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2012年10月28日 (日)

現実の場面での選択肢として

素早いレスに至らないコメント欄にもかかわらず、多くのコメントをいただき恐縮しています。ちなみに二者択一の質問に対し、結論だけ答えるのであれば、それほど手間暇はかかりません。しかし、それはそれで言葉が不足し、私自身が伝えたいことを充分に伝えられない恐れもありました。そのため、そのようなお尋ねに対しても、やはり少し前から定着させている「記事本文を通してお答えする」というサイクルの中での対応に繋げさせていただきました。

今回の記事タイトルには「Part3」を付けていませんが、当然、前回記事「荒地よりもお花畑 Part2」のコメント欄で皆さんから寄せられたお尋ねに対応する内容を考えています。ただ多岐にわたる切り口や別な話題に広がった内容も含まれていたため、必ずしもすべて網羅した記事となり得ないものと思いますが何卒ご理解ご容赦ください。特にサービス残業の撲滅に向けては組合として常に注視している問題ですので、別な機会に当ブログの記事本文の題材として取り上げるつもりです。

さて、前回記事を投稿した早々に公務員KJさんから「アッパレ!OTSUさんの考え、姿勢、よくわかりました。多くの応援者がいます。論戦には関わりませんが、応援しています」というたいへん勇気付けられるコメントをいただきました。それ以降は前回記事の内容に対し、冷ややかな見方が前面に出た辛口なコメントばかりだったものと理解しています。ただ残念ながら私の主張や問題提起が的確に伝え切れていないようにも感じていました。

当たり前な話ですが、インターネット上での議論は書き込んだ言葉だけで交わさなければなりません。したがって、文章力や表現力の拙さから真意が適切に伝えられない場合も多くなりがちです。一方で、同じ文章を読まれていても、閲覧者個々の基本的な立ち位置や認識が異なるため、受けとめ方や評価に枝分かれが生じる場合も少なくありません。そのような反省と現状を踏まえながら振り返って見ると、国際社会での「お花畑」という言葉に対し、あらゆる国が非武装となるイメージを抱かれた方も多かったようです。

また、自治労に所属する組合の役員が「荒地よりもお花畑」と訴えた場合、ただちに自衛隊をなくし、日米安全保障条約の即刻破棄を主張しているような印象も与えていたようです。今でもそうなのかも知れませんが、空き巣や強盗の心配がないため、家に鍵をかけない地域があることを耳にしていました。確かに国際社会の中でも武力を備える必要のない「お花畑」を究極の理想的な姿としたいものです。とは言え、一気にそのような世界が実現できるとは考えていません。

前々回記事「荒地よりもお花畑」の中でも触れていましたが、「現在の国際社会では自衛のためか、国連が認めない限り武力行使はできません」という言葉に私自身の考え方を表わしていたつもりです。このようなテーマについて「平和の話、インデックス」のとおり様々な切り口から記事を綴り、「憲法記念日に思うこと」の中では「日本国憲法と同時期に定められた国連憲章の前文は、日本国憲法と同様に“二度と戦争は起こさない”という誓いがにじみ出ています」と記していました。

そのような平和主義の発想の中でも、自衛権の行使は否定されていません。要するに私自身の考え方としても、理不尽な侵略によって生命が脅かされた際は戦わざる得ないというものです。国家間の問題に限らず、刑法の上でも「正当防衛・緊急避難」という考え方があるとおりだと認識しています。余談ですが、剣道部だった私の部屋には木刀が置かれています。誤解されないように強調しなければなりませんが、決して暴力を許容する考え方は一切なく、あくまでも緊急避難措置としての心得でした。

かくさんからは「実際の業務においても、例えばどんなに粗暴な税滞納者でも、警察のような暴力装置に頼らず、例外なく話し合いで解決しているのでしょうか?」という質問が寄せられていました。なぜ、前回の記事内容からそのような極端な質問に繋がるのか不思議でしたが、暴力事件に発展する恐れがあれば、警察に通報するマニュアルが整えられています。納税交渉で自主納付に至らず、財産が発覚すれば差押処分を執行するだけです。

話し合いが万能であり、話し合いで物事がすべて解決するというような主張は一言も記していなかったはずです。外交交渉、つまり話し合いで解決しなければ、戦争で白黒を付けようとする発想は絶対「否」と述べたに過ぎません。逆に質問した場合、日常生活の中で隣人とのイザコザがあった際、話し合いで決着しなければ相手に暴力を振るうことを「是」と考えるのでしょうか。実際、そのようなケースでの殺人事件が起こったばかりですので、不謹慎な質問だったかも知れませんが…。

さらに「戦争反対!」と唱えているだけで、平和な社会が築けるとも考えていません。平和の問題に限らず、理想的な姿をどのように描くのか、その目指すべきゴールに向かってどのような判断を地道に重ねていくのか、一つ一つ、現実の場面での選択肢として熟考していくことが欠かせないものと思っています。また、このような心構えは政治家だけに委ねるものではなく、私たち一人ひとりにも問われているものと考えています。

前回と前々回の記事、そのような現実の場面での選択肢が含まれていた内容でした。国政に戻ることを表明した石原都知事が尖閣諸島の問題に際し、「戦争を辞さず」という姿勢を示していました。一方で、防衛庁長官を歴任したことのある自民党の加藤元幹事長は「外交上の問題は存在する」という立場を示すことの重要性を訴えていました。その上で、私自身が支持する選択肢は後者であり、いがみ合った関係性の解消に向けての一歩だと見ていました。

最近、半藤一利さんが原作・監修した『聯合連合艦隊司令長官 山本五十六 ー太平洋戦争70年目の真実ー』のコミックスを読み、DVDにも目を通していました。参考までにサイト上に公開されているストーリーも一番最後に掲げましたが、山本長官が海軍省の次官だった時、宗像という新聞記者からの取材に答えていた言葉がその作品の主題だったように感じていました。今回の記事「現実の場面での選択肢として」を補強する意味合いからも、最後に山本長官と新聞記者との会話を紹介させていただきます。

山本「今や戦は国をかけての総力戦です。勝とうが負けようが、その損失は莫大なものになるでしょう。これから戦争を始めるとすれば、どちらかが焦土と化すまで終わりませんよ」

記者「だからアメリカの顔色を窺って、おとなしくしていろと?」 

山本「いいえ、主張すべきことは堂々と主張する。しかし、それは外交によって為されるべきです」 

記者「確かにその通りです。そして、外交の最終手段として戦争がある。違いますか?」 

山本「いいですか、宗像さん。いったん事を構えたら後戻りできないのが戦です。熟考せず突き進み、この国に惨禍を招いてはいけない」

記者「では暗澹たる閉塞感に国民が押しつぶされてもかまわないと?」

山本「その閉塞感を煽っているのは、あなた方ではないのですか」

記者「我々新聞は、ただ世論を代弁しているだけですが…」

山本「その世論とは、果たして国民の真の声なのでしょうか?」

昭和14年夏。日独伊三国軍事同盟締結をめぐり、日本中が揺れに揺れていた。2年前に勃発した支那事変が泥沼化しつつある中、日本は支那を支援する英米と対抗するためにも、新たな勢力と手を携える必要があった。強硬に三国同盟締結を主張する陸軍のみならず、国民の多くもまた強大なナチスの力に熱狂、この軍事同盟に新たな希望を託していた。

だがその世論に敢然と異を唱える男たちがいた。海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美。彼らが反対する理由は明確だった。日本がドイツと結べば必ずやアメリカとの戦争になる。10倍の国力を持つアメリカとの戦は何としても避けなければならない。陸軍の脅しにも世論の声にも屈することなく、まさに命を賭して反対を唱え続ける五十六たち。その甲斐あって、やがて三国同盟問題は棚上げとなる。

昭和14年8月31日、山本五十六は生涯最後の職である「連合艦隊司令長官」として旗艦「長門」に着任。しかし、時を同じくして世界情勢は急転し始め、アドルフ・ヒトラー率いるナチス国防軍がポーランドに進攻。それを機に欧州で第二次世界大戦が勃発した。快進撃を続けるドイツの力に幻惑され、日本国内では再び三国同盟締結を求める声が沸騰する。そしてその流れに抗しきれず、海軍大臣及川古志郎は従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。

昭和15年9月27日、日独伊三国軍事同盟がついに締結。その後日本は急速に戦争への坂道を転がり落ちていった……。およそ40万人の将兵を預かる連合艦隊司令長官山本五十六は、対米戦回避を願う自らの信念と、それとは裏腹に日一日と戦争へと向かいつつある時代のずれに苦悩し続ける。

だが昭和16年夏、どうしても米国との戦争が避けられないと悟った時、五十六は一つの作戦を立案する。米国太平洋艦隊が停泊するハワイ、真珠湾を航空機によって奇襲。五十六は世界の戦史に類を見ない前代未聞のこの作戦を、軍令部の反対を押し切ってまで敢行しようとする。それは世界に勝つためではなく、一刻も早く戦争を終わらせるための苦渋に満ちた作戦だった……。

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2012年10月21日 (日)

荒地よりもお花畑 Part2

言葉が不足しがちなコメント欄ではなく、記事本文を通して様々な問いかけに対してお答えするように努めています。そのようにお伝えしていますので、今回も前回記事「荒地よりもお花畑」に寄せられたコメントにお答えする形で新規記事を書き進めてみます。すべて網羅できず、納得いただけるような「答え」に至らないかも知れませんが、私自身の考えていることを「Part2」という安直なタイトルを付けた記事でもう少し掘り下げてみるつもりです。

まず、まもるさんから「OTSU氏もこれほど政治的な思いが強いのなら政治家になる動機としては十分だと思いますが、一公務員である方が得とお考えだとお見受けします。言わばビール片手に政治談義しているわけです」というコメントをいただきました。私自身、国民一人ひとりが政治に関心を持つことは好ましいことだと考えています。その際、置かれた立場や損得に関係なく、多くの方が「ビール片手に政治談義」を行なうことで既存の政党や政治家に対するチェック機能も育まれていくように感じています。

一人でも多くの方が選挙に行かれることの大切さは言うまでもありませんが、政治家の日常的な活動や判断を「白紙委任」としないためにも、国民一人ひとりが政治に関心を高めていくことの必要性を強く認識しています。そのような趣旨を踏まえ、ブログの場でも政治について語ることの意義を見出しながら様々な記事を投稿していました。その際、私自身の発している言葉が閲覧されている皆さんに違和感を与えている場合もあろうかと思います。それでも自治労に所属している組合の一役員の考え方に触れてもらうことの貴重さを感じ取っていました。

その結果、残念ながら自治労に対する不信感を高めてしまう機会に繋がるのかも知れません。一方で「なるほど、そのような見方もあったのか」という評価を得られれば、たいへん幸いなことでした。いずれにしても先入観や思い込みによる批判だけは不本意な話であり、そのような見られ方が少しでも減ることを願いながら当ブログを続けていました。したがって、確かに関心の度合いが高いほうかも知れませんが、だから政治家になるべき、そうでなければ問題だというニュアンスの指摘は前述したような理由から当てはまらないものと思っています。

続いて、たろうさん、nagiさん、かもめのじょなさんからの問いかけにお答えします。それぞれの視点や考え方があり、まとめて書き進めるのは失礼なことかも知れません。ただ相手側が話し合いを望んでいない場合、前回の記事のような発想では何も解決できないという提起が共通しているものと理解していました。そのため、一問一答の形から離れますが、前回記事の補足内容に位置付く「Part2」として、もう少し自分なりの思いを綴らせていただきます。

自分自身の頭の中では整理しているつもりですが、やはり分かりづらい記述が多かったようです。外交の場面でも「事実に基づかない批判に対しては毅然と反論すべき」と記していました。言うまでもありませんが、反論しなければ、その言い分を認めたという誤ったサインに繋がりかねません。この反論は相手側だけに発したものではなく、周りの第三者を意識した発信とすべきだろうと思っています。なお、この反論に対し、相手側が納得するかどうかは別な問題だと考えています。

ここから先のとらえ方が人によって大きく枝分かれしていくように感じています。自分自身の「答え」が正しいのだから、当然、相手も従うべきという発想が簡単に通用しない現実の多さを直視すべきものと考えています。相手は相手で正しいと信じている「答え」があり、何が何でも白黒を付けることにこだわり、お互いの「正しさ」を言い合っていけば間違いなく議論は平行線をたどりがちです。ちなみに当ブログのコメント欄でも、「正しさ」の衝突で激しい応酬が繰り返された時も少なくありません。

開設してから長い間、管理人である私自身が一方の当事者となるケースは日常茶飯事でした。少し前から簡単に白黒を付けられない問題の多さを認識し、それぞれの「答え」を披露し合う場であることに重きを置き始めていました。このような方針に対し、人によって物足りなさや異論があろうかと思います。それでも私自身の様々な意味での負担は軽減し、ブログを続けていくという目的を第一に考えた時、必要な一つの判断だったものと思っています。

仮に私自身が自らの「答え」を絶対視し、上から目線で何が何でも白黒を付けることに固執するタイプだった場合、コメント欄では常に厳しい言葉の応酬が続き、際限のない荒れた場となっていたのかも知れません。つまり自らの「正しさ」を主張しても他者の「答え」を頭から否定せず、あえて白黒の結論は求めない、そのような位置付けにすることで対立し合う場面を可能な限り少なくするように努めていました。公務員やその組合の言い分を発信すること、コメント欄で多様な意見が伺えることを優先すべき試みとしているため、結論を絞り込むという難題を棚上げすることができています。

外交の場面でも同様だと考えています。何を優先すべきなのか、その優先順位を冷静に判断し、白黒が付けられないのであれば問題を棚上げにすることも欠かせないはずです。しかし、現状固定を破り始めているのは相手側で、話し合いに応じる姿勢を見せていないのも相手側であるという指摘があろうかと思います。その通りの局面かも知れませんが、それではお互いが対立し合ったまま、最後は「戦争を辞さず」という覚悟も決めるべきなのでしょうか。

私自身、絶対「否」であり、何が何でも戦争という選択肢は外した上での優先順位を探ることが最も重要であるものと考えています。一触即発の危機は尖閣諸島のほうが高いはずですが、話し合いに至らない現状は日本側の「領土問題は存在しない」という原則も大きな壁となっていました。それが最近、玄葉外相は「領有権の問題は存在しないが、外交上の問題は存在する」という発言を示し始めていました。

これはこれで賛否が分かれるのかも知れませんが、話し合いのテーブルに向けた努力の一歩として私自身は評価しています。自民党の加藤紘一元幹事長は中国とのパイプがある方で、やはりネット上では「反日」と揶揄されがちです。いみじくも『週刊金曜日』の談話記事(対中強硬論の台頭を憂う 今こそ学ぶべき田中・周会談の「知恵」)の中で、加藤元幹事長も「自国の領土であるのは明白だから問題ない」という立場と、それでも「外交問題としては存在する」という立場は別であると話されていました。

同様な趣旨の内容は加藤元幹事長のオフィシャルサイト「これからの日中国交を作り直す知恵をしぼろう」でも確かめられます。きっと今回の記事内容や加藤元幹事長のような考え方は、頭の中が「お花畑」だと思われる方も少なくないのかも知れません。確かに残念ながら、まだまだ武力が幅を利かす国際社会であることも頭から否定できません。しかし、弱肉強食の帝国主義が席巻した一昔前と比べれば、状況が変わっていることも間違いありません。そのため、さらに「荒地よりもお花畑」をめざしていくことの大切さについて、私自身は強くかみしめているところです。

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2012年10月14日 (日)

荒地よりもお花畑

これまで何回かお伝えしてきましたが、少し前から時間的にも気持ちの上でも集中しづらい平日の夜はコメント欄への参加を控えるようにしています。言葉が不足しがちなコメント欄ではなく、記事本文を通して様々な問いかけに対してお答えするように努めていました。そのため、今回も前回記事「分かり合うことの難しさ」に寄せられたコメント内容を踏まえ、レスすべき点や私なりの思いを書き進めていくつもりです。

相手の言い分が「明らかな間違いだと論破できる」にも関わらず、それを「不問」にする行為は、ある意味「アンチ行動原理者」と似通った部分があります。「真実は何だ」を軽んじている・・という意味で。しかし一方では自治労(公務員)に対しては「冷静で客観的な批判」を望んでいる。まあ気持ちが揺れている・・ってところでしょうか。「カラスは白い」と言い張る者を糾弾しなかった事が、結局は災いの原因になる事を肝に銘じておくべきです。「南京事件」「従軍慰安婦問題」「領土問題」・・随分「カラスは白い」を許してきたものです。

上記は当ブログのコメント欄でお馴染み、あまのじゃくさんからお寄せいただいたコメントの一部抜粋です。このような問いかけが返されがちな現状に関しては、いみじくも「分かり合うことの難しさ」の中で自分なりの問題意識を書き込んだとおりでした。私自身としては不特定多数の方々にも分かっていただけることを願いながら、このブログでの言葉の使い方や表現の仕方に努力していました。しかし、どれほど自分自身が懸命に努力したつもりでも、分かり合えない関係性が生じることを当たり前だと思うようになっていました。

このような理由は最近の記事「このコメント欄の限界と可能性」の中で詳しく綴ったとおりでした。その上で、言語や歴史認識などが大きく違う方々と分かり合うことの難しさを痛感しながら、前回の記事では外交の場面、とりわけ中国と韓国との関係性から尖閣諸島竹島の問題を取り上げていました。その記事のコメント欄で、あまのじゃくさんから指摘された「明らかな間違いだと論破できる」という記事本文中の言葉は、次のような文章の繋がりの中で記していました。

お互いが自分の「答え」に自信を持っていればいるほど、歩み寄りは難しく、いがみ合っていきがちです。尖閣諸島と竹島の問題でも相手側の言い分や見方があります。その見方は明らかな間違いだと論破できるのかも知れません。しかし、それぞれの国における「答え」は絶対的な「正解」だと信じられ、日本の「答え」は敵視すべき虚言だととらえられている現状について、良くも悪くも直視しなければなりません。

言葉が不足していたのかも知れませんが、相手の言い分を仮に論破できたとしても、いがみ合った関係性が改善できない悩ましさを記述していたつもりです。したがって、「真実は何だ」という探究心を軽視する意図はなく、そもそも明らかな間違いを指摘する行為そのものを否定した言葉でもありませんでした。ただ真逆な「答え」を持ち、「空手三段」の強さに対する評価などが異なる関係性の中、お互いが一致する「正解」を見出すことは至難な話だろうと思っています。

お互いの「正しさ」を言い合っていても平行線をたどりがちであり、最優先する目的が悪化した関係性の修復とするのであれば、多面的なアプローチも欠かせなくなるはずです。そのような中で、相手の言い分にも耳を貸す場合や結論を「棚上げ」にしてきた経緯があったのだろうと見ています。一方で、あまのじゃくさんのように「カラスは白い」を許してきた結果、「結局は災いの原因」になっているという声があることも承知しています。

しかし、「南京事件」など例示された事例の中にも幅広い見方があることを押さえなければなりません。すべて自らの「答え」が絶対正しく、異なる認識を持つ相手は「けしからん」という姿勢で臨むばかりでは問題だろうと思っています。繰り返しになりますが、相手の間違いを不問とすることを「是」とする意図はありません。いがみ合った関係性を修復することを第一の目的と考えるのであれば、相手方の立場や考え方などを的確に把握した上で、話し合いに臨むことの重要性を提起した文章だったつもりです。

合わせて、あまのじゃくさんから自治労(公務員)に対しては「冷静で客観的な批判」を望んでいるという指摘も受けました。もともと当ブログのコメント欄では、思い込みによる批判や誹謗中傷は慎んでいただくようお願いしています。断定調の批判に対する「お願い」はPart2にわたり、結論付けた批判は、より慎重に論拠立てた説明責任が欠かせないことを訴えていました。この「お願い」は自治労や公務員に限らず、すべての個人や組織を名指したコメントに対するものでした。

その中で、名指しされた当事者の一員となる私自身が「自治労のように売国左翼運動やアホな要求をせず」というような誹謗中傷の類いとなるコメントに対し、レスする機会があった際に何も反論や注意喚起しないほうが問題だろうと思っています。また、外交の場面でも冷静さの重要性は言うまでもなく、事実に基づかない批判に対しては毅然と反論すべきものと考えています。あくまでも個々人や国によって信じている「答え」が異なる関係性の難しさを提起した記事だったため、「気持ちが揺れている」という意識も一切ないことを付け加えさせていただきます。

続いて、前回記事のコメント欄では右サイドバーの「用語解説リンク」にある平和フォーラムのサイト上のコラム「明るい、ナショナル!-中国反日デモに思う」が話題になっていました。全体を通して少し茶化すような書き方が目立っていましたが、その筆者が述べている認識は認識として一つの「答え」だろうと受けとめています。しかし、その内容に対し、やはりコメント欄常連のnagiさんからは「よくここまでお花畑の記事を書けるなあと関心しきりです。よほど中国様が大事なのだろう。朱に交われば赤くなるの例えどおり、反日思想の組織との関係があれば、自分も疑われるのは世の常でしょう」という感想が寄せられていました。

同じタイミングで、nagiさんから「言わば対等に平和に交渉する為に、日本は憲法を改正し、自衛隊を国軍と定めて戦えるようにしなければなりません。対等でなければ、交渉などせず相手は押す一方です」という意見の賛否についてのお尋ねがありました。すでにコメント欄でレスしていましたが、日本国憲法だけが特別ではなく、現在の国際社会では自衛のためか、国連が認めない限り武力行使はできません。現実との乖離等の指摘があろうかと思いますが、その原則は本当に大事なことだと考えています。したがって、その原則を外すような論調でのお尋ねに対しては「否」という立場であることを取り急ぎお答えしていました。

きっと今回のような記事内容も「お花畑」と揶揄され、中国や韓国側に肩入れした「反日」というレッテルを貼られてしまうのかも知れません。言うまでもありませんが、私自身も平和フォーラムのコラムの筆者も「反日」という立場ではありません。武力衝突は絶対避けなければならないという思いが共通しているはずであり、そのようなことから「反日」というレッテルを貼られてしまうのであれば不本意な話でした。いずれにしても当ブログを閲覧されている皆さんの中で、戦争を肯定する方は圧倒的に少数だろうと思っています。

ただ「場合によって、武力行使はやむを得ない」というニュアンスになった場合、必ずしも否定されない方々が増えていくのかも知れません。ハト派、タカ派という区分けも陳腐な言い回しに聞こえがちですが、まだまだ次のような報道に際し、一人ひとりの思いが枝分かれしていくようにも感じています。石原都知事の「戦争を辞さず」というような発想がタカ派であり、石原都知事に比べれば野田首相のような見方がハト派に属し、どちらの判断を支持するのかどうかという枝分かれがあり得るのではないでしょうか。

前原国家戦略相は12日、BS朝日の番組収録で、野田首相が沖縄県の尖閣諸島の国有化を決断した理由として、「首相は、東京都が所有すると(日中関係が)大変なことになると考えた」と説明した。その理由として、首相が8月に首相公邸で石原慎太郎都知事と会談した際の模様を明かした。前原氏が会談の同席者から聞いた話によると、石原氏は「『(中国との)戦争を辞さず』みたいな話もした。(首相は)『これは話にならない』とあきれた」という。中国では、尖閣の国有化で首相と石原氏が連携したとの批判が強いが、前原氏は「180度逆だ」と説明したかったようだ。【読売新聞2012年10月12日

今回の記事も長くなってしまいました。それでも言葉が不足し、いろいろ分かりづらい点も多く、そもそも分かり合うことの難しさを痛感するテーマなのだろうと思います。最後に、以前の記事「もう少し平和の話」の中で記した個人的な思いを改めて紹介させていただきます。国際社会は国益や主権という考え方が基本となり、どこかで必ず対立した関係が生じています。しかし、現在の国際社会が「荒地」だったとしても、「お花畑」にしていこうというポジティブな発想も絶対大事なことだと考えています。

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2012年10月 7日 (日)

分かり合うことの難しさ

前回の記事は「文章の書き方、雑談放談」でした。地味な題材だったため、久しぶりにお寄せいただいたコメントの数は2桁に届きませんでした。実は前回記事の最後のほうでも記しましたが、現在形と過去形の書き方を巡ったエピソードを前置きとし、その先に繋げたい題材がありました。論点となる内容を下記のとおり示唆していましたが、具体的な事例を掲げず、何を伝えようとしているのか分かりにくい文章だったものと思います。

分かりやすい文章に向けて自分なりの努力を尽くしていても、他者から「分かりづらい」と言われてしまえば、読みづらい文章にすぎないという関係性に思いを巡らしていました。このような関係性は、いろいろな場面でも当てはまるのではないでしょうか。今回、具体的な事例は示しませんが、文章の書き方一つ取っても手厳しい批判を受けたため、言語や歴史認識などが大きく違う方々と分かり合うことの難しさを痛感していました。

「分かりやすい文章に向けて自分なりに努力」と書きながら、持って回った分かりづらい文章にしていることを反省しています。記事本文全体の文脈を通してご理解いただければ、次に続けたい言葉を予想される方が少数ではないことも願っていました。合わせて、具体的な事例を掲げることで、その内容にかかわる話に注目が集まりすぎる可能性にも留意しました。時節柄、注目が集まることは当然であり、集まることを嫌がった訳ではありません。

ただ中途半端な示し方は、自分自身の意図した論点や問題提起から離れた指摘を受ける場合がありました。そのようなすれ違いだけは避けようと考え、前回記事の中では具体的な事例を示さないまま、上記のような抽象的な文章にとどめていました。今回もここまで具体的な事例を示さず、もったいぶった引っぱり方をしてしまい恐縮です。もうお分かりかと思いますが、前回記事のエピソードから外交の場面、とりわけ中国と韓国との関係性の話に繋げていくことを考えていました。

ここで、あらかじめ強調しなければならない点があります。私自身、尖閣諸島竹島の問題を大上段から語れる知識や情報を持ち得ていません。あくまでも素人の一人として知り得ている話をもとに自分なりの問題意識や見方を示していくつもりです。それに先立ち、自分自身の知識を整理する意味合いからも、このブログの場でも領有権と施政権の問題やそれぞれの歴史的経緯などを綴ることも考えました。

しかし、今回提起したい直接的な論点は、それらの内容の是非や評価にかかわるものではありません。そもそも当ブログをご覧になっている皆さんの中には、このような問題に詳しい方も多いはずです。したがって、生半可な内容を私の言葉で並べるよりも、外務省のホームページなど関連サイトへリンクをはるだけのほうが適切だろうと判断させていただきました。なお、ご存じの方が多いのかも知れませんが、下線が引かれた色違いの文字をクリックすると、関連サイトへ飛ぶことができるようになっています。

要するに記事タイトルの「分かり合うことの難しさ」を掘り下げることが主題であり、尖閣諸島や竹島の問題に真正面から切り込む内容には至らないことをご理解ご容赦ください。それでも間接的な表現とは言え、たいへん難しい外交問題に対し、私なりの「答え」が随所に顔を出していくはずです。そのような「答え」に強い違和感を持たれた方からは、手厳しい声が寄せられることも覚悟しています。それはそれで、今回の主題となる「分かり合うことの難しさ」の一つの事例だろうと思っています。

さて、日本政府の公式的な立場は、尖閣諸島も竹島も「日本固有の領土」というものです。尖閣諸島は日本が実効支配しているため、そもそも領土問題は存在していないという見解で一貫しています。そのため、尖閣諸島を巡る日本と中国との軋轢を「領土問題」と表現すると、間違いだと指摘されることになります。逆に竹島は韓国側の実効支配が進んでいるため、この領土問題の解決に向け、日本政府は単独で国際司法裁判所に提訴する方針を固めていました。

竹島、北方領土の領有権について国際司法裁判所の法による解決を求めるなら、尖閣についても国際司法裁判所に提訴されるリスクもある。しかし自分の主張に自信があるなら、堂々と法に基づく解決に応じれば良い。出された結果は受けざるを得ない。それが法の支配だ。

上記は大阪市の橋下市長がTwitterで発信した言葉でした。他にも「竹島は韓国と共同管理」という橋下市長の発言があり、それぞれ物議をかもし、強い批判の声にもさらされていました。飛ぶ鳥を落とす勢いのある橋下市長も釈明に追われていましたが、どうしても領土を巡る問題は足して二で割るような考え方が弱腰だと批判され、原則論を貫くことが求められがちです。また、妥協する姿勢を見せれば、ますます相手側に付け込まれてしまうという主張もよく耳にしています。

しかしながら最低限、問題があることをお互い認め合って交渉の席そのものに着かなければ何も解決しません。今回の記事タイトルに絡む論点に繋げますが、一人ひとりが信じている「答え」があります。絶対的な「正解」だと確信しているケースも多いはずです。一方で、その「答え」と真逆な「答え」を持つ他者から「間違っている」と頭ごなしに非難されれば、ムッとして反論されるのではないでしょうか。

お互いが自分の「答え」に自信を持っていればいるほど、歩み寄りは難しく、いがみ合っていきがちです。尖閣諸島と竹島の問題でも相手側の言い分や見方があります。その見方は明らかな間違いだと論破できるのかも知れません。しかし、それぞれの国における「答え」は絶対的な「正解」だと信じられ、日本の「答え」は敵視すべき虚言だととらえられている現状について、良くも悪くも直視しなければなりません。

自らの「答え」の誤りが自覚できれば、譲歩することもできるはずです。ただ場合によって、誤りに気付いても面子や感情面での対立から簡単に譲歩できない時もあり得ます。いずれにしても相手方の立場や考え方などを的確に把握した上で、話し合いに臨むことが重要だろうと思っています。その際、自らの主張を貫き通すことも大事ですが、押す引くがあるからこそ、交渉が成り立つものと考えています。

異なる立場や相反する「答え」を持つ者の間で、分かり合うことの難しさは何事においても同様です。しかし、分かり合おうとする努力や歩み寄る決断を重ねない限り、いがみ合った関係は固定化されたままとなります。また、言うまでもなく、暴力に走った中国の反日デモのような行為は論外であり、当然、国家間の武力衝突という最悪な事態は絶対避けなければなりません。そのためには、それぞれの国の政治家や国民一人ひとりの冷静な判断が強く求められているものと思っています。

最後に、尖閣諸島の国有化は中国との関係を悪化させないための選択だったものと理解しています。そのような経緯を日本政府は事前に中国側にも説明していたようですが、結果として日本への反発を強めさせてしまいました。努力を尽くしても、反発を強めさせてしまっては問題であり、分かり合うことが本当に難しい関係性だと見ていました。このことが頭の中にあり、冒頭にも紹介した前回記事の「言語や歴史認識などが大きく違う方々と分かり合うことの難しさを痛感」という言葉に繋がっていました。

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