多面的な情報への思い、2012年春
職場の歓送迎会での雑談の中で、このブログの話が出ました。まだ一度も見ていないと言われていた方が、さっそく自宅のパソコンで「公務員のためいき」と検索し、訪れてくださったようです。翌朝、お会いした時、「思った以上に立派でしたね。ただ文字が多いようで…」という感想もお寄せいただきました。これまでも「文字ばかり」というような言葉を投げかけられる時が少なくありませんでした。
ブログは短文が主流で、一般的には気軽な文章というイメージがあるようです。それに対し、このブログは文字が多く、内容も堅く、とっつきにくい印象があることも確かです。それでも毎日、おかげ様で本当に多くの皆さんに訪れていただいているため、基本的なスタイルを変えずに続けることができています。とは言え、少し前から記事本文を極力短くし、あまり論点が広がらないように心がけていました。
そのように述べていながら前置きから入り、今回も長々とした記事内容となってしまうものと思っています。その中で、せめて論点は拡散しないように記事タイトルに沿った流れを意識していくつもりです。ちなみに前回記事「高年齢者雇用の課題」のコメント欄では司法のあり方などについて、活発な意見が交わされていました。この新規記事に議論の場が移されることも歓迎していますが、たいへん恐縮ながら今回の記事はその延長線上で綴っていない点をあらかじめ申し添えさせていただきます。
資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡り、政治資金規正法違反(虚偽記載)で強制起訴された民主党元代表、小沢一郎被告(69)の判決で、東京地裁は26日、無罪(求刑・禁錮3年)を言い渡した。大善文男裁判長は、東京第5検察審査会の起訴議決を有効と判断し、元秘書たちが作成した陸山会の政治資金収支報告書が虚偽記載にあたると認定。
元代表の一定の関与も認めたが「元代表は違法性の根拠となる具体的事情まで認識していなかった可能性を否定できず共謀を認めて刑事責任を問うことはできない」と結論づけた。政界実力者が検察審査会の議決で罪に問われた異例の公判。無罪となったことで政界に多大な影響を与えるとともに、検察審制度の在り方を巡る議論にも波及しそうだ。【毎日新聞2012年4月26日】
先週、上記の報道に接した際、以前の記事「再び、多面的な情報への思い」が頭の中に浮かんでいました。陸山会事件を一つの例としてあげながら、まとめていた記事ですが、あくまでも「多面的な情報への思い」の続編に位置付けた内容でした。同じモノを見ていても、見る角度や位置によって得られる内容が極端に違ってきます。一つの角度から得られた情報から判断すれば明らかにクロとされたケースも、異なる角度から得られる情報を加味した時、クロとは言い切れなくなる場合も少なくありません。
クロかシロか、真実は一つなのでしょうが、シロをクロと見誤らないためには多面的な情報をもとに判断していくことが非常に重要です。そのような問題意識を強めているため、ネット上でニッチな情報を発信する一つのサイトとして当ブログを続けていました。今回の記事では小沢元代表の無罪判決の問題を直接取り上げませんが、私自身がブックマークしているブログを通し、それぞれ両極端な見方を目にすることができていました。「限りなく灰色に近い無罪、小沢復権などありえない」(依存症の独り言)と「小沢無罪判決の本質」(永田町異聞)という記事内容でした。
現時点で無罪という結果が示されていますが、事件の背景や周辺情報の真偽は「藪の中」であると言わざるを得ないのかも知れません。そのような中、陸山会事件においても検事による虚偽の捜査報告書作成という事実が浮かび上がっていました。検察が見立てたシナリオに沿った供述を強引に求める手法、あげくの果てに証拠改竄まで手を染めた検事の存在は検察捜査への不信を高めていました。
小沢元代表の裁判では、このような虚偽も明らかになったため、無罪判決に繋がったものと思います。しかし、これまで被疑者が容疑事実を強く否認しながらも、検察の言い分に比重を置いた判決が下される場面は無数にあったはずです。それこそ司法の場では多面的な情報を先入観にとらわれず、よりいっそう公正な視点で見極めるべきものと考えています。そのような意味合いからすれば、刑事裁判の有罪率99%という異常な高さを疑問視することも求められているのではないでしょうか。
実は今回、改めて多面的な情報への思いについて取り上げようと考えたのは、最近、次の書籍を手にしたからでした。大阪地検特捜部の大坪弘道元部長が著した『勾留百二十日』です。その著書を読み終え、検察捜査の内側を垣間見ることができました。3年前の6月、障害者団体向けの郵便料金割引制度を悪用した事件に絡み、厚生労働省の村木厚子局長が逮捕されました。その捜査を指揮したのが大坪元部長でした。
翌年9月、村木局長の裁判は無罪判決となる一方、捜査の過程で前田恒彦主任検事が証拠のフロッピーディスクのデータを改竄していたことも発覚しました。すでに前田元検事は証拠隠滅罪で懲役1年6か月の実刑判決を受けています。大坪元部長は証拠改竄の事実を知りながらも隠蔽したと見られ、犯人隠匿の罪に問われ、逮捕・起訴されていました。逮捕する側が逮捕され、取り調べる側が取り調べられ、まったく逆の立場に置かれた時の苦悩が赤裸々に綴られた手記でした。
今年3月に大阪地裁で有罪判決が下されましたが、同じ罪で起訴されていた佐賀元明元副部長とともに無実を主張し、大坪元部長らは控訴していました。最大の争点は、前田元検事によるデータ改竄を大坪元部長ら二人が故意によるものと認識していたかどうかでした。検察側は、二人が前田元検事から故意の改竄という告白を受けながらも保身のため、もみ消しをはかったと主張していました。
大坪元部長らの弁護側は「取扱上のミスでデータを改変してしまったかも知れないが、意図的なものではない」という報告だったと反論していました。大坪元部長の手記の中では、このあたりの経緯が詳しく記され、「なぜ、自分が」という苦悶の声が生々しく綴られていました。1冊の著書を出したからと言って、そこに書かれた内容がすべて真実であるとは限りません。一貫して自己の主張を正当化している可能性も決して否定できません。
しかしながら『勾留百二十日』を読み終えた率直な印象は、最高検察庁側がシナリオを書き、その結論ありきで進んでいるというものでした。前田元検事の犯罪によって検察の捜査そのものへの不信が広がった中、特捜部長や副部長まで逮捕することで「自浄能力」をアピールするという最高検側の意図を大坪元部長は指摘していました。作為的な捜査ではなかったとしても、結果的に特捜部長以下の「トカゲのしっぽ切り」で検察全体への批判がやわらいでいたことも確かでした。
村木局長の不当な逮捕・勾留が教訓化されることなく、その事件を指揮した大坪元部長が同じような苦しみを強いられるという皮肉な巡り合わせでした。大坪元部長は「彼女の受けた苦悩を思うと、我が身になぞらえ、さぞ辛かっただろうと同情の気持ちと申し訳ない気持ちが心に湧き上がってくる」と綴られていました。私自身、この書籍を通した多面的な情報が得られなければ、データ改竄事件は過去のものとなっていました。それが今、検察の体質は簡単に変わっていないことを改めて危惧している思いに繋がっていました。
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