久しぶりに同じ記事タイトルに「Part3」まで付け、「いがみ合わないことの大切さ」「いがみ合わないことの大切さ Part2」「いがみ合わないことの大切さ Part3」と続けてきました。それでも「次回以降の記事で」と予告していながら書き尽くせなかった宿題を残し、コメント欄に寄せられている声に対しても充分な対応がはかれていません。今回、このような経緯を踏まえ、いろいろ個人的に思うことを新規記事に書き連ねていくつもりです。書き始めていくと普段以上に長い記事になることが見込まれたため、久しぶりに小見出しも付けることにしました。
侮蔑した言葉だけは控えて欲しい
これまで平和フォーラムに対するnagiさんからの問いかけに応じて「平和フォーラムについて」「もう少し平和フォーラムについて」「再び、平和フォーラムについて」という記事を投稿してきました。私が答えられる範囲で答え続けてきたつもりであり、3回目の記事に関しては過去2回の内容の焼き直しのようになっていました。そのため、解決済みではない過去の記事を持ち出して「この話は解決済みですよ」と装おうとしているという批判まで受けていました。
端的に答えようとすれば、言葉が不足し、誤解を招く場合があります。一方で、長々と書くと何が言いたいのか、うまく要点が伝わらなくなる場合もあります。そもそも基本的な視点や立場を異にする方々と分かり合うことの難しさがあり、nagiさんをはじめ、残念ながら複数の方が私の「答え」に納得いただけていない関係性もやむを得ないものと受けとめています。無責任な言葉だと思われないように注意しなければなりませんが、あくまでもいろいろな「答え」を認め合った場として皆さんとお付き合いしたいという心構えでした。
一昨年春頃から私自身のコメント欄参加を徐々に控え始め、人によって評価が大きく分かれがちな難しいテーマに関しては記事本文を通してお答えするように努めています。このような運営方針に変わってからもnagiさんから同じような論点(私からすればですが)に繋がる問いかけが繰り返されていたため、「十問一答」にとどまるレスの遅さについてご理解ご容赦を願ってきていました。なお、ここで強調しなければなりませんが、nagiさんの積極的なコメント欄の参加を歓迎し、控えて欲しいなどという気持ちは一切ありませんので誤解されないようよろしくお願いします。
そのような関係性の中で一つだけ気になることがありました。前回記事の中でも記したことですが、あえて侮蔑した言葉を使わなくても平和フォーラムは「平和フォーラム」と呼んだ上で批判意見を展開して欲しいというお願いでした。私どもの組合員の皆さんをはじめ、知り合いの方々からすれば当ブログは匿名での位置付けになっていません。もともと一人でも多くの方にご覧になって欲しいものと願い、積極的にPRしてきています。当然、その知り合いの中に平和フォーラムの関係者の皆さんも数多くいらっしゃいます。
そのような関係性からの「礼節」以前の問題として、そもそも意図的に揶揄した言葉使いは私自身も不愉快だったため、ブログの管理人の立場からも再三「お願い」を繰り返さざるを得ませんでした。それも通りすがりの方であれば逐一指摘していません。普段、たいへん理性的で穏やかなコメント投稿の多い常連のnagiさんに対してだったからこそ、くどいほど指摘を重ねていた経緯もあります。nagiさんからすれば平和フォーラムは別であり、どうしても組織名に「平和」という言葉を付けて呼ぶことはできない、というこだわりがあるようです。
しかし、罵ることを目的にしているのであれば仕方ありませんが、平和フォーラムの関係者の一人が運営するブログの場で、いろいろな問いかけや意見表明を行なうことが主な目的と考えている場合、最低限のマナーが求められるのではないでしょうか。例えば「支那」という言葉は概ね現在の中国にあたる地域を指す名称でしたが、戦後、差別語や蔑称に位置付けられるようになっていました。外務省次官通達まで出され、公的な場やマスコミでは一切使われなくなっています。
ただ今でも中国を「支那」と呼ぶ方が時々見受けられます。特に差別語ではないと思って使われている方、意図的に侮蔑した思いをこめて使われている方、様々なのかも知れません。いずれにしても蔑称だと分類された言葉を使うことは極力避けるべきものと考えています。中国人を前にして使った場合、間違いなく相手に不愉快な印象を与えてしまうはずです。最初から喧嘩したいのであれば仕方ありませんが、友好的、もしくはごく普通に付き合いたいのであれば言葉は選ぶべきものではないでしょうか。
当然、表現の自由、言論の自由があり、そのような侮蔑した言葉を使っただけで罰せられるものではありません。インターネット上は不特定多数の方々が閲覧できる公衆の場ですので、できれば注意して使うべき言葉が多数あるものと私自身は考えています。それでも当ブログ以外のサイトで侮蔑した言葉が飛び交っていたとしても、私自身は静観するだけの立場です。くどいようですが、あくまでも当ブログの管理人の立場から「侮蔑した言葉だけは控えて欲しい」という「お願い」を繰り返しています。
平和フォーラムからの言論統制?
今回の記事も「内容の真実性」より「手続きの適切性」を優先させているという指摘を受けてしまいがちな書き出しとなっています。3週続いた記事と今回記事の冒頭の内容にそのような意図は一切ありませんが、「言いたくない」ことがあるため、そのような「手続きの適切性」に争点を絞っているような見られ方は意外なものでした。前回記事のコメント欄では言論統制の問題にまで広げられてしまい、たいへん驚くべき話の展開でした。このような誤解は払拭しなければならないため、今回の記事本文を通して言葉を尽くしていくつもりです。
先ほど「端的に答えようとすれば、言葉が不足し、誤解を招く場合があります。一方で、長々と書くと何が言いたいのか、うまく要点が伝わらなくなる場合もあります」と記しましたが、今回、端的な言葉で少しでも誤解が解けるように努めていきます。詳しい背景や説明は過去の記事をご参照いただければと考え、馴染むのかどうか分かりませんが、一文が長くならないよう箇条書きにしてみました。
- まず平和フォーラムからの言論統制はありません。
- nagiさんからの問いかけへの対応の大半は記事本文に委ねていたため、侮蔑した言葉だけは控えて欲しいという「お願い」をコメント欄で重ねていました。
- 言いたくないこと、大っぴらに言うことで不利になるような認識もありません。
- そもそも私自身が答えられる範囲で、すでに平和フォーラムについて語ってきています。
- その中で、55年体制、東西冷戦の時代から連なっている運動のスタイルがあることも認めています。
- しかしながら一つの一つの事象に対し、抗議しないから「親○○」だという見方も一面的であることを釈明してきました。
- 最初から日本国内に存在している軍事基地に反対している方針が多いことも説明しています。
- 平和フォーラムの運動の進め方について、省みるべき点が多々あるものと考えています。
- 白紙から改めて運動方針を積み上げた場合、また違ったスタイルになる可能性を否定していません。
- 上記のような言葉一つ取っても、ブログ上で言葉は選んでいますが、私なりの問題意識を自由に発言してきています。
- 各論での個人的な問題意識を実際の場面で提起する時がありますが、私自身、平和フォーラムの総論的な方針を否定する立場ではありません。
- その上で、私自身の安全保障の考え方は「平和の話、インデックス」「荒地よりもお花畑」「荒地よりもお花畑 Part2」「現実の場面での選択肢として」「外交・安全保障のリアリズム」のとおりです。
普段、記事本文の中に文章として並べるものを単に箇条書きにした形となっています。読み返してみると端的過ぎて、かえって分かりづらくしている恐れもあります。ここからは普段のスタイルに戻り、もう少し思うことを書き進めてみます。戦後、アメリカの日本に対する情報戦略、日本人捕虜に対して中国や旧ソ連が洗脳を行なったことは事実として受けとめています。そのような情報戦の「成果」として、ある時期、ある場面での反戦平和運動が煽られた可能性についても全否定できるものではありません。
しかしながら現在、そのような洗脳のもとに平和フォーラムの運動を担っている方は私の知る範囲では皆無です。あくまでも日本国憲法や国連憲章に掲げられている平和主義を大事にするため、一国平和主義という批判を招かないため、どうすべきかという問題意識を持ちながら運動を進めている方々ばかりです。その考え方や進め方に対し、個々人での評価は大きく枝分かれし、強い批判にさらされる場合もあろうかと思います。それでも多様な考え方があり、それを表明し合え、認め合える社会こそ、健全であることが言うまでもありません。
ある程度私自身が責任持って答えられる平和フォーラムについて改めて説明していますが、何か危険で非民主的な組織であるような思い込みやレッテル貼りは前向きな議論の障壁の一つになるものと考えています。同様に最近、気になる言葉として「安倍首相は戦争をしたがっている」というような批判の仕方が目に付いています。ダボス会議で安倍首相が今の日中の緊張を第1次世界大戦前の英独と似た状況だと発言した際は、米誌タイムの見出しに「日本と中国は戦争になるのか」と掲げられてしまいました。
安倍首相も戦争を望んでいる訳ではないことを理解しているつもりです。したがって、安倍首相を「軍国主義者」と呼ぶような批判の仕方は、やはり思い込みやレッテル貼りの類いになるものと思っています。しかし、安倍首相なりの「平和主義」があり、安全保障面を整える努力を重ねているのでしょうが、「戦争が普通にできる国」をめざしていることも間違いないようです。さらに年末の靖国参拝をはじめ、結果的に近隣諸国との緊張関係を高めている事実も指摘しなければなりません。
「2013年末、気ままに雑談放談」の中でも記したことですが、物事には多面的な見方がある中、「自民党はダメ」という二項対立の発想では共感の輪が広がらないように感じています。安倍政権や自民党を支持されている方々にとって、「結論ありき」のような政権批判は不愉快な話だろうと思います。そのため、よりいっそう一つ一つの課題に対して「なぜなのか、どうすべきなのか」という丁寧な呼びかけが大事な試みだろうと考えています。このような問題意識があるため、このブログの場では視点や立場の違いを認め合いながら「私はこのように考える」という言葉の競い合いができることを願っています。その際、レッテル貼りや侮蔑した言葉は余計なものだと考えているところです。
お互いの視点や立場の違いを乗り越えて
冒頭でお伝えしたとおり非常に長い記事となっていますが、具体的な事例を示しながら、もう少し書き進めてみます。以前、コメント欄でnagiさんから「安重根」をどのように考えているのか、犯罪者なのか、平和に命を捧げた英雄なのか、という質問がありました。それに対し、私からは「安重根」に対する評価は国によって大きく異なり、日本人である私の立場ではテロリストとなります、とお答えしていました。最近、次の報道のとおり「安重根」の記念館を巡って新たな摩擦が生じていました。
菅義偉官房長官は20日午前の記者会見で、中国黒竜江省のハルビン駅で19日に「安重根義士記念館」の開館式が行われたことについて「極めて遺憾だ」と不快感を表明し、安重根については「わが国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだ」と述べた。複数の韓国メディアが報じた。安重根は朝鮮独立運動家で、初代韓国統監を務めた博文元首相を1909年にハルビン駅で射殺した。記念館は、韓国の朴槿恵大統領が中国側に記念碑を設置するよう求めたことがきっかけとなり、駅構内に開設された。
韓国メディアは、菅官房長官の発言を「妄言」と批判。歴史認識をめぐる問題で、日韓両国の感情的な争いが大きくなっていると報じた。中国と韓国の外務省は、菅長官の発言に反発。韓国外務省は論評を通じ「安義士は国際的に尊敬される英雄だ。日本は過去の過ちを悔い、謙虚な姿勢で歴史に直面しなければならない」と強調した。中国外務省は「安重根は中国人民から尊敬される抗日義士」と評価し、日本の抗議を受け入れられないとの立場を明らかにした。
韓国メディアは、菅氏の「テロリスト」発言に対し、韓国のインターネット上には「反省を知らない日本」、「侵略の罪を認めず神社を参拝することは、日本の将来の助けにならない」、「日本の未来はない」、「無知で破廉恥な日本」などの批判の声が寄せられていると紹介した。一部のメディアは、インターネット上ではサイバー戦争の様相を呈していると伝えた。【@niftyニュース2014年1月23日】
菅官房長官は「我が国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにはならないのではないか」と韓国政府を批判し、「随分と過剰反応だなと思う。私は従来の我が国の立場を淡々と述べただけだ」と苦言を呈していました。端的に言えば、私自身と菅官房長官の見方は一致している訳ですが、「評価は国によって大きく異なり」という現状認識の問題が難しい論点に繋がっていきます。
菅官房長官も「日本から見れば」という点を強調し、あえて「極めて遺憾だ」という言葉も付け加えず、「評価は国によって大きく異なるため、コメントする立場ではない」程度の受け流しでも良かったのではないでしょうか。それはそれで「テロリスト」という指摘自体に韓国からは抗議を受ける一方で、遺憾だという一言ぐらい添えなかった場合、日本国内の一部からは「弱腰」という批判の声が上がってしまうのかも知れません。
外交に関わる問題に際し、絶対的な「正解」は簡単に見出せません。根本的な視点や立場が違うからだと言えます。そもそも歴史観や世界観をはじめ、道徳や文化的な面での価値観なども国によって異なる場合も多々あります。そのような違いから生じる論点をもとに真正面からぶつかり合い、相手を非難し合うようでは、いがみ合う関係性に終始しがちです。だからこそ、違いは違いとして認め合いながら、お互いの視点や立場を乗り越えて知恵を出し合っていく関係性を築いていくことが重要だろうと思っています。
このように綴ると今の中国や韓国を念頭に置かれ、相手側の理不尽さを訴えられる場合が少なくありません。「これまでの日本は譲歩しすぎだ。安倍首相の対応は一切間違っていない」という批判を受ける場合もあります。また、中国や韓国側の立場を擁護するような主張に対し、「売国」というレッテルを貼られてしまうこともあります。それはそれで個々人の見方や考え方であり、それぞれの「答え」の正しさについて他者に対して「なるほど」と思わせるような言葉の競い合いができれば幸いなことです。
最後に都知事選について
本当に長い記事となりました。長くなったついでと言っては語弊があり、今回のテーマから少しそれてしまいますが、最後に東京都知事選挙についても触れさせていただきます。前回記事のコメント欄で、でりしゃすぱんださんから都知事選に対する見解を求める声が寄せられていました。実生活の場面でも前回記事を投稿した後、このブログをご覧になっている元上司の方から「都知事選の話題に触れて欲しかった」という要望を伺っていました。
昨年7月の参院選からインターネット選挙が解禁されています。それでも当ブログでは選挙告示後、候補者の固有名詞は出さないように注意しています。元上司の方にはそのような説明をさせていただきましたが、今回、特定の候補者名は出さない形で私どもの組合の対応を参考までに触れてみます。都知事選は1月23日に告示され、16名が立候補しています。来週日曜、2月9日が投開票日となっています。
ある候補者から支援の要請を受けた連合東京は政策協定を交わした上、その候補者の支援を決めました。一方で、連合東京と支持協力関係がある民主党は「組織的勝手連」として別な候補者の応援を決めています。このようなネジレは首長選において珍しいものではないようですが、全国から注目される首都決戦であり、批判的な見られ方に繋がっていました。このような構図の中、私どもの組合の執行委員会で議論した結果、推薦候補者の決定は見送ることを判断しています。
そのことを報告した組合ニュースには「もともと一票の判断は組合員個々人の自主的なものですが、組合員を暮らしを守るため、組合方針に基づき、その都度推薦候補者を決めてきました。今回の都知事選においては、執行委員会で議論した結果、特定の推薦候補者の決定は見送ることを判断しました」と書き添えています。「自主投票」という言葉に少し違和感があり、このような記述としていました。そもそも特定の候補者の推薦を決めたからと言って、組合員として投票が義務付けられるものではありません。その都度、推薦候補者や選挙方針に対するご理解を組合員の皆さんに求めていくことを重視しているからでした。
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