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2012年8月26日 (日)

平和の話、インデックス

ココログのブログにも過去の記事をカテゴリー別に分類整理できる機能があります。その機能を活用するためには新規記事を作成する際、内容に沿ったカテゴリーを決めながら更新しなければなりません。このブログを開設した当初、そのような機能を充分把握しないまま多くの記事を投稿していました。新規記事を作成する時、タイトル欄の横にカテゴリーを選ぶ欄があり、入力は必須となっています。

ただ「公務員のためいき」そのもののカテゴリーを入力する欄だと理解し、すべて「日記・コラム・つぶやき」を選んでいました。かなり後になって、前述したような機能を把握した訳ですが、すでに相当数のバックナンバーが積み上がっていました。投稿済みの記事のカテゴリーを一つ一つ変更するのも非常に手間がかかり、途中から新規記事のみを分類していくのも中途半端に感じ、その後もカテゴリー欄は「日記・コラム・つぶやき」に統一していました。

したがって、せっかくの機能も有効に活用できず、右サイドバーには投稿した月別の「バックナンバー」欄のみとなっています。カテゴリー別に検索できる機能を備えられなかったため、時々、前回「自治労の話、2012年夏」のように記事本文の中にインデックス(索引)代わりに関連した内容のバックナンバーを並べていました。今回、タイトルに掲げたとおり「平和の話」のインデックスを中心に据えた記事の投稿を予定しました。

前回記事のコメント欄では靖国神社や領土を巡る問題で、様々な声が寄せられていました。最近の傾向として、私自身がコメント欄の意見交換に参加することを意識的に控えるようにしていました。実生活にあまり負担をかけず、このブログを続けていくためには週末更新の記事本文に集中することが適切だろうと考え始めたからでした。特に賛否や評価が大きく分かれるテーマに対し、言葉が不足しがちなレスは避けることの賢明さを痛感していました。

このような経緯や位置付けを踏まえ、新規記事の入力画面に向き合う中、「平和」をキーワードにした過去の記事を並べてみようと考えました。自分自身の記憶をたどりながら該当する記事を探していましたが、Googleで「公務員のためいき 平和」と検索すると関連した記事を見つけることもできました。後者の方法で、いくつか検索ワードを置き換えてみたところ思いがけないテーマの記事も探り当てていました。

「公務員のためいき 従軍慰安婦」でした。このような難しい題材を2回にわたって真正面から取り上げていたことを正直なところ忘れていました。記憶の曖昧さとともに積み重ねてきた記事の数の多さを感じ取る機会だったと言えました。そのような訳で、すべて網羅したインデックスになり得ているかどうか分かりませんが、このブログの中で「平和」関連の話を直接的な題材とした記事は次のとおりでした。

上記のすべてに目を通してくださる方は稀だろうと思っていますが、お時間が許せる際、一つでも二つでもご覧いただければ幸いです。この機会に私自身、一通り読み返してみました。投稿日順に並べていますが、これまでコメント欄で「いろいろな意見を謙虚に受けとめると言っていながら、まったく変わらない」という指摘(批判?)を受けていたとおり確かに自分自身の基本的な思いは一貫していました。

まず考え方の是非以前の問題として「自治労は平和運動から一切手を引くべき」という意見に対し、労働組合の本務と主客逆転することなく、無理のない範囲で取り組むという私自身の「答え」がありました。そして、取り組むのであれば、組合員の皆さんをはじめ、不特定多数の方々に向けた主張の発信も欠かせないものと考えていました。たいへんデリケートな問題をネット上に掲げるリスクも承知していますが、そもそも狭い範囲でしか理解を得られないような内向きな運動方針に過ぎないのであれば、即刻見直しが必要だろうと思っていました。

このような言い分は、それぞれ正しいと信じている「答え」が数多く寄せられ、私の考え方を改めさせようと力を注がれる方も増えがちでした。それでも前述したとおり私自身の基本的な思いは簡単に変わらないため、徒労感を大きくされた方も多かったはずです。日本国憲法の平和主義をどのように評価するかどうかで、様々な各論の選択肢が枝分かれしていくように感じていました。誰もが戦争を忌み嫌っているものと思っていますが、場合によっては武力行使を「やむを得ないもの」と考えるのかどうか、そのような論点があるように見ています。

このように記した以上、自衛隊について触れなければ、また思いがけない批判を招くことを憂慮しています。私自身、憲法第9条の範囲として専守防衛の役割を理解し、災害時における自衛隊の皆さんの献身的な働きには心から感謝しています。あくまでも外交カードの延長線上に武力行使があり得るような発想や、同盟国と一緒に戦争を遂行するための憲法解釈や改憲には反対の立場でした。

歴史認識の問題では、「侵略戦争ではなかった」「軍に強制された慰安婦はいなかった」という見方も頭から否定していません。当時の国際関係や国際法にそった韓国併合であり、中国との争いも「やむを得ない自衛のためだった」という言い分があることも承知しています。従軍慰安婦の問題は上記に紹介した記事のとおりの見解でした。しかし、このような見方がある意味で正しくても、傷付けられた側が同じ認識に立てない関係性も重く受けとめていました。

このような歴史的経緯や関係性を踏まえ、近隣諸国との付き合い方をどのように探っていくのか、たいへん難しい課題だろうと考えています。しかしながら最近の韓国の動き、李明博大統領の行動や発言は非常に残念な話でした。外交面での信頼関係を一方的に裏切る行為が続いているものと思っています。また、中国での反日デモの広がりや日本料理店が破壊される事態も憂慮すべき問題でした。それでも「目には目を」と同じ土俵に上がり、対立をエスカレートしていくようでは望ましい解決策を見出すことができないものと考えています。

そのような思いを抱えている中、ブックマークしている内田樹さんのブログ記事「領土問題は終わらない」の内容が目に留まりました。最後に、その記事の一部を紹介しますが、あくまでも私自身が「なるほど」と感じたとらえ方です。今回の記事本文の内容も含め、閲覧された方々一人ひとり様々な感想や意見があろうかと思います。いつもお願いしていることですが、ぜひ、視点や考え方の異なる相手にも「なるほど」と思わせるようなコメント投稿にご協力ください。案外、そのような心構えが良好な外交関係に向けた小さなヒントに繋がっていくのかも知れません。

中国人の「ここからここまでが中国」という宇宙論的な世界把握は2000年前にはもう輪郭が完成していた。「国民国家」とか「国際法」とかいう概念ができる1500年も前の話である。だから、それが国際法に規定している国民国家の境界線の概念と一致しないと文句をつけても始まらない。勘違いしてほしくないが、私は「中国人の言い分が正しい」と言っているわけではない。彼らに「国境」という概念(があるとすれば)それは私たちの国境概念とはずいぶん違うものではないかと言っているのである。

日清戦争のとき明治政府の外交の重鎮であった陸奥宗光は近代の国際法の規定する国民国家や国境の概念と清朝のそれは「氷炭相容れざる」ほど違っていたと『蹇蹇録』に記している。陸奥はそれを知った上で、この概念の違いを利用して領土問題でアドバンテージをとる方法を工夫した(そしてそれに成功した)。陸奥のすすめた帝国主義的領土拡張政策に私は同意しないが、彼が他国人の外交戦略を分析するときに当今の政治家よりはるかにリアリストであったことは認めざるを得ない。

国境付近の帰属のはっきりしない土地については、それが「あいまい」であることを中国人はあまり苦にしない(台湾やかつての琉球に対しての態度からもそれは知れる)。彼らがナーバスになるのは、「ここから先は中国ではない」という言い方をされて切り立てられたときである。華夷秩序では、中華皇帝から同心円的に拡がる「王化の光」は拡がるについて光量を失い、フェイドアウトする。だんだん中華の光が及ばない地域になってゆく。だが、「ここから先は暗闇」というデジタルな境界線があるわけではない。それを認めることは華夷秩序コスモロジーになじまない。

繰り返し言うが、私は「そういう考え方に理がある」と言っているのではない。そうではなくて、明治の政治家は中国人が「そういう考え方」をするということを知っており、それを「勘定に入れる」ことができたが、現代日本では、政治家もメディアも、「自分とは違う考え方をする人間」の思考を理解しようとしないことを指摘しているだけである。「強く出ないと相手になめられるから、弱腰になるな」というような中学生的交渉術を声高に言い立てる人間は「相手は自分と同じだ」と思っているからそう言うのである。自分だったら「弱腰の相手」にはどれほど無法な要求でもするつもりでいるからそう言うのである。だが、「自分が相手の立場だったらこうするだろう」という鏡像的想像だけで外交はできない。

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2012年8月19日 (日)

自治労の話、2012年夏

コメント欄雑感、2012年春」 に記したとおり今年春頃からコメント欄との向き合い方を変えていました。このブログを訪れていただき、時間を割いてコメントを投稿くださった皆さんへの謝意を表すため、それまで私からのレスを最低1日に1回は行なうように努めていました。そのこだわりは過去の記事へのコメント投稿に対しても同様でした。

レスする際、「○○さん、コメントありがとうございました」という一言だけでは素っ気ないため、その時々に感じた一言二言も添えながらTwitter のような気軽な発信の場としてコメント欄を利用してきました。もともと記事本文の更新は、実生活にあまり負担をかけないペースとして週1回の間隔を定着させていました。週末に更新する記事本文は書き込む内容の吟味をはじめ、下書きした後の推敲など、じっくり時間をかけて投稿していました。

一方で、主に時間的な制約がある平日夜に投稿していたコメントは、あまり時間をかけず、専ら前述したような気軽な対応をはかっていました。そのため、言葉が不足して誤解を招くケース、私自身の本意からかけ離れた痛烈な批判を受けるケースが多々ありました。その釈明のため、さらにレスを重ね、コメント欄で特定の方との議論に繋がる場合もありました。

ただ時々、前々回の記事「このコメント欄の限界と可能性」の中で綴ったとおり「空手三段」という強さの評価や、もっと極端な場合は「東京」という存在の共通認識がない中で、議論が行なわれているような思いを抱いていました。たびたび途方もない大きな壁に直面する中、このブログのコメント欄では結局のところ記述の仕方なども含め、書かれている文章や意味合いが閲覧されている皆さんからの評価にさらされるだけの話だろうという認識に至っていました。

つまり「答え」を一つに絞る場ではないという結論でした。このことに対し、人によって異論があろうかと思いますが、あくまでも個人の責任で運営しているブログの場としての管理人からの「お願い」でした。かなり前から以上のような認識を持っていた訳ですが、それでも今年春までは1日1回以上レスするというこだわりを維持していました。しかし、コメント欄での中途半端なレスは批判意見の火に油を注ぐケースもあり、指摘された点に触れなければ「スルーされた」という批判も招いていました。

このような経緯を踏まえ、現在は「1日1回以上」というこだわりは外し、必要最低限の対応にとどめさせていただいています。したがって、最近はコメントをお寄せくださった皆さん一人ひとりのお名前を上げて謝意を述べられないことが多く、きめ細かいレスもできず、たいへん恐縮です。それでも寄せられたコメント一つ一つ必ず目を通していることだけは申し添えさせていただきます。

なお、一方通行とならない意見交換の場としての位置付けを重視している立場には変わりありません。そのため、今後も直接問いかけられた事例については可能な限り対応していくつもりです。ちなみに以前からもコメント欄に寄せられた難しい問いかけは、記事本文を通してお答えするようにしていました。私自身のコメント欄への参加が減る傾向は、おのずから記事本文を通してレスすることが増える話であり、今回の記事もそのような流れの中で綴らせていただきます。

前置きが長くなりましたが、この間、コメント欄常連のnagiさんから自治労や日教組に絡んだ問いかけが頻繁に示されていました。このようなテーマは記事本文を通して、じっくりレスすべきものと考えていたため、ここまで遅くなってしまい申し訳ありません。まず私自身、自治労の一組合員であり、産別が異なる日教組からは部外者となります。そのため、やはり自治労の話を中心に取り上げていきますが、問いかけられている意味合いは同様な論点が多く含まれているものと考えています。

自治労とは」という解説は、右サイドバーの「用語解説リンク」に委ねさせていただきます。また、これまで当ブログでは自治労に関する記事を本当に数多く投稿してきました。インデックス代わりに整理するのも一苦労でしたが、この機会に下記のとおりピックアップしてみました。他にも漏れている記事があるかも知れませんが、私自身のスタンスと自治労との距離感などを示す一連の内容を掲げることができたものと思っています。

お時間がある際、それぞれご覧いただければ誠に幸いです。今回の記事は上記バックナンバーの紹介で尽きる話かも知れません。さらにnagiさんの問いかけの基本的な論点にもお答えした形かも知れませんが、それでは非常に不親切であり、わざわざリンク先の記事まで読まれない方々が圧倒多数だろうとも思っています。したがって、改めてnagiさんからの主な問いかけ(青字)にお答えしながら書き進めてみます。

OTSU氏と含めて組合の方に申し上げたい。ここは中国でも北朝鮮でもシリアでもありません。発言の自由が認められた日本です。官民問わずいろんな制度や法律、組織にはなんらかの問題点はあります。それを発言することは「悪」なのですか?OTSU氏も立場はあると思いますが、組合はわずかな非難も許されない組織なのでしょうか?それとも非難の余地などない素晴らしい組織なのでしょうか?まして直接関係ない組織にも意見は言えないのでしょう。もし言えないのなら、それこそ歪極まりない組織の証左ではないのでしょうか。自治労や日教組に所属する人は、その組織の批判を外部にしてはいけないのか?

この問いかけに関しては、上記に紹介した過去の記事のとおり自治労の長所や短所について、私自身、このブログを通して率直に発言してきました。同時にネット上だけの意見にとどめず、同じような趣旨の発言を各種機関会議の場などでも行なうように努めていました。参考までに日教組に絡む事例の一つとして、北教組(北海道教職員組合)の違法献金事件に対しては「あえて市議選の話題」という記事の中で問題視していたことも付け加えさせていただきます。

いずれにしても自治労や日教組に限らず、非難の余地のない素晴らしい組織は極めて稀なのではないでしょうか。そのような中で、一つ一つの組合の連合体であるため、自治労ぐらい発言の自由が認められている組織は珍しいようにも思っています。要するに自治労が「わずかな非難も許されない組織」ではないことを間違いなく強調できます。あくまでも断定調の批判に対する「お願い」は、先入観から導き出したような根拠の乏しい批判の仕方について問題提起したに過ぎません。

OTSU氏に質問です。日教組や自治労は反日組織と決め付けはよくない。断定はできません。しかし、日本に対する明らかな内政干渉に対する抗議はなぜないのですか?基地問題にはあれほど熱心ですよね。記事本文で取り上げたこともあります。今回、韓国の大統領が竹島に上陸するような暴挙がありました。これに対する抗議活動はどのような予定でしょうか。自治労の旗がはためくシーンはないのですか?韓国大使館前で自治労主催の抗議集会は開かないのですか?もし、そのような予定がないなら、反日組織だとの批判に対して、どのように反論するのでしょうか。

ウィキペディアによれば「反日(はんにち)とは、日本(政府・企業・人・社会・文化・制度・歴史など)の一部または総体に対して反発や反対する感情や主義・主張」と記されています。そもそも日本人が中心となって構成している団体の中で「反日組織」など存在しているのでしょうか。個人に対しても「反日」と揶揄する場合もありますが、同じように日本人でありながら日本そのものを全否定、もしくは心底憎んでいるような人が存在しているとは思えません。

確かに個別各論の選択肢や価値観が人によって異なり、どのような選択を行なった際に「反日」と呼ばれがちなことは理解しています。ご存知のとおり自治労は普天間基地などの軍事基地に反対している立場です。一方で、竹島の問題に関しては具体的な運動方針を確立していませんので、今回の韓国大統領の竹島訪問に対し、自治労としての抗議行動は提起されないはずです。だからと言って「反日組織」だと繋げる発想には少なからず違和感があります。

極論ですが、韓国大統領の竹島訪問に対して抗議しない組織は、すべて「反日」となってしまうのでしょうか。「軍事基地に反対しているのにも関わらず」という理由だけでは説得力が乏しいように感じています。なお、組合員からの意向などから今後、竹島の問題を自治労としても積極的に取り組む方針が掲げられれば、今回のような事態の際、韓国大使館前で自治労主催の抗議集会もあり得るのだろうと思っています。

そのような方向性の是非について、いろいろな評価や議論があるはずですが、ここでは組織としての立ち振る舞い方に絞って説明させていただいています。また、nagiさんから「労働組合なら、オスプレイ搬入反対のデモをする前に、最低賃金アップのデモをするほうが先でしょう。しかし、組合にとってはそうでないようです」という指摘もありました。このような指摘に対する答えは以前の記事「沖縄に揚がる自治労の旗」などに記していました。

原則的な認識として、最低賃金の問題などを自治労は軽視していませんので、指摘は不正確だと言わざるを得ません。労働組合としての優先順位を重視しながら最低賃金の問題にも力を注ぎ、取り組めるのであれば組合方針に基づきオスプレイ搬入反対のデモにも参加する、このような関係性の中で各組合が日々の活動を進めているはずです。今回の記事も長くなりましたが、nagiさんのように自治労を見ている方々の誤解を少しでも減らせる機会に繋がれば何よりだと願っています。

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2012年8月11日 (土)

退職手当削減と人事院勧告

最近、立て続けにコメント投稿に関わる「お願い」を中心に記事本文を綴っていました。前回記事は「このコメント欄の限界と可能性」でしたが、いつものことながら長々と書きすぎて伝えたい点が分かりづらくなっていたかも知れません。要するに当ブログのコメント欄の位置付けを改めて理解いただき、相反する考えをお持ちの方々に対しても「なるほど」と感じさせるような意見が交わせる場へ、よりいっそう高まっていくことを願った内容でした。

さて、今回は久しぶりに公務員の話題に特化した記事を綴らせていただきます。加えて、マスコミ報道の紹介をメインとし、この間の事実関係を淡々とお伝えしていくつもりです。それでも人によって、いろいろな感想を抱かれる記事内容となってしまうのだろうと思っています。それはそれで興味深く、私たち公務員の置かれた状況を客観視できる一つの機会になり得るものと考えています。

政府は7日の閣議で、国家公務員の退職手当を約15%(約400万円)減らす方針を決定した。2013年1月から14年7月にかけて3段階で引き下げる。公務員の退職手当と共済年金の上乗せ分を合わせた退職給付が、民間企業の退職金と企業年金の水準より約400万円多いとの人事院調査を踏まえ、官民格差を是正する狙いだ。消費増税へ向けた「身を切る改革」の一環で、国家公務員退職手当法改正案の早期の国会提出を目指す。

閣議では、自発的に早期退職する国家公務員への優遇制度を拡充する方針も決めた。対象を現行より5歳引き下げて「45歳以上」とし、現在定年までの残り年数1年あたり最大2%と決まっている退職手当への加算率を最大3%に増やす。給与水準の高い世代の早期退職を促し、国家公務員総人件費の削減を進める。これらにより、平均退職手当は現行の約2700万円から約2300万円に下がる。国家公務員の退職手当の減額は、政府の有識者会議が5月に提言していた。【日本経済新聞2012年8月7日

このニュースに接した時、「今まで15%も高かったこと自体が不当だ」「2300万円でも多すぎる」というような声を発せられる方が少なくないのかも知れません。ちなみに上記の閣議決定の根拠となった人事院の調査結果は今年3月7日に次のとおり報道されていました。前回の公表が2006年と記されていますので、6年間の官民比較の結果が15%の開きに繋がったようです。

人事院は7日、国家公務員の退職手当と共済年金の独自加算を合わせた2010年度の退職給付は2950万3千円で、民間企業の退職金と企業年金より402万6千円多かったとの調査結果を公表し、総務、財務両相に格差是正を求める見解を文書で提出した。これを受け政府は、国家公務員の退職手当を引き下げる改正法案を12年度中に国会提出する方針。

一方で人事院の見解では、調査対象の過半数で企業年金があったことから、共済年金への何らかの独自加算を念頭に公務員にも「考慮した対応が必要」と指摘。早期退職の手当割り増し制度の導入も求めた。06年公表の前回調査では公務員が民間を下回ったが、景気低迷で民間の水準が相対的に低くなったため逆転したとみられる。退職給付の官民格差の顕在化で、公務員制度改革の議論が加速する可能性もある。【産経新聞2012年3月7日

振り返れば2006年11月25日、このブログで「人事院調査、公務員の年金は少ない」という記事を投稿し、「民間企業のサラリーマンと国家公務員が生涯に受け取る上乗せ年金(退職金含む)額を比較した実態調査の報告書を塩崎官房長官へ提出」と記していました。今回、15%まで広がった較差について、人事院は「リーマンショックの影響」「適格退職年金廃止等の民間における制度変更」「民間給料の引き下げの影響」「公務における勧奨退職の減少」などを理由としてあげています。

当初、「共済年金職域部分と退職給付に関する有識者会議」の座長である岡田副総理は、単年度での引き下げを強く主張されていたようです。それに対し、公務労協は官民比較の調査結果を前提としつつも退職手当の段階的な引き下げ措置を求め、総務省交渉を重ねていました。その結果、8月6日に川端総務大臣との交渉の場で、3段階で改める経過措置などを確認し、公務労協として合意に至っていました。

今回の人事院勧告(人勧)は、平均7.8%の国家公務員給与の特例減額が行われている異例の状況下で実施された。特例減額は、東日本大震災の復興財源の捻出という人勧とは異なる判断に基づいて導入された経緯がある。それだけに、同院の判断が注目されたが、月給、ボーナスとも、政府の特例措置を尊重する姿勢を示し、給与水準の改定勧告を見送る結果となった。

判断の基礎となる民間との月給の格差は273円。「格差が僅少」として勧告を見送った過去のケースと比較しても、勧告するか否か難しい判断を迫られる数字だ。加えて、特例減額後の給与は民間を大きく下回っており、これまで例がない人勧に基づかない減額へのスタンスも問われた。同院は、例年以上に会議を重ね、慎重に対応を協議。勧告見送りの理由として、格差が小幅だったことに加え、特例減額が実施されている状況を考慮した点を明確に示した。

一方、かねて課題とされている高齢層の給与については、民間と比べ給与が高い55歳以上の職員の昇給の原則停止を決定。職員労働組合が、給与の特例減額の下での制度変更に強く反発する中、法改正にまで踏み込んで勧告した。政府が国会に提出した国家公務員制度改革関連法案で廃止が打ち出された人事院だが、高齢層の給与抑制策では存在感を示す格好となった。 【時事ドットコム2012年8月8日

国家公務員の退職手当削減方針が閣議で決められた直後、その翌日には今年度の人事院勧告が上記のとおり示されました。この勧告を受け、公務労協・公務員連絡会は即座に声明を発表していました。公務員連絡会は、特例減額(参考記事「国家公務員給与削減へ)が行なわれている中、月例給と一時金の改定見送りは妥当な判断だとしていました。一方で、高齢層職員の給与水準を抑制する勧告は、公務員連絡会との充分な協議が行なわれずに強行され、遺憾であることを表明していました。

いずれにしても今後、国家公務員の退職金削減や人事院勧告の動きは、私たち地方公務員にも大きな影響を与えていきます。冒頭に述べたとおり今回の記事は、ここまでマスコミ報道を連ねながら公務員組合側の対応や見解を淡々と書き進めてきました。少しだけ意見を添えたいと思いますが、自民党の西田昌司参院議員が「デフレ下で公務員給与を下げれば経済は破綻する」という主張をされていました。しかし、このような見方は極めて少数であるものと理解しています。

民間より高いという批判に対し、「公務員は高くていいんだ」と真正面から反論しづらい昨今となっています。一方で、労働組合の役割の第一は組合員の労働条件の維持向上であり、賃金や退職手当の削減に対し、諸手をあげて賛成していく立場では絶対ありません。しかしながら様々な情勢を踏まえ、苦汁の判断を下さなければならないことが多い現状も強く認識しています。最後に、これまで数多く綴ってきた個人的な思いを繰り返し述べるよりも、関連した以前の記事を紹介し、今回の記事を終わらせていただきます。

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2012年8月 5日 (日)

このコメント欄の限界と可能性

社会や政治の現状に対し、強い危機意識を持たれている方々にとって前々回記事(断定調の批判に対する「お願い」)と前回記事(断定調の批判に対する「お願い」 Part2)は些末な話であり、「入口」や「道具」に固執した議論提起だと受けとめられがちでした。確かに大所高所から論じるような記事内容ではありませんので、そのように見られても当然でした。他にも前回記事のコメント欄では日教組や自治労、私の所属している自治体における具体的な問題に対する問いかけなども寄せられていました。

ただ単に「批判の仕方にも一定のルールがあるはずですので、できる限り守られるようお願いします」と綴った記事内容から思いがけない議論の広がりを見せられ、正直なところ興味深さと戸惑いが交錯していました。いつものとおり様々な見方があり得ることを感じ取れる貴重な機会だと言えましたが、伝えたい意図が必ずしも的確に伝え切れていない残念な面も残っていました。

私自身の文章力や伝達能力が不足していることを反省しなければなりませんが、議論を成立させるために必要な前提が人によって異なることも留意すべきなのだろうと考え始めています。今回の記事も、このような問題意識を掘り下げていくため、「出口」よりも「入口」に軸足を置いた論点提起となるはずです。後ほど改めて詳しく述べますが、それはそれで「入口」を大事にすることが当ブログの「コメント欄の限界と可能性」を探る試みに繋がっていくものと思っています。

まず前回記事の最後に触れた「議論の3要素」の話から入らせていただきます。今回、リンク先のサイトから「なるほど」と感じた箇所を紹介していきます。議論とは「相手にとって納得しうる形で主張を展開しているもの」とし、議論の基本的3要素として、議論の結論である「主張」とそれを裏付けるための「データ」、そしてこの二つを結び付ける「根拠」が示されていました。例として「A君は寝る前にお菓子を食べることが多い(データ)から虫歯になる(主張)。なぜなら、睡眠前に糖分を取ると虫歯になるからだ(根拠)」という説明が加えられていました。

この考え方はトゥールミン・モデルと呼ぶそうですが、そのサイトでは議論の結論である「主張」とその理由となる「根拠」(トゥールミン・モデルでいう「データ」)、そして「根拠」と「主張」を繋ぐ「推論」という3つの要素に並び替えていました。ちなみに「主張」「データ」「理由付け(推論)」を三角形の頂点に置く考え方を「三角ロジック」と呼ぶことも知りました。この場合は「データ」と「理由付け」を合わせて「根拠」と位置付けるようです。

ここまで書きながら非常に分かりづらい説明だと思っていますので、興味を持たれた方は詳しく視覚的に解説されているリンク先のサイトをご覧になってください。いずれにしても「主張」という個人的見解を示すにあたり、「根拠」「データ」「理由付け」などが必要であり、それらが欠けていた場合、議論が成立しにくいという構図を思い描いています。その上で、紹介したサイトの中で最も「なるほど」と感じた箇所をそのまま掲げさせていただきます。

議論は主張・根拠・推論の3つからできていることになります。主張とは、その議論で言いたいことです。根拠とは、なぜ主張のように言えるのかという理由です。そして、その理由を主張に結びつけるのが推論の部分です。推論の部分は要素というよりは主張と根拠の関係(出された根拠が主張と関係あるのか)ということをチェックする役割で、聞き手の方で補充して考える要素ということができます。

例えば、「A君は空手三段なのでけんかに強い」という発言を議論として評価すると、「A君はけんかに強い」というのがこの発言で言いたいこと(主張)であり、その理由(根拠)が「A君は空手三段である」ということになります。この場合は「空手三段といえば強い」というように聞き手が判断できる(推論)ので、議論として一応成り立っているといえるでしょう。これに対して、「A君は将棋三段なのでけんかに強い」というのは、将棋三段からけんかの強さを導くことは難しいので、推論に無理があるということで、要素を欠くために議論は不成立だということになります。

また、「A君はけんかに強い」というのは根拠がないので、これもやはり要素を欠く議論として否定されてしまいます(もっとも、誰もが知っている事実については根拠がなくても一応信用されます。例えば「日本の首都は東京である」というのは否定できない事実であり、根拠を求める必要はありません)。とにかく大切なことは、主張には必ず根拠が伴わなければならないということです。そして、その根拠は主張と関係のあるものでなければ意味がありません(適切に推論できない)。

さて、長々と綴ってきましたが、ここからが今回記事の本題となります。これまでブログを続けてきて、どうしても分かり合えない場面が数多くありました。コメントを投稿される皆さん、それぞれ正しいと信じている「答え」があり、その「答え」と大きな開きがある私自身の「答え」に苛立ち、厳しい詰問調の言葉を投げかけられる方々が少なくありません。簡単に分かり合えるとは考えていませんが、あまりにも議論そのものがかみ合わないケースも多く、ブログを続けていくことの「限界」が取り沙汰される時もありました。

このような不満はお互い様なのでしょうが、原因の一つとして前述したような「根拠」や「推論」そのものに大きな隔たりがあるのだろうと考え始めていました。つまり「空手三段」という強さの評価に隔たりがあり、三段程度では強くないという見方がある方に対し、「A君は空手三段なのでけんかに強い」という主張は説得力が乏しくなります。もっと極端な場合、「東京」という存在の共通認識がない中で、議論が行なわれているのかも知れません。

誤解されないよう強調しなければなりませんが、私自身は正しく、分かり合えないケースの「相手方の認識が問題だ」という見方を述べているものではありません。議論が対立した際の軍配は容易に上げられないものと思っています。あくまでも議論がかみ合っていない時、前提となる「根拠」や「推論」に大きな隔たりがありがちな傾向を掘り下げていました。参考までに当ブログにおいて、隔たりがちなポイントを例示してみます。

  1. このブログのコメント欄では「答え」を一つに絞ることを目的としていません。投稿された皆さんの主張を閲覧されている方々がどのように評価するかどうかだろうと考えています。物事一つ一つの白黒にこだわる方々にとって、物足りない場だろうと思います。しかし、この場で「答え」を一つに絞ることは至難な話であり、そもそも絞れたからと言って実生活において何か急激に変わる訳でもありません。
  2. このブログを開設した目的は「公務員やその組合の言い分」の発信でした。そのスタートラインから幅広いテーマを題材にしたブログとなっていますが、原点は自治労に所属している一組合の役員の立場から思うことを個人の責任で発信していました。したがって、自治労全体の声を代弁できるものではなく、勤めている自治体の動きを前面に押し出せるブログでもありませんでした。まして国政全般の行方に対し、影響を与えられるような場でないことも言うまでもありません。
  3. 公務員にも労働組合は必要である、公務員やその組合の政治活動も一定必要である、このような各論に対する見方は個々人で本当に大きく隔たっているようです。さらに自治労や日教組は政治活動ばかりに熱中し、組織内で批判の声もあげられない上意下達の体質だと見ている方々も少なくありません。

以上のような隔たりがあるため、「批判に対して苦言を呈しているようだが、その苦言や姿勢自体が真の批判されている原因だ」「職務の存在意義やミッションなどに対しては、ほとんど熱が入っていない」「日教組は教育に対して貢献しているのか」「官公労の一部には政治活動自体が目的になっている集団があるのではないか」「組合はわずかな非難も許されない組織なのか」というような声に繋がっているものと受けとめています。

そのような問いかけに対し、一つ一つ丁寧にレスすべきなのでしょうが、たいへん恐縮ながら別な機会に改めてお答えできればと考えています。ただ上記1-3に照らした時、私がどのようにお答えするのか、おのずから想像いただけるものと思っています。そろそろ結論的なまとめに入りますが、記事タイトルに掲げたとおり当ブログのコメント欄には当たり前な限界があり、過剰な期待を込めた「主張」は場違いとなりかねません。

きっと「言われなくても分かっている」というお叱りを受けるのかも知れません。もしくは中には分かっていて、日頃の不満のハケ口として辛口なコメントの投稿を繰り返している方もいらっしゃるのかも知れません。また、今回の記事が批判意見を抑える意図を持って、回りくどく書き進めてきたのではないかと見られてしまうことも心配しています。念のため、批判意見について前回記事で綴ったとおり自制を求めていく考えは毛頭ありません。

最近の記事「改めてコメント欄について」の中で述べているとおり「誹謗中傷の類いはもちろん、他者を意図的に不愉快にさせるコメントは控えていただく」というお願いに協力いただければ、他のブログに比べて物凄く自由度の高いコメント欄であるはずです。先に限界について記しましたが、一方で、このコメント欄の可能性も決して軽視していません。1週間で1万件前後のアクセスがあり、その中には自治労本部や民主党国会議員関係者の方々が訪れている場合もあります。

コメント欄では一つの「答え」に絞ることを目的としていませんが、幅広い立場や視点からの説得力のある「主張」は、閲覧されている皆さんの考え方や実生活における行動パターンにも影響を与えていく可能性があることも信じています。このコメント欄の限界と可能性に理解をいただきながら、ぜひ、これからも多くの方々から貴重なご意見が寄せられることを願っています。その際、できる限り「根拠」や「データ」などに裏打ちされたコメント投稿が競い合えるよう切望しています。

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