漫画が語る戦争
通勤の帰り道によく立ち寄る書店で『漫画が語る戦争 戦場の挽歌』『漫画が語る戦争 焦土の鎮魂歌』という背表紙を目にしました。手に取ってみると帯紙には「ゲーム感覚で戦争をとらえがちな現代の日本人の覚悟を問う警鐘の書。漫画の底力を感じる」「あなたたちが望んでいる戦争とは格好よいものでもなんでもなく、残酷で空しいものでしかない、ということを本書で知ってほしい」と記されていました。
前者は一水会顧問の鈴木邦男さん、後者は作家の宮崎学さんの言葉で、それぞれ巻末に掲載されている二人の対談内容の中から引用されたものでした。2冊で3千円以上の出費となりましたが、その二人の言葉に後押しされ、あまり迷わずレジに持ち込んでいました。出版社のホームページに掲げられている「説明内容」は下記のとおりで、著名な漫画家の作品がズラリと並んでいます。全部で20編の漫画が収録されていましたが、作風をはじめ、それぞれ個性的な作品でした。
平和の尊さを「戦争を知らない若い世代」に伝えるため、戦争をテーマにした短編マンガを集成。「戦場の挽歌」は戦場や軍隊を舞台にしたマンガを集成します。著者自身の戦争体験を描いた水木しげるの『敗走記』、夫を戦場で失った女性の悲劇を描く白土三平の『泣き原』、戦後間もなく東条英機暗殺を企てたテロリストを描くかわぐちかいじの『一人だけの聖戦 (「テロルの系譜」より)など、戦争の恐ろしさや、戦争の愚かさを描いた作品を多数収録します。
「焦土の鎮魂歌」は、銃後の日本を舞台にしたマンガを集成します。機銃掃射の犠牲になった学童たちを描いた手塚治虫の『カノン』、集団疎開していた子どもたちとアメリカ人捕虜の交流を描いた北条司の『少年たちのいた夏』、原爆の悲劇を描いた中沢啓治の『黒い鳩の群れに』、自ら体験した満州引揚者の苦闘を描いたちばてつやの『家路1945~2003』など、戦争の恐ろしさや、戦争の愚かさを描いた作品を多数収録します。
上記の本に関心を持った理由として、漫画『はだしのゲン』の学校図書館での開架問題も頭に浮かんでいました。このブログは週に1回のみの更新のため、時事の話題の新鮮さを追うことはできそうにありません。その分、後追いの報道内容やネット上で入手した情報などをもとに当ブログなりの取り上げ方に努めています。今回も個人的な意見を添えながら「このような見方や論点があります」という問題提起型の記事内容に心がけていくつもりです。
漫画家の故中沢啓治さんが自らの被爆体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」について、「描写が過激だ」として松江市教委が昨年12月、市内の全小中学校に 教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置を求め、全校が応じていたことが分かった。児童生徒への貸し出し禁止も要請していた。出版している汐文社(東京都)によると、学校現場でのこうした措置は聞いたことがないという。
ゲンは1973年に連載が始まり、87年に第1部が完結。原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている。松江市では昨年8月、市民の一部から「間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出された。同12月、不採択とされたが市教委が内容を改めて確認。「旧日本軍がアジアの人々の首を切ったり女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断し、その月の校長会でゲンを閉架措置とし、できるだけ貸し出さないよう口頭で求めた。
現在、市内の小中学校49校のうち39校がゲン全10巻を保有しているが全て閉架措置が取られている。古川康徳・副教育長は「平和教育として非常に重要な教材。教員の指導で読んだり授業で使うのは問題ないが、過激なシーンを判断の付かない小中学生が自由に持ち出して見るのは不適切と判断した」と話す。これに対し、汐文社の政門一芳社長は「原爆の悲惨さを子供に知ってもらいたいと描かれた作品。閉架で風化しないか心配だ。こんな悲しいことはない」と訴えている。
「ゲン」を研究する京都精華大マンガ学部の吉村和真教授の話 作品が海外から注目されている中で市教委の判断は逆行している。ゲンは図書館や学校で初めて手にした人が多い。機会が失われる影響を考えてほしい。代わりにどんな方法で戦争や原爆の記憶を継承していくというのか。
教育評論家の尾木直樹さんの話 ネット社会の子供たちはもっと多くの過激な情報に触れており、市教委の判断は時代錯誤。「過激なシーン」の影響を心配するなら、作品とは関係なく、情報を読み解く能力を教えるべきだ。ゲンは世界に発信され、戦争や平和、原爆について考えさせる作品として、残虐な場面も含め国際的な評価が定着している。【毎日新聞2013年8月16日】
このような騒動となり、松江市教育委員会は方針を変えることも含め、改めて検討に入っています。そもそも閲覧制限という判断を下したのは教育長以下、教育委員会事務局だったようです。そのため、木曜日の定例会議では事務局からの聞き取りを中心とし、翌週月曜日に臨時の会議を開き、結論を出すことにしています。その定例会議の中では校長49人に対する事前アンケートの結果も報告され、閲覧制限に賛成したのは約1割の5人だったことが明らかになっています。
市議会で陳情が不採択となったのにもかかわらず、さらに教育委員会にも正式な了承を取り付けず、教育長が独自に判断したという異例な経過をたどっていました。ネット上のサイト「はだしのゲン閲覧制限 問題の論点どこに」などを探ってみると、原爆の凄惨さとは別な側面からのクレームが騒動の出発点だったことを把握できます。次の報道のとおり描写の問題ではなく、歴史認識に対する一市民からの問題提起が発端だったようです。
松江市議会に「はだしのゲン」の撤去を求める陳情をした自営業の男性(35)は21日、朝日新聞の取材に応じた。「市教委は、ぼくが(不採択となった陳情で)訴えた歴史認識の誤りではなく、描写を問題にしており、不満はある」「こんな漫画を義務教育の学校図書館に置くべきでなく、読みたければ自分で買って読めばいい」と持論を述べた。
男性は、昨年10月まで松江市に住み、いまは高知市在住。昨年11月には高知市議会と高知県議会にも「ゲン」撤去を求める陳情をしたという。松江市教委を数回訪れ、「ゲン」撤去を要求して職員と押し問答する様子を撮影した映像を動画投稿サイトにも投稿。自身の活動について「国益を損なう行為が許せない。日本人としてふつうのことをしているだけ」と述べた。【朝日新聞2013年8月22日】
松江市教育委員会は制限した理由を「歴史認識の問題ではなく、あくまで過激な描写が子どもにふさわしくない」とし、過激な描写とは原爆被害の部分ではなく、後半部分の中国大陸での旧日本軍の行動を描いたシーンを指していました。中国人の首を切ったり、女性に性的暴行を加えたりする場面が問題視されました。松江市議会に陳情した市民は、このような内容が「自虐史観」に基づくものであり、「国益を損なう行為」だと主張しているようです。
「自虐史観」の問題は、人によって見方が様々に分かれていくはずです。歴史上の真実は一つでも、伝聞による尾ヒレが付いたり、思い違いや事実誤認、中には政治的な意図から捏造されているケースもあるのかも知れません。しかし、南京攻略戦を描いたルポルタージュ『生きている兵隊』が残されているように、旧日本軍が中国大陸で残虐行為にいっさい手を染めなかったと言い切れる方も少ないはずです。戦争という非日常の極限状況において、非人間的な行為に走ってしまいがちなことを古今東西の数多くの史実が語っています。
そのため、「戦争に残虐行為はつきものであり、旧日本軍だけがことさら残虐な行為を行なった訳ではない」「旧日本軍が組織的、計画的に行なったという記録や確かな証拠はない」という見方のもと、『はだしのゲン』の中に出てくるような描写を批判する方々が増えています。そのような見方があることを否定しません。ただ旧日本軍の兵士によって家族や親戚を殺された方にとって、そのような言葉はどう受けとめられるのでしょうか。
閲覧制限の問題に戻りますが、『はだしのゲン』は原爆の悲惨さなどを伝えるために外せない書籍だと考えています。もともと学校の図書館には漫画自体の蔵書が少なく、一定の閲覧制限があっても仕方ありません。しかし、『はだしのゲン』は物語の全体を通して戦争の理不尽さなどを伝えるための題材だと認め、それまで書架に掲げてきたのではないでしょうか。申出なければ手にすることができないのであれば、閲覧する児童生徒の数は激減するはずです。
戦争のことを考える時、戦争で実際に起こった事実を知ることが大切です。私自身、『はだしのゲン』の連載が始まる数年前、『ある惑星の悲劇』という漫画に出会っていました。その漫画を通し、初めて原爆のことを知りました。小学校の低学年のことでした。原爆投下後、建物の下敷きになって、生きたまま焼かれていく子どもたちに「熱かったろうな」と感情移入していたことを覚えています。その漫画との出会いが「戦争は嫌だ、戦争は起こしたくない」という思いの原点だったかも知れません。
このような実体験から小学校低学年でも原爆の事実と充分向かい合えるものと思っています。その上で、中国大陸での旧日本軍の行為に対しては、前述したように人によって見方が分かれていますが、決して事実無根の話ではありません。いずれにしても一部の市民からの声に左右され、市議会の意思まで無視しながら『はだしのゲン』の閲覧制限に踏み切っていた松江市教育委員会の判断は誤りだったものと考えています。
たいへん長い記事となっていますが、もう少しだけ続けます。最近の記事「長崎市の平和宣言」の中でも記しましたが、「反核平和」を唱えていれば平和な世の中になるものではない、平和を維持するためには武力による抑止力や均衡が必要である、このような見方の是非が人によって大きく枝分かれしていくことを承知しています。それでも戦争の実相を知った上で「戦争も辞さず」と語るのかどうかが大事な時代になっているように感じています。最後に、『漫画が語る戦争』の解説対談の中で、私自身が最も印象に残った箇所を紹介させていただきます。
宮崎 映画、新聞などのマスコミ・知識人の戦争協力があってのこととはいえ、戦時中ですら、自分の家族や恋人が戦禍に巻き込まれるまで戦争の悲惨な現実など、銃後の国民にそれほどリアリティをもちえなかった。
鈴木 いま、中国や韓国と戦争をやってもいい、やられる前にやってしまえ、と勇ましい論調になびく人たちが少なからずいますが、そういう人ほど軍隊や銃後の悲惨さを知らないわけですね。
宮崎 零戦や軍艦のフォルム、構造美に魅了される人が殺人兵器の殺傷力まで思い至らないのと同じです。
鈴木 戦争が架空のフィクションとしか実感されてなくて、戦争をしかけたら、とくに若者は真っ先に前線に送られるという想像力が及ばない。自分が一体化した国家という巨大ロボットがかわりに戦争をしてくれるような妄想がどこかにあって、自分が戦争で死ぬかもしれない、そうでなくても腕や足を失うかもしれないという「現実」を故意に除外してしまう。
宮崎 ハリウッド映画を観客として消費するように、他人事でしかない。ネット上で勇ましい発言を繰り返す気分としての愛国者の人たちに、あなたたちが望んでいる戦争とは格好よいものでもなんでもなく、残酷で空しいものでしかない、ということを本書で知ってほしいですね。
| 固定リンク
« 私の一冊 | トップページ | 大阪市で自治労大会 »
コメント
>いま、中国や韓国と戦争をやってもいい、やられる前にやってしまえ、と勇ましい論調になびく人たちが少なからずいますが、
そんな人は極一部です
むしろ右翼と呼ばれる人ほど「大陸や朝鮮なんて金貰ってもいらない」という考えです
どうしてこういう人達は日本が「戦争を仕掛ける側」という前提で話をするのか理解できません
改憲派の人でもほとんどは「戦争を仕掛けられた場合、きちんと対応できるようにする」ための改憲でしょう
といっても私は自衛の範囲内で集団的自衛権さえ認められるなら改憲は必要無いという立場ですが
戦争は確かに悲惨です
しかし他国に占領され自由・自決権を奪われることも悲惨です
それは中国共産党に支配され、漢民族が大量に流入し実質的な民族浄化が行われ、行政・経済を支配され、絶望のあまり僧侶の焼身自殺が相次いでいるチベットの現状を見れば分かります
投稿: cat | 2013年8月25日 (日) 16時43分
>旧日本軍の兵士によって家族や親戚を殺された方にとって、そのような言葉はどう受けとめられるのでしょうか。
待ってくれ。ここは暗に発言を遮ってへんか?俺は現場を見てへんからな。何とも言えんけど、せやからゆうて、組織的な行為では無かったって、証拠が見つかってへんって言うんは、真実を知る上で、重要な話やで(事実かどうかは別にして)。
兵士による事件と、国家による行為は、きっちり分けて考えなあかんて思う。また誰かの心情と、事実も分けて考えるべきよ。そういう考え方を否定する文章に思えたけどな。
俺の祖父は二人とも中国戦線に行っててん。せやからここらへん、祖父の名誉にも関わる重要な部分や。そこで起きた事件の中で、事実に疑問を持たれてる部分は、扱いは慎重であってもええんちゃう?
「はだしのゲン」でどんな風に描かれてたんかは忘れた。けどあれはドキュメンタリーやないんやさかい、別に表現のひとつとして構わんとおもうで。誰かにとって不都合な事がフィクションに描かれるんを全部規制する訳にいかんやろ、表現の自由が保障されたこの国で。
ただ今回の騒動を今後「右傾化」の一面として捉えられるんはちょっとな。マスコミかて、何件抗議があったとか、そんな話題ばっかりやん。事実を検証する時間がもっとあってもええと思うんやけど、何でなんやろねえ。
投稿: K | 2013年8月25日 (日) 17時04分
こんばんは、こちらは暑さも少しやわらいでいるところです。今回の問題は作品全体を通じて評価するべきだと思います。
長崎の原爆を記録し、43年間苦しんだあとトランクにしまっていた写真の公開を決断したジョー・オダネルさんは米国で写真展を試みますがことごとく断られ、非難が彼に浴びせられます。しかし、オダネルさんは訴えを続けます。「アメリカ人が好むと好まらずにかかわらず、8月6日と9日は毎年やってくる」いやがらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本へ行け」。2007年8月9日にお亡くなりになりましたが息子さんが志をついで原爆の惨状を伝えています。
私もKさんと同じく「兵士による事件」(軍法会議にかけられ処罰される)、「国家による行為」(開戦の決定、原爆投下の決定など)は明確にわける必要があるとの立場をとってます。
また、こういった出来事がおこるたびにいつも思うのですが、作品全体を通じて感じ取ってほしい。そのうえで多面的な考えや議論が闊達におこなわれることが作品の理解につながるのではないかと思っています。
投稿: ためいきばかり | 2013年8月25日 (日) 22時07分
catさん、Kさん、ためいきばかりさん、以前の記事に投稿された物申すさん、コメントありがとうございました。
前回記事のコメント欄でも記したとおり見方や評価が人によって分かれそうなテーマだと思っています。さっそくいくつか指摘をいただきました。そのように幅広い視点からご意見を伺えることは貴重な機会だと考えています。一方で、このブログの場では「答え」を一つに絞ることを目的としていませんので、私自身から個々のレスに至りませんがご理解ご容赦ください。
その上で、Kさんからの問いかけに対しては、少しだけ補足させていただきます。記事本文に記したとおり真実は一つでも確証なく、残虐行為の話が一人歩きしているケースも多々あろうかと思います。しかし、充分な兵站が追いつかず、現地徴発しながらの行軍だったことは間違いないようです。その際、強奪や民間人への暴行などがあったことも『生きている兵隊』などから明らかになっています。
規模の大小、組織的な命令の有無などを横に置いたとしても、80年ほど前に旧日本軍の兵士から被害を受けた方々がいて、そのことが親族や地域の中で語り継がれているはずです。そのような記憶が残る方々に対し、記事本文で綴ったような問題意識を持っています。もっと具体的な例え話も考えましたが、平日はコメント欄に関わらない中、この場ではあまり踏み込まないようにしました。かえって分かりづらくしていたら申し訳ありませんが、機会があれば改めて補足させていただきます。
投稿: OTSU | 2013年8月25日 (日) 22時57分
不思議ですね。cat氏も言及していますが、どうして日本が他国を
侵略するとの論調になるのでしょうか。
9条教信者や偏向平和主義者の恣意的なやり方には本当に嫌悪感しか
ありません。どうして他国が日本を侵略し国民を虐殺する可能性を
わざと無視するのでしょうか。そうならない為に、当たり前の権利で
ある国民を国家が守る為に必要なことをするのがなぜ反対なのか
さっぱり理解できません。
国連の事務総長が歴史問題で一方の側にのみ付く発言をしました。
このような発言が許されるのなら国連は機能不全なのでしょう。
あるいは、極めて残念ながら民族性と言わざるをえません。
戦争が悲惨なことは過去に学ばなくても、現在の世界情勢からでも
十分に学習は可能です。だからと言って、過去の罪により現代に
生きる我々が新たな戦争の被害者になることは受け入れることは
できません。OTSU氏は以前に軍備によるパワーバランスではなく
人間による安全保障を目指すべきと言われました。
私は単純に他国の侵略により自分や大切な家族が虐殺されることを
避けたい未然に回避したいにすぎません。
現在のアジアでどのようにすれば、その平和を維持できるかどうぞ
ご教示下さい。人間による安全保障はいかなる方法か具体的に
教えて下さい。
投稿: nagi | 2013年8月26日 (月) 19時04分
OTSUはん
オレは
「かつての戦争において少しでも残虐な事件があったとすれば、その戦争における別の事件が捏造であるなどと訴えるのは、被害者の心情を思えばできないはずである。」
って言うてる様に受けとったんや。
ほんで、そういう言い方は、やんわりとではあるものの問答無用で相手の意見を否定する事になってんのちゃうかと。な。
そういう意味では、はだしのゲンを見せへんのは、アカンわな。目隠しするんやのうて、反論せなあかんねん。今はインターネットもあるんやし、方法はいくらでもある。水木しげるのマンガはリアルで好きや。オレよりもっと前の世代向けやったて思うけど、ちばてつやて言うたら、紫電改のタカやろ。マンガは若い世代にも伝わりやすい。そういう作品は、大事にせな。メディアリテラシーの問題はあるかも知れへんけど、何でも読ませたらええんよ。ほんで何でも語ったらええ。
問答無用より、多事争論がええなあ。
投稿: K | 2013年8月27日 (火) 06時25分
nagiさん、Kさん、以前の記事に投稿されたargusさん、コメントありがとうございました。
以前の記事「もう少し平和フォーラム」の中で人間の安全保障について触れましたが、紛争予防の基本原則として、国家間のパワーバランスに基づく安全ではなく、人間の安全に着目する姿勢を示しています。具体的には、貧困削減などミレニアム開発目標(MDG)の達成、非軍事化・軍縮を通じた国家間紛争の回避、地元の当事者主体による紛争後復興、平和教育などを課題とし、紛争の根源に対処することを重視しています。
現在の対中国、対韓国との関係性で言えば、まず話し合いの場を頻繁に持つべきだと考えています。そのためには当ブログを通して訴え続けている「分かり合えなくても、お互いの言い分を認め合い、いがみ合わない」という関係性を築くことが大事だろうと思っています。機会があれば記事本文を通し、もっと掘り下げてみるつもりです。
Kさん、私自身の問題意識がうまく伝え切れていないような気もしています。たいへん恐縮ながら、やはり機会があれば今後の記事本文を通して補足させていただきます。
投稿: OTSU | 2013年8月31日 (土) 22時50分
今回の記事については,本題ではない部分ですが,私も上のKさんの意見と同じ違和感を持ちました。
悪意を持って攻撃してくる相手に対して,弱みが皆無ではないからと遠慮するのは,必ずしも良い結果を生むとは限らないと思います。
百人斬りの汚名(と私は思います)を着せられ処刑された向井敏明氏も,遺書でアジアの平和のために命を差し出すと述べています。
このような,個人としては家族,国民,そして国際平和のために,または単に逆らえない命令に従って命をかけた人達を貶めることはしたくないと思います。
念のためですが,「はだしのゲン」を否定するものではありません。
投稿: WontBeLong | 2013年8月31日 (土) 23時44分
WontBeLongさん、コメントありがとうございました。
念のため、事実誤認や捏造、誹謗中傷に対し、反論を加えるべきではないという考え方ではありません。個別各論の歴史認識の中では様々な見方があり得ることも承知しています。一方で、総論的な意味合いから実際に何らかの被害を受けた方々を前にして、「どこの国でもやっていること」「組織的なものではない」という言い分がどのように映るのか、そのような関係性を気に留めています。
沖縄で頻発していますが、一兵士の犯罪に際し、在日米軍の関係者が日本政府や日本人に謝罪しています。決して「個人的な問題だ」という釈明は行ないません。そのような延長線上で、場合によっては過去の歴史にも謙虚に向かい合う必要性があることを意識しています。このような説明も、かえって論点を混乱させていくのかも知れません。
お二人から同じような問いかけが続きましたので、この場でも取り急ぎ私自身の問題意識を補足させていただきました。なお、これから出かけなくてはならず、今夜もコメント欄に関われない予定です。新規記事も含め、いつものことですが、しばらくコメント欄に参加できないことをご理解ご容赦ください。
投稿: OTSU | 2013年9月 1日 (日) 10時05分
コメントに関するスタンスは理解していますので気になさらないでください。
あまり考えがまとまらないままにコメントしてしまいましたので,もう一度コメントさせて頂きます。
OTSUさんのお気持ちもよくわかります。私は自分の考えがそれほどまとまっているわけではありません。
ただ,百人斬りのお二人に象徴されるように(あくまで百人斬りの事実がなかったとすればですが),家族のため,世界平和のために命をかけたのに汚名を着せられる人達やその子孫の方々のことも考えたいと思っています。
でも,あっちもこっちもと考えていると何もできなくなってしまうので難しいと思います。
私はそういうことに関して何を決断する立場でもありませんが,何か決断しなければならない場合は,ある程度割り切った整理をするしかないのだろうとは思います。
とりとめがなくて恐縮です。本当によくわかりません。
このように理不尽な状況が生ずるので,「だから戦争を起こしてはならない」というのはよくわかりますが。「殺人が善」という状況になることが決定的に現代社会のありかたと矛盾しますね。
投稿: WontBeLong | 2013年9月 1日 (日) 16時12分