再び、分かり合えなくても
最近、お寄せいただくコメントの数が以前に比べれば少なくなっています。日々の訪問者数に大きな変化はありませんので、コメント投稿される方の数のみが減っていました。理由の一つとして、管理人である私自身がコメント欄から距離を置くようになったため、そのような点が徐々に影響を与えてきたものと思っています。ほぼ毎日、コメント欄に私自身が積極的に参加していた時は極力「一問一答」に努めながら投稿者の皆さんとの意見交換を重ねていました。
昨年春頃からコメント欄への参加を手控えるようになり、今では記事本文を更新する週末に限るようになっていました。管理人からのレスがない、もしくは反応が遅い中で、閲覧されている皆さんから多くのコメントを望むほうが厚かましいことだろうと考えています。それでも幅広い視点や立場からのご意見を伺える機会は貴重なことであり、これからもコメント欄は従来通りのスタイルで維持しながら、一つでも多くのコメントを歓迎し、一人でも多くの方からの投稿を心待ちしていくつもりです。
その上で、相互交流できるブログの利点も重視しているため、コメント欄に寄せられた疑問や意見に対し、私自身の考え方などを新規記事の本文を通してじっくりお答えするように心がけていきます。ただ意図的にスルーしているつもりはありませんが、すべて網羅できていた訳ではなく、結果的に「梨のつぶて」となっている場合も少なくありません。前回の記事「宮崎駿監督の『風立ちぬ』」に対し、久しぶりにnagiさんからコメントが寄せられましたが、たいへん恐縮ながらnagiさんとは「十問一答」ぐらいの関係にとどまっています。
加えて、もともと当ブログは「コメント欄の話、インデックス」などで記してきたとおり「答え」を一つに絞ることを目的としていません。そのため、シロかクロか徹底的に議論し、ご自身の「答え」の正しさを強調されたい方々にとっては物足りない場となっているはずです。それでも投稿したコメントは即座に反映され、明らかな商業目的やスパム以外、削除されることもありません。個々人の意見や主張を気ままに披露する場としては敷居が低いほうのブログだと言えます。基本的に制約の少ない場としていますが、批判意見と誹謗中傷の違いなどは再三訴え、主に次の3点についてご理解ご協力をお願いしています。
- コメント投稿の際、できる限り名前欄の記載を欠かさないようにお願いしています。意見交換をスムースに行なうためですが、匿名での投稿とは言え、その意見内容にある程度責任を持っていただくことも目的としています。したがって、繰り返し投稿される方の場合はハンドルネームを固定されるようお願いしています。
- 相反する意見の対立は平行線をたどりがちです。このコメント欄では結論を出すことを目的としていません。いろいろな「答え」を認め合った場として、攻撃的な言葉を並べることよりも対立する意見の相手方に「なるほど」と思わせるような言葉の競い合いができるようお願いしています。
- 特定の人物や団体を誹謗中傷するような書き込みは慎むようにお願いしています。例えば「あいつは犯罪者だ」「あの団体は反日組織だ」と断定調に発言することなどは認められません。「罪を犯していると思われる」「反日組織だと考えている」は許容範囲となりますが、決して言葉使いの問題ではなく、断定調であれば管理人の責任として警告しなければならない発言となります。
このような「お願い」の意図が充分伝え切れず、窮屈に感じられ、このブログから離れて行った方も多いのかも知れません。いずれにしても当ブログのコメント欄の雰囲気に嫌気が差されて去られた方、暖簾に腕押しのような徒労感や限界を感じて去られた方、度重なる「お願い」に馴染めずに去られた方、いろいろな理由からコメント投稿を控えるようになった方々が大勢いらっしゃることも確かです。「もうコメントすることはない」と宣言されて去られた方として、あまのじゃくさん、かもめのJONAさんがいらっしゃいました。
「対話は不可能」という三下り半を突き付けられた時もありましたが、「空論や詭弁ではぐらかしたり、論点をずらしたり」「異を唱える者を排除する」という考え方は一切ありません。そのような不本意な見られ方と自分自身の思いとのギャップが大きく、たいへん残念なことですが、最低限、こちらから特定の方を排除するような書き込みや姿勢を見せたことは微塵もありませんでした。ぜひとも、このブログは出入り自由な場として、多くの皆さんから気軽にお付き合い願えれば幸いなことだと考えています。
多種多様な意見を無視し踏みにじったおかげで素晴らしく閑散ですねえ それにしてもトピ主さんのジョークのセンスは一流だと思いますねえ わかりあえないから、認めあうこともなくいがみ合うのではないのですか?まさに小さな社会の縮図どおり組合論法を主張し続け、同じ組合系にしか相手にされません。本来、大切な労働運動をあなた方が駄目にした事実を認めることですね。多くの人がそれをここで指摘したのですが、まあいつもどおり踏みにじると思いますけどね。どうでもいいですが。民主党さようなら。ついでに自治労もさようなら。
上記は前回記事のコメント欄で、はぐれ猫さんから寄せられた意見です。このコメントの前にKさんから「宮崎はんのは個人の意見やし別にええと思う。賛成する団体があっても、反対する政党があってもかまへん」とし、「ただ、憲法をかえたい、あるいはかえとうないていう意見そのものを、頭から否定するような風潮を作るんは気に入らん。そもそも憲法にタブーなんかあらへんのやし、侃侃諤々と意見をぶつけあえる時代がくることを願ごうてるわ」という内容のコメントがあり、私から次のようにレスしていました。その内容に対し、はぐれ猫さんから上記のようなコメントが示されるという展開でした。
私自身も個々人で様々な見方や意見があって当たり前だと思っています。そして、それぞれの考え方を自由に発言できる社会が健全であることも言うまでもありません。少し前の当ブログの記事で「分かり合えなくても認め合い、いがみ合わない」という関係性の大切さを訴えさせていただきました。社会の小さな縮図の意味で、このコメント欄においても同様だと考えています。このような趣旨について、いつもKさんにはご理解いただき、たいへん感謝しています。私自身、あまりコメント欄に関われなくなっていますが、ぜひ、これからもよろしくお願いします。
ちなみに少し前の記事は「分かり合えなくても」というものであり、その中でも、はぐれ猫さんからのコメントを紹介していました。当たり前な話ですが、はぐれ猫さんが見て感じたことを私自身が否定できるものではありません。ただ「多種多様な意見を無視し踏みにじった」というように見られてしまうことは意外である一方、「素晴らしく閑散ですねえ」は実際その通りだったため、今回記事の冒頭で私自身の思いを改めて長々と書き進めたところでした。
そして、「わかりあえないから、認めあうこともなくいがみ合うのではないのですか?」という問いかけには、それこそ新規記事を通してお答えすべき大事な論点でした。したがって、少し前の記事の「続き」に位置付け、安直に「再び、分かり合えなくても」というタイトルを付けた新規記事の投稿に至りました。なお、以前の記事「分かり合えなくても」を通し、広く多くの方々から最も理解を求めたかった要旨は次のようなものでした。
自分自身が正しいと信じている「答え」とかけ離れた意見に対し、お互い分かり合えなくても認め合うことや、いがみ合わないように努力することはできるはずです。ひとまず正しさの峻別は横に置き、「そのような見方もあったのか」と許容する姿勢です。異質な「答え」を認め合う姿勢が薄かった場合、他者を見下し、トゲのある言葉を発しがちとなります。相手が「答え」を変えないことに苛立ち、蔑みや憎しみに繋がっていく場合もあります。社会の小さな縮図の意味で、このコメント欄においても同様です。他者に対して攻撃的な言葉をぶつけていくことよりも、相手に対して「なるほど」と思わせる言葉を投げかけていくことが「分かり合えなくても認め合い、いがみ合わない」という関係性だろうと考えています。
はぐれ猫さんの「組合論法を主張し続け、同じ組合系にしか相手にされません」や「大切な労働運動をあなた方が駄目にした事実を認めることですね」という指摘は、はぐれ猫さん自身の「答え」が絶対正しいという前提で発せられていることをご理解ください。「多くの人がそれをここで指摘した」という事実はその通りです。しかし、その指摘通りに私自身が変わらないからと言って苛立つような書き方も、はぐれ猫さん自身の「答え」が絶対正しいという前提であることをご理解ください。
もちろん、私自身が正しいと信じている「答え」が間違いで、はぐれ猫さんたちの「答え」が正しいという可能性を頭から否定するものではありません。言うまでもなく、現実の場面では「答え」を一つに絞らなければならない時が多々あります。しかしながら当ブログの場では前述したように「答え」を一つに絞ることを目的としていません。そのような場であるからこそ、多種多様な意見を認め合いながら「なるほど、そのような見方もあったのか」という気付きの機会に繋げられればと願っています。
相手を見下し、揶揄し、挑発するような書き方が目立てば、閲覧されている皆さんも含め、多くの方が不愉快な思いを抱くことになります。「民主党さようなら。ついでに自治労もさようなら」と考えること自体は個々人の自由で勝手な話ですが、はぐれ猫さんのコメントは他者を不快にさせる書きぶりが目に付いていました。それに対し、私自身が感情を表に出したコメントで対応した場合、いがみ合う関係性に繋がっていくのではないでしょうか。
はぐれ猫さんにとって、意図的なコメント投稿であり、そのような関係性をいとわないのかも知れません。しかし、罵詈雑言に近い応酬となった場合、見苦しく、決して建設的な時間を費やすことにはなり得ません。はぐれ猫さんと私自身の考え方は隔たりが大きく、簡単に分かり合うことはできません。しかし、はぐれ猫さんのコメント投稿を排除しません。そのような意見があることを認めた上で、投稿された内容に対し、私自身をはじめ、閲覧されている方々が、どのように感じ、共感するのか、反発するのか、個々人の判断や評価に委ねていくだけの問題だろうと考えています。
社会の小さな縮図として、せめて当ブログの場では分かり合えなくても、ヘイトスピーチが飛び交うような場にしたくない、そのような問題意識を強めています。今回、はぐれ猫さんの具体的なコメント内容を引用しながら、いろいろ自分なりの思いを綴らせていただきました。あくまでも総論的な意味合いで閲覧されている皆さん全体に訴えながら、このコメント欄の限界と可能性を提起しています。見限られた方は去られ、少しでも興味を持たれた方は再度訪れる、そのような関係性の中、これからも私自身はその時々で広く多くの方々に伝えたい内容をあまり気負わずに書き進めていくつもりです。
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