断定調の批判に対する「お願い」 Part2
「コメント欄、もう限界じゃないですか」
このブログを定期的に訪問されている組合員の方から投げかけられた一言でした。前回記事(断定調の批判に対する「お願い」)のコメント欄でも、思いがけない批判が寄せられていたことなどを心配した言葉でした。私自身が少しでも理解が進むことを願いながら努力を続けたとしても、分かり合えない方々とは絶対分かり合えないという見方から発せられていたようでした。同様な見方として、前回記事のコメント欄では次のような声も寄せられていました。
世の中、敵か味方かでしか、物事をとらえられない人が多いということですよ。しかも、それでいい、それが正義だ!と思ってるからOTSUさんが「その断定調は改めてみては?」とささやかに提案してみたところで、そういう人たちの態度が変わるわけがないですよ。
その直前には、 普段は傍観者さんから「コメントしないだけで想いは伝わってる人はいますよ。私はその一人です。夜も更けておりますので一言だけで失礼します」というコメントも寄せていただいていました。このようなコメントも頂戴できるため、長い間、週1回更新のペースを保ってこれたものと思っています。冒頭で紹介した組合員の方にも「確かに分かり合うのは難しいようですが、相互に意見交換できる場そのものが貴重なので、これからも無理しないペースで続けていくつもりです」と答えていました。
以上のような近況を書き連ねましたが、私の主張や文章を「分からない」、もしくは反発している方々からすれば、きっと強い違和感を持たれているのではないでしょうか。加えて、そのような方々は、私の言い分に理解を示している方は皆「公務員」という想像力を働かせているのかも知れません。傾向として公務員の方が多いのかも知れませんが、そのような分類はあまり意味がなく、あくまでも書かれている文章や意味合いがどのように評価されていくのかどうかだろうと思っています。
前回の記事内容に対し、あまのじゃくさんからは「何」を訴えたいのか分からないと駄目出しがあり、コメント欄で補足説明した後には「感性と目的が違う」という評価まで下されてしまいました。あまのじゃくさんは「OTSUさんは道具のチェックは上手だが、大工道具ばっかり吟味しても、良い家は建たない」と指摘され、前回記事のコメント欄で次のような「入口」と「出口」の話を展開されていました。
「批判」は「将来を改善する為」のものです。批判は「入口」で将来の改善が「出口」。大工仕事で言えば「良い大工道具を揃える」のが「入口」で「立派な家を建てる」のが「出口」。私は常に「出口」を見ている。将来良くする事が最も大事。その為の批判です。しかしOTSUさんは「入口の吟味に余念が無い」のです。
手段や過程よりも目的や結果が大事だという趣旨は、まったくその通りだと私も考えています。ただ前回記事を通して訴えた内容が、上記のような批判に繋げられてしまっていたことは不本意でしたので、新規記事の中で釈明するつもりでした。もともと前回の記事は大津市のいじめ自殺事件の「出口」を真正面から論じたものではありませんが、仮に日教組が問題だという推測で結論付け、対策を講じたとしても、見立てが誤っていれば抜本的な解決策に繋がらないという説明を加えていました。
要するに批判の対象となる「入口」や「大工道具」に問題があれば、適切な「出口」に至らず、「家を建てる」こともできないはずです。具体的な根拠がないまま断定調の批判を行なうことに対する問題意識として、まず以上のような側面が一つありました。もう一つ、前回記事のコメント欄で説明を重ねた「あいつは何するか分からない危ない奴だ」という比喩をもとに改めて整理してみます。
- 「あいつは何するか分からない危ない奴だ」と思うことは、完全にセーフです。何の罪に問われるものではありません。
- 「あいつは何するか分からない危ない奴だ」と言葉にすることは、名指しされた相手が不愉快に感じるかも知れませんがセーフです。侮辱罪で訴えられる可能性もありますが、必ずしも裁判で負けるとは限りません。
- 「あいつが人を殺した」と思うこと自体は、上記1と同様に完全にセーフです。
- 「あいつが人を殺したかも知れない」と言葉にすることは、相手から訴えられる可能性もありますが、ぎりぎりセーフです。
- 「あいつが人を殺した」と公衆の面前で断定調に発言し、その結果、事実でなかった場合は完全にアウトです。
大津市の問題で男子生徒を自殺に追い込んだのは「日教組の責任が大きいかも知れない」という言葉に比べ、「日教組の責任が大きい」と断定調でインターネット上に書き込むことは雲泥の差があるものと思っています。それでも断定調に書き込む場合は、しっかりとした根拠を示すべき類いの慎重さが必要だと考えています。いずれにしてもブログの管理人の立場からは一言注意を喚起しなければならない線引きがあることもご理解いただければ幸いです。
もう少し補足すれば、批判の対象が特定の人物や団体に限定しないケース、例示している批判内容が具体的なものではないケース(いじめ自殺事件などとの対比で)に関しては、これまでも細かい注文を付けてきていませんでした。根拠が示されていなくても、あまりにも飛躍した論理展開だったとしても、そのような記述の仕方なども含め、書かれている文章や意味合いが評価されていくのだろうと思っています。
したがって、「●●だから、●●だ」という断定調の批判を今後は控えて欲しいとお願いしている訳ではありません。特定の人物や団体に対する誹謗中傷の類いとならない限り、今までと同様、このブログのコメント欄で細かい注文を付ける予定もありません。言うまでもなく、それぞれの主張が思い込みや憶測で語られていた場合、その説得力や発信力が乏しくなり、閲覧されている皆さんからの評価も相応のものにとどまるだけの話だろうと考えています。
このような私自身の主張が、あまのじゃくさんからすれば「入口の吟味に余念が無い」という見方に繋げられてしまうことも仕方ありません。受け取られ方や評価が個々人で枝分かれしていくことを当たり前だと理解しています。今回の内容も拙く分かりづらい文章だったものと思います。それでも言葉を発していかなければ、立場や視点の異なる方々との相互理解が進む可能性はゼロとなります。そのため、前段で述べたとおり今後もマイペースを基本に当ブログを続けていくつもりですので、よろしくお願いします。
最後に、ロンドンオリンピックが開幕しました。土曜の夜、柔道や重量挙げなどを観戦し、各選手の活躍に明暗が分かれる姿を見届けながら、このブログの更新に至っていました。ちなみに「議論の3要素」の話まで広げる内容を考えていましたが、結局、前回記事のタイトルに「Part2」を付けるだけの題材に絞り込んでいました。できれば次回以降の記事の中で、そのような話も取り上げられればと考えています。
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