文章の書き方、雑談放談
小学生の頃から文章を書くことが好きなほうでした。特に5年生の時の担任が作文に力を注がれた先生で、小説らしき文章を書き上げた時など、よくほめられたことを覚えています。ほめられれば、ますます好きになり、その後も文章を書くことに苦手意識のない人生を送れていました。そもそも苦手意識があれば、ネット上に拙文を掲げることに二の足を踏んでいたのかも知れません。
ただ苦手意識がないからと言って、そのまま完璧な文章を書けているかどうかは別問題でした。そのため、これまで『上手な文章を書きたい! 』『頭がいい人の文章の書き方』など、マニュアル本は何冊も読み込んできました。それでも欠点や癖が多く、完璧な文章を使いこなしているとは毛頭考えていません。特にブログでの文章は意図的に回りくどい言葉や謙譲語を多用している側面がありました。
したがって、このブログの常連の皆さんから「分かりづらい」という評価を受ける場合が多いことも覚悟しています。しかし、とりわけ記事本文を投稿する際は下書きを何回も読み返し、自分自身の中での基準をクリアさせた文章に仕上げているつもりでした。きっと「このように書けば良いのに」と思われている方も多いのかも知れませんが、明らかな間違いは極力避けるように努めています。
このような心構えは日常生活の中で文章を書く場合も同様でした。これまで年に数回、組合の機関紙に記名原稿を綴っていました。20頁ほどの特集記事を掲載した際、お読みいただいた組合員の方から幸いにも「分かりやすかったです」と声をかけられた時も少なくありません。わざわざ辛口な言葉を投げかけられる方は稀なのでしょうが、幸か不幸か今まで文章のレベルが平均以下だという認識を抱いたことは一度もありませんでした。
それが最近、複数の方から一斉に私の書いた文章は「読みづらい」と言われてしまい、物凄いショックを受けていました。指摘されて「なるほど」と素直に訂正できるような箇所であれば、それまでの話でした。しかしながら自分自身にとって決して誤りではない基準の文章に駄目出しがあったため、たいへん戸惑いました。その指摘を受けた点は現在形と過去形の使い方の問題でした。
これまで単調な文章とならないよう同じ語尾を繰り返さないように注意していました。マニュアル本には「同じ語尾が繰り返し出てくると、文章全体がどうしても単調になり、読み手は疲れてしまう」と書かれています。また、目の前の風景を現在形のみで描写すると、メリハリがなく、幼稚な文章となりがちです。同時進行の風景描写の中に過去形を入れられるのが日本語の特徴であり、次のような例文を示すことができます。
池には、鴨が泳ぎ、ボートが浮いている。なんとも、うららかな日和だ。池にかかる橋には、鯉にエサをやるカップル、家族連れの姿がある。
あるサイトでは、過去形は「起こってしまった事実」を表し、事実というのは「もう変化しないこと」であり、時系列の中で最も支配力のある言葉という説明が加えられていました。「カラスは黒い」という現在形では英語の教科書の直訳のような素っ気なさがあり、普遍的な事実を表した言葉にすぎません。それを「カラスは黒かった」と過去形で書いた場合、ある特定のカラスを示すことになり、受ける印象が変わるという説明でした。
ちなみに過去形を一般的な理解で受けとめた場合、「カラスは絶滅したことになります(笑)」という一言も付け加えられていました。長々と書いてきましたが、私自身、現在進行形の事象に対しても過去形は使えるという認識を持っています。例えば今、「持っています」と書きましたが、「持っていました」と書くこともできるはずです。それでも「持っていました」と書いてしまうと、現在は認識を変えているものと思われがちなのでしょうか。
さらに今回のブログ記事の冒頭では「書くことが好きなほうでした」と記していました。この一文によって「もう苦手なのかな」と思われた方が多いようでしたら、それこそ今までの自分自身の基準を大きく改めなければなりません。文章のリズムを配慮し、あえて現在形と過去形を混在させた書き方に努めていました。そのことが逆にリズムを悪くし、分かりづらい文章にしているようでは本末転倒な話でした。
今回、数人の方から同時に現在形と過去形の使い方に関する指摘を受け、改めてマニュアル本や関連サイトを読み返してみました。自分なりの結論として、明らかな誤用ではないものと考えていますが、複数の方から「分かりづらい」と批判されたことは紛れもない事実でした。その事実は事実として重く受けとめながら、今後、なるべく現在形と過去形の使い方で批判や誤解を受けないように注意していくつもりです。
このように記しながらも、どれだけ今回の記事本文の中で改めようとしているのかどうかは書き出しの箇所から説得力を弱めているようでした(苦笑)。実は今回の記事も、この先に書き進めようと考えていた内容が数多くありました。前置きのエピソードが膨らみすぎてしまい、地味な記事タイトルに落ち着いていました。次回以降の記事で詳しく触れるかも知れませんが、分かりやすい文章に向けて自分なりの努力を尽くしていても、他者から「分かりづらい」と言われてしまえば、読みづらい文章にすぎないという関係性に思いを巡らしていました。
このような関係性は、いろいろな場面でも当てはまるのではないでしょうか。今回、具体的な事例は示しませんが、文章の書き方一つ取っても手厳しい批判を受けたため、言語や歴史認識などが大きく違う方々と分かり合うことの難しさを痛感していました。最後に余談となりますが、複数の方から批判を受けた私の文章の一つに「民主党の支持率は下降の一途をたどっていました」というものがありました。決して「下げ止まり」を意図した一文ではなく、前述したような説明を加えていましたが、最終的には「たどっています」と訂正したところでした。
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コメント
英語の過去形の用法がそうらしいですが、距離感があるらしいですね。
例示の三人称ではなく一人称だと、「~です。」と「~でした。」では、過去形の方がそっけないニュアンスも感じたりします。(特に音声にすると)
言葉のリズムやテンポも、ある程度の長さになれば、あったほうが流し読みもし易いかもです。
今更OTSU節を変える必要はないと思います。
投稿: L | 2012年9月30日 (日) 16時31分
Lさんをはじめ、以前の記事にもコメントをお寄せいただいた皆さん、ありがとうございました。
新規記事の中で綴ったとおり文章の書き方に少し迷いが生じ始めていました。幸いにもLさんから「変える必要はない」というご意見をいただき、昨夜、ためいきばかりさんからも前回記事のコメント欄で「平易な語りでわかりやすかったです」という言葉も添えていただいていました。やはり染みついた自分のスタイルは簡単に変えられないものと思いますので、お二人の言葉に意を強くし、これからも同じようなテンポの文章を書き続けていくつもりです。そのようなレベルのブログですが、ぜひ、今後ともよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2012年9月30日 (日) 21時47分
こんにちは。
確かに私の感覚では、管理人さんの「です。」「でした。」は誤用、とまでは言わないまでも、私なら「でした。」は、まず使わないなぁ、という部分が多用されているように思います。
ただ、文脈自体は理解できますし、過去形、過去進行形、現在形、現在進行形などの時制表現は、日本語は特に難しいように私も思いますので、管理人さんの感覚で書かれてもいいのかな?とも思いました。
ではでは。
投稿: 通りすがりの元公務員 | 2012年10月 1日 (月) 15時11分
>それが最近、複数の方から一斉に私の書いた文章は「読みづらい」と言われてしまい、物凄いショックを受けていました(受けました、若しくは、受けています)。指摘されて「なるほど」と素直に訂正できるような箇所であれば、それまでの話でした(納得します)。しかしながら自分自身にとって決して誤りではない基準の文章に駄目出しがあったため、たいへん戸惑いました(戸惑っています、も可)。その指摘を受けた点は現在形と過去形の使い方の問題でした。
語感として心地よくはないですね。
「それまでの話でした。」は突き放した印象があり、この文脈では誤解を招きやすいので相応しくないと思われます。
投稿: 真剣ゼミ 小学生コース | 2012年10月 1日 (月) 22時16分
OTSUさんの文章は不愉快ではありませんし、誤用があるとも思えません。
ただ、「考えを伝える」以外に「賛同や共感を得る」事を目的にしているように見えます。
つまり「自分の考え」より「賛同や共感」で文章の「抑揚」が変化する。
これに違和感を感じている人がいるのは確かでしょう。
投稿: あまのじゃく | 2012年10月 2日 (火) 09時53分
通りすがりの元公務員さん、真剣ゼミ 小学生コースさん、あまのじゃくさん、以前の記事にコメントをお寄せいただいた皆さん、ありがとうございました。週末更新の記事本文に集中するサイクルとしているため、最近は個別にレスできず恐縮です。それでも必ず一つ一つ拝見し、自分自身の頭の中で思いを巡らす機会としています。
現在形と過去形の使い分けについて、やはり違和感を与えている場合が多いことも分かりました。とは言え、今回の記事本文の中で綴ったとおり「自分自身の中での基準をクリアさせた文章」であるため、いろいろ悩ましさが芽生えていることも確かでした。例えば「それまでの話でした」に関しても、あえてその言葉を選んでいました。このような関係性の話について、新規記事の中で展開してみるつもりです。ぜひ、またご訪問いただければ幸いですので、よろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2012年10月 7日 (日) 09時16分
ところで、僕のコメントってのは、自治労に属する人、一定のインテリ層には極めて不快でしょうね。
でも、実際問題として、一定のインテリ層と一般市民の人たちとの間に、相当のズレがあるのは確かなんですよね。
僕は、性格上、色んなトコロに出て行って色んな人と楽しく会話します。価値観の押し付けはしないし、政治的な話も上っ面以上の話はしません。基本的には相手を理解したいのと、相手と自分がその場を楽しいものとして共有することに主眼を置きます。相手のペースで語らせることに主眼を置きます。
(ま、語らせるために、こちらが語って投げかけることもありますが。)
そうやって、何でも話してくれる関係を築くことが、生の情報収集につながるわけですね。
そういう関係の中で、ちまたの方々の話を聞いてると、一定のインテリ層の主張は、余りにかけ離れているというかね。あー、そらそうかもしれんけど(理論的には正しいかもしれんけど)、それでは誰もついて来んやろな~、ということがよくあるんですよ。
で、僕らみたいなモンにとっては、理論的な正しさよりも、世の中を回すことの方が大事なんですよね。理論は、回すためのツールに過ぎない。
それに、時代や状況が変われば理論自体が修正されていくものです。今後も、既存の理論・学問は、間違いなくどんどん発展していくものです。発展とは、よりリアルに、より実践的に進化していくことに他なりません。
そもそも、科学や理論が、世の中の全ての事象をカバーできてるわけではないですしね。説明できてるようでいて、説明できてないことも多いんですよね。
だから、あるべき論だけを語り、また、公式にあてはめて終わり、という学生みたいな主張は受け入れられない。じゃ、それどうやって実践するの?って言うのが見えないからです。つまり建設的でない。
誰もついてこないような主張をされてもねえ、と。
で?その次はどうするの?って、見てたら、ついてこない人を叩いたり見下したりしてる人が多いですよね。
権利という視点こそが至上なんだ正しいんだと思うのは個人個人の勝手ですが、そんな風な前提をとってない人にどう向き合うのかは、偉そうに言いますが、もっと叡智を働かせなければなりませんね。
僕は、そこらへんに一石を投じたい。不快でしょうけども、そういう立場で投げかけ続けたいと思います。
なぜなら、権利は大事だから。権利過剰論者に任せていては、オオカミ少年現象が起きると懸念してるんですよ。市民の感覚と剥離した人権論は、人権の権利性をかえって弱めます。既に生じている現象ですが、「人権」という言葉だけで、発信者にうろんさを感じる人も少なくないんですよね。
答えは求めません。心の片隅にでも留めて頂いて、何かの折にじっくりと向き合ってもらえたら嬉しいですね。
投稿: かもめのじょな | 2012年10月 7日 (日) 19時47分