現実の場面での選択肢として
素早いレスに至らないコメント欄にもかかわらず、多くのコメントをいただき恐縮しています。ちなみに二者択一の質問に対し、結論だけ答えるのであれば、それほど手間暇はかかりません。しかし、それはそれで言葉が不足し、私自身が伝えたいことを充分に伝えられない恐れもありました。そのため、そのようなお尋ねに対しても、やはり少し前から定着させている「記事本文を通してお答えする」というサイクルの中での対応に繋げさせていただきました。
今回の記事タイトルには「Part3」を付けていませんが、当然、前回記事「荒地よりもお花畑 Part2」のコメント欄で皆さんから寄せられたお尋ねに対応する内容を考えています。ただ多岐にわたる切り口や別な話題に広がった内容も含まれていたため、必ずしもすべて網羅した記事となり得ないものと思いますが何卒ご理解ご容赦ください。特にサービス残業の撲滅に向けては組合として常に注視している問題ですので、別な機会に当ブログの記事本文の題材として取り上げるつもりです。
さて、前回記事を投稿した早々に公務員KJさんから「アッパレ!OTSUさんの考え、姿勢、よくわかりました。多くの応援者がいます。論戦には関わりませんが、応援しています」というたいへん勇気付けられるコメントをいただきました。それ以降は前回記事の内容に対し、冷ややかな見方が前面に出た辛口なコメントばかりだったものと理解しています。ただ残念ながら私の主張や問題提起が的確に伝え切れていないようにも感じていました。
当たり前な話ですが、インターネット上での議論は書き込んだ言葉だけで交わさなければなりません。したがって、文章力や表現力の拙さから真意が適切に伝えられない場合も多くなりがちです。一方で、同じ文章を読まれていても、閲覧者個々の基本的な立ち位置や認識が異なるため、受けとめ方や評価に枝分かれが生じる場合も少なくありません。そのような反省と現状を踏まえながら振り返って見ると、国際社会での「お花畑」という言葉に対し、あらゆる国が非武装となるイメージを抱かれた方も多かったようです。
また、自治労に所属する組合の役員が「荒地よりもお花畑」と訴えた場合、ただちに自衛隊をなくし、日米安全保障条約の即刻破棄を主張しているような印象も与えていたようです。今でもそうなのかも知れませんが、空き巣や強盗の心配がないため、家に鍵をかけない地域があることを耳にしていました。確かに国際社会の中でも武力を備える必要のない「お花畑」を究極の理想的な姿としたいものです。とは言え、一気にそのような世界が実現できるとは考えていません。
前々回記事「荒地よりもお花畑」の中でも触れていましたが、「現在の国際社会では自衛のためか、国連が認めない限り武力行使はできません」という言葉に私自身の考え方を表わしていたつもりです。このようなテーマについて「平和の話、インデックス」のとおり様々な切り口から記事を綴り、「憲法記念日に思うこと」の中では「日本国憲法と同時期に定められた国連憲章の前文は、日本国憲法と同様に“二度と戦争は起こさない”という誓いがにじみ出ています」と記していました。
そのような平和主義の発想の中でも、自衛権の行使は否定されていません。要するに私自身の考え方としても、理不尽な侵略によって生命が脅かされた際は戦わざる得ないというものです。国家間の問題に限らず、刑法の上でも「正当防衛・緊急避難」という考え方があるとおりだと認識しています。余談ですが、剣道部だった私の部屋には木刀が置かれています。誤解されないように強調しなければなりませんが、決して暴力を許容する考え方は一切なく、あくまでも緊急避難措置としての心得でした。
かくさんからは「実際の業務においても、例えばどんなに粗暴な税滞納者でも、警察のような暴力装置に頼らず、例外なく話し合いで解決しているのでしょうか?」という質問が寄せられていました。なぜ、前回の記事内容からそのような極端な質問に繋がるのか不思議でしたが、暴力事件に発展する恐れがあれば、警察に通報するマニュアルが整えられています。納税交渉で自主納付に至らず、財産が発覚すれば差押処分を執行するだけです。
話し合いが万能であり、話し合いで物事がすべて解決するというような主張は一言も記していなかったはずです。外交交渉、つまり話し合いで解決しなければ、戦争で白黒を付けようとする発想は絶対「否」と述べたに過ぎません。逆に質問した場合、日常生活の中で隣人とのイザコザがあった際、話し合いで決着しなければ相手に暴力を振るうことを「是」と考えるのでしょうか。実際、そのようなケースでの殺人事件が起こったばかりですので、不謹慎な質問だったかも知れませんが…。
さらに「戦争反対!」と唱えているだけで、平和な社会が築けるとも考えていません。平和の問題に限らず、理想的な姿をどのように描くのか、その目指すべきゴールに向かってどのような判断を地道に重ねていくのか、一つ一つ、現実の場面での選択肢として熟考していくことが欠かせないものと思っています。また、このような心構えは政治家だけに委ねるものではなく、私たち一人ひとりにも問われているものと考えています。
前回と前々回の記事、そのような現実の場面での選択肢が含まれていた内容でした。国政に戻ることを表明した石原都知事が尖閣諸島の問題に際し、「戦争を辞さず」という姿勢を示していました。一方で、防衛庁長官を歴任したことのある自民党の加藤元幹事長は「外交上の問題は存在する」という立場を示すことの重要性を訴えていました。その上で、私自身が支持する選択肢は後者であり、いがみ合った関係性の解消に向けての一歩だと見ていました。
最近、半藤一利さんが原作・監修した『聯合連合艦隊司令長官 山本五十六 ー太平洋戦争70年目の真実ー』のコミックスを読み、DVDにも目を通していました。参考までにサイト上に公開されているストーリーも一番最後に掲げましたが、山本長官が海軍省の次官だった時、宗像という新聞記者からの取材に答えていた言葉がその作品の主題だったように感じていました。今回の記事「現実の場面での選択肢として」を補強する意味合いからも、最後に山本長官と新聞記者との会話を紹介させていただきます。
山本「今や戦は国をかけての総力戦です。勝とうが負けようが、その損失は莫大なものになるでしょう。これから戦争を始めるとすれば、どちらかが焦土と化すまで終わりませんよ」
記者「だからアメリカの顔色を窺って、おとなしくしていろと?」
山本「いいえ、主張すべきことは堂々と主張する。しかし、それは外交によって為されるべきです」
記者「確かにその通りです。そして、外交の最終手段として戦争がある。違いますか?」
山本「いいですか、宗像さん。いったん事を構えたら後戻りできないのが戦です。熟考せず突き進み、この国に惨禍を招いてはいけない」
記者「では暗澹たる閉塞感に国民が押しつぶされてもかまわないと?」
山本「その閉塞感を煽っているのは、あなた方ではないのですか」
記者「我々新聞は、ただ世論を代弁しているだけですが…」
山本「その世論とは、果たして国民の真の声なのでしょうか?」
昭和14年夏。日独伊三国軍事同盟締結をめぐり、日本中が揺れに揺れていた。2年前に勃発した支那事変が泥沼化しつつある中、日本は支那を支援する英米と対抗するためにも、新たな勢力と手を携える必要があった。強硬に三国同盟締結を主張する陸軍のみならず、国民の多くもまた強大なナチスの力に熱狂、この軍事同盟に新たな希望を託していた。
だがその世論に敢然と異を唱える男たちがいた。海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美。彼らが反対する理由は明確だった。日本がドイツと結べば必ずやアメリカとの戦争になる。10倍の国力を持つアメリカとの戦は何としても避けなければならない。陸軍の脅しにも世論の声にも屈することなく、まさに命を賭して反対を唱え続ける五十六たち。その甲斐あって、やがて三国同盟問題は棚上げとなる。
昭和14年8月31日、山本五十六は生涯最後の職である「連合艦隊司令長官」として旗艦「長門」に着任。しかし、時を同じくして世界情勢は急転し始め、アドルフ・ヒトラー率いるナチス国防軍がポーランドに進攻。それを機に欧州で第二次世界大戦が勃発した。快進撃を続けるドイツの力に幻惑され、日本国内では再び三国同盟締結を求める声が沸騰する。そしてその流れに抗しきれず、海軍大臣及川古志郎は従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。
昭和15年9月27日、日独伊三国軍事同盟がついに締結。その後日本は急速に戦争への坂道を転がり落ちていった……。およそ40万人の将兵を預かる連合艦隊司令長官山本五十六は、対米戦回避を願う自らの信念と、それとは裏腹に日一日と戦争へと向かいつつある時代のずれに苦悩し続ける。
だが昭和16年夏、どうしても米国との戦争が避けられないと悟った時、五十六は一つの作戦を立案する。米国太平洋艦隊が停泊するハワイ、真珠湾を航空機によって奇襲。五十六は世界の戦史に類を見ない前代未聞のこの作戦を、軍令部の反対を押し切ってまで敢行しようとする。それは世界に勝つためではなく、一刻も早く戦争を終わらせるための苦渋に満ちた作戦だった……。
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コメント
ここのところ、コメント欄の応酬に関わる内容の記事が続いていますね。
それだけ、OTSUさんが思い悩まれているということなのかな? と愚考していますが、それでも毎週、きちんと更新されていることに敬意を表します。
他の方もたびたび言われていることと思いますが、コメントされる方が読者の全てではありません。
まともな読解力があるのか疑問に思えてしまうようなコメントも見受けられますが、それらはある種の神経過敏と思って受け流しておけばよいと思いますよ。
全ての読者に理解を求めようと思っても、それは無理な話だと思います。
なんだかんだ言ってもOTSUさんの個人ブログなわけですから、そこに労力を払われるよりは、OTSUさん自身の日ごろからの問題意識などについて、忌憚のない思いを綴られることこそが、声なき多くの読者の期待しているところなのではないかと思います。
・・・というか、これは私の期待ですね^^;
投稿: 野次馬 | 2012年10月28日 (日) 19時09分
>暴力事件に発展する恐れがあれば、警察に通報するマニュアルが整えられています。
直接手を下そうが、警察を介そうが暴力には違いありません。
>日常生活の中で隣人とのイザコザがあった際、話し合いで決着しなければ相手に暴力を振るうことを「是」と考えるのでしょうか。
考えません。なぜなら法律がそれを禁じているからです。そのような法律が無い社会に身を置いた時、それでも暴力を行使しないと断言できる自信は自分にはありません。
なぜこんな極端な質問をしたかというと、労組のイデオロギーが業務に悪影響をあたえているのではとの疑念があるからです。あと、労組の安全保障にかかわるスローガンも実務を担当している公務員にしては相当極端だと思うのですが、この認識はおかしいでしょうか?
投稿: かく | 2012年10月28日 (日) 20時21分
野次馬さん、かくさん、コメントありがとうございました。
野次馬さんからお気遣いいただきましたが、このところ「記事本文を通してお答えする」というサイクルの中でコメント欄へのレスが中心となっていました。ただあまり思い悩むことなく、今回の記事も自分なりに思うことを書き進めていました。一方で、確かに話題が偏りがちであり、次回以降の記事は少し流れを変えることも考えてみます。
かくさんが「労組のイデオロギーが業務に悪影響をあたえているのではとの疑念がある」と書かれていましたが、具体的に何を指しているのか漠然としか分かりません。しかしながら明日以降、たいへん恐縮ながらコメント欄への参加は控えるつもりであり、前段の部分も含め、かくさんの意見は意見として聞き置くことにとどめさせていただきます。
投稿: OTSU | 2012年10月28日 (日) 22時11分
最近のOTSUさんは、どうも火に油を注ぎまくってる気がするKEIです。
まず、コメントについてのレスポンスの仕方に、とても悪い印象を受けます。公務員KJさんのような肯定的なコメントについては即座にレスを返すのに、そのあとから続く耳の痛いコメント群にはダンマリ。
(※本業のほうが大事ですし、物理的な制約があるのもわかりますが、あれでは「この人はイエスマンしか求めていないのか?」とあらぬ疑いを抱かれかねません。)
そして、かもめのじょなさんから始まり、あまのじゃくさんが凄くうまくまとめたため2回もおかわりされた、前回エントリ最大の関心事(少なくとも僕はそう思います)「話し合いその他すべての手段を尽くしたうえで攻め込まれたとき、降伏と戦争のどちらを選ぶのか?」という質問については、今回のエントリでもガン無視と来てる。
(※最後の山本長官の話の引用ですが、ここでこの引用をする理由を考えてみると、「降伏か戦争か、と言うが、本当は何らかの手段があるのに二元論を煽っているだけなのだろう?」と、「質問」の大前提を破壊し、うやむやにしようとしているようにも思えてきます。)
ともかく、「質問」を真っ向から受け止めたうえでの「答え」を期待したいと、僕「も」思っています。「答えたくない」でも「降伏」でもいいと思いますよ。自由な発言のできるインターネットなのですから。
投稿: KEI | 2012年10月29日 (月) 04時40分
KEIさん、コメントありがとうございました。
とても意外な指摘を受け、たいへん驚いています。最近の記事の冒頭で連続して申し上げてきたことですが、少し前から時間的にも気持ちの上でも集中しづらい平日の夜はコメント欄への参加を控えるようにしています。言葉が不足しがちなコメント欄ではなく、記事本文を通して様々な問いかけに対してお答えするように努めていました。
そのため、記事本文を投稿した休日の夜はコメント投稿していましたが、平日夜は基本的にきめ細かいレスに至っていませんでした。特に記事本文の本筋にかかわる難しい質問に対しては、ここ数週間のようなパターンで対応していました。
したがって、指摘された公務員KJさんのコメントは投稿日に寄せられたものだったため、その夜のうちにレスしていたに過ぎません。まさか常連のKEIさんから「耳の痛いコメント群にはダンマリ」という指摘を受けるとは思っていませんでした。
さらに前回のコメント欄に寄せられていた主な質問に対し、今回の記事を通して私なりの言葉を尽くして答えていたつもりです。「私自身の考え方としても、理不尽な侵略によって生命が脅かされた際は戦わざる得ない」と答えたとおりです。山本長官の言葉も皆さんに伝えたかった一つで、記事本文のそれぞれの内容に対する評価は個々人で枝分かれされるのでしょうが、「質問」の大前提を破壊し、うやむやにしようとしているという意図はまったくありません。
野次馬さんから「全ての読者に理解を求めようと思っても、それは無理な話だと思います」という言葉をいただきましたが、今回のような指摘を受けることは非常に残念なことでした。改めて幅広い方々と分かり合うことの難しさを痛感しています。
投稿: OTSU | 2012年10月29日 (月) 08時06分
OTSUさんは常々「言葉足らずで(自分の)意図が伝わっていない」と述べています。しかし残念ながら私は「そう」見ていません。
組織と言うのは多様性が大事です。それが組織の「危機管理」に有用だからです。従って「違う事」が重要なんです。
元々「分かり合える」事を目的にしているから、「違う事」が「負」になってしまうのでしょう。残念な事です。
「原発安全神話」というものがありました。「事故が起こる事」を想定していない点で大変評判が悪かった。
これはある種の「絶対主義」です。絶対に事故は起こらない・・という。
ところが今度は「原発危険神話」が出現する。「原発は何が何でも危険で不要」・・という。
OTSUさんは『戦争で白黒付けようとする発想は絶対「否」』と書いています。
これは「戦争で絶対に白黒つける」という発想と本質的には「同じ」です。
一部を絶対化している・・という点で。一部で思考停止になっている・・という点で。
「原発安全神話」と「原発危険神話」が本質的に「同じ」であるように。
OTSUさんは山本五十六を例に出していますが、彼は全て(外交も戦争も自衛も侵略も)を想定して戦略を考えているという点で、残念ながらOTSUさんとは「対極」にいるように見えます。
投稿: あまのじゃく | 2012年10月29日 (月) 10時04分
>話し合いが万能であり、話し合いで物事がすべて解決するというような主張は一言も記していなかったはずです。外交交渉、つまり話し合いで解決しなければ、戦争で白黒を付けようとする発想は絶対「否」と述べたに過ぎません。
下記の文章から、上記のような内容は、到底汲み取れませんでした。
そもそもが尖閣の問題と絡めつつお話されてたわけですね。侵略の気配がある状況下で(竹島は、一方の説に立った場合、既に侵略されている状況ですが)、何の留保もなく戦争は絶対「否」と言われれば、
自衛戦争も含め全て「否」ということだと思わせてしまうのでは?
ま、要は最終的に伝わればいいので、今回の記事で誤解が解けてOKということでいいと思いますが。
~前回記事より
>その通りの局面かも知れませんが、それではお互いが対立し合ったまま、最後は「戦争を辞さず」という覚悟も決めるべきなのでしょうか。
>私自身、絶対「否」であり、何が何でも戦争という選択肢は外した上での優先順位を探ることが最も重要であるものと考えています。
さて、今回記事からすると、OTSUさんと僕らとでは、うまく行けば、互いに理解はできるのかなあという気もします(但し、いわゆる「平和主義者」と合うとは思えません。僕の中では、OTSUさんは、いわゆる「平和主義者」とは違うのかなと思いました)。
「ヒダリ」を否定する人のほとんどは、好戦論者ではないと思いますよ(ま、ネット上に出てくる人は別にして)。当然のごとく戦争を選択肢の中には入れてない。
相手が悪ければ戦争を仕掛けていいんだ、なんて考え方は、ネット上以外からは聞いたことありませんから。
となると、OTSUさんの戦争・武力に対する考え方は、そこまで一般庶民と剥離していない。んー。やっぱ立論のアプローチですかねえ。今回の記事と、前回、前々回の記事とでは、受ける印象がガラリと変わりました。
投稿: かもめのじょな | 2012年10月31日 (水) 00時10分
こんばんは
>「戦争反対!」と唱えているだけで、平和な社会が築けるとも考えていません。
お花畑=「戦争反対!」と唱えて武装解除する=>平和な社会が築ける
という印象でしたがOTSUさんはそうではないのですね。理解しました。
> 木刀が置かれています。
これが日本でいうと自衛隊にあたると思います。
さて木刀はどんなときに使うのでしょう?
※国際社会と同様、警察はいないものとします。
※警告したり話合おうとしても全て無視されます。
1.見知らぬ男が貴方の家の庭に入り、うろうろしています。
ここは俺の家だ。オマエは出て行けと叫んでいます。
2.男は貴方の物置きの窓を割っています。
3.男は貴方の物置家具を運び込み暮らし始めました。
4.一ヶ月後、男は貴方の家の窓を割っています。家の中には家族が怯えています。
5.男は窓から押し入ってきました。
ここは俺の家だ。オマエは出て行けと叫んでいます。
6.男の手にナイフが見えました。
7.男は急に向きを変え、家族に走りよっていきます。
8.家族を人質にとられました。金を置いて出て行けといっています。
みなさんの自衛の肌感覚ってどうなんでしょう。
わたしなら1.または2.の段階で警告した上で打ち込みますね。
以上
投稿: たろう | 2012年10月31日 (水) 04時06分
ん?論点が見えません。
「戦争を問題解決の為の選択肢の1つと見做す」
そう(意見が一致したと)理解して良いですか?それなら結構です。OTSUさんの記事はそう読めなかったものですから。
それならば「戦争」を念頭において多くの議論と備えが必要です。原発の事故を念頭に多くの議論と備えが必要なように。
「核武装」「集団的自衛権」「先制攻撃」「憲法改正」云々。
私が言ったのは「戦争を前提としての議論が不在のまま」外交を語るのは、五十六が新聞記者に警告した「熟考せずに突き進み、この国に惨禍を招いてはいけない」と「同じ」だという事だ。
更には「現在の国際社会では自衛のためか国連が認めない限り武力行使はできません」といった明らかな「前提誤認」は改めて貰わないと健全な議論は出来ないでしょう。
米-イラク戦争が「武力行使」でなかった筈はありませんし、隣国が自衛を名目に侵攻してこない保証など全く無いからだ。
五十六が戦争に反対したのは単に「アメリカに勝てない」からで、孫子の兵法を厳格に実行しただけだ。
若しも日米戦争が日本の有利であったならば、彼は遠慮なく、否寧ろ積極的に武力を行使し国益を得ようとしただろう。
投稿: あまのじゃく | 2012年10月31日 (水) 15時19分
再度念を押すが、私は「戦争反対」を咎めているのではなく「戦争を念頭に置かない事」を咎めているのです。誤解なきよう。
第一「戦争大賛成」なんて御仁がいるとは思えない。
投稿: あまのじゃく | 2012年10月31日 (水) 15時27分
>第一「戦争大賛成」なんて御仁がいるとは思えない。
まさにそのとおりですね。
本気でOTSU氏も言ってるわけではないと思いますが、
あくまでも選択肢を放棄する必要がないと言ってるに
すぎません。
>逆に質問した場合、日常生活の中で隣人とのイザコザがあった際、話し合いで決着しなければ相手に暴力を振るうことを「是」と考えるのでしょうか。
質問にお答えします。
暴力を振るうことを「是」とするわけでなく
相手が暴力を振るう可能性を考え準備することを「是」とする。
極めて簡単な話だと思うのですが。
私にはなぜOTSU氏があえて簡単な話を難しくしようと
するのかが理解できません。
山本五十六の引用も、彼はあくまでも対アメリカとの戦力比較をして
戦争反対したにすぎません。勝てる戦いなら賛成したでしょう。
なんらかの印象を誘導したいのでしょうか?
投稿: nagi | 2012年10月31日 (水) 17時11分
>「耳の痛いコメント群にはダンマリ」という指摘を受けるとは思っていませんでした。
(※)内で述べている通り、「そう見える」と言っているだけで、「そう思って」いるわけではありません。
…現在の常連さんの傾向的に、タイミングがかみ合わないってことですね。
>「私自身の考え方としても、理不尽な侵略によって生命が脅かされた際は戦わざる得ない」と答えたとおりです。
これは大変失礼いたしました。全く読めていませんでした。
失礼ついでにもう一点だけ確認を。「質問」への答えはそれでいいとして、前後に否定が入り乱れていて二重否定・三重否定になっており、読み込もうとするとこんがらがってくる(というか「結局どっちなのよ?」と突っ込みたくなる)のですが、このようにする意図はなんなのでしょうか?
投稿: KEI | 2012年11月 2日 (金) 22時57分
↑それこそOTSU節なんですよ。
投稿: 突っ込み | 2012年11月 3日 (土) 06時55分
あまのじゃくさん、かもめのじょなさん、たろうさん、nagiさん、KEIさん、突っ込みさん、コメントありがとうございました。
今日も出かけるため、記事本文の更新は明日になる予定です。まだまだ今回のようなテーマでお答えすべき点も多いようですが、新規記事は別な題材を考えています。また機会があれば「お花畑」に絡む内容を投稿するつもりですが、記事本文を通した掘り下げは一区切りさせていただきます。そのため、この場で何点か補足的なコメントをさせていただきます。
まず当ブログでは分かり合えることを目的としていません。少し前の記事本文でも書き込んだとおり「分かり合うことの難しさ」を強く認識しているため、共感を得られないこと、反発や批判を受けることに対し、達観しているつもりです。もちろん多くの方々と共感し合えることを願っていますが、「違う事」が「負」になっている意識はまったくありません。その上で、自分の発している言葉や意図が正確に伝わらないこと、伝え切れていない自分自身の力量不足などに関して残念な気持ちを漏らしていました。
現状に対する見方や評価は個々人での温度差はあるのでしょうが、「現在の国際社会では自衛のためか、国連が認めない限り武力行使はできません」というルールは存在しています。イラク戦争も国連安保理の決議の数々を経て、アメリカは「大量破壊兵器の保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」というような理屈を付けての開戦でした。私自身、その正当性に強く疑義を持っていますが、前述したような国際的なルールが強く意識されていたことも確かだろうと思っています。そして、そのようなルールが厳守され、国際社会の中で国連がしっかりとした警察の役割を発揮できるような「お花畑」に近付くことを願ったブログの記事内容だったとも言えました。
皆さんが全員『聯合連合艦隊司令長官 山本五十六 ー太平洋戦争70年目の真実ー』を見られていないはずですので、「10倍の国力を持つアメリカとの戦は何としても避けなければならない」という記述から山本長官が「アメリカに勝てない」から反対したと読み取られるのは当然だろうと思っています。それでも記者との会話をはじめ、軍人である山本長官が根っからの非戦論者だったことは全編を通して伝わってきていました。「主張すべきことは堂々と主張する。しかし、それは外交によって為されるべきです」という言葉、戦争に前のめりになっている世論やマスコミに対する苦言などに表わされていました。また、私との立ち位置とは関係なく、ただ皆さんに伝えかった趣旨が記者との会話の中に凝縮されていたものと考えていました。
やはり書き始めると、予想以上に長い文章となってしまいます(苦笑)。それにもかかわらず、皆さんの疑問にすべて答え切れていない中途半端さも残るのだろうと思っています。そのあたりは何卒ご理解ご容赦ください。最後に、これまで「攻められたら戦う」というようにスッキリ書けば分かりやすいことをよくアドバイスされていました。それでも「理不尽な侵略によって生命が脅かされた際は戦わざる得ない」という言葉が私自身の思いを的確に表わしているため、そのような「OTSU節」が多用されています。これも自分自身の文章の書き方に対する「こだわり」であり、これからも劇的に変えられないはずですのでご容赦ください。
投稿: OTSU | 2012年11月 3日 (土) 09時54分
OTSUさんは「○○さんに投票してください」は選挙勧誘だが「○○さんの応援をお願いします」は選挙勧誘では無いと説明し、それを根拠に「自治労は合法的に活動している」と結論付けている。
同様に「違う事は負では無い」「攻められれば戦う」と結論付けているが、説明を聞いても「そう」読めない。
「攻められれば戦う」とは「戦争を問題解決の1つ」として認識する事を意味する。
それならばあらゆる事を想定して「軍隊」や「戦争法規」を議論し備えるべきだが、それが出来るのか?核武装の議論が出来るのか?を問うているのです。
原発ではあらゆる事故を想定すべきであるように、戦争を前提とした以上、あらゆる状況を想定し(軍事を)規定しておく事こそ「暴走」を抑制出来るのだ。
「自衛」とか「侵略」といった情緒的な言葉で議論するのは止めた方が良い。
米-イラク戦争は国連の承認など得ていない。「承認を得なければ武力行使が出来ない」といった国際ルールを私は知らない。
「刑法」があるのだから「警察」は要らない・・という考え方に与する事もない。これを「お花畑」という。
「非戦論者」か「好戦論者」かなどは「どうでも良い事」であり、「戦争を想定していない事」を断罪していると私は再三再四述べているのに、五十六については同じ説明を繰り返している。
絶望的な感じがしないでもない。
投稿: あまのじゃく | 2012年11月 3日 (土) 15時18分
あ。五十六さんのお話で、一点。
現代の戦争は、当時とは様相は違っています。
>山本「今や戦は国をかけての総力戦です。勝とうが負けようが、その損失は莫大なものになるでしょう。これから戦争を始めるとすれば、どちらかが焦土と化すまで終わりませんよ」
現代では、軍事拠点を破壊すれば、ほぼ戦争は終わりです。現代兵器戦で、一方が兵器を使えなくなれば、それは勝ちようがないですから。
当時と前提が異なるのではないでしょうか。
あとの問題は、その後の収拾の仕方ですね。首魁を追い詰めるのかどうか、追い詰める過程でゲリラ戦を仕掛けてこられると市民まで巻き込む危険がある、とか、そういった問題が出てくる。
ま、それは置いといて、戦争が、とんでもない損失をもたらすのは間違いありません。普段から外交の選択肢の中に、当然に入れておくのは愚の骨頂であると、おそらく多くの人間が思ってる。ところが、いわゆる「平和主義者」の方々は、最終手段としての戦争の準備すら、絶対否定されますよね。
OTSUさんのように自衛戦争肯定論をとれば、何の準備もなく(あるいはゼロ戦攻撃に対して竹槍で迎え撃つ程度の準備で)最悪の事態を迎えることはあってはならないはずです。
軍備を否定するなら、それは自衛戦争否定論に等しいですし、自衛戦争に参加する者の命を‘確実に’犠牲にすることになるでしょう。
OTSUさんは、軍備そのものは否定されていない、ということで理解しておいてよろしいでしょうか。
投稿: かもめのじょな | 2012年11月 4日 (日) 10時08分
もうすぐ記事が更新されるだろうが、大事な事だから最後に書いておこう。
「事故を想定していない原発計画」を批判している者が、「戦争を想定していない憲法」を不思議とも思わない。馬鹿の極みだ。
私から見ると、本当の意味で自分の頭で考えていない者が少なくない。否、考えていないだけでなく、真理を求めようとする気概も全く持っていない。
「考えずに、真理も探究しない」・・最近「集団ヒステリーによる殺し合い」の事件が起きているが、原因は前述の精神構造だ。
実はこの精神構造が「ファシズム」を生む。
戦前戦中の軍国主義がファシズム的であった事は間違いないだろう。しかし「それ」を反省して「ファシズムは許さないぞ・・と言う名のファシズム」が戦後の日本を覆ったのだ。
狂った様に「原発反対デモ」を行っている者も、何も考えずに「平和憲法」などと信じている者も、松岡洋右が国連を脱退した時に大喝采を送った者も「本質は同じ」なんだよ。
投稿: あまのじゃく | 2012年11月 4日 (日) 10時13分
あまのじゃくさん、かもめのじょなさん、いつもコメントありがとうございます。
この記事のタイトルのとおり「現実の場面での選択肢として」という意味は、現状を起点に物事を考えるようにしています。究極の理想的な姿は「鍵をかける必要のない」社会、つまり非武装が基本となる国際社会です。しかし、残念ながら理想とは程遠い現状であるため、現実的な選択肢として自衛隊の存在は否定できません。かもめのじょなさんからのお尋ねに対しては、この言葉を私なりの答えとさせてください。また、自らの生命を国防にかけられている自衛隊員の皆さんには心から敬意を表しています。なお、その次の理想形として、せめて昨日のコメントのとおり国連憲章の前文が実効あるものとなる「お花畑」を願っているところです。
あまのじゃくさんからは手厳しい指摘を受けていますが、この場で逐一お答えしても歩み寄りができないことを過去の経験則から学んでいます。したがって、あまのじゃくさんの主張が閲覧者の皆さんに対し、どのように受けとめられていくのか、もしくは私自身の主張が受けとめられていくのか、それ以上でもそれ以下でもない場でよろしいのだろうと思っています。その理由は今まで繰り返し述べてきましたので、改めてご理解くださるようよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2012年11月 4日 (日) 14時44分