーラム」と呼んだ上で批判意見を展開して欲しいという「お願い」を重ねていました。そのため、固有名詞であるかどうかの問題ではなく、集団的自衛権を「普通に戦争ができる国」という言葉に置き換えることは特定の意図を潜り込ませることであり、公正な方法ではない、わざわざ言葉を変えて批判を受けることは本末転倒であり、堂々と集団的自衛権の何が問題で何が反対なのかを主張して欲しいというご指摘も受けていました。

コメント欄常連のnagiさんからのものであり、建設的な議論のためにも物議を醸しがちな言葉は使わないほうが良いという忠告の趣旨は理解しています。それにもかかわらず、今回の記事タイトルが「普通に戦争ができる国について」であり、馬耳東風や無力感など不誠実な印象を与えてしまうのではないか心配しています。確かに本質的な論点から離れた言葉の問題で議論が平行線をたどるようであれば不毛な話であり、貴重な時間の浪費だと思います。

しかし、「普通に戦争ができる国」という言葉を巡る議論は決して単なる言葉使いの問題にとどまらず、集団的自衛権行使の問題の本質に繋がる事例だと考えています。加えて、私自身が説明や主張している内容に対し、必ずしも正確な理解を得られない中で批判を受けているような悩ましさを引きずっていました。このような思いが残っていたため、今回、改めて記事タイトルを「普通に戦争ができる国について」とし、真正面から私自身の問題意識や考え方などを綴らせていただくことにしました。

言葉使いの問題から本質的な論点として

まず言葉使いの誤解を解くことから始めます。先ほど紹介した以前の記事「もう少し平和フォーラムについて」の中で、「平和フォーラムは反日の組織だと思っている」と言われれば不本意ながらも仕方ありませんが、「売国反日フォーラム」という呼び方は誹謗中傷の類いだと考えています、このように記していました。あえて固有名詞を蔑称で呼ぶことと、個々人の評価や見方を反映した形容詞の使い方には大きな差異があるものと考えています。

つまり「普通に戦争ができる国」という評価や見方の問題と「売国反日フォーラム」という言葉の使い方には、たいへん恐縮ながら峻別すべき論点があるものと思っています。事例によって、使用する形容詞自体が誹謗中傷に当たる場合もあろうかと思いますが、最近投稿している複数の記事の中で説明しているとおり「普通に戦争ができる国」という言葉は、個々人の評価やとらえ方の是非に繋がる言葉だと考えています。そもそも「普通に戦争ができる国」という言葉を脈絡なく使っていた訳ではなく、その言葉に至る私自身の問題意識を添えた上で多用してきたつもりです。

一期一会」の心構えも大事にしているため、改めて説明を加えさせていただきます。国連憲章によって外交の延長線上として宣戦布告さえすれば合法だった戦争が、第2次世界大戦後は国際社会の中で原則禁止されています。例外として、自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の戦争だけを合法としています。集団的自衛権は前者に当たり、同盟国などが武力攻撃を受けた際に共同で対処できるものです。後者は集団安全保障と呼ばれ、国連の枠組みで武力攻撃を行なった国を制裁する仕組みです。ちなみに国連安全保障理事会が「平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」に限って、国連憲章第51条で集団的自衛権の行使を認めています。

ご存じのとおり日本国憲法は国際社会の中では異質なものに位置付けられます。これまで専守防衛、個別的自衛権に限って武力行使ができる「特別さ」を守り続けてきました。この「特別さ」があるため、ベトナムやイラク戦争などに直接参戦することなく、結果的に戦後一度も戦争しない国として過ごすことができています。あゆさんから「普通に戦争ができる国」は「宣戦布告や先制攻撃」と概念的に近くなるというご指摘を受けています。前述したとおり現在「宣戦布告や先制攻撃」は認められていないため、あゆさんの思い描いていた「普通」と私自身の描く「普通」には大きな差異があったようです。

そのコメントが寄せられた際、あゆさんから利休鼠(りきゅうねずみ)の色をドブネズミ色と表現した場合の不適切さが訴えられていました。わずかに緑色を帯びた鼠色が「利休鼠」と電子辞書には書かれています。例示された二つの色がまったく別なものであれば置き換えは問題なのかも知れませんが、語感の問題としてドブネズミ色を利休鼠色と表現することはありがちだろうと思います。そのため、あゆさんが例示された会話で言えば、利休鼠色と表現している方に対し、わざわざドブネズミ色だと指摘するような場面を思い浮かべることはできません。

いずれにしても二つの事象に相似性がなく、強引な結び付け方であれば、意図的で不公正な言葉の置き換えであり、いろいろ批判や問題が生じるのかも知れません。この間、「普通に戦争ができる国」という言葉に対し、あゆさんらが違和感を抱かれたことは確かですが、私自身の問題意識の中では違和感がないという関係性だろうと見ています。言葉が与える力、影響力を重視していますので意図的に多用していることも間違いありません。その上で改めて詳述していきますが、集団的自衛権の行使に踏み出すことは「普通に戦争ができる国」をめざすのかどうかであり、この流れの中で使っている言葉が不公正な置き換えだと考えていないことを強調させていただきます。

たいへん有難いことにnagiさんから珍しく(?)分かりやすい記事内容だったと評価していただいた「もう少し集団的自衛権の話 Part2」の中で、箇条書きの1番目に政府の憲法解釈に長年携わってきた阪田雅裕元内閣法制局長官の言葉を紹介していました。「集団的自衛権の行使が許されることは今の国際法で許される戦争がすべてできることになり、9条をどう読んでも導けない、文章の理解の範疇を超えているものは解釈ではなく、無視と言うべきものではないか」という言葉です。

その後に、私自身も憲法第9条の解釈は個別的自衛権の行使までが限界と考え、集団的自衛権の行使まで容認することは日本国憲法の平和主義を捨て去る局面だと考えていることを書き添えていました。あくまでも日本国憲法の「特別さ」に対比した「普通の国」という表現の仕方であり、まして「普通に」という言葉に「気軽に」という意味はまったく含まれていません。現在の国際社会で認められた戦争の定義に沿って「普通の国」という言葉を使っています。

集団的自衛権の行使に関しても限定的な歯止めをかけるのであれば、まだまだ「普通に戦争ができる国」とは程遠いのではないか、そのような見方もあろうかと思います。このあたりについても「もう少し集団的自衛権の話 Part2」の中で私自身の問題意識を掲げさせていただいています。閲覧されている皆さんが必ずしもリンク先をご覧になっていただけるものではありませんので、改めて要点について少し書き進めてみます。これまでの日本の「特別さ」を重視し、今後も個別的自衛権の範囲を大前提に国会での審議を尽くし、現状における不備な点を改めていくのであれば、それはそれで情勢の変化に対応した政治判断だろうと思っています。

しかし、安倍首相や自民党のめざすべき先は自衛軍であり、国際的には異質な憲法第9条の「特別さ」を削ぎ、「普通の国」になることだろうと見ています。慎重姿勢の公明党や世論の風向きを意識し、安倍首相は集団的自衛権に対して「限定容認」の姿勢を打ち出したのかも知れませんが、「アリの一穴」を徐々に広げていく意図があるように見えて仕方ありません。さらに日本の行方を左右する重大な問題に際し、閣議決定で憲法の解釈を変えていく動きは論外だと強く憂慮しているところです。

続いて、労使関係と集団的自衛権の問題を同列視する意見が散見していることについて私自身の考え方を述べさせていただきます。労使交渉と人命の危機が表裏一体となる武力行使を同列視することに少し違和感もありますが、底意にある「助け合う」という趣旨の共通性は理解しています。その意味で「普通の国」である他国が集団的自衛権を行使することを否定するような発言は一度も記していないはずです。「特別な国」である日本の場合も個別的自衛権を否定せず、その延長線上に日米安全保障条約があることも認めているため、ダブルスタンダードという批判は短絡的すぎるように感じています。

最適な「答え」を探る一助として

このブログを通し、これまで主張している問題意識は「憎しみの連鎖が戦争やテロを招くため、武力によって平和は築けない」という思いです。このように発言すると必ず他国の脅威に備える必要性が指摘されがちです。外交や安全保障の問題は本当に個々人で様々な見方があろうかと思います。絶対的な「正解」は簡単に見出せないのかも知れません。そうであれば、自分自身の「答え」からかけ離れた主張にも謙虚に耳を傾ける姿勢が大切であり、よりいっそう「言論の府」である国会はそのような場になって欲しいものと望んでいます。

このような小さなコミュニケーションの場も同様で、自分自身の「答え」に照らして理解できない、納得できない意見だったとしても、蔑みや侮蔑した言葉は控え、分かり合えなくても、いがみ合わない関係性を大事にしていければと願っています。これから書き進める内容も個々人での評価は分かれるのでしょうが、私自身が「なるほど」と感じている言葉の数々を紹介させていただきます。初めに東京新聞編集委員の半田滋さんの新著『日本は戦争をするのか-集団的自衛権と自衛隊』の中の記述の一部です。

中国との間にある尖閣諸島の問題は、事態がエスカレートすれば、日中間の紛争に広がるおそれはある。だが、中国がソ連、インド、ベトナムとの間で繰り返してきた国境紛争をみる限り、領有権争いが本格的な戦争に発展した例はない。米国が中国との争いごとに巻き込まれる事態を歓迎するはずがなく、米国の参入による紛争の拡大を心配する必要はないだろう。むしろ、問題なのは外交による解決の方法がまったく見えないことにある。

安倍首相は中国の軍事費が桁違いに増えていることを持って防衛費の増額を正当化しています。半田さんは、日本が中国と競い合って軍事費を増やしていく軍拡競争は地域情勢の不安定化に繋がると見ています。国民の不安を解消していくのが政治家の務めのはずですが、安倍首相は「わが国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と繰り返し、国民の不安を煽り、だから集団的自衛権の行使を容認しなければならないと声を張り上げているとも記しています。

豊富な取材経験をもとに中国や北朝鮮の脅威や情勢を分析し、その著書では自衛隊によるPKO活動や隊員の気質なども綴られていました。自衛隊がイラクに派遣されている時、当時の防衛相は現地の部隊訪問を計画しながら3回も出発当日にドタキャンしたというエピソードが紹介されていました。自分自身の身の安全だけは過剰に意識するような政治家が自衛隊員の皆さんの生命を直接左右するような権限を持っているという強烈な話だと感じました。

次に朝日新聞のインタビュー記事「力の論理を超えて」の中からいくつか紹介します。60年前に米国に渡り、歴史研究を続けているハーバード大学名誉教授の入江昭さんが国家単位で考える「現実主義」の限界を問題提起されていました。安倍政権下の日本を「自国中心的な見方に陥っている」とし、『美しい国』という言葉に象徴される国家中心の思考は、あまり現在の世界のあり方を知らないと評され、次のような言葉に繋げています。

最近の歴史学は大国間の関係、領土問題やパワーゲームだけに注目するのではなく、多国籍企業やNGO、宗教団体などの非国家的存在や、国境を超えた人間のつながりに重きを置いています。環境問題やテロリズムをはじめ、一つの国の内部では理解も解決もできない問題がほとんどだからです。

国益の衝突が世界を動かすという史観は一面的とし、中国の拡張主義に対して旧来の地政学な発想だと入江さんは話されています。「これだけモノと人とカネが国境を超えて動いているのに、領土という動かないものだけを重視するのは世界の潮流に逆行します」と語られ、中国との関係を次のようにとらえられています。

中国もまた変わらざるを得ません。国民すべてが中国政府の命令で動いているわけではないし、私の知る中国の研究者や留学生はみんな政府とは違う考えを持っている。日中、日韓の間にはシェア、共有できるものがたくさんあります。世界各国が運命を共有する方向に向かっているのに、『中国が侵略してくる』とだけ騒ぐのは、全体が見えていない証拠でしょう。領土だけに拘泥し、東アジア全体の状況を深刻化させているように見えます。

憲法9条は現実に合わないという声があり、安倍首相は集団的自衛権に踏み込もうとしている現状について、インタビュアーが問いかけたところ入江さんは「時代遅れなのは憲法9条ではなくて現実主義者の方でしょう。過去70年近く世界戦争は起きていないし、武力では国際問題は解決しないという考えに世界の大半が賛成している」と答えられ、次のようにお話を続けられていました。

集団的自衛権を行使する代わりに米国に守ってもらおうというもくろみも、まったく第2次世界大戦以前の考え方です。戦後日本が平和だったのは日米安保の核の傘のおかげか、9条のおかげか、という問いに簡単に答えは出ませんが、少なくとも日本自身が近隣に脅威を与えることはなかった。これは経済成長に必須の条件だったわけで、日本こそグローバル化の動きに沿っていた。いまや米国もオバマ大統領の下で軍備を縮小しようとしており、日本は世界の最先端を歩んできたのです。卑下したり自信喪失したりする必要はまったくない。それを今になって逆行させるというのは、日本の国益にもつながりません。

この記事の最後のほうでは「グローバル化した世界では、国家を超えたつながりやシェアが鍵だという考えは確かに理想論かもしれない。だが理想こそ、あるべき未来をたぐり寄せる。今年80歳になる歴史家のしなやかな知に学ぶことは多い」というインタビュアーの感想が添えられていました。たいへん長くなった今回の記事、一人ひとりの見方や評価は大きく枝分かれしていくものと思っています。当たり前なことであり、幅広い情報や考え方に触れ合うことで最適な「答え」を探る一助になれればと心から願っています。

最後に

このブログを続けている意義について改めて補足させていただきます。集団的自衛権の問題に限らず、私自身が正しいと信じている「答え」に対し、少しでも共感が広がることを望んでいます。当然、賛同される声には心強く思う一方、手厳しい批判の声には胸を痛める時も少なくありません。ブログをやめれば、もしくはコメント欄を閉じてしまえば、そのような瞬間から解放されます。しかし、以前の記事「私の一冊」でも記しているとおり批判意見自体、自分自身の「答え」を客観視する機会だと考えています。伝え方の問題なのか、こちらの「答え」そのものに誤りがあるのか、そのような羅針盤としての意義深さをいつも感じ取らせていただいています。

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2014年6月15日 (日)

言葉の力、言葉の難しさ Part2

サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会が開幕しました。W杯史上初めて前回大会決勝の顔合わせがグループリーグで再現され、前回王者のスペインがオランダに1対5で大敗を喫するという波乱の幕開けとなりました。4年に1回のW杯、ちょうど私どもの自治体の議員選挙の時期と重なります。その選挙は日曜日に告示されます。有権者14万5千人、定数28に対し、34名前後の立候補者が見込まれています。直近の記事として「市議選まであと1か月」「市議選まであとわずか」があり、その間に「言葉の力、言葉の難しさ」を投稿していました。

前回記事の冒頭ではコメント欄から距離を置き、記事本文に集中している現状について説明させていただきました。そのため、今回も最近の記事に寄せられていたコメントにお答えしながら、改めて「言葉の力、言葉の難しさ」について書き進めていくつもりです。前回記事の冒頭で「コメント欄には一切関わらないという方針であれば、それはそれで分かりやすい線引きなのかも知れません」と記しながらも、「一方通行とならない相互に交流できる機能の貴重さを感じているため、まったく関わらないという方針は今のところ自分の頭の中にはありません」と綴っていました。

その気持ちが揺れている訳ではありませんが、「組合の情宣活動の一環ということならば、意見を主張するだけで、反対意見が出そうなコメント欄はなくせばいい」というご意見が前回記事のコメント欄に寄せられていました。私自身のコメント欄での対応の不充分さから「高見の見物」をしているように見られ、「コメント欄で意見を開陳するということは、これは、悪く言えば、コメント欄諸氏に恥をかかすだけの罰ゲームのようにしか思えない」と非難され、「ブログ本文の書き込みが不足しているということです。猛省してほしい」という叱責を受けていました。

少し前から数多くのコメントを投稿くださっているでりしゃすぱんださんからのご意見でした。このブログを開設した目的は公務員やその組合の言い分を発信したい、同時に様々なご意見や批判の声も伺いたいと考え、最初の頃は「襟を正すべき点は正し、主張すべき点は主張する」という言葉を多用していました。組合の公式サイトの立ち上げが簡単ではなかったため、個人の責任で手っ取り早く開設できるブログを始めていました。このあたりは以前の記事「500回という大きな節目」や「私の一冊」などで詳述しています。

なお、このように以前の記事を紹介する手法が不誠実だと批判を受ける時があります。わざわざリンク先の記事まで読めないという指摘はその通りであり、私自身も「一期一会」の心構えをできる限り忘れないようにしています。とは言え、毎回同じような内容を記事本文に掲げられないため、あくまでも参考までに以前の記事を紹介しています。興味を持たれた方はリンク先で、もっと詳しい内容や説明に触れていただければ幸いなことだと考えているところです。

でりしゃすぱんださんのご意見に対し、単刀直入にお答えするならば「このスタイルを変える考えはありません」となります。「書き手の自分がピエロのように思えるんです」という印象を与えていることに対してはお詫びしなければなりません。「労組の立場で本文をお書きになるならば、きちんとした説明責任を果たしてほしい」という指摘に対しても、特に最近、コメント欄から距離を置き、さらに「一問一答」から離れているため、不充分さについて強く弁明できるものではありません。

このような距離の取り方やコメント投稿のサイクルになった経緯等については繰り返しませんが、私自身、このコメント欄の限界と可能性を踏まえ、これからも同じスタイルで続けていこうと考えています。おかげ様で今でも1日千件近くのアクセスがあり、その中には自治労本部や民主党国会議員関係者の方々が訪れている場合もあります。 このブログのコメント欄では「答え」を一つに絞ることを目的とせず、幅広い立場や視点から説得力のある主張や意見が交わさせることを願っています。

その「言葉の競い合い」を通し、閲覧されている皆さんが「なるほど」と感じられた時、それまでの考え方や実生活における行動パターンにも影響を与えていく可能性があることを信じています。その上で、コメント欄を最も注目している閲覧者が管理人である私自身で、主張する場の軸足が記事本文となっていますが、主張している内容がどのように受け取られ、どのように評価されるのかどうかは、コメント欄に投稿されるご意見の数々と基本的には対等な立場での「言葉の競い合い」だと考えています。

でりしゃすぱんださんの「コメント欄で議論しても、OTSUさんの胸に届かない」という言葉に継ぎ足し、nagi さんからは私の中に最初から「正しい」ことや「結果」が決まっているため、いくら何かを投げかけても「貴重な意見をいただきました」「これは決まりですから」という答えにとどまる見方が示されていました。もちろん私自身、正しいと信じている「答え」があり、そのことについてブログを通して発信しています。

これまで本当に多くの皆さんから数多くのコメントをお寄せいただいています。私自身の知識や認識の誤りを指摘いただいた場合、すぐ改める機会に繋がっていました。「なるほど」と感じながら徐々に思考パターンが変化していったケースもあります。その一方で、執拗に「変えるべき」という指摘や批判を受けながら、私自身の基本的な姿勢や考え方が変わらないケースも多数あります。そのような時、でりしゃすぱんださんやnagi さんらの言葉と同様、落胆や憤り、徒労感を示されるコメントに繋がっていました。

ただ立場を置き換えて考えていただければ幸いですが、私自身から見た時、自分なりの思いや言葉を懸命に訴え続けていながら、その主張や趣旨についてご理解いただけず、厳しい批判の言葉が返ってくる、非常に残念なことでした。どなたにも伝わるような言葉や表現を駆使できない私自身の力不足を棚に上げるものではありませんが、もともとの視点や考え方が異なる場合、同じ言葉に接していても受け取る印象が大きく変わってしまうことも留意しなければならないようです。

ここの管理人さんは人を騙すのが快感なんでしょうか。「集団的自衛権」という言葉を恣意的に「普通に戦争ができる国」と言い換えている記事で「言葉の力、言葉の難しさ」というタイトルをつけるなんて、狂気の沙汰としか思えません。「集団的自衛権」という言葉を使ってはいけない理由があるのでしょうか。

「集団的自衛権」の意味する範囲と「普通に戦争ができる国」との意味する範囲は違っており、管理人さんが敢えて「普通の戦争ができる国」と言い換えるのは、言葉の範囲を自分の都合の良いように改ざんし、その上で自分に有利に議論を進めようとする行為そのものです。そのうえで、もっともらしい理屈をいくらこねても、そんな卑しい行為から発せられる言葉が届くわけないでしょう。

>「普通に戦争ができる国」という言葉は決して思い込みや的外れな表現だとは考えていません。

あなたがそう思うのは勝手ですが、他人の使う「集団的自衛権」という言葉を「普通に戦争ができる国」という別の意味の言葉にすり替えるのはおやめ下さい。相手の「A」という発言を「B」という別の言葉に改変、ねつ造して批判や議論を行う人が公務員の要職に居座り続けることができるとは、他のまっとうな公務員にとって大きな迷惑です。

上記の指摘は、あゆさんから前回記事のコメント欄に寄せられたものです。本当に残念な批判の受け方です。集団的自衛権行使の是非について賛否があり、批判意見が寄せられることは覚悟しています。ただ集団的自衛権という言葉を使ってはいけないなどと一言も記した覚えはありません。言葉の範囲を都合の良いように改ざんという見方をはじめ、「そんな卑しい行為」「他のまっとうな公務員にとって大きな迷惑」という批判の仕方には強い違和感がありました。

たいへん長い記事になりつつありますが、少し集団的自衛権の問題についても書き進めてみます。日本の行方を左右する時節柄「憲法記念日に思うこと 2014」「もう少し集団的自衛権の話」「もう少し集団的自衛権の話 Part2」という記事を投稿してきました。それらの記事を通し、日本は個別的自衛権に限った「特別な国」であり続けるべきという主張を重ねていました。その「特別さ」を活用することで国際社会の中でのブランドイメージを高めていく道があり、実際にアフガニスタンでの武装解除等で効果を発揮してきた事例を紹介していました。

集団的自衛権まで踏み出すことは「普通の国」になることであり、要するに「普通に戦争ができる国」と同義語です。この表現が「すり替え」だと批判を受けること自体、逆に戦争という言葉を意図的に隠すような「すり替え」であるように感じています。集団的自衛権を行使できるようになっても戦争に直結するものではない、そのように考えられているため、「普通に戦争ができる国」という言葉を嫌悪されているのかも知れません。

念のため、私自身も「見直しイコール戦争」という短絡的な発想は持っていません。これまで自衛戦争のみ行使できた権利が、自国の防衛以外でも他の国と一緒に戦闘行動ができるという権利拡大の問題だととらえています。どのような結論に至るのか分かりませんが、戦争をしたいために集団的自衛権の問題が取り沙汰されているとも考えていません。及ぼす結果や可能性に関する評価は分かれるものと思いますが、しっかり自衛権を整えることで抑止力が高まり、戦争を避けられるという説明も一概に否定するものではありません。

国際社会の中で認められた権利を普通に行使できる国になるのかどうか、そのことを「普通に戦争ができる国」という言葉で表わしていますが、憲法の「特別さ」から踏み出すのであれば国民投票で是非を問うべき問題だと考えています。このような説明を加えていますが、きっと言葉が不足し、中国との関係なども含め、まだまだ補足しなければならないことが数多くあるはずです。いったん区切らせていただき、不充分な点は次回以降の記事本文で書き足していければと考えています。

最後に、nagiさんからミサイル攻撃に関する問いかけが寄せられていました。先送りになりがちですので、このタイミングで私からも一言答えさせていただきます。個別的自衛権の範囲として敵基地攻撃はあり得るはずですが、自衛に繋がらない場合の報復は「必要最小限度」の実力行使から離れるものと理解しています。「そうならないように外交を尽くすべきとの回答は不要です」という注文もありましたが、あえて言うまでもなく、人命の尊さを考えた時、そのような事態を避けるための外交努力が何よりも重要であることだけは強調させていただきます。

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2014年6月 8日 (日)

市議選まであとわずか

前回の記事「言葉の力、言葉の難しさ」のコメント欄では多面的な視点からのやり取りを拝見でき、たいへん貴重な機会となっていました。投稿者同士の意見交換、いわゆる掲示板的な使われ方を歓迎しています。一方で、私自身に対する直接的な問いかけもいくつか寄せられていました。ただ誠に恐縮ながら「コメント投稿数が1万件突破」「コメント欄の話、インデックス」などで再三説明してきていますが、私自身、コメント欄とは一定の距離を置くようになっています。

このブログを開設してから長い間、1日に1回以上、コメント投稿を続けていました。私自身への問いかけに対しては、できる限り素早く「一問一答」に努めていました。もともと日常生活に過度な負担をかけないよう当ブログの更新は週に1回とし、その作業も土曜か日曜に限っています。コメント欄への関わり方も、そのような点を意識し、2年前から徐々に距離を置くようになっていました。現在では記事更新のサイクルと同様、土曜か日曜のみに関わるようになっています。コメント欄には一切関わらないという方針であれば、それはそれで分かりやすい線引きなのかも知れません。

しかし、一方通行とならない相互に交流できる機能の貴重さを感じているため、まったく関わらないという方針は今のところ自分の頭の中にはありません。とは言え、このようなサイクルでは「一問一答」というきめ細かさからは離れがちとなり、特に難しい問いかけに対しては記事本文を通してお答えするように努めているため、たいへん残念なことに「都合の悪いことはいつも通りスルーですかね」と見られてしまう時があります。このような見られ方を意識しながら、土曜夜に投稿した私からのコメントでは「これから遅くとも日曜夜までに投稿する新規記事を通し、最近のコメント欄に寄せられていた内容のいくつかで私自身から補足すべき点などを綴らせていただくつもりです」と記していました。

前々回記事「市議選まであと1か月」のコメント欄に寄せられていた問いかけも含め、市議選に関わるものが複数目に付いていましたので、今回の記事タイトルのとおり告示日を来週日曜に控えた今、いろいろ思うことを書き進めさせていただきます。ある意味で一般論に繋がる問いかけが多く、直接的な質疑応答の形式とはせず、私自身の考え方や問題意識を添えていく内容とします。したがって、質問者のハンドルネームも示しませんが、このようなスタイルとなることをご理解ご容赦ください。

まず労働組合が選挙の取り組みを方針化している点についてですが、労使交渉を中心とした企業内の活動だけでは労働者の利益や地位向上に繋げられない場合があることを留意しなければなりません。そのため、歴史的にも国際的にも労働組合同士が手を取り合い、社会的・政治的な活動にも力を注いでいる経緯があります。その一つに最もストレートな活動として選挙に関わる取り組みが上げられます。「利益代表」という言葉はネガティブな印象を与えがちですが、「私たち働く者の代表を議会へ」というフレーズは頻繁に使っています。

このような位置付けは公務員組合も例外ではないものと考えています。一方で、今のような社会情勢の中で、政治的な活動を進めることで自分たちの待遇改善が大幅に進むとは思っていません。理不尽な改悪の動きが示される場合などに対し、最低限、毅然と当事者の声を届けられる政治的なパイプの必要性だけは常に意識しています。時には旗色を鮮明にすることでのマイナスも承知していますが、それ以上のプラスや意義を受けとめているところです。このような問題意識は国政でも、地方議会でも同様であり、とりわけ私たち市職員にとって最も身近で大事な選挙が6月22日に投票日を迎える市議会議員選挙となっています。

続いて、市議選に「脱原発依存」や「平和主義」という話題が出ることの違和感について補足させていただきます。言うまでもありませんか、私どもの組合が推薦している市議の掲げる政策は市政に関わる内容を柱としています。福祉や子育て支援策の充実を真っ先に訴える中で、理念的な立場も表明しています。「将来的には原発に依存しない社会をめざし、自然エネルギーを中心とした再生可能エネルギーの普及に努めます」「憲法の平和主義を発信していく市政をめざします」という記述も政策リーフレットに掲げています。

具体的な施策としては、太陽光発電システム設置時の補助金制度や砂川闘争資料コーナーの拡充などを市側に提言しています。ちなみに直接的には国政に関わる問題について、どのように考えているのか、他の候補者も同じように表明しているケースが多いようです。私自身、例え地方自治体の選挙だったとしても有権者の判断材料や選択肢の幅を広げていくため、各候補者は積極的に政治的な立場を明らかにしていくほうが望ましいように考えています。

政治的な立場の問題として、地元選出の衆院議員の長島昭久さんとの関係性を問うコメントが寄せられていました。少し意外だったことは最近の記事「もう少し集団的自衛権の話」「市議選まであと1か月」の中で、すでに集団的自衛権の問題に絡む長島さんの動きについて取り上げていました。残念ながら目にしていただけていないのか、目を通されていてもご自身の「答え」からかけ離れているため、私の説明では「答えていない」という見方に繋がってしまうのかも知れません。後者だった場合、平行線となる恐れがありますが、改めて私自身の考え方を説明させていただきます。

もともと私どもの組合の方針と長島さんの安全保障に関する考え方がすべて一致している訳ではありません。現在のような社会政治情勢の中、組合方針の大半が一致できる推薦議員は極めて限られ、大きな方向性が合致した上で、基本的な信頼関係が築けるかどうかが大事な時代になっているものと思っています。その上で、長島さんからは当ブログへ非常に丁寧なコメントをお寄せいただき、先日、直接お話を伺う機会もありました。ちょうど組合ニュース最新号で、長島さんとの関係性について組合員の皆さんにお伝えするタイミングでしたので、その内容を参考までに掲げさせていただきます。

推薦市議の政策ビジョン「いつまでも安心」では下記のような内容を掲げています。その中では「平和主義」「脱原発依存」の重要性を前面に出しています。日本国憲法の「平和主義」を大切にしたいという総論は同じでも、そのための手法や各論において個々人での考え方は枝分かれしがちです。地元選出の衆院議員の長島昭久さんとは集団的自衛権の問題で、各論に対する違いが生じています。長島さんは「個別的自衛権、集団的自衛権の別を問わず、自衛権は合理的に必要な範囲内(必要最小限度の範囲内)で行使すべき」とし、「解釈改憲ではなく自衛権の再定義」だととらえています。その上で行政解釈ではなく、国民の議論、理解を得ながら国会で徹底した議論を尽くし、立法を通した規定の必要性を訴えられています。

一方で、推薦市議は集団的自衛権に踏み出すことの問題性を強く認識している立場です。ただ原発の問題も同様ですが、各論の違いが生じた際、お互い自説の「正しさ」を声高に主張するだけでは溝が広がるだけだろうと考えています。違いは違いとして認め合って、信頼関係を維持した中で議論できる関係性が重要であるはずです。推薦市議と長島さんとの間でも率直な意見を交わし合える信頼関係があり、その信頼関係のもとにお二人それぞれが、より望ましい平和な社会をめざしているものと認識しています。ぜひ、このような関係性の重要さについてもご理解いただき、推薦市議に対するご支援ご協力をよろしくお願いします。

組合ニュースの原稿をそのまま引用していますが、市議の固有名詞だけは「推薦市議」に置き換えています。このあたりは「市議選まであと1か月」の中で触れたとおりの心構えからの線引きでした。いずれにしても上記の説明では納得できない方もいらっしゃるかも知れません。しかし、自分自身の信じている「答え」の正しさについて、立場や視点の異なる方々に対しても理解を広げていけるのかどうかが大事なことだろうと認識しています。この話の流れの中で、集団的自衛権の問題についても補足していくことを考えていました。

ただあまりにも長い記事となり、記事タイトルからも離れていきがちとなるため、そろそろ今回の記事は終わらせていただきます。したがって、安全保障の問題での問いかけに関しては、この記事ですべてカバーできませんでした。意図的にスルーしている訳ではなく、中途半端に触れないほうが望ましいものと判断しています。ちなみに前回記事のコメント欄で触れていましたが、半田滋さんの新著『日本は戦争をするのか-集団的自衛権と自衛隊』を読み進めていました。時機に合った内容が多く、機会があれば次回以降の記事の中で紹介しながら、積み残した問いかけにも対応していければと考えています。

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2014年6月 1日 (日)

言葉の力、言葉の難しさ

週に1回の更新間隔を定着させてから、まずブログの題材選びに苦労することはありません。特にコメント欄から距離を置くようになり、寄せられた問いかけに対して記事本文を通してお答えするようになっています。そのため、ますます新規記事の題材にすべき選択肢の幅が広がっています。今回も直近の記事「市議選まであと1か月」のコメント欄に寄せられたコメントの中で、私から補足しなければならないような論点がいくつか見受けられていました。

時事の話題で言えば「残業代ゼロ」「維新の分党」「日朝合意」など注目すべき動きが続いています。そのようなタイミングの中ですが、抽象的な記事タイトルのもとに書き進めさせていただきます。前回のコメント欄で気になった指摘に触発され、言葉の力や難しさについて掘り下げてみるつもりです。ちなみに以前の記事に「言葉の難しさ、言葉の大切さ」というものがありました。類似した論点にも繋がるはずですが、少し切り口が違った問題提起を想定しているため、記事タイトルを微妙に変えています。

以前の記事では、言葉の使い方一つで他者に与える意味合いや印象は大きく変わってしまい、言葉の使い方や文章の書き方の難しさを取り上げました。それでも言葉にしなければ自分自身の考えが他者に伝わることはなく、言葉の大切さも同時に提起していました。今回の記事では、言葉の使い方の難しさを踏まえながら、言葉の使い方一つで他者に与える印象や影響力が異なっていくことについて焦点を絞ってみるつもりです。

最近の記事「憲法記念日に思うこと 2014」「もう少し集団的自衛権の話」「もう少し集団的自衛権の話 Part2」を通し、制約のない集団的自衛権の行使も含め、いざという時に「普通に戦争ができる国」をめざしていることの是非が論点であることを綴っていました。この「普通に戦争ができる国」という言葉は、コメント欄常連のnagiさんからすれば「本当に他者を誤解させる、素晴らしいアジテーション」だと見られてしまうようでした。以前、別な方からも同じような指摘を受けたことがありました。

私自身、安倍首相が「戦前のような軍国主義をめざしている」「戦争をしたがっている」という批判は的外れな言葉だと思っています。安倍首相が「国民の生命や財産を守るため」「抑止力を高めることで戦争が防げる」と考え、ご自身の政治信条や使命感のもとに言葉を発せられているものと思っています。その言葉が示す方向性の是非や賛否は問われるべきものですが、思い込みやレッテルを貼った批判、まして誹謗中傷の類いとなるような言葉は慎むべきものと考えています。

権力者に辛辣な批判意見をぶつけられる社会は健全な姿で、耳目を集めるためには過激な言葉も時には必要であり、あまり遠慮する必要もないのかも知れません。しかし、安倍首相を過剰に揶揄した批判は、安倍首相の言動を支持されている方々まで不愉快にさせ、冷静な議論に入りづらくなる心配があります。このような問題意識やこだわりを持っているところですが、「普通に戦争ができる国」という言葉は決して思い込みや的外れな表現だとは考えていません。

「普通に戦争ができる国」という方向性の是非や評価は個々人で分かれるはずですので、その言葉を使う際、ことさら批判的なニュアンスを強めないようにしています。いずれにしても集団的自衛権の行使に踏み出すことは「普通の国」をめざすことであり、そのことを客観的にとらえた言葉が「普通に戦争ができる国」だと認識しています。ある報道番組の中で「自衛権で個別的、集団的と分けた議論など普通の国では考えられない」という識者の言葉を耳にしました。そもそも日本は特別な憲法のもと普通の国ではないため、違和感を覚えた場面でした。

私自身の安全保障の考え方は「もう少し集団的自衛権の話 Part2」の中で綴っていますが、第2次世界大戦後のドイツとフランスとの関係を例示するなど、他者の言い分にも耳を傾ける外交姿勢の大切さを訴えています。抑止力を高める重要性も否定しませんが、際限のない軍拡競争に繋がる発想だと考えています。そのため、これまで国際社会の中では数多くの軍縮条約が締結され、「囚人のジレンマ」からの脱却を模索しています。そのような意味合いで考えた時、専守防衛、個別的自衛権の行使しか認めないという歯止めをかけてきた日本国憲法は究極の軍縮の一形態であるようにとらえています。

言葉の力について掘り下げていますが、どうしても具体的な内容にも広がりがちです。ここで言葉に絞った論点に戻しますが、戦争をさせない1000人委員会による全国署名の取り組みがあります。実は「戦争をさせない」という言葉には、どうもシックリした印象を持つことができていません。前述したとおり安倍首相らが戦争をしたがっている訳ではないため、少し扇情的な言葉だと感じています。「戦争をさせない」も「普通に戦争ができる国」も五十歩百歩だと思われてしまうのかも知れませんが、私自身の中では明確な線引きがあります。

広く問うべき論点は「戦争をさせるのかどうか」ではなく、日本は「普通の国をめざすのかどうか」だろうと考えています。直近の記事を通して綴ってきた問題意識ですが、「普通の国ではなく、特別な国」だからこそ、国際社会の中で日本に期待される役回りがあります。そのようなポジションに誇りを持ち、積極的にアピールしていく道こそ、日本が進むべき方向性になることを願っています。神奈川新聞に掲載された内閣法制局長官だった阪田雅裕さんの「安全脅かす『他衛』権」という記事を弁護士の澤藤統一郎さんのブログ「憲法日記」で知りました。

A国とB国との間で、戦争が始まったとしたら、それぞれ自国の方が正しいと主張するだろう。日本は第三国の立ち場のままだったら、戦争をやめなさいと言えるが、A国とともにB国に対し集団的自衛権で武力を行使すれば、わが国は戦争当事国になり、B国が日本の領土を攻撃することが認められることになる。集団的自衛権の行使を容認すれば、むしろわが国、国民の安全を脅かす結果を招く可能性がある。たとえば、中国とアメリカが諍いを起こしたとする。

その場合、日本が中立を保って第三国の立ち場のままだったら、戦争をやめなさいと言える。しかし、米国とともに中国に対し集団的自衛権を行使すれば、日本は戦争当事国になり、中国から日本の全土を攻撃されることを覚悟しなければならない。集団的自衛権の行使を容認すれば、むしろわが国、国民の安全を脅かす結果を招く可能性がある。集団的自衛権の行使とは、「他国の戦争に巻き込まれる恐れ」ある行為ではなく、「他国の戦争に巻き込まれることを承知で、日本の全土が攻撃されるリスクを敢えて冒す」行為なのだ。

5月19日の記事「世論は集団的自衛権容認に与していない」から抜粋していますが、上記のような見方についても個々人での評価は枝分かれしていくはずです。中国脅威論が念頭にある方にとって、非現実的な発想だと思われるのかも知れません。ただ「自国のためではなく、中国のため」の発想であるような言葉に繋げられた場合、その言葉の力は失墜するものと見ています。いわゆる右、左の立場に関わらず、思い込みやレッテルを貼った言葉が先走るようでは建設的な議論から遠ざかってしまうように感じています。

おかげ様でnagiさんをはじめ、このブログのコメント欄常連の皆さんからは以上のような関係性についてご理解ご協力いただけているものと理解しています。それでも書き込まれた文章だけでのコミュニケーションとなるため、うまく真意が伝わらず、ギスギスした雰囲気に繋がる場合もあります。同じ言葉に接していても、個々人の基本的な視点や立場によって伝わる印象が大きく変わってしまうようです。そのような言葉の難しさを踏まえながらも、言葉が発していく力を信じ、これからも当ブログに向き合っていくつもりです。

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