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2013年9月28日 (土)

言葉の難しさ、言葉の大切さ

小学校で先生が児童に教えた。「ひとの嫌がることを進んでしなさい」。ある男の子は女の子のスカートをまくって歩いたという。日本語はむずかしい。スカートをまくって叱られた男の子も訳が分からなかったろう。

木曜の朝、読売新聞朝刊の「編集手帳」に記されていたエピソードです。文化庁「国語に関する世論調査」に絡んだ話として「噴飯もの」の意味が誤解されがちなことなどと合わせ、言葉のややこしさを紹介していました。ちなみに「噴飯もの」を「腹立たしくて仕方ないこと」と誤解していた人が49.0%、「おかしくてたまらないこと」と正しく理解していた人は19.7%だったそうです。

このブログのコメント欄を通し、これまで幅広い立場や視点をお持ちの方々と言葉を交わす機会に数多く恵まれてきました。ただ対面した会話においても行き違う時が多い中、言葉だけで意思疎通をはからなければならないインターネット上での意見交換の難しさは倍加していました。上記の話のように言葉の意味そのものが共通認識に立てない場合などもあり、養老孟司さんの著書を頭に浮かべながらネット議論での「バカの壁」も頻繁に感じてきました。

前回記事「汝、隣人を愛せよ」に対しても、私が訴えた内容とは間逆の意味に解釈され、「キリスト教イコール平和なんていうのは、キリスト教系女子学校に通う世間知らずな中高生ぐらいかと思っていたが、ここにもノー天気な馬鹿がいるんだね」というコメントが寄せられていました。さらに別な方からは「何が言いたいの。自分の出来んことを何の意味があってこんなとこに綴るの?コーム員。組合。関係ないやん。なんか自分の贖罪の最中なの?」という指摘もありました。

書かれていた記事内容全体を読まれれば、最初の方と私自身の現状認識が同じであることは分かるはずです。理想や理念と現実は程遠いことが多い、そのことを述べながら自分自身が心がけている話に繋げた記事内容でした。「贖罪の最中」とか難しい話ではなく、誰も完璧な「聖人君子」になれるものではなく、できる限り、できるところから他者を思いやる気持ちを忘れないようにしましょう、そのように訴えたつもりでした。

できるところの一つとして、このブログのコメント欄をいつも頭に浮かべています。そのため、改めて今回の記事を通し、皆さんにご理解ご協力を得たい点をいくつか綴らせていただきます。まず基本的な立場や見方が異なる方々とも議論を尽くすことで、できる限り歩み寄りや相互理解が進むことを願っています。しかし、それが容易ではない場面に数多く接してきたため、「分かり合えなくても」「再び、分かり合えなくても」という記事の投稿に至っていました。

自分自身の主張や考え方の正しさを確信している場合、その「答え」から遠く離れた他者の意見は頭から否定する対象になりがちです。それはそれで当たり前なことなのかも知れませんが、せめて分かり合えなくても、いがみ合わないことの大切さを強く認識するようになっています。極論でとらえれば、いがみ合いの延長線上にテロや戦争などの対立があるものと考えています。いがみ合いを防ぐためには他者を思いやる気持ちが大切です。さらに異なる立場や考え方だったとしても、相手を敵視しないという姿勢が欠かせないのではないでしょうか。

以心伝心、アイコンタクトなどもありますが、基本的に自分の思いは言葉に表わさなければ相手に伝わりません。言うまでもなく、ネット上では言葉のみ、お互いの文章だけでコミュニケーションをはかることになります。そのため、ますますネット上では言葉の使い方に慎重にならなければなりません。中には日頃の鬱憤を晴らすため、自分の思うことを気ままに書き込んでいる方も多いようです。ただ匿名という安心感から自制心をなくしてしまうと下記のニュースような致命傷を負うことになります。

復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい――。2年前、匿名ブログに書き込まれた一文が、ここ数日、インターネット上に広まり、騒ぎになっている。閲覧者らが身元を割り出し、筆者が経済産業省のキャリア男性官僚(51)であることがばれたためだ。事態をつかんだ経産省も「遺憾であり、速やかに対応する」として、処分を検討し始めた。この男性は経産省の課長などを務め、今年6月から外郭団体に出向している。復興に関わる部署ではないという。

ブログでは匿名だったが、過激な書き込みが目立ち、仕事にかかわる記述から閲覧者らが身元を割り出したとみられる。24日午後から、実名や肩書がネット上にさらされた。「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。同7月には「あましたりまであと3年、がんばろっと」などと、天下りを示唆する内容も記した。【朝日新聞2013年9月26日

この官僚には停職2か月の懲戒処分が下されています。復興庁参事官(停職30日)のツイッターでの暴言問題の時よりも下劣な書き込みが目立っていたようです。安倍首相を「おなかこわしまくり下痢そーりのやべ総理」、鳩山元首相には「くるっぴぃ」というあだ名まで付けていました。そもそも匿名であろうとなかろうと、ネット上は不特定多数の方々が触れ合う公衆の場です。普段、人前で話す言葉を基本にすべきものと私自身は心がけています。

誹謗中傷は論外ですが、他者を見下すような言葉も慎むべきものと考えています。他者の意見に対し、批判すべきことは厳しく批判しても、相手の人格否定や罵詈雑言の類いは慎む、そのような点を意識していくだけで前向きで建設的な意見交換に高まっていくものと思っています。その逆に処分を受けた経産省の官僚のような言葉が飛び交うようであれば、殺伐とした雰囲気の場になってしまうものと危惧しています。

幸いなことに当ブログのコメント欄の常連の皆さんからは、このような点についてご理解ご協力いただけています。ただ最近、気になったことで呼称の問題がありました。団体や個人が公認している略称や呼称があり、一般的に広まっている愛称があります。それ以外、他者が勝手な名称を使うことは非礼な行為で、当事者や関係者が目にすれば不愉快に感じるはずです。悪意や他意がなくても、人の名前を間違えれば、たいへん失礼な話となります。それが悪意や蔑みを込めて、本来の名称以外で個人や団体を呼ぶ行為は間違いなく他者を不快にさせます。

安倍首相をアベちゃん、大阪市の橋下市長をハシシタ市長、鳩山元首相をハトポッポなどと呼べば、たいへん無礼な話だろうと思っています。ちなみに当ブログは歴史上の人物以外、必ず敬称や肩書きを付け、その本人を前にしても発言できる言葉で綴っています。いずれにしても憂さ晴らしや批判ありきの感情的なコメント投稿を目的にしていない限り、幅広い立場や考え方の不特定多数の皆さんから「なるほど」と共感を得られるような言葉の選び方が大切なはずです。

どれほど説得力のある文章でも、他者の呼称を勝手に変えたり、下劣な言葉が含まれていた場合、周りへの発信力や影響力は削がれていくのではないでしょうか。看板に偽りがあると思うのであれば、なぜ、そのように思うのか、言葉を駆使しながら批判すべき点は批判していく、ぜひ、このような点について改めて多くの皆さんからご理解ご協力いただければ何よりです。

楽天がリーグ優勝した翌日、ZAKZAKのトップページで“ノムさん「星野監督の手腕じゃない…”という言葉が目に入りました。また野村元監督の毒舌かと思い、その小見出しをクリックし、記事内容を開くと“楽天、創設9年目で初優勝 ノムさん「星野監督の手腕じゃないか」”でした。野村元監督の談話は次のとおりですが、小見出しの「か」が省かれていたため、記事が掲げられた画面を開くまで正反対の内容を想像していました。

星野監督の手腕じゃないか。私の時の選手は田中と嶋くらいしかいない。自分が監督の時も社長や球団代表に、中心なき組織は機能しないと口酸っぱく言っていた。野球はエースと4番がしっかりできれば後は枝葉だから、それが今はできている。

このように1文字、あるかないかで他者に与える意味合いや印象は大きく変わってしまいます。言葉の使い方や文章の書き方は難しく、一言一句に注意を払う必要があります。しかし、言葉にしなければ、自分自身の考えが他者に伝わることはありません。このブログを通して皆さんに訴えている内容が、どのように受けとめられているのか、コメント欄に言葉が書き込まれない限り分かりません。いろいろ「お願い」を重ねていますが、幅広い立場や視点からのコメント投稿を心から歓迎しています。今回、言葉の難しさとともに言葉の大切さを書き進めてきましたが、決してコメント欄の敷居を高くするための記事内容ではないことも最後に強調させていただきます。

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2013年9月22日 (日)

汝、隣人を愛せよ

毎週、NHK大河ドラマ『八重の桜』を見ています。同志社大学の創立者として有名な新島襄と八重が結婚し、少し前から明治維新以降の話が描かれています。視聴率は大幅に上がっていないのかも知れませんが、幕末から戊申戦争が舞台だった時よりも個人的には興味深く視聴するようになっています。特に先週日曜夜に放映された『過激な転校生』の中の一コマは印象に残り、機会があればブログでも取り上げてみようと考えるほどでした。

同志社大学の前身、同志社英学校に熊本洋学校を追われた学生が集団で転校してきました。彼らは結束の強さから熊本バンドと呼ばれ、一人ひとりの学力も高く、規律を重んじる教育方針のもとで学んでいたため、同志社英学校の授業のレベルや校風に不満を募らせていました。洋装の八重を「鵺」と嘲笑し、熊本バンドの横柄な振る舞いに嫌気が差して退学を決めた生徒に対しては「落ちこぼれは去って当然」と突き放すような面も描かれていました。

熊本バンドの生徒たちは同志社英学校の学校長である新島襄に改革要望書を提出し、能力別のクラス編成、成績不振者の退学、新島学校長の解任などを求めました。それに対し、新島学校長は「私がめざす学校は学問を教えるだけでなく、心を育てる学校です。自分を愛するように目の前にいる他者を愛すること」を教えたいという気持ちを涙を流しながら熊本バンドの生徒たちに訴えました。その際、新島学校長は「自分自身を愛するように、汝、隣人を愛せよ」という聖書の一文も添えていました。

「おのれのために他者を排除する者は断固として許さない。我が同志社は、いかなる生徒も決して辞めさせません。その信念がある限り、私が辞めることもありません。どうか、互いを裁くことなく、ともに学んでいきましょう」と呼びかけましたが、熊本バンドの生徒たちの心に新島学校長の思いはすぐには届きません。教室に引き上げた生徒たちは口々に「情けない、熊本では人前で涙見せる男は笑われる」というように学校長を批判していました。その中で、ただ一人だけ徳冨蘆花が「かっこつけんと生徒のために涙流せる先生は男らしかと思った」と発言し、少しだけ雰囲気が変わったようでした。

土曜の再放送を録画し、ドラマのセリフをそのまま紹介していますが、要旨が変わらない程度に簡約しています。私自身、聖書をじっくり読んだことはありませんが、今回の記事タイトルにした「汝、隣人を愛せよ」という言葉は知っていました。牧師になることをめざし、学問に励んでいる熊本バンドの生徒たちが「汝、隣人を愛せよ」という言葉やその意味を知らない訳はありません。しかし、その彼らは他者を見下し、他者を排除する行為に疑問を抱くことがありません。

この言葉を新島学校長が聖書から引用した意味合いは奥深く、熊本バンドの生徒たちへの強烈なメッセージだったように理解しています。どれほど学問や聖書に精通したとしても、表面的な知識のみの吸収にとどまるようでは不充分である、そのような思いを託していたはずです。学生一人ひとりの個性を大切にし、覚え込み教育からの脱却、「心の教育」を重視した新島襄の建学の精神が、現在の同志社大学に継承されていることはネット上のサイトから垣間見ることができます。

ここまで綴ってきましたが、このままでは『八重の桜』や同志社大学の宣伝で終わってしまいます。そのため、このブログで取り上げようと考えた理由を少し説明させていただきます。以前の記事「分かり合えなくても」「再び、分かり合えなくても」を通し、他者を見下さないこと、異質な考え方を認め合っていくことの大切さなどを訴えていました。分かり合えなくても、いがみ合わない関係性が様々な場面で欠かせないことを問題提起してきました。

このような問題意識をいつも抱えていたため、ドラマを見ていた時、新島襄の「他者を排除しない」という言葉が強く印象に残りました。立場や考え方が異なる他者に対しても、思いやることの大切さを切々と訴える新島襄の姿に深く共感を覚え、このような心構えを機会あるごとに提起し続けていくことの必要性を改めて感じたところでした。ただキリスト教が世界中に広く普及し、「汝、隣人を愛せよ」という教えも知れわたっているはずですが、残念ながら戦争がなくなる見通しは立っていません。

自分自身を省みても、常に「汝、隣人を愛せよ」という心構えを貫けている訳でもありません。他者を見下すことや怒りの感情をぶつける場合があります。それはそれで現実的な話として仕方ないものと受けとめながら、基本的な方向性として他者を思いやる気持ちを忘れないように努めています。そして、せめて当ブログの場では実践できるように心がけ、たいへん僭越ながらコメント投稿される方々に対しても、いくつかの「お願い」を繰り返してきました。

今回の話から改めて具体的な「お願い」に繋げることも考えていましたが、長々と書き過ぎるのも散漫な記事となってしまうため、このあたりで区切らせていただきます。最後に、自分の職場で最近交わした会話を紹介します。私の隣の席には今年の春に入所した女性職員が座っています。出身が同志社大学だったため、私から『八重の桜』のことを話題にしたところ「学生は皆、襄が好きですよ」という創立者に対して親しみを込めた言葉が返っていました。「ただあまり英語はしゃべれなかったようですね」という落ちも付いていました。

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2013年9月14日 (土)

シリアの問題から思うこと

週に1回だけ週末に更新しているブログですので取り上げる話題は限られてきます。さらに難しいテーマを中途半端に触れてしまうと、こちらの意図が的確に伝わらないまま思いがけない批判を受ける時もありました。そのため、訴えたい主張や取り上げる題材はなるべく絞り込むように心がけています。すると今度は「○○の問題を避けている」「足元の組合活動をおろそかにしている」「自らの職務には関心が薄い」というように非難される時もありました。

このブログで触れていないから「××だ」という論法を使われる方は極めて少数だと思っていますが、そのように見られる場合があることも常に意識しています。このところブログの記事では具体的な労使交渉の話を取り上げていませんが、ここ数か月、再任用制度の見直しに向けた詰めの協議を重ねていました。徴税吏員の職務の話で言えば、財産調査結果のシステム入力の方法を巡って熱く語ってしまうような日常を過ごしています。

今回の記事も足元の日常からは遠く離れたテーマとなりますが、四六時中、そのようなことばかり考えている訳ではありませんので、念のため、一言申し添えさせていただきます。いずれにしても以前の記事で「これからも私自身はその時々で広く多くの方々に伝えたい内容をあまり気負わずに書き進めていくつもりです」と記していましたが、そのような気ままさが個人的なブログを長く続けていくための心得の一つだろうと思っています。

さて、今回は記事タイトルのとおりシリアの問題に触れながら個人的に思うことを綴らせていただきます。これまで「平和の話、インデックス」「長崎市の平和宣言」「漫画が語る戦争」など、このブログでは平和の問題について数多く取り上げてきました。各論に対しては個々人で「答え」が大きく枝分かれしていきますが、「戦争は避けたい」という総論は多くの方々と思いを共有化できるはずです。その意味で、次の報道のとおりシリアへの軍事攻撃が当面見送られたことに安堵されている方は多いのではないでしょうか。

オバマ米大統領は10日、ホワイトハウスで国民向けに演説し、シリアのアサド政権に化学兵器の放棄を求める国連安全保障理事会の決議案採択を通じて、問題の外交的解決を目指す方針を表明した。フランスは同日、決議案の原案を安保理メンバー国に個別に提示し、文言の調整を開始。対シリア攻撃は当面見送られ、今後は国際社会による外交努力が本格化する。

オバマ大統領は演説で、先に対シリア攻撃を決断したのは、「アサド政権が化学兵器を再び使う事態を阻止するためだ」と改めて説明した。また、同政権に圧力をかけ続けるため、攻撃準備態勢の「維持を命じた」と述べた。ただ、演説の後半は外交解決への期待に重点が置かれ、ロシアがアサド政権に化学兵器の放棄を促したことやアサド政権が化学兵器禁止条約に参加する意思を示したことを「前向きの兆し」と評価した。また、一連の動きを受け、米議会に対してシリア攻撃を承認する決議案の採決延期を要請したことを明らかにした。【読売新聞2013年9月11日

一方で、外務官僚だった天木直人さんがご自身のブログで「化学兵器の国際管理化が実現してもシリア問題は解決しない」という見方を示していますが、まったくそのとおりだと思います。化学兵器の非人道さは言うまでもありませんが、そもそも化学兵器で奪われる命も、通常兵器で奪われる命も、かけがえのない唯一の命に変わりありません。化学兵器という言葉を核兵器に置き換える場合も同様です。

だからこそ、戦争や内戦は絶対避けるべきものであり、同時に権力側による暴力的な弾圧も許されない行為だと考えています。また、現代の戦争は軍事拠点のみ攻撃できるようなイメージも示されがちですが、人命が失われない武力行使などあり得ないものと見ています。加えて、武力による介入は報復の連鎖、憎しみの連鎖を招き、イラク戦争の泥沼化など手痛い教訓が数多く残っているはずです。

言うは易く、行なうは難し、そのことは充分理解しているつもりであり、「綺麗事を言うな」「発想がお花畑だ」というお叱りを受けるのかも知れません。それでも事の本質を見極める努力を重ね、内戦であれば、なぜ、内戦に至っているのかという背景を探ることが欠かせないはずです。そのようなアプローチを重視する姿勢でなければ、今回のシリアの問題をはじめ、内戦や紛争を抜本的に解決する糸口は見出せにくいのではないでしょうか。

その一助になる見方として、9月5日に放映されたNHKの『視点・論点』でシリア情勢について同志社大学大学院の内藤正典教授がきめ細かく解説されていました。画像とテキスト、それぞれのサイトに飛べるリンクをはりましたので、ぜひ、お時間がある際にご覧いただければ何よりです。当初、内藤教授の解説内容の全文を紹介することも考えましたが、この場では内藤教授の結論の部分となる最後の箇所のみ、そのまま掲げさせていただきます。

イスラエルにとっては、吠えるだけ吠えても噛みつかない、いわば無害の敵でした。欧米諸国は、批判的な目を向けながらも、イスラエルにとって脅威にならない限り、この現実主義の独裁政権を放置しておく道を選んだのです。イスラエルは、アサド政権の背後にイランやヒズブッラーがいることを懸念していますが、同時に、反政府側にアル・カーイダ系のヌスラ戦線がいることも警戒しており、お互いに殺しあって疲弊するのを待っています。シリア国内だけでなく、外国の利害も複雑に絡み合っていることが、内戦を悪化させ、今世紀最悪の人道の危機を招きました。

私は、軍事介入による紛争解決には反対です。軍事介入をすれば、アサド政権側は、市民の中に戦闘員を紛れ込ませますから、市民の犠牲も増えます。しかし、ことここに至っては、強力な軍事介入によってアサド政権側の軍事拠点を無力化する以外に方策はありません。アメリカは、ようやく重い腰を上げ、議会承認を得て攻撃に踏み切る姿勢をみせています。ただし、欧米諸国が一方的に攻撃するのではなく、トルコなど近隣のムスリム諸国の声を聴きながら、虐殺の抑止に何が必要かを見極める必要があります。そうでないと、報復の連鎖は、シリア国内だけでなく近隣国を巻き込んで果てしなくつづき、中東全域に紛争が拡大する恐れがあります。

今回、日本政府の動き方は必ずしもアメリカ追従の姿勢ではありませんでした。ロシアのサンクトペテルブルクでG20サミットが開かれた際、オバマ大統領からの働きかけがあり、日米首脳会談が行なわれました。シリアのアサド政権による化学兵器使用を断定しているオバマ大統領は、 その会談で安倍首相に軍事介入への支持を求めていました。しかしながら安倍首相は「米議会のプロセスを見守る」などという返答にとどめ、アメリカの軍事介入を支持するかどうか慎重な姿勢に終始していました。

この日米首脳会談に先立ち、安倍首相はプーチン大統領との会談の中で、シリアの問題での日本政府の今後の対応について「事態改善のため、ロシアも含む国際社会と緊密に連携していく」と述べていました。 日米同盟という枠組みから常にアメリカの顔色をうかがっている日本政府にしては珍しく独自な立ち振る舞いを貫いていたように感じています。ただ8月28日の段階では、ドーハに滞在していた安倍首相が素早くアメリカ寄りの発言を行なっていたことも覚えています。

そもそも安倍首相はシリア情勢についてはいち早くアサド政権の化学兵器使用を批判してアサド大統領の退陣を求めた。オバマの重い決断に理解を示した。ところが国際社会のシリア攻撃反対の動きや、オバマの米国議会承認の動きを勘違いして、安倍首相は立場を微妙に変え、化学兵器使用の確認の必要性とか、国際協調の重要性を言い出した。これは明らかにオバマ大統領にとっては失望に映るブレだ。シリア情勢で必死な時に、優柔不断な安倍首相と会談しても無意味だとオバマ大統領が判断しても不思議ではない。その上で、プーチン大統領と首脳会談をしながらシリア問題を持ち出さないとなると、もはや日米は「共通の価値」を共有しない国となる。

小泉首相と安倍首相の決定的に違うところはここだ。あの間違ったイラク攻撃を行なったブッシュを小泉首相はいち早く無条件で支持し、ブッシュを感動させ、ブッシュの信頼を得た。イラク攻撃を支持した小泉首相は間違った首相だったがその間違いを怯まずに断行して少なくともブッシュの信頼を勝ち得た。それに比べ安倍首相はブレまくりだ。対米従属でありながら日米同盟を揺るがす安倍首相。プーチンとの首脳会談は出来ても、オバマとの首脳会談は出来ない安倍首相。安倍首相は間違った小泉首相よりさらに劣る首相である・・・

上記は天木直人さんの9月4日のブログ記事ですが、オバマ大統領との会談が実現でき、プーチン大統領との会談の中ではシリアの問題にも触れていますので、そのような点での天木さんの見通しは外れていました。小泉元首相との政治的な嗅覚の差は大きいのでしょうが、「安倍首相はブレまくり」という批判も良い方向に軌道修正できるのであれば、柔軟さという肯定的な見方も加えられるのだろうと思っています。実はブログを長く続けている中から「○○だから××だ」という短絡的な批判は慎むべきものと心がけるようになっています。

たびたび「公務員だから××だ」「自治労だから××だ」というような言葉を投げかけられていました。そのような悩ましさを反面教師として今後も「安倍首相の言動だから」という発想での批判は控えていくつもりです。具体的な発言や考え方に対し、このような点を懸念するため、私自身は「××だと考える」という論調を当ブログの中では心がけていきます。その意味で、シリアの問題での安倍首相の振る舞い方は素直に支持しているところです。一方で、安倍首相はG20サミットを途中で抜け、IOC総会が開かれたアルゼンチンの首都ブエノスアイリスに飛んでいました。

シリア問題でアメリカ一辺倒の態度を避けたのはIOC総会で幅広い支持を集めるため、すべては東京にオリンピックを招致するための振る舞い方だった、このような見方もあるようですが、真偽のほどは分かりません。ただ万が一、そのような背景があった場合、前回記事「2020五輪は東京開催」の中でも記したとおり優先順位の付け方に疑義を差し込まなければなりません。この最後の話は蛇足だったかも知れませんが、週末に投稿する新規記事を通してシリアの問題から思うことを書き連ねさせていただきました。

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2013年9月 8日 (日)

2020五輪は東京開催

記事本文の更新を週1回と決めているため、旬な話題を追えるブログではありません。いつも少し鮮度の落ちた話題を後追いの報道内容なども加味しながら綴っていることの多さは最近の記事「漫画が語る戦争」の中で触れたとおりでした。今回、日本時間の日曜朝に結果が判明するタイミングだったため、オリンピックの東京招致の行方を見届けた上でパソコンに向かっています。

開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)総会はブエノスアイリスで開かれていました。日本時間では深夜、1回目の投票でイスタンブールとマドリードが同点となり、2位を決める再投票のあたりからリアルタイムでテレビ中継を見守りました。東京とイスタンブールとの最終的な決戦投票の結果、2020年のオリンピックとパラリンピックの開催地に東京が選ばれました。その瞬間、東京招致に尽力された方々や東京での開催を心から望まれていた皆さんの歓喜が画面から伝わってきました。

自分自身、正直なところ淡々とした思いで決定の瞬間を目の当たりにしていました。東京で開催できる喜びよりも、よりいっそう国際社会の中で日本は重い責任を負ったという思いを強めていました。ブエノスアイリスで開かれた直前の記者会見の場で、海外メディアから福島第一原発の汚染水漏れの問題が繰り返し指摘されていました。もともとオリンピックは好きなほうであり、汚染水の問題がなければ、もっと素直に東京開催を喜ぶことができたのかも知れません。

海外メディアの懸念に対し、東京招致委員会の竹田恒和理事長は「福島は東京から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にない」と安全性を説明されていました。国際的な尺度でとらえれば「たった250キロ」という突っ込みも示されそうですが、何よりも「『東京は安全』と強調するのは『福島の現状はひどい』と認めるということ。ならば、なぜ2年半もの間、ひどい福島を放置してきたのか。ばかにしている」という福島の方の言葉に耳を傾けなければなりません。

IOC総会の最終プレゼンに出席した安倍首相も「(福島第一原発の)状況はコントロールされている。東京にダメージが与えられることは決してない」と強調していました。IOC委員から「東京に影響がないという根拠は何か」という質問に対しては「汚染水は港湾内で完全にブロックされている。抜本解決のプログラムを私が決定し、着手している」と答えていました。今後、この説明通りに好転していけば何よりなことですが、民主党政権当時、汚染水対策に関わった馬淵澄夫元首相補佐官からは次のような懸念が示されていました。

世界が懸念している福島第1原発の汚染水問題。安倍首相は「国が前面に出て抜本的な措置を講じる。五輪招致に問題がないことを説明する」と言っているが、まったく説得力がない。なぜなら、安倍政権がやろうとしている抜本対策の目玉、「凍土方式」は、原発事故直後に却下された不適切工法なのである。民主党政権は当時、汚染水対策を馬淵澄夫首相補佐官に委ねた。馬淵は横浜国大工学部卒、建設会社技術職研究員の経歴を持つ。土木に詳しく、当時から地下水が汚染されることを問題視、吉田所長と対策を練ったという。馬淵に改めて、当時の経緯や凍土方式の問題を聞いてみた。

「凍土方式は完成まで2年間もかかるだけでなく、工法自体にも問題があります。首相補佐官時代の2011年5月、私は遮蔽プロジェクトチームの責任者として、4種類の工法を検討しました。その結果、『凍土方式』ではなく、チェルノブイリで実績がある『鉛直バリア方式』を選定しました。凍結管を入れて土を凍らせる『凍土方式』はそもそも永久構造物ではなく、地下水流出を抑えて工事をしやすくするために一時的に設置するものです。これによって、地下鉄工事でトンネルを掘削しやすくなるなどの効果はあります。しかし、大きな汚染区域を取り囲んで地下水を遮蔽できるかというと、そんな実績はなかった。

しかも、真水を凍らせるわけではないのです。地中の水分量の分布はバラバラだし、不純物の混ざり具合など、ありとあらゆる自然界の条件の中で、大規模の凍土壁を造って、地下水を完璧に遮断できるのか。非常に怪しいと思います」 だから、「鉛直バリア(ベントナイトスラリーウオール)方式」が採用されたのだ。「これは地下30メートルの難浸透層まで掘り下げて地下遮水壁を造り、原子炉建屋の四方を囲んで完全に遮断しようという案です。壁の材質は、クラック(ヒビ)などが入るコンクリートではなく、ベントナイトと呼ばれる鉱物が入った粘土を使うことになった。これで原子炉建屋の放射性物質を封じ込め、地下水流入も防げる。

私は2011年6月11日、国会議員として初めて原発のサイトに入って、吉田所長とともにこの地下遮水壁の境界を確定する仕事をやりました。吉田所長は当初、『他の工事と干渉する』という理由で地下遮水壁建設に反対した。当時は、粉塵を封じ込める飛散防止剤散布や建屋を覆う工事などが並行して進んでいたからです。それでも吉田所長を説得して、地下遮水壁を進めようということになった。ところが、6月に記者発表をする段階で、東電からストップがかかった。『(地下遮水壁工事で)新たに1000億円の費用が発生すると、株主総会に影響を与えるから待ってくれ』というのです」 

結局、地下遮水壁のプランは、馬淵がその後、首相補佐官を外されたこともあって、立ち消えになっていく。大甘の東電は海側にだけ遮水壁を造ることにして、お茶を濁し、これが目下の惨状を招いたのだ。当時から遮水壁建設に取り組んでいれば、今頃、汚染水であわてることはなかった。五輪招致でつっつかれることもなかったわけだ。「これからベントナイトスラリー方式をやっても完成まで時間がかかる。緊急対策として鋼鉄製の矢板を打ち込んで、山側の地下水の流入を止めるべきです。今後はそれを提案しています」無責任東電と泥縄安倍政権に任せていても、どうにもならない。 (取材協力・横田始)【日刊ゲンダイ2013年9月7日

当然、福島第一原発事故以降の問題は現政権だけに責任を問うべきものではありません。上記の話も含め、民主党政権当時の至らなさや反省すべき点は多々あろうかと思います。一方で、この汚染水漏れの問題が大きく取り上げられたため、ようやく「東電任せでは解決は困難。国が前面に出る」とし、重い腰を上げることになりました。五輪招致に悪影響を及ぼすという理由も明らかであり、どうしても優先順位の付け方や「泥縄」のような動き方が気になっています。

とは言え、2020五輪の東京開催が明るい話題であることに間違いなく、国内経済的にも、国際的な外交関係においても物事が好転する機会に繋がることを願っています。そして、何よりも福島第一原発の事故処理が内外から改めて信頼される対策に高められていくことを強く願っています。その一方で、これからオリンピックの成功に向けて「心を一つに」という雰囲気が高まっていくのかも知れませんが、多様な主張を認め合っていける社会が変質しないように注意する必要性も意識しています。

いろいろな事象や論点に対し、賛成でも反対でも個々人が自由に発言できることの大切さは説明するまでもありません。多くの皆さんの喜びに水を差すような当ブログの論調に対し、「非国民」という批判が寄せられるような社会は今後も絵空事であり続けることを信じています。さらに多様な主張の旗頭として、ブックマークしているブログ「内田樹の研究室」の記事「五輪招致について」が目に留まりました。内田さんが『AERA』に寄稿した記事の紹介でしたが、最後に多様な見方の一つとして、このブログにも転載させていただきます。

2020年の五輪開催都市を決めるIOCの総会が始まる。最終候補に残ったのは東京、マドリード、イスタンブール。88年の名古屋以来、08年の大阪、16年東京と三度連続招致失敗の後の四度目の挑戦である。安倍首相、猪瀬都知事は国内での招致機運を盛り上げようと懸命だが、私のまわりでは東京五輪が話題になることはほとんどない。気分が盛り上がらない第一の理由は、福島原発の事故処理の見通しが立たない現状で、国際的な集客イベントを仕掛けることについて「ことの順序が違う」と感じているからである。

第二の理由は、招致派の人たちが五輪開催の経済波及効果の話しかしないからである。東京に招致できたら「どれくらい儲かるか」という皮算用の話しかメディアからは聞こえてこない。「国境を越えた相互理解と連帯」とか「日本の伝統文化や自然の美しさを海外からのお客さんたちにどう味わってもらうか」というようなのどかな話題は誰の口の端にも上らない。個人的には、五輪の本質は「歓待」にあると私は思っている。

64年の東京五輪を前にしたときの高揚感を私は今でも記憶している。当時の国民の気持ちは「敗戦の傷手からようやく立ち直り、世界中からの来客を諸手で歓待できるまでに豊かで平和な国になった日本を見て欲しい」というある意味「可憐」なものだった。「五輪が来ればいくら儲かる」というようなことは(内心で思っていた人間はいただろうが)人前で公言することではなかった。理想論かもしれないが、五輪は開催国の豊かさや政治力を誇示するためのものではなく、開催国民の文化的成熟度を示す機会であると私は思っている。

五輪招致国であることの資格は、何よりも「国籍も人種も宗教も超えて、世界中のアスリートとゲストが不安なく心穏やかに滞在のときを過ごせるような気づかいを示せること」である。だとしたら、日本の急務はばかでかいハコモノ作りより、原発事故処理への真剣な取り組みと東アジアの隣国との友好的な外交関係の確立だろう。原発事故のことを忘れたがり、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立ち、ひたすら金儲けの算段に夢中になっている国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず胸に手を当てて考えてみた方がいい。

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