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2012年7月29日 (日)

断定調の批判に対する「お願い」 Part2

「コメント欄、もう限界じゃないですか」

このブログを定期的に訪問されている組合員の方から投げかけられた一言でした。前回記事(断定調の批判に対する「お願い」)のコメント欄でも、思いがけない批判が寄せられていたことなどを心配した言葉でした。私自身が少しでも理解が進むことを願いながら努力を続けたとしても、分かり合えない方々とは絶対分かり合えないという見方から発せられていたようでした。同様な見方として、前回記事のコメント欄では次のような声も寄せられていました。

世の中、敵か味方かでしか、物事をとらえられない人が多いということですよ。しかも、それでいい、それが正義だ!と思ってるからOTSUさんが「その断定調は改めてみては?」とささやかに提案してみたところで、そういう人たちの態度が変わるわけがないですよ。

その直前には、 普段は傍観者さんから「コメントしないだけで想いは伝わってる人はいますよ。私はその一人です。夜も更けておりますので一言だけで失礼します」というコメントも寄せていただいていました。このようなコメントも頂戴できるため、長い間、週1回更新のペースを保ってこれたものと思っています。冒頭で紹介した組合員の方にも「確かに分かり合うのは難しいようですが、相互に意見交換できる場そのものが貴重なので、これからも無理しないペースで続けていくつもりです」と答えていました。

以上のような近況を書き連ねましたが、私の主張や文章を「分からない」、もしくは反発している方々からすれば、きっと強い違和感を持たれているのではないでしょうか。加えて、そのような方々は、私の言い分に理解を示している方は皆「公務員」という想像力を働かせているのかも知れません。傾向として公務員の方が多いのかも知れませんが、そのような分類はあまり意味がなく、あくまでも書かれている文章や意味合いがどのように評価されていくのかどうかだろうと思っています。

前回の記事内容に対し、あまのじゃくさんからは「何」を訴えたいのか分からないと駄目出しがあり、コメント欄で補足説明した後には「感性と目的が違う」という評価まで下されてしまいました。あまのじゃくさんは「OTSUさんは道具のチェックは上手だが、大工道具ばっかり吟味しても、良い家は建たない」と指摘され、前回記事のコメント欄で次のような「入口」と「出口」の話を展開されていました。

「批判」は「将来を改善する為」のものです。批判は「入口」で将来の改善が「出口」。大工仕事で言えば「良い大工道具を揃える」のが「入口」で「立派な家を建てる」のが「出口」。私は常に「出口」を見ている。将来良くする事が最も大事。その為の批判です。しかしOTSUさんは「入口の吟味に余念が無い」のです。

手段や過程よりも目的や結果が大事だという趣旨は、まったくその通りだと私も考えています。ただ前回記事を通して訴えた内容が、上記のような批判に繋げられてしまっていたことは不本意でしたので、新規記事の中で釈明するつもりでした。もともと前回の記事は大津市のいじめ自殺事件の「出口」を真正面から論じたものではありませんが、仮に日教組が問題だという推測で結論付け、対策を講じたとしても、見立てが誤っていれば抜本的な解決策に繋がらないという説明を加えていました。

要するに批判の対象となる「入口」や「大工道具」に問題があれば、適切な「出口」に至らず、「家を建てる」こともできないはずです。具体的な根拠がないまま断定調の批判を行なうことに対する問題意識として、まず以上のような側面が一つありました。もう一つ、前回記事のコメント欄で説明を重ねた「あいつは何するか分からない危ない奴だ」という比喩をもとに改めて整理してみます。

  1. 「あいつは何するか分からない危ない奴だ」と思うことは、完全にセーフです。何の罪に問われるものではありません。
  2. 「あいつは何するか分からない危ない奴だ」と言葉にすることは、名指しされた相手が不愉快に感じるかも知れませんがセーフです。侮辱罪で訴えられる可能性もありますが、必ずしも裁判で負けるとは限りません。
  3. 「あいつが人を殺した」と思うこと自体は、上記1と同様に完全にセーフです。
  4. 「あいつが人を殺したかも知れない」と言葉にすることは、相手から訴えられる可能性もありますが、ぎりぎりセーフです。
  5. 「あいつが人を殺した」と公衆の面前で断定調に発言し、その結果、事実でなかった場合は完全にアウトです。

大津市の問題で男子生徒を自殺に追い込んだのは「日教組の責任が大きいかも知れない」という言葉に比べ、「日教組の責任が大きい」と断定調でインターネット上に書き込むことは雲泥の差があるものと思っています。それでも断定調に書き込む場合は、しっかりとした根拠を示すべき類いの慎重さが必要だと考えています。いずれにしてもブログの管理人の立場からは一言注意を喚起しなければならない線引きがあることもご理解いただければ幸いです。

もう少し補足すれば、批判の対象が特定の人物や団体に限定しないケース、例示している批判内容が具体的なものではないケース(いじめ自殺事件などとの対比で)に関しては、これまでも細かい注文を付けてきていませんでした。根拠が示されていなくても、あまりにも飛躍した論理展開だったとしても、そのような記述の仕方なども含め、書かれている文章や意味合いが評価されていくのだろうと思っています。

したがって、「●●だから、●●だ」という断定調の批判を今後は控えて欲しいとお願いしている訳ではありません。特定の人物や団体に対する誹謗中傷の類いとならない限り、今までと同様、このブログのコメント欄で細かい注文を付ける予定もありません。言うまでもなく、それぞれの主張が思い込みや憶測で語られていた場合、その説得力や発信力が乏しくなり、閲覧されている皆さんからの評価も相応のものにとどまるだけの話だろうと考えています。

このような私自身の主張が、あまのじゃくさんからすれば「入口の吟味に余念が無い」という見方に繋げられてしまうことも仕方ありません。受け取られ方や評価が個々人で枝分かれしていくことを当たり前だと理解しています。今回の内容も拙く分かりづらい文章だったものと思います。それでも言葉を発していかなければ、立場や視点の異なる方々との相互理解が進む可能性はゼロとなります。そのため、前段で述べたとおり今後もマイペースを基本に当ブログを続けていくつもりですので、よろしくお願いします。

最後に、ロンドンオリンピックが開幕しました。土曜の夜、柔道や重量挙げなどを観戦し、各選手の活躍に明暗が分かれる姿を見届けながら、このブログの更新に至っていました。ちなみに「議論の3要素」の話まで広げる内容を考えていましたが、結局、前回記事のタイトルに「Part2」を付けるだけの題材に絞り込んでいました。できれば次回以降の記事の中で、そのような話も取り上げられればと考えています。

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2012年7月22日 (日)

断定調の批判に対する「お願い」

ご存知の方が多いものと思いますが、右サイドバーの「最近のコメント」に並んでいる名前をクリックすると、そのコメントに飛ぶことができます。コメント欄を開いて、スクロールする手間が省け、コメント数が多い場合、たいへん便利な機能となっています。特に前回記事「大津市のいじめ自殺問題」は久しぶりに100件に迫る数のコメントが寄せられ、毎日、その機能を使って閲覧していました。

大津市のいじめ自殺の問題は日を追うごとに新たな事実が明らかになり、学校や教育委員会の不適切な対応は言い逃れができない様相を示していました。その中で、男子生徒が自殺した直後、学校側はいじめとの関連を指摘していた報道も耳にしていました。それに対し、加害者として告訴されている3人の保護者側が「うちの子は悪くない」「うちの息子がこの件で逆にいじめられたらどうしてくれるんや」と強く反発し、結局、いじめと自殺との因果関係は判断できないという結論に至っていた経緯も明らかになっていました。

今回の記事は、いじめの問題を直接掘り下げる内容ではありません。もちろん、前回記事のコメント欄で交わされている議論が新規記事の場に移されることも歓迎しています。その上で、議論の対象となるテーマを問わず、ご理解いただきたい「お願い」があります。すでに前回記事のコメント欄で触れた点ですが、改めて整理しながら書き進めてみます。いつもコメント欄までご覧くださっている方々にとっては繰り返しのような話となり恐縮ですが、お付き合いいただければ幸いです。

まず「教育の質向上のためには、学校現場から日教組教員を排除しないといけない」「組合がしっかりしているから隠蔽ができたんですよ」などいう意見が最近の記事のコメント欄で散見していました。つまり大津市のいじめ自殺の問題、学校や教育委員会の隠蔽体質は日教組の責任が大きいという書き込みでした。私自身、必ずしも他の組合のことを詳細に把握している訳ではありませんので、日教組の責任が皆無という説明は行なえません。しかし、日教組の責任が大きいという見方にも懐疑的だったため、断定調に批判されている方に対しては、その根拠を尋ねていました。

前回記事のコメント欄で、内田樹さんのブログ記事「いじめについて」も一つの見方として紹介していました。私自身の記事本文もその一つであり、大津市のいじめ問題から反省すべき点が多々あることは間違いありません。教育委員会のあり方、日教組や教職員の身分保障の問題が検証対象となり得ることも否定しません。したがって、多様な視点から発せられる意見は意見として基本的に尊重していかなければなりません。一方で、このブログの管理人として、違和感が残る箇所だけは指摘せざるを得ない立場でした。

そのため、たいへん難解な議論が交わされている中、些細な点にこだわっているように見られていたはずです。もともと日教組への評価は個々人、いろいろお持ちだろうと思いますが、そのような点について議論提起していた訳ではありませんでした。大津市のいじめや教育委員会の隠蔽は、日教組の責任が大きいという書き込みに対し、素朴な疑問を投げかけていました。日教組の責任を断定調に書かれていた方々が、あくまでも今回のいじめ問題の要因として、どのような根拠を把握して論じているのかをお尋ねしていました。

日教組への先入観から「今回の問題も日教組の責任」と想像されること自体を否定できません。しかし、断定調に書き込みされ、事実からかけ離れていた場合、そのような批判は誹謗中傷の類いとなります。さらに今後、適切な対策を検討していく際、憶測で物事を判断していくような話は決してプラスに働かないはずです。いずれにしても「●●だから、●●だ」という主張をされる時、思い込みや憶測で論じられていた場合、その説得力や発信力は極めて乏しくなります。このような点は各論ではなく、議論を進める上での総論的な話でもあり、あえてこだわり続けていました。

仮に日教組が問題だという推測で結論付け、対策を講じたとしても、見立てが誤っていれば抜本的な解決策に繋がりません。このように書くと責任の所在を曖昧にするような誤解を招きがちですが、前回記事でも綴ったとおり今回の問題で大津市の教育委員会や学校関係者に対する責任は免れないものと思っています。あくまでも再発防止に向けた諸々の課題に直面した際、様々な原因や見方を軽視しない一方で、思い込みや憶測で物事を断じないことの大切さを感じています。

一見すると、直前の言葉は矛盾しているように受けとめられてしまうのかも知れません。「様々な原因や見方を軽視しない」ということは、「●●だから、●●だ」という推測による可能性も自由に出し合うべきという考え方に繋がります。先ほど述べたとおり「●●だから、●●だ」という持論を主張されること自体否定していません。それこそ言論の自由、内心の自由の世界です。ただ具体的な相手が存在するケースで、ミスリードになりかねない断定調の書き方を行なえば誹謗中傷の類いとなる話でした。

さらに尊い命が亡くなっている事件において、断定調で批判される場合は、より慎重に論拠立てた説明責任が欠かせないものと考えていました。このような問題意識があったため、大津市のいじめ自殺の問題で「日教組の責任が大きい」というコメントに対しては、その根拠を繰り返し尋ねざるを得ませんでした。とりわけ日教組と自治労は様々な場面で並べて評されることが多く、そのような経緯からも傍観できず過敏に反応していました。今回の記事内容に対しても様々な受けとめ方があろうかと思いますが、このブログの管理人の立場からの「お願い」についてご理解いただければ幸いです。

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2012年7月14日 (土)

大津市のいじめ自殺問題

大津市立中学校2年生(当時)の男子生徒が昨年10月、いじめを苦に自殺した問題は滋賀県警が大津市教育委員会や学校の強制捜査にまで乗り出す事態になっていました。このような局面に至り、市教委の澤村教育長は「自殺の要因の一つにいじめがあると思う」とし、いじめと自殺の因果関係を認める発言を行なっていました。しかし、あくまでも要因の一つであることを強調し、大津市の越直美市長が示した和解方針に逆らい、訴訟は続ける意向も明言していました。

大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が飛び降り自殺したのはいじめが原因として、男子の両親が市や同級生などに損害賠償を求めた訴訟について、市の澤村憲次教育長は13日午前、市役所で記者会見し、「訴訟は続けたい」と明言した。越直美市長は和解の意向を示しており、市と市教委で、正反対の見解が示された。17日に大津地裁で第2回口頭弁論が開かれる。訴訟を続ける理由について、澤村教育長は「学校については(市教委が)一定の調査をしたが、本人や家庭のことも明らかにされていくべき」と説明した。全校生徒を対象として実施した学校のアンケートなどをもとに市教委が十分調査したため、ほかの要因についても検討すべきとの考えを示した。

澤村教育長は12日の記者会見では、自殺の原因ついて「いじめがその一つになるとは考えられる」と述べ、初めていじめと関連する可能性を認めた。ただ、「家庭などさまざまな要因が考えられ、いじめだけが原因かどうかは判断できない」とも述べていた。一方、越市長は6日、いじめ問題で外部委員会による再調査を行うことを表明し、10日夜の記者会見では「私自身は、いじめがあったからこそ男子生徒が亡くなったと思っている」と発言。「完全に市教委の調査はずさんだったとわかった。今から調査し、しっかり事実確認できなかった場合は、大津市が責任をとって和解したい」と述べていた。【産経ニュース2012年7月13日

前回記事「さようなら原発10万人集会」のコメント欄も、この大津市のいじめ自殺問題の書き込みが続いていました。男子中学生が自らの命を絶たなければならなかったこと、その家族の悲しみや無念さなどを思うと本当に痛ましい事件でした。また、新たな事実が明らかになるたび、学校や市教委側の対応ぶりに批判が高まっていきました。このブログのコメント欄でも、学校や市教委に対する憤りの声が多く寄せられていました。

時間的にも気持ちの上でも集中しづらい平日の夜は、言葉が不足しがちなコメント投稿は控えようと考えていました。それでもコメント欄に即応できる環境が整いながら、まったく関わらないのも失礼だろうと思い、週の合間にいくつか私なりの感想などを述べていました。やはり案の定、いろいろ言葉が不足していたようでした。中途半端に書き足すのではなく、新規記事の本文で自分なりの意見を詳しく掘り下げることを約束していました。

まず学校や市教委の不誠実な対応、隠蔽体質だと批判されても仕方ない動きについて考えてみます。なぜ、ここまでいじめと自殺との直接的な因果関係を否定し続けているのか、きっと自殺直後の意思決定に重大な瑕疵があったものと推測しています。関係者からの情報収集が不充分だったのか、意図的に都合の悪い情報を軽視したのかは分かりません。しかし、結論を「いじめと自殺の因果関係については判断できない」とし、以降、すべてその方針に基づき対処していた姿勢が明らかです。

このような疑念が残る結論を導き出した背景として、教育評論家の尾木直樹さんは次のような見方を示されていました。「自殺といじめの因果関係は95%あると思います」とした上で、学校や教育委員会の隠蔽体質について「学校評価制度が入ってきて、学校にいじめがあるといっただけで校長の評価が下がる。自殺といじめの因果関係は難しいが、それを判断するのは専門のドクターや裁判官。ズブの素人の教育委員会がなかったと言い張ること自体が異常だと思います」と述べられていました。

ここまで事態が社会問題化するという見通しもなく、遺族が泣き寝入りすることで事件の風化を関係者は期待していたのかも知れません。つまり方針決定に大きな影響力を及ぼせる責任者の自己保身が、この痛ましい事件の対応ぶりに大きな誤りを積み重ねていった原因だろうと見ています。さらに大津市教育委員会に厳しい批判が殺到する事態に至りながら、当初の方針を大きく軌道修正できない硬直した姿勢についても組織のトップの資質が問われています。

ここで非を認めると、すべての責任を負うことになるという自己保身の上乗りが働いているのでしょうか。前回記事のコメント欄でLさんから「学校管理職と担任、教育委員会担当職員は、諭旨免職が相当だと考えます」という意見が寄せられていました。確かに大津市教育委員会の信用は失墜し、遅すぎるタイミングとなっています。とは言え、越市長が大きな判断を下したのですから市教委側も潔く非を認め、これまでの不手際に対して責任ある人物が出処進退を明らかにすべきものと思っています。

一方で、関係者全員に相応の責任があるのでしょうが、やはり従属的な立場かどうかで責められる重さも異なるものと考えています。本論から少し外れますが、この問題が注目を集めた当初、マスコミの矢面に立っていた方の肩書は課長補佐でした。要するに管理職末席の方が最も辛い役回りを押し付けられていた切ない構図を感じていました。役所でも民間会社でも、個人的な思いはかみ殺し、組織人としての発言に終始しなければならない場面があり得ます。

大津市のいじめ自殺の問題に触れた記者会見の中で、越市長と大阪市の橋下市長は目に涙を浮かべていました。その涙の純粋さを疑うものではありませんが、関係する組織の枠から外れているからこそ、個人的な思いをストレートに出せるという構図も押さえるべきだろうと見ていました。つまり不誠実な答えを繰り返す大津市の課長補佐は「悪」で、涙を流す橋下市長らは「正義」という短絡的な発想も控えなければならないはずです。

いずれにしても何が問題だったのか、誰が悪かったのかという検証は重要です。ただ痛ましい事件を教訓化し、いかに再発防止に繋げるかという視点が最も重要なのだろうと思っています。前述したおり尾木さんは学校評価制度のあり方の問題を提起されていました。そのため、今後、いじめや自殺者を出したことのマイナス評価よりも、事後の対応の仕方などを重点的に評価していくべきではないかという声も上がっていました。

続いて、前々回記事(福岡市の「禁酒令」から不祥事の問題)のコメント欄で、このような事件が起こったのは日教組の責任であるという投稿もありました。そのような見方には非常に違和感があり、前回記事のコメント欄で「私自身も確証的な物言いはできませんが、一般論として逆に組合がしっかりしていれば、学校側の隠蔽体質に対するチェック機能を果たせた可能性があったようにも感じていました」という感想を加えていました。nagiさんからのお尋ねもあり、改めて言葉不足を補わなければなりません。

市教委や学校側の責任者が一つの方向性を判断した際、一教職員の立場から「おかしい」と思ったとしても真正面から反対意見を訴えづらい組織上の関係があります。それに対し、労使関係においては使用者側と対等な立場になり得るため、組合員の声を代弁し、組合執行部は直接管理者側に意見具申できる役割を担えます。要するにトップの判断や意向が素早く実行される組織の表裏の問題として、日頃から批判意見も含め、上司が率直に耳を傾けられる雰囲気の大切さも思い返しています。参考までに以前の記事「組織の力、大事な力」も紹介しますので、ご覧いただければ幸いです。

たいへん長い記事となっていますが、もう一つ「今後、事件の真相解明と合わせ、場合によって加害少年らの責任も問われなければなりません。一方で、ネット上で加熱している実名や個人情報をさらした批判の仕方などは行き過ぎたバッシングだと思っています」という私からのコメントに対し、nagiさんから「いろんな意見があると思います。是非、本文で取り上げていただければと期待します」という注文も寄せられていました。

上記の言葉は額面通りの意味となりますが、定められたルールに基づいて処分が下されることの必要性を訴えていました。入手している情報の大半が事実であるとすれば、加害少年らは「場合によって」ではなく、しかるべき処罰の対象となります。しかしながら現段階でのネット上の盛り上がり方は、やはり行き過ぎだろうと思っています。このあたりについて、夜回り先生こと水谷修さんがテレビで語っていた話に共感を覚えていました。

最後に、金曜の夜、野次馬さんから「いじめそのものを根絶しようというのは、無理なんじゃないかなぁ・・・というのが、率直な思いです」と述べられた上、「なるべく多くの家庭で話し合う時間をもってもらって、もしいじめがあったとしたら、学校に行かなくてもいい、学校だけが居場所ではないし学びの場でもなくてもいいのだ、ということを子どもたちに知っておいてもらえたら、と思います」というコメントをいただきました。本当にその通りだと思い、長い記事の結びとして掲げさせていただきました。

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2012年7月 7日 (土)

さようなら原発10万人集会

いろいろなモノの見方に触れられる機会を貴重なことだと考えているため、記事本文の内容に直接関わらない幅広い意見が多く寄せられる傾向も歓迎していました。前回記事(福岡市の「禁酒令」から不祥事の問題)のコメント欄もそのような展開となり、週末にかけては大津市の中学生の自殺を巡る学校側の対応に憤る声などが続いていました。その話の流れに沿った新規記事にすべきかどうか少し迷いましたが、週の早い段階で決めていた内容を今回は予定通り書き進めていきます。

あなたは大飯原発再稼働にだんまりを決めてきましたね、そして起動の日がやって来ました。組合はこれからも民主党を支持し続けるつもりですか、原発推進派の長島昭久を支えるつもりですか。昨年のさようなら原発1000万人アクションデモに組合員を動員したのは何だったのですか。しょせん現状追認するしかできないなら組合は政治への関与などやめてしまえばいい。

OTSUさん、消費増税への弁解といい、此度の原発再稼働問題と言い、開き直り詭弁を弄するあんたは最低の卑怯者だ。そして組合員のみなさん もういい加減に目を覚ましましょう、彼らを信じて委ねた結果がマニフェストの反古と福島の反省をしないままでの原発稼働です。すべて嘘だった、皆さんは騙されたのですよ。

上記のコメントは前回記事を投稿した直後、ハンドルネーム「立川市民」さんから早々に寄せられたものでした。それに対し、取り急ぎ私からは次のとおりお答えしていました。

立川市民さんから「最低の卑怯者だ」と罵られましたが、私自身の基本的な考え方は前回の記事に綴ったとおりです。また、消費税引き上げに対し、特に弁解した記事を書いていたつもりもありません。ちなみに脱原発に向けた意見についても、長島さんとの懇談の場で私なりの言葉で直接訴えていました。今夜、大飯原発が再稼働してしまいましたが、このようなテーマも機会があれば改めて取り上げるつもりです。

あえて全文を紹介しましたが、いろいろ補足すべき論点が含まれた指摘だったと受けとめています。大飯原発が再稼動した直後であり、さらに記事タイトルに掲げた「さようなら原発10万人集会」のPRも兼ね、久しぶりに原発の問題を取り上げさせていただきます。それに先立って、過去に投稿した原発関連の記事をインデックス代わりに整理してみましたが、やはり昨年の3月11日以降、一気に数が増えていました。

まず前回記事を投稿する際、当然、大飯原発再稼動の問題は頭の中に浮かんでいました。そのこともあったため、記事の冒頭で「週1回の更新のため、取り上げられない話題も多く」という会話から入っていたと言えました。確かに大飯原発の話を直接取り上げていませんでしたが、まさか「だんまりを決めてきましたね」と批判されるとは思ってもいませんでした。そもそも政治的な話題は中途半端な触れ方を避けるように留意してきた経緯もあり、生活保護の問題の後に羅列するような触れ方も避けていました。

最近の記事「いろいろな反応」で綴ったとおり本当に個々人の見方によって、いろいろな批判にさらされてしまうことを知り得る機会となっています。本題に入る前の話が長くなりましたが、原発やその運動に対する私自身の思いは上記に紹介した各記事に託してきました。今回の記事では、参考までに最新の組合ニュースを通し、組合員の皆さんに呼びかける内容を紹介させていただきます。

昨年3月11日、東日本大震災に伴い、福島第一原発で取り返しのつかない事故が起きました。それまで強調されていた原発の「安全神話」は崩れ、ひとたび重大事故を招くと深刻な被害が広がることを知らしめました。福島第一原発の事故後、必然的に脱原発の機運は盛り上がっていました。一方で、ただちに国内の原発すべての停止は困難である見方も決して少数ではありませんでした。

それでも原発は必ず13か月に1回、3か月ほどかかる定期検査が義務付けられていたため、点検後も安全面を危惧する地元の反対で一基も再稼動できない状況が続いていました。その結果、今年5月5日には日本中の原発すべてが停止し、事実上、原発に依存しない局面を迎えていました。電力消費が上昇する夏を迎えるにあたり、電力不足の懸念が宣伝され、政府や財界を中心に停止中の原発再稼動の必要性が強く訴えられるようになっていました。

そのような中、安全対策が万全とは言い切れないまま、7月1日に大飯原発3号機が再稼動しています。確かに計画停電や突発的な停電を起こさない対策も必要です。電力不足から日常生活や経済活動に深刻な影響を及ぼす事態も避けなければなりません。しかし、福島の原発事故を手痛い教訓とするのであれば、「再稼動ありき」の拙速な判断は論外だったはずです。このような動きを強く批判し、脱原発社会をめざした「さようなら原発10万人集会」が7月16日(祝日)午後1時から代々木公園で開かれます。ぜひ、参加可能な方は組合までご連絡ください。

ちなみに立川市民さんから「組合員を動員した」という指摘を受けました。かつては「各職場1割」というような割り当てた「動員」が日常茶飯事でしたが、今はあくまでも組合員一人ひとりの自主的な判断のもとで各種集会などに参加するかどうかとなっています。また、「私自身の基本的な考え方は前回記事に綴ったおりです」とお答えしていましたが、それも不親切でしたので改めて該当箇所を最後に再掲しましたので、ご覧いただければ幸いです。

その上で、懇談の場で首相補佐官の長島昭久さんに原発の問題で私から直接訴えた要旨を紹介します。脱原発社会を一刻も早く実現すべきと考えている私自身の立場を改めて表明した後、安全対策への不安が拭えない大飯原発再稼働の結論が拙速だった点を指摘しました。さらに民主党として原発に依存しない社会に向けた行程表を早期に示して欲しいという要望も示させていただきました。

もともと対決的な言い方は慎むほうですので、長島さんとは基本的な立場や考え方に違いが大きいはずですが、真摯に耳を傾けていただけたものと思っています。当然、幅広い層の支持者と接している政治家の立場上、いつも真摯な対応に努められているのでしょうが、このような声を首相補佐官に直接訴えられる機会は非常に貴重なことでした。蟷螂の斧、もしくはドンキホーテに過ぎないのかも知れませんが、二項対立的な反対行動とは一線を画した積み重ねも重視すべきものと常々考えています。

今回、記事タイトルに掲げた「さようなら原発10万人集会」の具体的な内容にまったく触れず、長々と書き進めてきました。集会そのものは昨年9月の「5万人集会」に連なる主催者や位置付けとなっています。毎週金曜夜、首相官邸周辺に集まる反対の声が大きく結集される見通しです。ぜひ、関心のある方は気軽に16日午後、代々木公園まで足をお運びください。なお、たいへんな混雑が予想されるため、最寄りの原宿駅ではなく、渋谷駅の利用が案内されていることを付け加えさせていただきます。

今年2月の記事「脱原発署名の呼びかけ」の中で「電力総連の皆さんとも忌憚のない議論を交わし、連合内が脱原発でまとまることの意義は非常に大きいものと考えています。逆に連合内での意思統一もできないようであれば、脱原発への道筋もたへいん厳しいものとなるように感じています」という問題意識を示していました。その際、対立が目的ではなく、お互いの立場を尊重しながら率直に話し合い、最適な「答え」を導き出す努力を最も重視すべきものと考えています。

長島さんとの関係も少し補足します。そもそも自治労は一つ一つの組合の連合体であり、中央本部や都本部の決定が必ずしも徹底できないケースもあります。長島さんを私どもの組合として推薦できないと判断すれば、そのような選択肢もあり得るのが自治労という組織の特性でした。いずれにしても組合方針の大半が一致できる候補者は極めて限られ、大きな方向性が合致した上で、基本的な信頼関係を築けるかどうかが大事な時代になっているものと思っています。

したがって、長島さんの考え方と私どもの組合方針との差異があることを否定しません。しかしながら以上のような問題意識のもと、私どもの組合は長島さんを推薦してきていました。そして、推薦関係があるからこそ、自治労に所属する一組合の立場や要望を長島さんに直接訴える場を持ち得ることができていました。以前の記事「大胆な改革、オランダのダッチ・モデル」をはじめ、このブログの中で何回か長島さんは登場しています。機会があれば、このような関係性の話を改めて取り上げてみるつもりです。

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2012年7月 1日 (日)

福岡市の「禁酒令」から不祥事の問題

つい最近、「福岡市職員の禁酒の話をブログで取り上げて欲しかった」という意見を頂戴しました。同じ職場の方からの声ですが、「週1回の更新のため、取り上げられない話題も多く、タイミングを逃しました」とお答えしていました。そのような会話があった後、ネットからニュースを検索したところ次の記事を目にしました。

福岡市の全職員に自宅外での1カ月禁酒を求めた「禁酒令」が20日で終わり、高島宗一郎市長は21日午前、市役所内で報道陣に「期間中に1件の不祥事も出ず、やればできると思った」と安堵(あんど)の気持ちを語った。また「多くの市民の協力で取り組むことができた」と感謝した。

高島市長は「ホッとしている」と述べ、「全職員が同じことをしたのは市として初めて。連帯感を確認でき、これから福岡の発展のために頑張ることができる」と語った。期間中に1人の職員が飲酒していたことが発覚したことについては「残念だが、禁酒はあくまで要請」と処分の対象外であるとした上で、「多くの職員が友人との付き合いなどで葛藤もあるなか、緊張感を持って頑張った」と評価した。【毎日新聞2012年6月21日

禁酒の期間1か月が過ぎ、ちょうど上記のような福岡市の高島市長の談話が報道されていました。そのため、遅ればせながら今回の記事で、この問題を題材としながら思うところを少し掘り下げさせていただきます。なお、前回記事「ある苦言とトラックバック」の内容に繋がる動き、とりわけ民主党に関する話題は毎日マスコミを賑わせています。

また、このブログのコメント欄でも様々なご意見が寄せられていましたが、お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受給していた問題に端を発した議論も当分鮮度は落ちそうにありません。週1回の更新間隔であるため、幸い(?)にもブログ記事の対象となるような話題に事欠きません。したがって、福岡市職員の禁酒問題が数多い話題の中に埋没していたことは確かでした。

その一方で、あえて積極的に取り上げようと考えていなかった意識も働いていたようです。そもそも高島市長が「禁酒令」を発したのは飲酒に伴う不祥事の多発に憤られたからでした。振り返れば、2006年8月に福岡市職員が酒酔い無謀運転で幼い3人の命を奪っていました。たいへん厳しい批判にさらされた中、どの自治体よりも福岡市職員は飲酒運転などに対し、強い自制心が求められていたはずです。

それにもかかわらず、酒に酔った職員の傷害事件などが続いていたため、高島市長が全職員に自宅外での1か月間の禁酒を要請していました。連帯責任のあり方、「ショック療法」と言えるほどの効果があるのか、地域経済に及ぼす影響など福岡市民から疑問の声も多く寄せられていました。それでも職員の立場から考えれば、市長の重い決意や危機感をしっかりと受けとめる機会になり得ていたものと見ています。

先ほど福岡市の禁酒問題を積極的に取り上げようと考えていなかったことについて触れました。このブログで公務員の不祥事の問題を扱う際、いつも留意しなければならない心構えがありました。決して「第三者」的な論評にとどめないこと、さらに「対岸の火事」としないような論調に留意してきました。実は、ここ数年の間に残念ながら私どもの市においても、不祥事を起こした職員が懲戒免職処分を受けていました。

このような事態を念頭に置いて記述しなければ、それこそ「福岡市のことに口をはさめる場合ですか」というような批判を招いてしまうものと思っています。そのため、ここから先は福岡市の問題から離れ、私どもの組合が職場委員会を通し、組合員の皆さんに明らかにした問題意識を中心に少し書き進めてみます。

組合として、組合員の雇用を守ることが第一の責務となります。しかしながら言うまでもありませんが、違法性が問われている組合員を必要以上に守れないことも強く認識しています。ただし、市側の処分そのものに不当性があった場合や行き過ぎた処分に対しては、顧問弁護士らとも相談しながら対応していくことは可能です。

そのようなケースではない限り、組合として市側が処分の判断を下す経緯などを注視していく立場にとどまります。いずれにしても職員の不祥事に対する処分の結果は個人の責任によるものと言わざるを得ません。したがって、何よりも不祥事の再発防止に向けては、職員一人ひとりの意識を高めていく必要性があることを認識しています。

以上が職場委員会資料に添付した組合見解の要旨でした。加えて、個人的な思いとして、次のような問題意識も抱えていました。不祥事を未然に防ぐため、必要に応じて組織のあり方や仕組みなどを整えることも重要です。また、職員間の支え合いを強めることも大切であり、そのためにも充分な人員配置の態勢が欠かせないものと考えています。

さらに不祥事を防ぐための一助として、組合員の様々な悩みを日常的に受けとめられる組合側の態勢を強めていくことも大切だろうと思っています。労働金庫との連携による生活面でのサポート、顧問契約を結んでいる法律事務所や自治労顧問弁護士らとのネットワーク機能などを活用しながら、組合員からの多様な内容の相談に応じられる役割を高めていければと考えていました。

今の時代、個々の公務員の不祥事は公務員全体の評価に繋がっています。特に同じ自治体における不祥事は、その自治体職員全体で責任をかみしめなければならない現状となっています。不本意な話かも知れませんが、職員一人ひとり、不祥事を起こさないための気構えや手立てについて、決して「他人事」としない当事者意識が求められているものと受けとめています。そして、職員の不祥事を防ぐための一端に組合の役割も加えられれば本望なことでした。

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