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2011年10月 1日 (土)

運動のあり方、雑談放談

9月のカレンダーがめくられました。あっという間に今年もあと3か月を残すのみとなりました。ただ3月11日以降、被災された方々にとっては辛く長い月日であり、そのような言葉が当てはまらないことも忘れてはなりません。それでも四季のある日本列島では、一人ひとりの思いにかかわらず、秋の気配を感じる日々に移っていきます。

朝晩はヒンヤリとした空気を感じるようになっていました。昼間は心地好い風に触れることができ、スポーツの秋と呼ばれるように体を動かすのには最適な気候となっています。青空が広がった土曜日、近くの小学校からは運動会を催している放送が流れていました。その放送を耳にしながら、私も久しぶりに小さなボールに集中し、適度な運動に励んでいました。

言うまでもありませんが、今回の記事タイトル「運動のあり方、雑談放談」の運動は、その運動ではありません。電子辞書などで調べれば、「目的を達成するために積極的に活動すること、各方面に働きかけること、選挙運動、労働運動、学生運動」という説明が加えられる運動について書き進めていくつもりです。

前回の記事「さようなら原発5万人集会」に寄せられたコメントにお答えする中で、このような運動に対する個人的な思いを改めて掘り下げていくことをお伝えしていました。これまでも当ブログを通し、発信してきた問題意識ですが、運動そのものを目的化してはいけないという強い思いがありました。電子辞書の解説のとおり、ある目的があって、そのことを実現するための様々な取り組みが運動という位置付けとなります。

当たり前な話をしているようですが、得てして運動が目的化しているような場面に遭遇します。例えば、さようなら原発集会は目標とした5万人を超え、主催者発表で6万人も集めましたので大成功だったことは間違いありません。マスコミにも大きく取り上げられ、脱原発の機運を盛り上げるための相応のインパクトは与えたものと見ています。

しかし、本来の目的は脱原発ですので、今後、その目標に向けたロードマップが描けなければ、運動自体が成功したとは言えないはずです。時折り、目的とした集会などが成功したことで、運動そのものも大きく前進したというような評価を下す場面があります。確かに運動を持続していくためには前向きな評価や姿勢が欠かせない点も分かります。

とは言え、集会を開くという運動は脱原発という目的を達成するための手段に過ぎず、そのあたりをしっかり峻別しなければ、本来の目的に近付くことも危ぶまれるように感じています。もともと明治公園で開いた集会に参加された方々の中でも、いろいろな思惑の違いがあったはずです。その上で、原発に依存しない社会を築きたいという最大公約数を重視していくことで、6万人の力が一つになるものと思っています。

それに対し、「あの団体は…」「あの考え方は…」という違いを強調していった場合、それこそ脱原発に向けた推進力は弱まっていくのではないでしょうか。さらに集会に足を運んでいない圧倒多数の皆さんの思いこそ千差万別であり、脱原発の動きを懐疑的な眼差しで見られている方々が決して少数ではないことを強く認識しなければなりません。

また電子辞書の解説となりますが、運動とは「各方面に働きかけること」と記されています。同じような問題意識を抱えた人たちが一堂に会し、気勢を上げるだけでは運動の広がりはあり得ません。あくまでもデモ行進などを通し、異なる問題意識を持った人たちに「働きかけること」が重視されなければなりません。その際、「奇異な人たち」という見られ方をされないような注意も必要です。

集会やデモ行進の姿が「あの人たちは特別」というような見られ方をされた場合、その運動の広がりを絶つような逆効果に繋がりかねません。9月19日の集会の中で、呼びかけ人の大江健三郎さんは「私たちに何ができるのか。私たちには、この民主主義の集会、市民のデモしかないのであります」と発言されていました。

長々と綴ってきましたが、私自身も集会やデモを必ずしも軽視している訳ではありません。特に最近では特筆すべき大きな規模で開かれた19日の集会は、たいへん意義深かったものと思っています。一方で、毎年のスケジュールの中に定着している平和運動にかかわる集会やデモが多数あります。「継続は力」という言葉も否定する立場ではありません。

しかしながら「運動を目的化していないだろうか」「労力対効果という面から問い直す必要性はないだろうか」というような問題意識を抱え、実際、平和運動センターの地区の会議の中で訴えたこともありました。蛇足となりますが、様々な集会への呼びかけに私どもの組合は充分対応できず、いつも申し訳なく思っています。正直なところ組合役員の担い手不足という事情から満足に応え切れない側面があります。

一方で、現職役員には数多くの集会参加を求められる負担感が生じがちなため、ますます役員の担い手不足に繋がるというスパイラルも一概に否定できません。このような背景もあり、「労力対効果」という言葉を発してしまいがちであったため、それぞれの取り組みを懸命に進めている関係者の皆さんには不快な思いを与えていたかも知れませんが、ご理解ご容赦ください。

ブログのサブタイトルにある「雑談放談」とは、「様々なことを気楽に話し合うこと」「言いたいことを自由に語ること」とされています。今回の記事、このような調子で書き進めていくと本当に取りとめがなく続きそうです。そろそろ終わりたいと思いますが、私の綴るブログ記事に触れた名無しさんからは、いつも辛辣な意見が寄せられていました。公務員の組合が脱原発などの政治的な運動にかかわっていることへの批判もその一つでした。

このような見られ方は、私どもの組合員の皆さんの中にも大なり小なりのある得る可能性を感じ取っています。だからこそ、あえて当ブログを通し、そのような課題に関しても積極的に取り上げてきている経緯がありました。つまり組合員の皆さんへ、さらに不特定多数の皆さんへ「働きかける」という自分なりのささやかな運動だと位置付け、このブログを続けていました。

最後に、前回記事のコメント欄で、名無しさんが泉佐野市の国賀祥司市議の「こくがブログ」を紹介されていました。名無しさんから「こくがブログ」で展開されている主張と「正直ここの管理人さんとの違いが理解できません」という一言があったことは意外でした。結局、どのような言葉を尽くそうとも、埋められない「溝」が存在し続けるような無力感に繋がる一言でした。それでも不特定多数の皆さんを対象にしたブログを続ける限り、名無しさんのような見方をされる方々とも少しでも理解し合えることを願いながら、この小さな運動を進めていくつもりです。

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コメント

私には管理人さんが何を目的として組合活動をされているのか、どうしても理解できません。例えば、反戦運動に反核運動および労働条件を改善するための運動は、それぞれ何の関わり合いもありませんね。そらが何故かセットメニューになっていて全てに参加するのが当たり前に語られています。これがこの国の多くの自称労働組合の現実なのですが、実は目的は別にあるのではないですかと疑ってしまいます。
職員のモチベーションに視点を移しても、ある職員が問題の解決に必死取り組み成果を残しても、その者にメリットが与えられないように活動される組合では、出汁にされる職員はたまりません。実は管理人さんのいう労働組合とは、悪平等を保つことを目的とする組織なのではないですかね。でも管理人さんの立場にあるような方は、そのことに一切触れてはくれません。
それならは、せめて管理人さんが多くの職員を伴って「さようなら原発5万人集会」に参加した結果、管理人さんの職場内のどの労働条件改善に繋がったのかを説明する必要があります。職場の労働条件に対し効果の期待できない運動に職員を動員したのならば、組織目的に対する背任なのですからね。
管理人さんが率いる組合の構成員は、この方に付いて行った結果、自分の労働条件の何が改善したのか、一度我が身にに問うてみる必要が有るのではないでしょうか。

投稿: 名無し | 2011年10月 2日 (日) 00時28分

名無しさん、さっそくコメントありがとうございました。

そのようなお尋ねに対し、これまで数多くの記事を通してお答えしてきました。その記事のURLを紹介するだけでは、お読みいただけない場合も多いと思いますので、今回、改めて説明させていただきます。なお、成果主義に関しては少し前に名無しさんと直接やり取りしていました。ご理解いただけなかったようですが、今回、組合活動の中での政治や平和運動の位置付けを書き進めてみます。

そもそも組合活動は組合員一人ひとりのためになることを第一の目的としています。ただ時には「なぜ、労働組合がそこまでやるの?」と違和感を持たれてしまう場合があります。その顕著なものとして、政治活動や反戦平和の取り組みがあげられがちでした。それに対して端的に言えば、自分たちの職場だけ働きやすくても、社会全体が平和で豊かでなければ暮らしやすい生活となりません。そのため、一定の平和や政治活動が欠かせないものと考え、職場内活動にとどめない領域についても、多くの組合が取り組んでいました。

確かに組合として必ず取り組むべき運動領域ではないかも知れませんが、平和な社会を築くためには政党や市民団体などに限らず、様々な組織による運動も重要なはずです。かなり昔ですが、全日本検数協会事件(名古屋高判昭和46年4月10日労民集22巻2号453頁)の判決文で、「労働組合がその目的達成に必要な政治活動や社会運動を行なうこと自体は何ら妨げられることではない」と裁判所も述べていました。結局、日韓条約に反対した政治ストライキによる解雇は有効とされた裁判でしたが、労働組合の政治活動そのものは肯定された事例でした。

また、今までの歴史の中で、社会を動かしてきたのは農民運動であり、労働運動、学生運動、市民運動だったという見方もあります。とは言いながらも、組合の本務である労働環境改善などが疎かになったり、平和運動との関係が主客逆転するようでは論外です。したがって、しっかり職場課題に取り組んだ上で、できる限りの守備範囲で組合が政治的な活動や平和運動を進める意義は決して少なくないはすです。さらに大事な点として、それらの活動を進める方向性は組合員全体で意思一致をはかることが大前提となります。

一方で、とりわけ平和や政治活動の方針に対して、様々なとらえ方をしている組合員の方が少なくないことも認識しています。いずれにしても組合は組合役員のものではなく、組合員一人ひとりのものです。そのように実感していただくためには日常的な意思疎通が欠かせず、その一助となるよう当ブログを通しても様々な問題意識について綴ってきていました。

>多くの職員を伴って「さようなら原発5万人集会」に参加した結果、管理人さんの職場内のどの労働条件改善に繋がったのかを説明する必要があります。職場の労働条件に対し効果の期待できない運動に職員を動員したのならば、組織目的に対する背任なのですからね。

以上のようなお尋ねは、上記のような経緯や前提条件がかみ合っていないため、示されてしまうものと受けとめています。しかし、そのように考える方がいらっしゃるという現状を知り得る機会も非常に貴重なことだと思っています。今回の説明も、名無しさんの頭の中では充分理解できない言葉の数々となるのかも知れません。しかし、今回の記事本文の最後に記したような思いで、これからもブログは続けていきますので長い目で見てお付き合いいただければ幸いです。

投稿: OTSU | 2011年10月 2日 (日) 01時23分

このテーマ(労働組合と反戦・反核・反原発運動との関わり合い)については、私は名無しさんに賛同する部分があります。

戦後、我が国の労働組合は、民間・公共問わず、民主化要請からGHQや政府がその結成を促進した(というか結成させた)のですが、その意?に反して、敗戦ショックや共産主義・社会主義思想の普及から、労働組合は左傾化してしまいます。
経営者層は自民党、労働組合は社会党、というイデオロギーの棲み分けがなされてしまったというところですね。

ですから、現在の労働組合による反戦・反核・反原発運動は、その戦後55年体制の残滓ともいえるでしょう。

労働組合は私も含めて多種多様な考え方の人々の集合体です。組合員=民主党支持者、ではありませんし、=反核・反原発でもありません。
また、民間企業経営者も=自民、=核保有賛成・原発推進、ではないでしょう(孫正義さんがその例)

反核・反原発・反戦活動をする労働組合がいやなら、核保有賛成・原発推進・先制攻撃賛成の労働組合を結成すればいいわけで(あったら面白い)、ま、誰もそんなめんどくさいことまでしないだけだけど。

これも多様性の問題かな。どうだろう。

名無しさん、私なんか組合のそういった集会とか運動とかには一切参画したことないんですよ。ほとんどの組合員もそうなんですよ。そういった集会への動員ったって、昔はともかく、今は人は集まらない。この反原発集会の人の集まりようは、動員というよりも今の原発事故による自発的な要因が大きいと思います。
名無しさんのご指摘は、労働組合運動の今後のあり方の重要な部分であることには間違いないとは思っていますので、それは私も常々組合に対して問題提起しているところのものです。

(参考までに)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-2caa.html

投稿: 地方の公務員 | 2011年10月 2日 (日) 10時44分

地方の公務員さん、コメントありがとうございました。

繰り返し述べていることですが、自治労の組合員、私どもの組合員の皆さんの問題意識は多種多様です。それでも一定の手続きを踏み、組織として幅広い活動方針を確立しています。ただ決まった方針だからと言って、組合員の皆さんに各種集会への参加を強要するような時代ではありません。今回の脱原発の集会も組合ニュースで呼びかけた結果、多くの組合員が自発的に参加されていました。

組合ニュースで宣伝する際、方針で決まっているから「参加しよう」という結論だけの呼びかけでは不充分であり、「なぜ、脱原発なのか」という丁寧な呼びかけが重要であるものと考えています。したがって、このブログは、紙面の限られた組合ニュースだけでは補え切れない「なぜ?」を掘り下げる目的も大切にしながら続けていました。

また、次の記事の中で記した内容の一部を紹介し、私なりの問題意識の一端を改めて示させていただきます。

2010年6月6日(日) 沖縄に揚がる自治労の旗
http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2010/06/post-35c5.html

>根本的な論点として、なぜ、労働組合である自治労が「社会正義」を掲げるのか、組合員を沖縄へ派遣するのか、人によって見方が大きく分かれることも間違いありません。いずれにしても優先順位の問題は絶対重視しなければなりませんが、私の考え方は「本題に入る前の長話」に記してきたとおりでした。まったく仮定の話として、白紙の状態から新しく具体的な活動方針を決めるのであれば、力量面なども考慮しながら現状とは異なる内容を選ぶ可能性までは否定できません。

>つまり自治労はその歴史も長く、他の団体との関係性なども含めて非常に大きな存在であり、簡単に急旋回できないことも確かでした。このように書いてしまうと、現状に大きな問題点があるように誤解されそうですが、あくまでも白紙から積み上げていく場合の順位付けの話であることをご理解ください。また、自治労の進むべき方向性は、その組織内の構成員が議論して決めるべきものであることも言うまでもありません。

投稿: OTSU | 2011年10月 2日 (日) 21時22分

何事も積み重ね、経緯経過、、、いろいろありますね。

もしこれまで自治労が原発推進を運動してきたら、さあて、世論はどんな反応を示したのでしょうか。

投稿: 地方の公務員 | 2011年10月 2日 (日) 22時13分

地方の公務員さん、おはようございます。コメントありがとうございました。

原発推進を方針としていた労働組合も多くありますが、致命的な批判までに至っている訳ではありません。その一方で、かなり前から自治労は脱原発を訴えてきましたが、特に最近、世論の評価を受けた話も耳にしていません。労働組合の運動方針を過小評価するものではありませんが、過大にも評価していませんので、この程度の反応となるのではないでしょうか。

いずれにしても組合活動の中で「主客」の峻別は、私自身、最も注意しているつもりです。また、組合員の賛否が分かれがちな原発などの課題に踏み込むことのリスクやデメリットも自覚しています。それでも方針化し、取り組まざるを得ないのであれば、その運動の必要性を丁寧に議論し、問題意識の共有化に努めるべきものと考えています。その上で、大多数の組合員から方針転換を迫られるのであれば、組織的な手続きを踏み、改めるべき点は改める必要性があることも認識しています。

投稿: OTSU | 2011年10月 3日 (月) 08時06分

組合員の労働条件改善以外の活動をするなら、専用の組織を作って、支持する人からの会費のみで活動して欲しいというのが普通の組合員の本音では? こんなことをやっているとどんどん組合の組織率が低下し、本来の活動力が低下していくという悪循環に陥っていることに早く気がついて欲しい。

投稿: 一般人 | 2011年10月 7日 (金) 08時07分

一般人さん、コメントありがとうございました。

一般人さんが自治労組合員なのかどうか分かりませんが、そのような危惧は抱き続けています。それでも「しかし…」であり、さらに「だから…」というブログ記事やコメント欄での補足説明となっています。

そのような問題意識を託しながら今後も様々な切り口からの記事を綴っていくつもりです。一般人さんらから簡単にはご理解いただけない難しさが残るのでしょうが、自分なりの言葉を尽くしていきたいものと考えています。

投稿: OTSU | 2011年10月 7日 (金) 21時02分

地方の公務員さん
教えてくれた経緯があったとして、そして管理人さんが言われる「社会全体が平和で豊かでなければ暮らしやすい生活となりません」という目的があるのだとしても、それは組合活動の付録的なもので、活動の主役ではないはずです。
しかし、管理人さんとのやり取りであきらかになったのは、実はこちらの方が主役であって、職員の職場環境の方が付録的な扱いになっているという事です。
これまで管理人さんには、再々「職場の中で創意工夫をし結果を出す者に組合はどう報いるのか」を聞いてきましたが、とうとう満足な答えを聞けませんでした。つまり「出る釘は打つ」のが組合で、その狙いはダメなレベルでも待遇が横並びならばそれで十分ということでしょう。向上意識が元から欠けているようです。
従って「顧客に受け入れられない場合には、自分に原因を探して、自分側を変えるのが民間だ」との指摘に対し、管理人さんの頑なに自分を変えない姿勢にも納得できてしまいます。何処を見渡しても公務員に対して批判や批難があり、白い眼で見られるこの状況であっても、自分側に改善すべき事は無いと考えているのでしょうね。
これらの姿勢から行きつく先は、組合と称していても、その目的は構成員の労働環境向上などではなく、どこか別のところだと思われます。つまり労働組合が左傾化したなごりではなく、左傾化を通り過ぎた方々が隠れ蓑として労働組合を名乗っていると考えると、今の活動も腑に落ちるものなのですね。
やはり、管理人さんが率いる組合の構成員は、この方に付いて行った結果、自分の労働条件が少しでも改善したのか、むしろ批判や批難、さらには白い眼で見られる事が増えていないのか、一度我が身にに問うてみる必要が有るのではないでしょうか。
それ以前に、管理人さんが理想と思う社会が、万人にとって本当に平和で豊かとの確証はないでしょう。あまりにも上から目線で構成員を見下すから、そのような考えに組合を傾倒させるのだと感じます。これは相当に気持ち悪いです。
今から問題提起をしていて間に合うとは、残念ながらとても思えません。

投稿: 名無し | 2011年10月 7日 (金) 22時30分

名無しさん、いつも訪問ありがとうございます。

地方の公務員さんへの返事なのかも知れませんが、毎度のことながら目眩がするようなコメントであり、一言添えさせていただきます。とにかく頭に浮かぶのは養老孟司さんの『バカの壁』でした。ブログを開設して間もない頃、記事の一つとして取り上げたことがありました。

>「話せばわかる」なんて大うそ!やっぱり問題は「壁」だった…が、その本のキャッチ・コピーでした。この一文だけ目にすれば、立場や基本的な考え方が違う者同士、いくら話し合っても無駄なように聞こえます。しかし、その本を手にしていただければ、いろいろな問題に対して答えは一つでなく、多様な角度から考えていくことが大切であるとの作者のメッセージが伝わってくるはずです。

>なぜ互いに話が通じないのか、そこにある「バカの壁」を知ることで見方が変わってくると作者は説いています。自分の考え方が唯一の正解と決めてしまうと、自分と違う立場のことは見えなくなり、当然、話は通じなくなると本の最後で結んでいました。

上記は当時の文章の引用ですが、今、そのままの思いが当てはまります。当然、私の言い分や実際の行ないが「絶対正しい」とは言い切ることはできません。しかし、必ず一つの方向性に決め付けられた批判が続くことには正直なところ非常に疲れます。

>従って「顧客に受け入れられない場合には、自分に原因を探して、自分側を変えるのが民間だ」との指摘に対し、管理人さんの頑なに自分を変えない姿勢にも納得できてしまいます。何処を見渡しても公務員に対して批判や批難があり、白い眼で見られるこの状況であっても、自分側に改善すべき事は無いと考えているのでしょうね。

このような指摘に対しても、丁寧に答えてきたつもりです。しかしながら相手に伝わらないのであれば、「答えてきたつもり」に過ぎないことを自覚しなければなりません。もう一度、次回更新する記事本文を通し、「バカの壁」に挑んでみようと考えています。

《追記》 不思議に思っていますので、少しお尋します。「管理人さんとのやり取りであきらかになったのは、実はこちらの方が主役であって、職員の職場環境の方が付録的な扱いになっているという事です」と話されていますが、なぜ、そのように決め付けられるのですか。名無しさんのバイアスのかかった印象からの指摘だった場合、誹謗中傷の類いとなってしまうのではないでしょうか。

投稿: OTSU | 2011年10月 7日 (金) 23時35分

成果主義の導入を望んでコメントしてきましたが、公務員の成果とは何かを定義しにくいようでしたので、それでは管理人さんが率いる組合の成果とは何かを考えてみましょう。
労働組合の成果とは、構成員が金銭的及び精神的に充足して生活できることを保障することではないかと思います。この金銭的とは労働の対価としての報酬であり、精神的とは労働に対する達成感であったり住民からの感謝であったりするはずです。
しかし、現代では行政から提供される成果に住民が必ずしも満足しない為に、批難や批判が多く寄せられ精神的な充足は失われています。さらに批難や批判がバッシングに繋がり、結果として金銭的な充足も失われつつあります。これが管理人さんの組合が構成員に提供してきた成果です。
この様な状況の中でも大多数の構成員は真面目に勤務していますし、その中でも特に創意工夫をし住民からの要望に応える成果を出している人も居ます。そして、この成果を出した人を組合からも率先して評価し重用することが、行政に対する住民の見方を変える唯一の方法だと思っており、私が管理人さんに問うているのは、このように行政への評価を改善する成果を出した者に、組合はどう報いるのですかという点です。行政への評価を下げた者をどう庇うかではありません。そんな者は切って捨てて当たり前です。
一人の個人を守ったが為に組織の益が失われている。いったい組織の益を失うことで幾つの個人が無視されたのでしょうね。同じ個人なのに。管理人さんの言い分はダメな一人の個人を庇うあまりに多数の個人を無視しています。
また、これらは組織運営の基本的なことのはずですが、管理人さんは敢えて頭から消し去って行動されるから、私は「出る釘は打つ」のが組合で、どこか別のところ例えば「左傾化を通り過ぎた方々が隠れ蓑として労働組合を名乗っている」のではと訝るのです。この考えを延長した先が、国全体が優先順位を間違うことに繋がっているのですからね。
話を変えて、先週までのコメントの応酬のように、双方が歩み寄る余地の無いような状況下で、その一方が「バカの壁」の引用を持ち出すことは許される行為なのでしょうか。それこそ組合が好むフレーズの「誠意無き回答」と言われるべきものではありませんか。管理人さんが第一に守るべきは構成員ですか反核思想ですか平和活動ですか、私には構成員の優先順位が下げられているように感じられてなりません。是非、構成員の立場や住民の立場から多面的にご自身を見て欲しいと思います。

投稿: 名無し | 2011年10月12日 (水) 23時48分

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