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2013年5月26日 (日)

分かり合えなくても

コメントが寄せられた際、1年前までは必ず1日に1回以上のレスに努め、お礼の言葉とともに自分なりの感想や補足意見を添えていました。現在は週末に更新する記事本文に集中し、私自身がコメント欄に関わるのも休日に限るようにしています。したがって、コメント欄での問いかけに対しては、記事本文を通してお答えするように心がけていました。そのように改めた経緯は「コメント欄雑感、2012年春」の中で綴っていました。

毎日、夜遅くまで忙しい訳ではありませんので、平日夜でもコメント投稿する時間は充分取れます。ただ日常生活に過度な負担をかけず、ブログを続けていくための一つの判断とし、記事本文に集中する方針に改めていました。そのため、平日に私への問いかけが続いても、たいへん恐縮ながら逐次対応し切れていません。コメント欄常連の皆さんは充分承知されている話だと思っていますが、きめ細かい一問一答に至らない点について改めてご理解ご容赦ください。

「答えられないからスルーしている」というような指摘を受ける時もありますが、言葉足らずになりそうなレスであれば、あえて中途半端に触れないという判断も賢明な選択肢の一つだろうと考えています。このブログを長く続けている中で、基本的な視点や立場が異なる方々と分かり合うことの難しさを体感してきました。様々なモノの見方に対し、議論が平行線をたどり、大きな「溝」を痛感した時は数え切れません。

結局、その「溝」は簡単に埋まらないものと認識し、いろいろな「答え」を認め合った場としてこのコメント欄の限界と可能性について皆さんにご理解を求めるようになっていました。つまり「答え」を一つに絞ることを目的にした議論の場よりも、それぞれの「正しさ」を巧みな言葉で競い合うパネルディスカッションのような場になり得ることを望むようになっていました。実は前回記事「橋下市長の発言の波紋」のコメント欄で、はぐれ猫さんから次のような問いかけがありました。

僕も一つだけトピ主さんに質問します。トピ主さんは信念がありそれが変わることがありません。それならなぜここで意見を求めるのですか?いくらいろんな意見が出ても鼻で笑うような態度では、どなたも憤慨するでしょう。違うのかもしれませんが、僕にはそうとしか見えません。最初から言い分を垂れ流すだけならコメント欄など不要だと思いますよ。

このコメントを意識し、今回の記事を書き進めていました。当たり前な話ですが、自分自身が正しいと信じていることを簡単に変えられるものではありません。その一方で、明らかな勘違いや事実誤認を自覚した場合、すみやかに考え方を改める潔さは持っているつもりです。そうではない限り、日常生活の場面も含めて、持論の正しさに固執する意味合いでは確かに頑固な部類に位置付くほうだろうと思っています。

しかし、自分自身と異なる意見に対し、見下すような意識は一切ありません。そのため、「いろんな意見が出ても鼻で笑うような態度」という見られ方は、たいへん意外なものでした。とは言え、発言者の意図に反した批判を受けることは頻繁にある話であり、憤慨された方がいらっしゃるという事実は事実として押さえていかなければなりません。ちなみにコメント欄から距離を置くようになったのは、このようなギャップの多さからでした。

私自身、感情を完璧にコントロールできている訳ではありませんので、トゲのあるコメントに対しては少しトゲの入ったレスを行なう時も少なくありません。感情を一切押し殺したコメントも、それはそれで慇懃無礼な印象を与えてしまうのかも知れません。いずれにしてもギスギスしたコメントの応酬は控えてくださるようお願いしていながら、時々、自分自身で火に油を注ぐケースもあったため、徐々にコメント欄から距離を置くようになっていました。

コメント欄を設けていないブログも多いようですが、私自身にとって当ブログのコメント欄は欠かせないものと考えています。コメント欄を閉じてしまえば、耳の痛い話を聞くことはありません。しかし、耳の痛い話も含め、幅広い意見や情報に触れられる機会として、このブログのコメント欄はたいへん貴重な場だと言えます。よく変わらないことについての批判を受けがちですが、ブログを続けてきたことで自分自身の意識や日常活動に少なからず影響や変化を及ぼしています。

このあたりの話は機会を見て詳述するかも知れませんが、結論として今のところコメント欄を閉じる考えはありません。自分自身がコメント欄に積極的に関わらない中、たいへん恐縮ながら以上のような思いを抱いていますので、今後ともよろしくお願いします。もちろん不要だという見方を頭から否定するつもりもありませんので、出入り自由な場として個々人それぞれの距離感でお付き合いいただければ幸いです。

今回も当初予定した記事タイトルから内容が大きく変わってしまいました。前回の続きに位置付く新規記事を考えていましたが、前置きとして書き進めていた内容が膨らみ過ぎてしまい、途中でタイトルを付け替えていました。結果的に「分かり合えなくても」というタイトルを付けたことによって、改めて今回の記事を通して訴えたい内容が明確になっていきました。つまり自分自身が正しいと信じている「答え」とかけ離れた意見に対し、お互い分かり合えなくても認め合うことや、いがみ合わないように努力することはできるはずです。

ひとまず正しさの峻別は横に置き、「そのような見方もあったのか」と許容する姿勢です。異質な「答え」を認め合う姿勢が薄かった場合、他者を見下し、トゲのある言葉を発しがちとなります。相手が「答え」を変えないことに苛立ち、蔑みや憎しみに繋がっていく場合もあります。社会の小さな縮図の意味で、このコメント欄においても同様です。他者に対して攻撃的な言葉をぶつけていくことよりも、相手に対して「なるほど」と思わせる言葉を投げかけていくことが「分かり合えなくても認め合い、いがみ合わない」という関係性だろうと考えています。

最後に、コメント欄常連のnagiさんからは数多くの問いかけが示されていました。即答できるものから熟考すべきものまでありましたが、現時点では前述したとおりの取扱いとさせていただきます。その中で、紹介のあった報道内容からは今回の記事タイトルに沿った問題意識に繋げてみます。韓国の中央日報が「原爆は神の罰」というコラムを掲載していました。このような暴言に対しては「分かり合えなくても」というレベルではなく、絶対容認できない論外な内容です。それでも「いがみ合わない」ための努力だけは、これからも尽くしていくべきものと思っています。

「言語道断の内容」「もはや民度が低いとしか言えない」-。韓国の中央日報が原爆投下を「(神の)懲罰」とする記事を掲載した問題で、日本最大規模のコリアタウンが広がる大阪市生野区の在日コリアンからも厳しい非難の声が聞かれた。同区の自営業の男性(36)は、「言葉は悪いが、こんな記事が大新聞に掲載されること自体、(韓国の)民度が低いとしか言えない」とあきれ顔。「日本は人口が多く、政治が安定してインフラも整備されている。韓国は日本のことがうらやましくてたまらない。嫉妬に狂っての妄言だ」と切り捨てた。

また、「韓国という国民性は『いくら国家間の仲が悪くてもこの発言は問題だ』という理論的な考え方ができない」とばっさり。「伊藤博文を暗殺した活動家・安重根を英雄扱いしているが、実際は暗殺事件を機に日本の韓国への締め付けは厳しくなり、国勢はますます衰えた。そういった客観的な見方ができず、感情論でしか語れない」と厳しく批判した。

「今も原爆の影響で苦しんでいる人たちに『そうなって当然だ』と言えるのか。言語道断の発言だ」。同区の団体職員の男性(47)も強い口調で非難した。ただ、「日本でも韓国に対するヘイトスピーチ(憎悪表現)が問題になっている。いがみ合いがエスカレートしたことも今回の記事につながったのではないか。日韓双方が冷静になって歩み寄ってほしい」と呼びかけた。また、「今回の記事の内容がすべての韓国人の意見と思わないでほしい。声の大きい人の意見ばかりが取りあげられ、平和を望む大多数の人の意見が埋もれてしまっている。日韓双方が平和的に生きていける社会を目指すべきなのに…」と肩を落とした。【ZAKZAK2013年5月23日

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2013年5月18日 (土)

橋下市長の発言の波紋

先週日曜は、まだ体調が今一つでしたが、特に自重せず予定通りに外出していました。それでカゼをこじらせていたら猛省するところでしたが、何とか週明けから微熱状態を抜け出せ、仕事から組合業務まで普段通り多忙な日々を過ごすことができていました。さて、先週土曜に更新した記事は「微熱状態での雑談放談」でした。その中で、次のような私自身の問題意識を綴っていました。

ご本人からすれば決して誹謗中傷している意図がなく、発言されているコメントもあろうかと思います。モノの見方が個々人によって大きく異なるため、発言者にとって「当たり前な指摘」だと考えている事象でも、人によっては「思い込みによる事実誤認」ととらえてしまうケースが多々あります。その認識の違いから発せられる言葉は、発言者の意に反して他者を不愉快にさせがちです。

さらに歴史認識の問題の難しさや、発言者が「正しい主張で批判を受けるものではない」と考えていたとしても、人によっては不愉快に感じることが多々あるという現実の問題についても触れていました。具体的な事例を示すことも考えましたが、その問題の賛否に議論が集まりそうであり、あえて前回記事の中では見送っていました。すると奇遇にも様々な意味で「発言者が正しい主張だと考えていても…」という問題意識に直結した具体例が大きく注目された1週間となっていました。

記事タイトルに掲げたとおり大阪市の橋下市長の一連の発言が大きな波紋を広げていました。旧日本軍の「慰安婦制度は必要だった」に加え、在日米軍幹部に「性風俗店を活用したほうが良い」と勧めたことが明らかになっていました。連日、マスコミで取り上げられているため、詳しい説明は不要だろうと思っています。それでも数年先に今回の記事を読み返した時のためにも、騒動の発端となった橋下市長の問題発言を報道した記事内容を改めて残しておきます。

日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)による、慰安婦問題をめぐる発言が波紋を広げている。旧日本軍の慰安婦制度について「当時は軍の規律を維持するために必要だった」と話す一方、在日米軍幹部には「性風俗店を活用した方がいい」とする持論を展開した。これらに国内外から批判が強まっているのだ。橋下氏の発言は、世紀の大暴論なのか。橋下氏は13日午前、大阪市役所で記者団に「(先の大戦で)実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない」と発言。慰安婦制度の強制性は否定しながら、「精神的に高ぶる猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら必要になるのは誰でも分かる」などと語った。

発言が問題視され始めると、橋下氏は同日夕、「軍の規律を維持するために必要だった」といい、大型連休中に、沖縄県の米軍普天間飛行場を視察した際、米軍幹部に対し、海兵隊員に性風俗店を活用させるよう求めたことを明らかにした。この件について、橋下氏は14日早朝からツイッターに20件以上書き込み、真意を説明した。これまでも、数々の過激発言で注目を集めてきた橋下氏だが、今回はややレベルが違う。米国防総省当局者は13日、「問題解決の方法として(性風俗店利用を)検討するのはバカげている」と一蹴し、「国防総省内で買春を禁じる法律がある」と強調した。

閣僚からも異論が相次いだ。稲田朋美行革担当相は14日午前の記者会見で「慰安婦制度は女性の人権に対する大変な侵害だ」と述べ、風俗利用にも「意味が分からない」と不快感を示した。下村博文文科相は「党を代表する人の発言ではない」と酷評した。維新議員団幹部も「歴史のタブーに触れる問題発言だ」と語った。識者の反応はどうか。元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は「慰安婦に関しては、国際社会にとっては単なる歴史認識では済まない論外な発言だ。例えば、『かつての米国の奴隷制度は当時の基準で正しかった』と言うのと同じで、米国で言ったら終わりだ。欧米諸国も『橋下氏とは価値観を共有できない』と考えるだろう。米軍の性的処理を地元の風俗業に委ねるという発想は、沖縄の弱い立場の女性に対する差別的発言だ。最もナショナリズムを刺激する。普天間移設にもマイナスだ」と話した。

東京基督教大学の西岡力教授(韓国・北朝鮮地域研究)は、慰安婦の強制性がなかったという点では「私と同意見だ」としつつも、「貧困による人身売買は現在でも認められない。慰安婦は『必要だった』『よかった』とはいえない。沖縄の性風俗店についても、表で発言することではない。タレント弁護士ではなく政治家なのだから、物言いは慎重にされた方がいい」と話している。厳しい意見ばかりだが、橋下氏は政治的にはどうなるのか。政治ジャーナリストの角谷浩一氏は「維新の党勢が衰えるなか、橋下氏は自分としては合理的だと思える発言をして注目を集め、保守層の支持を得られると考えたのだろう。だが、政治家としての薄っぺらさを感じざるを得ない。維新にはマイナスだ」と指摘した。【ZAKZAK2013年5月14日

この橋下市長の発言について、もう一人の日本維新の会の共同代表である石原慎太郎衆院議員は「軍と売春はつきもので、歴史の原理みたいなものだ。それを踏まえて発言したと思う。彼はそんなに間違ったことは言っていない」と擁護していました。日本維新の会の西村真悟衆院議員は党代議士会で、橋下市長に対する批判の声に反撃するよう訴える中で「日本には韓国人の売春婦がうようよいる」と発言し、党から除名されるという事態に至っていました。

橋下市長本人は冒頭に掲げたように「自分の主張は基本的に間違っていない。なぜ、ここまで批判されてしまうのか」というギャップに直面しながら、ツイッターでの連続投稿やテレビにも積極的に顔を出し、持論の正当性をアピールしていました。ここまでの地位を言葉を武器に築き上げてきた方ですので、簡単に自分の非は認めず、ご自身の発言の「正しさ」を徹底的に訴え続ける姿は想定したものでした。

ただ「日本も悪かったが、日本だけを非難するのはアンフェアだ」という反論や「風俗業には違法な売春を含めていない」という釈明が、あまり効果的な沈静化には繋がっていないようです。さらにアメリカ国務省報道官との対立や「日本人は読解力不足」「大誤報やられた」と他者に責任転嫁し、逆切れしながら今後の囲み取材を拒否する姿勢など、ますます橋下市長の苛立ちが顕著になっていました。

今回、前回記事の要点を引き継ぐ形で書き進めていますので、橋下市長の発言内容に対する評価に関しては直接的に切り込んでいません。コメント欄では様々な意見が伺えるのかも知れませんが、「発言者が正しい主張だと考えていても…」思いがけない批判を受ける図式に絞って取り上げています。もちろんTPOに関わらず、問題発言は問題視される場合が多いものと思いますが、できる限り自分自身の発言がどのような波紋を広げるのか、事前に想像力を働かせていくことの大切さを感じています。

橋下市長を反面教師とするのであれば、常に自分自身の答えは「絶対正しい」と信じ切っていると他者からの批判に対して謙虚になれず、ひたすら対立していく迷路に入りがちな傾向を危惧しています。念のため、自分自身が正しいと信じている「答え」を簡単に変えるべきという主張ではありません。前回の記事でも綴ったことですが、決して「正しさ」の突き合せを放棄すべきという発想でもありません。違いは違いとして認め合うことから「その局面ではどうするか」という工夫や配慮が生まれるものと考えています。

その意味で、今の自民党は臨機応変、したたかな対応をはかっているようです。歴史認識の問題で言えば、少し前まで安倍首相も「発言者が正しい主張だと考えていても…」という火種を抱えた発言を繰り返していました。しかし、橋下市長の発言が強い批判にさらされると「自民党と維新の会は違う」というように突き放していました。最後に、下記のような記事内容も紹介しますが、今回のブログ記事の内容も含め、人によって様々な受けとめ方の枝分かれがあるものと思います。幅広く多様な意見を伺えることを歓迎しつつ、ぜひ、いつもの「お願い」にご協力いただければ幸いです。

橋下徹・大阪市長(43)の「従軍慰安婦肯定」発言と「米兵は風俗をもっと活用」発言に対し、世界中から批判の声が殺到している。女性をモノ扱いの橋下は袋叩きにエスカレート。「風俗業を否定することは自由意志でその業を選んだ女性に対する差別だ」と逆ギレしていたが、この男の評価を安倍首相に聞いてみたいものだ。稲田行革担当相や谷垣法相らは橋下発言を酷評していたが、安倍は自民総裁選に出る前は橋下と協調路線を模索していた。歴史認識などで、2人は共通項があるのである。

例えば、97年に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(代表・中川昭一)が結成され、当時43歳の安倍首相は事務局長を務めた。その勉強会で安倍は従軍慰安婦についてこんなことをしゃべっている。〈韓国にはキーセン・ハウスがあって、そういうことをたくさんの人たちが日常どんどんやっているわけですね。ですから、それはとんでもない行為ではなくて、かなり生活の中に溶け込んでいるのではないかとすら私は思っているんですけれども〉

まさに橋下と同じ発想だが、先に言ったのはこっちの方だ。安倍首相は07年の前回の総理時代にも国会で「強制はなかった」と発言し、当時のシーファー駐日米国大使に「アメリカには性の奴隷を支持する選挙民はいない」と厳しくたしなめられた経緯がある。「安倍首相は〈河野談話は閣議決定したものではない〉と見直す方針も打ち出しています。韓国、中国、米国、すべてを敵に回そうとしているのです」(ジャーナリスト・横田一氏)閣僚たちの批判の矛先は当然、安倍にも向けられるべきである。【ゲンダイネット2013年5月15日

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2013年5月11日 (土)

微熱状態での雑談放談

日替わりで寒暖の差が激しくなっていたためか、木曜日から少しカゼ気味でした。金曜日は仕事中から熱っぽく、その夜に体温を測ったところ36度8分、やはり私にとっては微熱状態だったようです。以前「微熱状態でのコメント欄雑感」という記事を投稿していましたが、平熱が35度前後のため、37度近くまで上がると熱っぽさを感じるようになっています。

金曜夜は早めに休めたため、土曜日には随分楽になっていました。まだ微熱状態が続いていますが、新規記事の投稿に向け、パソコンに向かうことができています。今回も書きたい内容、取り上げるべき題材、いろいろ頭に浮かんでいましたが、紹介した以前の記事のようなタイトルを付け、気ままに思うところを書き進めてみます。そのような状態の中での投稿ですので、いつもにも増して取りとめのない話になることを何卒ご容赦ください。

さて、前回記事「もう少し平和フォーラムについて」のコメント欄に記したことですが、「ブサヨ」や「ネットウヨ」と同じような蔑称を使わなくても批判的な思いは充分伝わります。逆に蔑称を使うことで建設的な議論の入口にさえ、たどり着かないことを危惧しています。そのような問題意識を抱えているため、このブログのコメント欄では「他者を侮蔑した表現は控えて欲しい」という「お願い」を再三再四訴えてきました。

ただ場合によって、ご本人からすれば決して誹謗中傷している意図がなく、発言されているコメントもあろうかと思います。モノの見方が個々人によって大きく異なるため、発言者にとって「当たり前な指摘」だと考えている事象でも、人によっては「思い込みによる事実誤認」ととらえてしまうケースが多々あります。その認識の違いから発せられる言葉は、発言者の意に反して他者を不愉快にさせがちです。

中には言葉使いに一切制約を設けない場があっても構わないのかも知れませんが、不特定多数の方々から閲覧いただいてる当ブログでは前述したとおり他者を不愉快にさせる発言は極力控えられるようお願いしています。「もう少し誹謗中傷の話」の中でも触れたことですが、セクハラやパワハラと同様、自分自身に自覚がなく、不本意であっても問題視された言動がそのように認定されるケースは少なくありません。

念のため、冤罪が起きがちな痴漢事件と同様、被害者から訴えられたからと言って、釈明の機会がないまま加害者として決め付けることも問題だと考えています。強調したい点は、あくまでも発言者自身が「誹謗中傷している意図はない」と述べられても、誹謗中傷だと受けとめられる言葉があり得るという図式です。その上で「コメント欄の話、インデックス」の中では図書館におけるマナーについて触れ、ブログの管理人には皆さんに対してマナー順守を求めなければならない責任があることも記していました。

決してコメント投稿の敷居を高くすることを望んでいる訳ではありません。逆にギスギスした言葉がなるべく減っていくことで、よりいっそう幅広い視点や立場からのコメントが多数寄せられる場になり得ることを願っています。続いて話が広がりますが、このブログのサブタイトルにもあり、今回記事のタイトルにも付けたとおり「雑談放談」となる内容を書き進めてみます。連休明けの国会の場で、次のようなやり取りがあったことを知りました。

安倍晋三首相は7日の参院予算委員会で、人種や宗教などで、ある集団をおとしめたり暴力や差別をあおったりするヘイトスピーチ(憎悪表現)が国内で増えていることについて「一部の国、民族を排除する言動があるのは極めて残念なことだ」と述べた。民主党の鈴木寛氏が、東京・新大久保や大阪・鶴橋で繰り返されている「朝鮮人を殺せ」などと連呼するデモを念頭に質問。安倍首相は「日本人は和を重んじ、排他的な国民ではなかったはず。どんなときも礼儀正しく、寛容で謙虚でなければならないと考えるのが日本人だ」と訴えた。さらに、首相自身が使っているフェイスブック(FB)にも同様のコメントが読者から寄せられていることを認め、「他国の人々を誹謗中傷し、まるで我々が優れていると認識するのはまったく間違い。結果として自分たちを辱めている」と話し、FBでエスカレートしないよう訴える考えを示した。【朝日新聞2013年5月7日

安倍首相の答弁は至極真っ当であり、まったくその通りだと思っています。ただ前述したように自制を求められた方々の中にはヘイトスピーチを行なっている意識がないまま、デモに参加したり、フェイスブックで発言している可能性もあります。要するにその方々にとっては「正しいことを訴えている」という使命感のもとに行動され、中国や韓国とは絶対に理解し合えず、侮蔑すべき「敵国」と決め付けているように感じています。

このような私自身の感じ方も「決め付けであり、誹謗中傷だ」というお叱りを受けるのかも知れません。しかし、ぜひ、ご理解願いたいのは、あくまでも私自身の感じ方の表明に過ぎず、そのような記述の仕方に努めている点にもご留意ください。話が横道にそれがちですが、私自身、できる限り幅広い情報やモノの見方に触れていこうと心がけ、いつも多様なネット上のサイトを閲覧しています。ちなみに最近、BOOK・OFFで『民主党と日教組』『嫌韓流3』を購入するなど、読む本の内容に関しても幅広さを求めていました。

いろいろな情報を得る中で、とりわけ歴史認識の問題の難しさを痛感しています。そもそも事実は一つでも、立場や見方によって評価や受けとめ方が大きく変わります。中には誤った情報を信じてしまったケース、思い込みによって事実誤認しているケースもあり得ます。さらに事実を意図的に歪曲や捏造し、政治的な思惑などから利用しているケースまであるのかも知れません。具体的な事例を示すことも考えましたが、その問題の賛否に議論が集まりそうであり、今回の記事の中では見送らせていただきます。

「雑談放談」な内容だとは言え、やはり今回の記事を通して訴えたい論点がありました。発言者が「正しい主張で批判を受けるものではない」と考えていたとしても、人によっては不愉快に感じることが多々あるという現実の問題です。決して「正しさ」の突き合せを放棄すべきという発想ではありません。違いは違いとして認め合うことから「その局面ではどうするか」という工夫や配慮が生まれるものと考えています。

いずれにしても自分とは異なる主張をされている方々を蔑むような発想や行為は慎むべきものであり、蔑みが憎しみや敵愾心に繋がるような関係性は論外であるはずです。人と人、組織と組織、国と国、あらゆる場面において、まずは他者の立場やモノの見方を慮れるようになりたいものと強く願っています。加えて、いわゆる「右、左」に関係なく、極端な主張に流され、他者に対して攻撃的になる傾向に関しては憂慮しているところです。

そのような青くさい発想があり、このブログの場でも実践できることを常々切望していました。そのため、コメント投稿に関わる「お願い」に固執し、せめて当ブログの場では主義主張が異なる者同士でも、いがみ合うのではなく、違いは違いとして認め合いながら冷静な議論に繋げられることを願っています。最後に、体温は36度を切りましたが、まだ平熱からは高めであり、記事タイトルのとおり微熱状態のまま新規記事の投稿に至っていました。

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2013年5月 5日 (日)

もう少し平和フォーラムについて

前回記事「『ブラック企業』を読み終えて」のコメント欄でも常連のnagiさんから平和フォーラムを「売国反日フォーラム」と揶揄した意見が立て続けに投稿されていました。これまで「平和フォーラムについて」をはじめ、nagiさんからのコメントを意識した記事を重ねていました。意図的に核心を外した内容を記していたつもりはありませんが、nagiさんの疑念を100%応え切れた記事でなかったことも確かだろうと思っています。

その理由として、そもそも立脚している視点が私自身とnagiさんとでは大きく異なるようであり、「nagiさんの疑念≠私の疑念」という相容れない関係性がありました。それでもnagiさんの疑念を少しでも氷解させるため、私なりの言葉で不充分ながらも説明を加えてきました。加えて、もう一つの理由として、私自身の「平和フォーラム>自治労>職員労働組合」という立場についても補足してきました。

一構成員の立場であるため、発言の内容に制約があるという点を強調した訳ではありません。要するに平和フォーラムを代表した説明には至らず、あくまでも私自身の見方や問題意識の表明に過ぎないという点でした。したがって、○か×か、即答できる問いかけであれば、○か×で答えています。即答できなければ、私自身の答えられる範囲内の言葉で対応してきました。「答えられません」、もしくはノーコメントのほうが適切だと考えれば、そもそも記事本文で取り上げる必要性もなくなる話でした。

今回、記事タイトルのとおり「もう少し平和フォーラムについて」掘り下げていきます。最近の記事「出入り自由な場として」のコメント欄で、私から「時間の上でも、気持ちの上でも、力量面でも応えられるタイミングを見計らい、いつの日か記事本文を通し、nagiさんからの問いかけにじっくり挑戦してみるつもりです」とお答えしていました。nagiさんとの「溝」は簡単に埋まらないものと見ていたため、時間を置くことも大事な点だろうと思っていました。

今回の新規記事にあたり、機が熟した訳ではないため、結局のところ同じような言葉の焼き直しとなるのかも知れません。そのため、たいへん恐縮ながらnagiさんの疑念を劇的に氷解させる自信が突然湧き出した訳ではありません。それでも改めて記事本文を通して私自身の見方やコメント投稿に対する「お願い」を綴らせていただくこととしました。まず平和フォーラムに対する理解や疑念ついて、nagiさん自身が次のように整理されていました。

  1. 正式名称、発足の経緯を理解できた。  
  2. 現在の活動の理由が説明され理解できた。 
  3. OTSU氏の信ずる部分が説明され理解できた。 
  4. 一方でなぜ対中国などの活動をしないのか説明がなく理解できない。 
  5. 日本の現実的な危機にどのように対応するか説明がなく理解できない。

上記4と5が大きな疑念として残されているようですが、これまで私なりの「答え」を記事本文やコメント欄に記してきました。nagiさんにとって100%納得いただける「答え」ではないため、たいへん残念ながら厳しい口調での問いかけが繰り返されてしまっています。nagiさんの目からすれば、平和フォーラムがめざす「平和」には偏った選別があり、「反米反日」であり、中国、韓国、北朝鮮には親和性が高いように映っているようです。

平和フォーラムのホームページから確認できる具体的な運動内容から、そのように判断されてしまうのだろうと理解しています。しかし、平和フォーラムがめざしている「核も戦争もない21世紀」は、ある特定の国の「核の保持は正しい」などという偏った理念ではありません。日常的な騒音や墜落の危険性の伴う米軍基地に反対する運動が全国各地にあり、確かにオスプレイの配備や原子力空母の母港化に抗議する平和フォーラムの具体的な活動に注目が集まりがちです。

一方で、平和フォーラムは尖閣諸島や竹島の問題で、各大使館への抗議行動などを提起していません。この問題で、ことさらナショナリズムを鼓舞するような行動が得策だとは考えていないため、私自身にとっては違和感のない対応でした。以前、nagiさんにお伝えしていましたが、平和フォーラムという組織の運動方針は構成員による諸手続きによって定められています。今後、構成員の意識の変化によっては、具体的な活動内容が変わることもあり得ます。いずれにしても「反日」や「親中」を目的とした組織ではないことを私自身は確信しています。

続いて上記5についてですが、「平和の話、インデックス」に託したような私自身の考え方や問題意識があります。この場では長々とした話を繰り返しませんが、国際社会において武力行使そのものが違法とされています。国連憲章で原則禁止と定められ、例外は自衛のためと国連安全保障理事会が認めた場合の武力行使のみを合法としています。とは言え、北朝鮮のように瀬戸際外交で周辺国に脅威を与え続ける国が存在していることも押さえなければなりません。

自衛権の行使として自国内に向けてミサイルが発射されれば、そのミサイルを撃ち落とすことや二の矢が放たれないように敵基地を攻撃できる備えも必要です。しかし、「窮鼠猫をかむ」状態に追い込まないことも肝要であり、一発のミサイルで多くの犠牲者が生じる可能性を想像することも欠かせないはずです。平和フォーラムが掲げる「人間の安全保障」と呼ばれる取り組みは、武力衝突の未然防止を主眼としたものです。

紛争予防の基本原則として、国家間のパワーバランスに基づく安全ではなく、人間の安全に着目する姿勢です。具体的には、貧困削減などミレニアム開発目標(MDG)の達成、非軍事化・軍縮を通じた国家間紛争の回避、地元の当事者主体による紛争後復興、平和教育などを課題とし、紛争の根源に対処することを重視しています。このような問題意識を託した過去の記事内容に「拉致問題を考える」「憲法記念日に思うこと 2009」などがありました。

nagiさんが整理された論点に基づき、ここまで書き進めてきました。ただ今回の記事を通しても、前述したとおりnagiさんの疑念をきれいに氷解できるかどうか自信はありません。安全保障面での問いかけが、もっと高いレベルでの技術的な課題であれば、かみ合った議論にも至っていないのかも知れません。そのような中で最後に、たいへん恐縮ながらnagiさんに対し、私から改めて「お願い」を付け加えなければなりません。

nagiさんから「売国反日フォーラム」という言い方は謗謗中傷ではないというコメントが示されていました。このところ記事本文で再三再四訴えてきた「お願い」であり、あえて直近のコメント欄では繰り返していませんでしたが、改めて説明を加えさせていただきます。「売国反日」という言葉に悪意や敵意が込められていることは周知の事実です。そのため、「平和フォーラムは反日の組織だと思っている」と言われれば不本意ながらも仕方ありませんが、「売国反日フォーラム」という呼び方は誹謗中傷の類いだと考えています。

nagiさん自身に誹謗中傷という自覚がなかったとしても、私自身をはじめ、関係者にとって不愉快さが増す言葉であり、このブログの場では控えて欲しい言い方です。このような指摘を繰り返すことで「言論弾圧」などという論外な批判が示されることもあり、できれば避けたかったところですが、コメント欄常連のnagiさんだからこそ、ぜひとも、改めてご理解いただきたい「お願い」でした。言うまでもありませんが、これからもnagiさんから見た平和フォーラムの問題点を躊躇わず訴えてください。しかし、このブログのコメント欄では他者を侮蔑した表現は控えて欲しい、ただそれだけのお願いです。よろしくお願いします。

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