現実の場面での選択肢として
素早いレスに至らないコメント欄にもかかわらず、多くのコメントをいただき恐縮しています。ちなみに二者択一の質問に対し、結論だけ答えるのであれば、それほど手間暇はかかりません。しかし、それはそれで言葉が不足し、私自身が伝えたいことを充分に伝えられない恐れもありました。そのため、そのようなお尋ねに対しても、やはり少し前から定着させている「記事本文を通してお答えする」というサイクルの中での対応に繋げさせていただきました。
今回の記事タイトルには「Part3」を付けていませんが、当然、前回記事「荒地よりもお花畑 Part2」のコメント欄で皆さんから寄せられたお尋ねに対応する内容を考えています。ただ多岐にわたる切り口や別な話題に広がった内容も含まれていたため、必ずしもすべて網羅した記事となり得ないものと思いますが何卒ご理解ご容赦ください。特にサービス残業の撲滅に向けては組合として常に注視している問題ですので、別な機会に当ブログの記事本文の題材として取り上げるつもりです。
さて、前回記事を投稿した早々に公務員KJさんから「アッパレ!OTSUさんの考え、姿勢、よくわかりました。多くの応援者がいます。論戦には関わりませんが、応援しています」というたいへん勇気付けられるコメントをいただきました。それ以降は前回記事の内容に対し、冷ややかな見方が前面に出た辛口なコメントばかりだったものと理解しています。ただ残念ながら私の主張や問題提起が的確に伝え切れていないようにも感じていました。
当たり前な話ですが、インターネット上での議論は書き込んだ言葉だけで交わさなければなりません。したがって、文章力や表現力の拙さから真意が適切に伝えられない場合も多くなりがちです。一方で、同じ文章を読まれていても、閲覧者個々の基本的な立ち位置や認識が異なるため、受けとめ方や評価に枝分かれが生じる場合も少なくありません。そのような反省と現状を踏まえながら振り返って見ると、国際社会での「お花畑」という言葉に対し、あらゆる国が非武装となるイメージを抱かれた方も多かったようです。
また、自治労に所属する組合の役員が「荒地よりもお花畑」と訴えた場合、ただちに自衛隊をなくし、日米安全保障条約の即刻破棄を主張しているような印象も与えていたようです。今でもそうなのかも知れませんが、空き巣や強盗の心配がないため、家に鍵をかけない地域があることを耳にしていました。確かに国際社会の中でも武力を備える必要のない「お花畑」を究極の理想的な姿としたいものです。とは言え、一気にそのような世界が実現できるとは考えていません。
前々回記事「荒地よりもお花畑」の中でも触れていましたが、「現在の国際社会では自衛のためか、国連が認めない限り武力行使はできません」という言葉に私自身の考え方を表わしていたつもりです。このようなテーマについて「平和の話、インデックス」のとおり様々な切り口から記事を綴り、「憲法記念日に思うこと」の中では「日本国憲法と同時期に定められた国連憲章の前文は、日本国憲法と同様に“二度と戦争は起こさない”という誓いがにじみ出ています」と記していました。
そのような平和主義の発想の中でも、自衛権の行使は否定されていません。要するに私自身の考え方としても、理不尽な侵略によって生命が脅かされた際は戦わざる得ないというものです。国家間の問題に限らず、刑法の上でも「正当防衛・緊急避難」という考え方があるとおりだと認識しています。余談ですが、剣道部だった私の部屋には木刀が置かれています。誤解されないように強調しなければなりませんが、決して暴力を許容する考え方は一切なく、あくまでも緊急避難措置としての心得でした。
かくさんからは「実際の業務においても、例えばどんなに粗暴な税滞納者でも、警察のような暴力装置に頼らず、例外なく話し合いで解決しているのでしょうか?」という質問が寄せられていました。なぜ、前回の記事内容からそのような極端な質問に繋がるのか不思議でしたが、暴力事件に発展する恐れがあれば、警察に通報するマニュアルが整えられています。納税交渉で自主納付に至らず、財産が発覚すれば差押処分を執行するだけです。
話し合いが万能であり、話し合いで物事がすべて解決するというような主張は一言も記していなかったはずです。外交交渉、つまり話し合いで解決しなければ、戦争で白黒を付けようとする発想は絶対「否」と述べたに過ぎません。逆に質問した場合、日常生活の中で隣人とのイザコザがあった際、話し合いで決着しなければ相手に暴力を振るうことを「是」と考えるのでしょうか。実際、そのようなケースでの殺人事件が起こったばかりですので、不謹慎な質問だったかも知れませんが…。
さらに「戦争反対!」と唱えているだけで、平和な社会が築けるとも考えていません。平和の問題に限らず、理想的な姿をどのように描くのか、その目指すべきゴールに向かってどのような判断を地道に重ねていくのか、一つ一つ、現実の場面での選択肢として熟考していくことが欠かせないものと思っています。また、このような心構えは政治家だけに委ねるものではなく、私たち一人ひとりにも問われているものと考えています。
前回と前々回の記事、そのような現実の場面での選択肢が含まれていた内容でした。国政に戻ることを表明した石原都知事が尖閣諸島の問題に際し、「戦争を辞さず」という姿勢を示していました。一方で、防衛庁長官を歴任したことのある自民党の加藤元幹事長は「外交上の問題は存在する」という立場を示すことの重要性を訴えていました。その上で、私自身が支持する選択肢は後者であり、いがみ合った関係性の解消に向けての一歩だと見ていました。
最近、半藤一利さんが原作・監修した『聯合連合艦隊司令長官 山本五十六 ー太平洋戦争70年目の真実ー』のコミックスを読み、DVDにも目を通していました。参考までにサイト上に公開されているストーリーも一番最後に掲げましたが、山本長官が海軍省の次官だった時、宗像という新聞記者からの取材に答えていた言葉がその作品の主題だったように感じていました。今回の記事「現実の場面での選択肢として」を補強する意味合いからも、最後に山本長官と新聞記者との会話を紹介させていただきます。
山本「今や戦は国をかけての総力戦です。勝とうが負けようが、その損失は莫大なものになるでしょう。これから戦争を始めるとすれば、どちらかが焦土と化すまで終わりませんよ」
記者「だからアメリカの顔色を窺って、おとなしくしていろと?」
山本「いいえ、主張すべきことは堂々と主張する。しかし、それは外交によって為されるべきです」
記者「確かにその通りです。そして、外交の最終手段として戦争がある。違いますか?」
山本「いいですか、宗像さん。いったん事を構えたら後戻りできないのが戦です。熟考せず突き進み、この国に惨禍を招いてはいけない」
記者「では暗澹たる閉塞感に国民が押しつぶされてもかまわないと?」
山本「その閉塞感を煽っているのは、あなた方ではないのですか」
記者「我々新聞は、ただ世論を代弁しているだけですが…」
山本「その世論とは、果たして国民の真の声なのでしょうか?」
昭和14年夏。日独伊三国軍事同盟締結をめぐり、日本中が揺れに揺れていた。2年前に勃発した支那事変が泥沼化しつつある中、日本は支那を支援する英米と対抗するためにも、新たな勢力と手を携える必要があった。強硬に三国同盟締結を主張する陸軍のみならず、国民の多くもまた強大なナチスの力に熱狂、この軍事同盟に新たな希望を託していた。
だがその世論に敢然と異を唱える男たちがいた。海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美。彼らが反対する理由は明確だった。日本がドイツと結べば必ずやアメリカとの戦争になる。10倍の国力を持つアメリカとの戦は何としても避けなければならない。陸軍の脅しにも世論の声にも屈することなく、まさに命を賭して反対を唱え続ける五十六たち。その甲斐あって、やがて三国同盟問題は棚上げとなる。
昭和14年8月31日、山本五十六は生涯最後の職である「連合艦隊司令長官」として旗艦「長門」に着任。しかし、時を同じくして世界情勢は急転し始め、アドルフ・ヒトラー率いるナチス国防軍がポーランドに進攻。それを機に欧州で第二次世界大戦が勃発した。快進撃を続けるドイツの力に幻惑され、日本国内では再び三国同盟締結を求める声が沸騰する。そしてその流れに抗しきれず、海軍大臣及川古志郎は従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。
昭和15年9月27日、日独伊三国軍事同盟がついに締結。その後日本は急速に戦争への坂道を転がり落ちていった……。およそ40万人の将兵を預かる連合艦隊司令長官山本五十六は、対米戦回避を願う自らの信念と、それとは裏腹に日一日と戦争へと向かいつつある時代のずれに苦悩し続ける。
だが昭和16年夏、どうしても米国との戦争が避けられないと悟った時、五十六は一つの作戦を立案する。米国太平洋艦隊が停泊するハワイ、真珠湾を航空機によって奇襲。五十六は世界の戦史に類を見ない前代未聞のこの作戦を、軍令部の反対を押し切ってまで敢行しようとする。それは世界に勝つためではなく、一刻も早く戦争を終わらせるための苦渋に満ちた作戦だった……。
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