汝、隣人を愛せよ
毎週、NHK大河ドラマ『八重の桜』を見ています。同志社大学の創立者として有名な新島襄と八重が結婚し、少し前から明治維新以降の話が描かれています。視聴率は大幅に上がっていないのかも知れませんが、幕末から戊申戦争が舞台だった時よりも個人的には興味深く視聴するようになっています。特に先週日曜夜に放映された『過激な転校生』の中の一コマは印象に残り、機会があればブログでも取り上げてみようと考えるほどでした。
同志社大学の前身、同志社英学校に熊本洋学校を追われた学生が集団で転校してきました。彼らは結束の強さから熊本バンドと呼ばれ、一人ひとりの学力も高く、規律を重んじる教育方針のもとで学んでいたため、同志社英学校の授業のレベルや校風に不満を募らせていました。洋装の八重を「鵺」と嘲笑し、熊本バンドの横柄な振る舞いに嫌気が差して退学を決めた生徒に対しては「落ちこぼれは去って当然」と突き放すような面も描かれていました。
熊本バンドの生徒たちは同志社英学校の学校長である新島襄に改革要望書を提出し、能力別のクラス編成、成績不振者の退学、新島学校長の解任などを求めました。それに対し、新島学校長は「私がめざす学校は学問を教えるだけでなく、心を育てる学校です。自分を愛するように目の前にいる他者を愛すること」を教えたいという気持ちを涙を流しながら熊本バンドの生徒たちに訴えました。その際、新島学校長は「自分自身を愛するように、汝、隣人を愛せよ」という聖書の一文も添えていました。
「おのれのために他者を排除する者は断固として許さない。我が同志社は、いかなる生徒も決して辞めさせません。その信念がある限り、私が辞めることもありません。どうか、互いを裁くことなく、ともに学んでいきましょう」と呼びかけましたが、熊本バンドの生徒たちの心に新島学校長の思いはすぐには届きません。教室に引き上げた生徒たちは口々に「情けない、熊本では人前で涙見せる男は笑われる」というように学校長を批判していました。その中で、ただ一人だけ徳冨蘆花が「かっこつけんと生徒のために涙流せる先生は男らしかと思った」と発言し、少しだけ雰囲気が変わったようでした。
土曜の再放送を録画し、ドラマのセリフをそのまま紹介していますが、要旨が変わらない程度に簡約しています。私自身、聖書をじっくり読んだことはありませんが、今回の記事タイトルにした「汝、隣人を愛せよ」という言葉は知っていました。牧師になることをめざし、学問に励んでいる熊本バンドの生徒たちが「汝、隣人を愛せよ」という言葉やその意味を知らない訳はありません。しかし、その彼らは他者を見下し、他者を排除する行為に疑問を抱くことがありません。
この言葉を新島学校長が聖書から引用した意味合いは奥深く、熊本バンドの生徒たちへの強烈なメッセージだったように理解しています。どれほど学問や聖書に精通したとしても、表面的な知識のみの吸収にとどまるようでは不充分である、そのような思いを託していたはずです。学生一人ひとりの個性を大切にし、覚え込み教育からの脱却、「心の教育」を重視した新島襄の建学の精神が、現在の同志社大学に継承されていることはネット上のサイトから垣間見ることができます。
ここまで綴ってきましたが、このままでは『八重の桜』や同志社大学の宣伝で終わってしまいます。そのため、このブログで取り上げようと考えた理由を少し説明させていただきます。以前の記事「分かり合えなくても」「再び、分かり合えなくても」を通し、他者を見下さないこと、異質な考え方を認め合っていくことの大切さなどを訴えていました。分かり合えなくても、いがみ合わない関係性が様々な場面で欠かせないことを問題提起してきました。
このような問題意識をいつも抱えていたため、ドラマを見ていた時、新島襄の「他者を排除しない」という言葉が強く印象に残りました。立場や考え方が異なる他者に対しても、思いやることの大切さを切々と訴える新島襄の姿に深く共感を覚え、このような心構えを機会あるごとに提起し続けていくことの必要性を改めて感じたところでした。ただキリスト教が世界中に広く普及し、「汝、隣人を愛せよ」という教えも知れわたっているはずですが、残念ながら戦争がなくなる見通しは立っていません。
自分自身を省みても、常に「汝、隣人を愛せよ」という心構えを貫けている訳でもありません。他者を見下すことや怒りの感情をぶつける場合があります。それはそれで現実的な話として仕方ないものと受けとめながら、基本的な方向性として他者を思いやる気持ちを忘れないように努めています。そして、せめて当ブログの場では実践できるように心がけ、たいへん僭越ながらコメント投稿される方々に対しても、いくつかの「お願い」を繰り返してきました。
今回の話から改めて具体的な「お願い」に繋げることも考えていましたが、長々と書き過ぎるのも散漫な記事となってしまうため、このあたりで区切らせていただきます。最後に、自分の職場で最近交わした会話を紹介します。私の隣の席には今年の春に入所した女性職員が座っています。出身が同志社大学だったため、私から『八重の桜』のことを話題にしたところ「学生は皆、襄が好きですよ」という創立者に対して親しみを込めた言葉が返っていました。「ただあまり英語はしゃべれなかったようですね」という落ちも付いていました。
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コメント
・・・キリスト教が世界中に広く普及し、「汝、隣人を愛せよ」という教えも知れわたっているはず・・・っておっしゃいますが、じゃあキリスト教国であるアメリカが日本に原爆をおとしたのはどうお考えですかねえ。
キリスト教国であるドイツだってユダヤ人を抹殺しようとしたし。
古来のヨーロッパの国家間戦争では、基本は皆殺し、降参した敵国民は戦勝国民の奴隷となる。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、殺戮と婦女子の強姦を尽くした残虐なセルビア人もキリスト教徒だぜ。
キリスト教イコール平和なんていうのは、キリスト教系女子学校に通う世間知らずな中高生ぐらいかと思っていたが、ここにもノー天気な馬鹿がいるんだね。
ちなみに韓国もキリスト教信者が大半を占めているが、韓国がベトナム戦争で非道の限りを尽くし、数万人規模の韓国・ベトナム混血児が存在しているのを知っているか。
日本が軍備をきちんと整備しないと、中韓からの攻撃時に、あなたの妻や娘が犯されるんだぜ。
それでもいいのかよ。
能天気なことばかり、言ってんじゃねえ。
投稿: 安倍総理万歳 | 2013年9月23日 (月) 15時59分
安倍総理万歳さん、さっそくコメントありがとうございます。
このブログは批判意見もそのまま受け付けながら、私自身も含め、閲覧されている皆さん一人ひとりがどのように感じ取るかどうか、そのような機会の貴重さを重視しています。つまり今回の記事本文中に紹介した「分かり合えなくても」で綴ったとおりの認識です。したがって、ハンドルネームの付け方をはじめ、安倍総理万歳さんの見方や問題意識、それはそれで認め合っていく場としています。しかし、できれば書かれている内容は正確に把握された上、反論や批判を加えてくださるようお願いします。
>ただキリスト教が世界中に広く普及し、「汝、隣人を愛せよ」という教えも知れわたっているはずですが、残念ながら戦争がなくなる見通しは立っていません。自分自身を省みても、常に「汝、隣人を愛せよ」という心構えを貫けている訳でもありません。他者を見下すことや怒りの感情をぶつける場合があります。それはそれで現実的な話として仕方ないものと受けとめながら、基本的な方向性として他者を思いやる気持ちを忘れないように努めています。そして、せめて当ブログの場では実践できるように心がけ、たいへん僭越ながらコメント投稿される方々に対しても、いくつかの「お願い」を繰り返してきました。
ご指摘のとおりの現状が続いていることを非常に残念なことだと思いながら、せめて自分ができるところから「汝、隣人を愛せよ」の精神が心がけていければと訴えたところです。その意味で付け加えれば、安倍総理万歳さんの最後のほうの書きぶりはあまり歓迎できません。たいへん恐縮ですが、お時間がある際、以前の記事「分かり合えなくても」「再び、分かり合えなくても」などもご覧いただければ幸いですので合わせてよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2013年9月23日 (月) 17時42分
わかりあえなくても別にいいじゃん。
お互い無害ならば。
わかりあえてても、喧嘩しかけてくるなら
ましてや護るものがあるなら、立ち向かうしか
ないやん。
わかりあえる。わかりあえない。関係ないやん。
無害なら平和。つぶしにくるなら立ち向かう姿勢は
失わない。それだけやん。
>自分自身を省みても、常に「汝、隣人を愛せよ」という心構えを貫けている訳でもありません。
>それはそれで現実的な話として仕方ないものと受けとめながら
何が言いたいの。自分の出来んことを何の意味があってこんなとこに綴るの?
コーム員。組合。関係ないやん。なんか自分の贖罪の最中なの?
投稿: k | 2013年9月23日 (月) 20時24分
Kさん、コメントありがとうございます。
理想や理念と現実は程遠いことが多い、そのことを述べたに過ぎません。自分自身へのとらえ方についても「贖罪の最中」とか難しい話ではなく、書いたとおりの話に過ぎません。
投稿: OTSU | 2013年9月23日 (月) 22時26分
上記でコメントされてはるkはんと
普段妙な関西弁でコメントしてるオレとは別人な。念のため。
アレか、ちょい名前短かすぎるんかな。
投稿: K | 2013年9月23日 (月) 22時43分
いつものkさん、コメントありがとうございます。
実はそのような気がしていました。「いつもと違う」という印象について一言添えようかとも考えましたが、やはり余計な一言だと判断し、淡々とした対応にとどめたところでした。さっそく補足いただき、疑問が解消でき有難く思っています。ハンドルネームに関しては、この機会に改めるのも、そのままでも問題ないのではないでしょうか。
投稿: OTSU | 2013年9月23日 (月) 23時05分
同志社言うたらこっちで有名なお坊ちゃん学校やんか。
ドラマは見てへんけど、新島襄の言葉が学生の心に響いたんやな。ええ話やんか。オレのコドモも通わせたいわ。
そうそう、話題やった平和フォーラムのページ覗いてきたで。けど、フォーラム言うたら討論の場みたいな意味あったやろ。けどもうそういう時期は終えて、かなり主義主張のハッキリした集団やん。オレみたいな右寄りのオヤジがが近寄ったらお茶漬けご馳走(現代では殆んど無いと思うが、京都でお茶漬けを勧められたら「帰れ」の意)されそうや。もっとも、オレの心には響かんかったし、接点は生まれへんやろうけど。
ああいう思想を持つ人物をオレは複数知ってる。皆優秀でええ人や。ほんで典型的お花畑や。せやからきっとそのフォーラムにもようさんええ人おるんやろ。ただ、別に下心を持つ人物が混じっている可能性もあるわな。そういう集団は厄介やで。
オレは心が狭いからな。信用出来る隣人しか愛されへんわ。
投稿: K | 2013年9月24日 (火) 00時27分
いつものKさんへ
すみません。あんまりハンドルネームは良く見てなかったんで
たまたま指の触った「K」のキー押しただけです。
他意はありませぬ。ぞよ。
投稿: にせものK | 2013年9月24日 (火) 20時48分
英米人の考えは、人によりさまざまである。
物事に関する考えの筋が大切である。
その論旨をキリストが語ろうが、タヌキが話そうが、筋の出所は彼らにとってあまり気にならないようである。
「話が、現実離れしていて、信じられない」ということはない。
論者には、まず論旨を明らかにしてもらって、それから話全体に入ってもらう。
日本人は、話の内容が実際にあるかどうかが問題である。
実際にはない内容を考えても役に立たないと考えている。
日常活動の報告も、既成事実の追認のようなものになっている。
話の筋は、さして問題とはならない。考えの筋を展開することも難しい。疑問ばかりが湧いてきて、聞いていて空しい。
我が国では、高校生にがり勉はさせても、哲学の授業はない。
そのまま放っておけば、12歳の大人が出来上がる。
愚鈍の参謀の下では、将兵には玉砕の道しか開かれていない。
誰が言ったかの問題ではない。話の筋の有無の問題である。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ掛け声ばかりでは、12歳の大人を救うことはできない。
我々日本人は、頭を鍛えておこう。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
投稿: noga | 2013年9月25日 (水) 06時42分
Kさん、にせものKさん、nogaさん、一つ前の記事に投稿いただいたnagiさん、下っ端さん、コメントありがとうございました。
新規記事のタイトルは「言葉の難しさ、言葉の大切さ」とし、この記事の話から繋がる内容を考えています。土曜日のうちに投稿する予定ですので、ぜひ、また皆さんにご覧になっていただければ幸いです。よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2013年9月28日 (土) 09時19分
しばらくコメントしてなかったのでハンドルネームうろ覚えです。
Kさん、そう言われてるのは知ってますが、お坊ちゃんなのは基本的にほぼ内部生、あと近隣からの学生だけですよ。
関西圏外から来てる人間は、完全に層が違いますね。。
大河ドラマを見る時間がなかなか取れないのですが、一応母校なので、5分間のダイジェスト版だけ見てます。
結構面白いですね(綾瀬はるかも可愛い…おっと失礼)
隣の隣人を愛せ。
自分もそうありたいものですが、難しいことです。
自分を嫌っている相手であれば、なおのこと。
キリスト教徒であっても、同じでしょう。
だからこそ、聖書に書いてあるのだと思いますね。
投稿: とーる2号 | 2013年10月10日 (木) 09時37分
とーる2号さん、お久しぶりです。コメントありがとうございました。
「だからこそ、聖書に書いてあるのだと思いますね」という指摘、本当にその通りだと感じました。なお、ハンドルネームはお間違いないようです。
投稿: OTSU | 2013年10月12日 (土) 00時56分