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2011年7月 3日 (日)

400回、改めて当ブログについて

ブログの管理機能として、これまでに投稿した記事や寄せられたコメントの数が一目で分かるページを備えています。少し前からそのページの数字を気にかけるようになっていました。このブログの記事の投稿数が400回に近付いていたため、その管理ページの数字を意識していました。そして今回、400回目を迎えました。今まで100回を大きな節目として、次のような記事を投稿していました。

100回の時は、あまり投稿数を意識していなかったため、100回目の記事は普段通りの内容を書き込んでいました。たまたま先ほど紹介した管理ページを目にした際、直前に投稿した記事が100回目だったことに気付きました。そのため、101回目という少し半端なタイミングでのメモリアルな記事内容となっていました。ちなみに開設した当初は、ほぼ毎日ぐらいのペースで投稿していたため、101回目までは2日で1回、記事を更新するスピードでした。

その頃から徐々に週2回程度のペースとなり、開設後、1年半ぐらいの時期から週1回の投稿間隔が定着していました。したがって、100回を刻むには約2年間を要し、先が読みやすくなっていたため、管理ページに注意を払い始めたのは最近のことであり、四六時中、投稿数を意識していた訳ではありませんでした。なお、節目の記事で述べてきたことですが、新たな記事の投稿を重ねなくても年月は過ぎていきます。

一方、投稿した記事の数は自分自身の労力を惜しみ出したり、続けていく熱意が冷めてしまった場合、停滞してしまう数字です。その意味で今回、400回という数字を刻めたことは改めて感慨深いものがあります。実生活に過度な負担をかけないため、週1回、週末更新を基本としてきました。逆に週1回は必ず更新しようという心構えに繋がり、「週記」という定期間隔での投稿を重ねられているものと思っています。

毎日、蓄積されがちな日常業務に対しては、「今日できる仕事は今日のうちに終わらせよう」と考え、なるべく先送りしないように努めています。その一方で、組合絡みの原稿書きなどに関しては、切羽詰まらないとエンジンのかかりにくい傾向がありました。今回のブログ記事も昨夜中に仕上げるつもりでしたが、「明日も時間が取れる」と考えてしまうと早めに寝てしまい、投稿までに至りませんでした。

試験勉強も「一夜漬け」のほうが多かったタイプであり、週1回更新という自分なりの約束事がなかった場合、長期開店休業状態のブログになっていたのかも知れません。その上で、週1回の更新ペースを崩さずに継続できているのは、毎回、多くの皆さんがご訪問くださり、貴重なコメントをお寄せいただいていることが大きな励みとなっていました。とりわけ、いつもご注目くださっている常連の皆さんには、たいへん感謝しています。改めて、ありがとうございます。

今回、400回という節目に際し、前回記事「再び、コメント欄雑感」のコメント欄で交わされたご意見などを踏まえ、改めて当ブログの目的や位置付けについて掘り下げてみます。「公務員のためいき」を開設した切っかけは以前の記事「このブログを始めたイキサツ」の中で綴っていました。NHKと朝日新聞が「従軍慰安婦」関連番組への政治介入問題に絡み、真っ向から対立した報道を繰り広げていました。真実は一つでも、どちら側の報道内容に接するかどうかで、その真偽の評価や印象がガラリと変わってしまいました。

ちょうど世の中は大阪市役所の厚遇問題などで、公務員への厳しい視線や声が強まっていた頃でした。言うまでもなく、公務員やその組合側も改めるべき点は、すみやかに改める必要があります。しかし、労使交渉で積み上げてきた内容がオールorナッシングで批判されていく動きにも問題意識を感じていました。NHK対朝日新聞の例を踏まえ、組合側の言い分も訴えていく重要性を認識していた時、誰でも簡単にインターネット上で意見を発信できるブログと出会い、現在に至っていました。

組合側の言い分とは言え、個人の責任によるブログですので、基本的には私自身の考え方を発信する場となっています。その中で、いつも心がけている点がありました。このブログの場では、一人ひとり違う「答え」を持っている方々が閲覧くださっているものと受けとめています。当然、私の「答え」は一つで、正しいと信じ、このブログで様々な主張を展開しています。しかし、その「答え」と異なる主張が数多くあることも想定し、あえて「(私は)このように思っています」という論調を基本としていました。

分かりづらい話かも知れませんが、このブログでは「答え」と「正解」という言葉を使い分けています。「答え」は個々人で様々なものがあり、「正解」は基本的に一つであるものと考えています。試験の答案用紙に書く「答え」は自信の有無にかかわらず、その人が正しいと考えたものです。ただし、必ずしも「正解」とは限りません。実社会の中では場合によって、簡単に「正解」を見出せない難しい設問も多数存在しているのではないでしょうか。

これまで原発普天間基地の問題など、あえて賛否が分かれがちな難しいテーマについてもブログで取り上げてきました。その際、私自身の「答え」が正しいと共感されるのであれば、広く支持されていくものと考えていました。逆にその広がりを見出せないようであれば、自分自身の「答え」を見つめ直す機会にすべきという謙虚さも忘れないようにしていました。このように考えているブログ記事のコメント欄を通し、いつも幅広いご意見に触れられるのは本当に貴重な機会だと思っています。

コメントを投稿される皆さんは博識な方々が多く、私自身の「答え」に対し、賛同される声がある一方、厳しい批判も加えられがちでした。ただ私自身の「答え」が固まっているテーマも多いため、せっかくのご指摘を即座に肯定できず、徒労感を与えがちな場面が多いことも自覚しています。また、白黒の結論を示させない「玉虫色の対応」だと見られる場合もあるため、歯がゆさを感じている方がいらっしゃることも受けとめています。

前回記事のコメント欄で、ディスカッションとディベートの定義などに対する意見も交わされていました。いろいろな見方がある中で、このブログはパネル・ディスカッションと似た位置付けをめざしていました。コメントを投稿される一人ひとりがパネラーとなり、それぞれの「答え」の正しさを閲覧されている不特定多数の方々から共感を得られるよう言葉を競い合う、そのような場になれることを常々願っているからでした。

他のブログと比べれば制約の少ない場としていますので、管理人である私や特定のコメントに対し、ディベートを挑まれるのも結構だと思っています。ただ異なる意見を「そのような考え方はあり得ない」という上から目線での批判に終始した場合、広がっている「溝」は簡単に埋まらないという思いを抱いています。相手の「答え」を論破することよりも、ご自身の「答え」に対して共感が広がることを大事にしていただければと考えています。

このような考え方に関しても、私自身のこだわりであって、「正解」かどうかは読み手の皆さんの判断に委ねているつもりです。つまり絶対的な「正解」は、この場では判断できないという割り切り方があり、書き込まれた内容を閲覧されている皆さんが、どのように受けとめていくのかが重要なポイントになることを望んでいます。当然、実生活の場面では複数の「答え」がある中、一つの「答え」に絞らなければならない時が多々あります。

しかし、このブログの場は、そのように「答え」を一つに絞ることを目的としていません。多種多様な情報や意見を提供できる場になれることを目的とし、「何、考えているんだ」という蔑みがあっても、「ほー、なるほど」という共感も与えられる幅があるブログに位置付いていければ幸いです。いずれにしても自分の「答え」が最も正しいと考えていた場合、異なる「答え」に対し、厳しい口調での追及型のコメントになりがちです。次のような点も見方が分かれるはずですが、立場や視点が違う方々から賛同を得るためには、よりいっそう言葉遣いの丁寧さが求められるものと私自身は考えています。

最近、CMで有名になった金子みすゞさんの『こだまでしょうか』という詩を思い浮かべる時がよくあります。このような心構えについて、仕事や組合活動を担う上でも注意している点ですが、言葉だけのやり取りとなるネット上では、より注意しなければならない点だろうと考えています。金子みすゞさんは1930年に亡くなられていますので、著作権法上の問題がないことを確認した上で、400回目の記事の最後に、心にしみるその言葉の全文を紹介させていただきます。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
 
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
 
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
 
そうして、あとで
さみしくなって、
 
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
 
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

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コメント

 400回、テーマもさまざまで毎回楽しみにしています。
その間、OTSUさんの組合でも今までであれば「数十年に一度」の問題が、毎年(毎月かもしれませんが)発生していたのではないかと推測しています。
ブログを通じて公共サービス・組合等々のありかたを考える機会にもなっています。
 今日の読売新聞に小説家・脚本家山田太一さんの「震災・生き直す機会に」が掲載されていましたが、OTSUさんの「実社会の中では場合によって、簡単に「正解」を見出せない難しい設問も多数存在しているのではないでしょうか。」と共通する考えさせられる内容でした。
 (NHKスペシャル「ラストメッセージ第3集 愛と怒りと 木下恵介監督」(2006年)、その中で山田さんは師事していた木下監督の葬儀の際、「人間の弱さ 弱さが持つ美しさ運命や宿命への畏怖(いふ)権力への理不尽さに対する怒り。いつまでも、日本人が無関心でいられるわけがありません」。と発言されていたことに感銘をうけました。また、日本社会が「強ければいいんだ」という風潮や木下作品の大半を占める、「必ずしも人生がうまくいかなかった人達」、それがなぜ「美しい」かわからなくなっていることにも警鐘を発していました。)
 OTSUさんが、「あえて賛否が分かれがちな難しいテーマ」を今後もぜひ取り上げていただいて(毎回、勝手なお願いばかりですが)さまざまな視点を学びたいと思っています。

投稿: ためいきばかり | 2011年7月 5日 (火) 23時41分

ためいきばかりさん、おはようございます。コメントありがとうございました。

今回の記事本文でも述べましたが、このようなコメントをいただけることが長く続けられている大きな励みとなっています。また、このブログを始めたことで自分自身にとって、物事に対する見方をはじめ、様々な意味合いでの「学び」の機会が広がったものと思っています。

毎朝、目を通しているのは読売新聞ですが、このコメントをいただき、改めて山田太一さんの寄稿文に触れる機会を得ています。このような事例一つ取っても、たいへん貴重なことだと受けとめています。これからも無理のないペースで続けていくつもりですので、こちらこそ、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年7月 6日 (水) 08時03分

「粗にして野だが卑ではない」・・そう言って松本大臣は辞任したそうな。
松本氏が卑でなかったかは知らないが、「被災地の人々を傷つけてはならない」の大合唱・・、はたして・・。

「それは差別用語だ!!」と言葉狩りに熱心だった者がいる。「障害者は下等人種だ」との心根が透けて見える。
自分の「卑」を悟られまいと声は狂ったように大きくなった。
そして被災者にも同じ事をしようとしている。

人間の弱さを正視できない者の所業だ。運命と宿命に畏怖を感じない者の所業である。想像力の欠如でもある。

私は人間には目茶苦茶傲慢であるが、運命と真実には極めて従順である。
早く自分の下賤さ・狡さ・弱さを正面から見つめ直す事だ。そうする事でのみ1000兆円の借金は解決する。

乞食には「3回廻ってワンと言え」が正しい態度なのだ。(マタマタ大波乱の言葉を投げかけましたね・笑)

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 6日 (水) 15時54分

あまのじゃくさん、コメントありがとうございました。

記事本文で記したとおりですが、絶対的な「正解」は、この場では判断できないという割り切り方があります。書き込まれた内容を閲覧されている皆さんが、どのように受けとめていくのかが重要なポイントだろうと思っています。

その上で誠に恐縮ながら、あまのじゃくさんの言葉は、私にとって難解に感じる時が少なくありません。今回のコメントの意図についても、半分も理解できていないものと思います。それはそれで、あまのじゃくさんのスタイルであるため、余計な注文を付けるのは失礼なことだと受けとめています。

なお、あまのじゃくさんからは前回記事のコメント欄で、おおらかに持論を述べ合えることを望み、議論にならなくても構わない場であることのご理解をいただいていました。あまのじゃくさんにとっては物足りない場であるかも知れませんが、これからもパネル・ディスカッションという趣旨について、ご理解ご協力をよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年7月 6日 (水) 22時47分

解りにくくご容赦を。最後の挑発口調は冗談です、合わせてスミマセン。

世の中は「相反する考え」で運営される。「父性と母性」「優と劣」「長所と短所」「失敗と成功」「義務と自由」「合理と不合理」などなど。
この両者を「是」と考え、その調和で運営する事を「中庸」と私は呼ぶ。

しかし時代によって「片方を是」「もう片方を非」と考える風潮が起こり、これは中庸を欠いている。
そして、これは必ず「揺り戻し」を起こす。今まで「是」であったものが「非」、「非」だったものが「是」に。
そして、これも又中庸を欠いている。以上の考えが「私」の中にある。

山田太一氏の文章はその事を語っているのであろうと思い書き込みました。
前回、私が書き込んだ意味は・・

「劣ったもの」「弱さ」をしっかり正面から見つめなさい。そしてそれを「非」と考えるのはお止めなさい。
「非」と考えているから「見なかった事」にしようとするのだ。

中庸を欠いているから1000兆円の借金を背負った。中庸を欠いているからその借金を「見なかった事」にしている。
実は「おおらか」と「徹底的に」も同じ性質を持つのではあるが、OTSUさんの場ですから、それに(おおらかに)従います。
尚、これでも伝わらない場合は具体的な質問が無い限り、伝える事を諦めます。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 7日 (木) 09時03分

厳密な意味での訂正

>この両者(相反する考え)を「是」と考え、その調和で運営する事を「中庸」と呼ぶ。

私の考えているニュアンスと若干違うと気付き、訂正です。

この両者(相反する考え)を「ありのまま」に捉え、その調和で運営する事を「中庸」と呼ぶ。

恐らく私の考えの根底にあるものが、この「中庸」です。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 7日 (木) 11時22分

あまのじゃくさん、コメントありがとうございます。

「中庸」や「ありのまま」という言葉の意味合いや、あまのじゃくさんの問題意識はモヤッとした形で伝わってきます。それでも「中庸を欠いているから1000兆円の借金を背負った」という結論に繋がる文脈になると、正直なところ正確な意図が理解できません。「貧乏な人は貧乏のままで良いのではないか」「困っている人にも手を差し伸べる必要はない」、つまり社会的な再配分機能という福祉制度のあり方そのものを否定している話に聞こえます。

「おおらか」と「徹底的に」も同じ性質という見方も、対極にあるという意味合いにおいて「同じ性質」と述べられているのでしょうか。たいへん恐縮ながら、全体的にモヤッとした雰囲気であるため、あまり具体的な質問に至りませんが、お時間がある際、お答えいただければ幸いです。

投稿: OTSU | 2011年7月 7日 (木) 22時49分

あまのじゃくさん、おはようございます。追記となります。

一晩中、考えていた訳(笑)ではありませんが、朝になって次のような解釈が思い浮かびました。日本国民、皆が「最高レベル」のサービス水準を要求するのが当たり前となってしまったため、国の借金が膨らんだという解釈です。つまり皆が「中庸」という「そこそこ」を基準とすれば、このような現状にならなかったというお考えなのでしょうか。

「ありのまま」という表現に軸足が置かれた場合、昨夜のコメントのような疑問に繋がりますが、「中庸」に軸足を置けば、上記のように解釈できました。的確な理解かどうか分かりませんが、確かに電力問題一つ取っても「中庸」というレベルを考える必要性に私たちは迫られているのかも知れません。

この私のコメント自体、言葉不足な点が多々あるものと思います。機会があれば、自分自身の「そこそこ」という見方について、記事本文で掘り下げられればと考えています。長い追記となりましたが、昨夜のコメントの補足をさせていただきました。

投稿: OTSU | 2011年7月 8日 (金) 07時54分

OTSUさん、一晩中考えていましたね(笑)。大変結構です。分からない事への畏怖心がOTSUさんの真骨頂でしょうから。

私が考えている「中庸」とは「全体の調和がとれている状態」です。それだけ。

「貧乏人は麦を食え」は全体が調和されている限りOK。調和を失えばNO。
しかし「貧乏人は麦を食うべきだ」を修正すべきかは、全体を見てしか答えられない。

1億円の宝くじが当たって、10日間豪遊し全てを使い切るも「中庸」で大賛成だが、金が無くなれば元の慎ましやかな生活に戻るべし。
10日間のお金の使い方に注文を付けるつもりはござらぬ。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 8日 (金) 09時32分

あまのじゃくさん、いつもコメントありがとうございます。

「分からない事への畏怖心が真骨頂」と評されるほど探究心は強くないものと思いますが、まったく意図を理解しないままコメントを加えるのは失礼だろうと考えています。とは言え、たいへん申し訳ありませんが、今回も漠然とした意味合いが伝わる程度です。

いずれにしても管理人あてのコメントというよりも、閲覧されている不特定多数の方々に対しても向けられた言葉だろうと受けとめています。そのような点を踏まえ、今回は生半可なレスを控えさせていただきます。なお、新規記事はガラッと内容が変わるかも知れませんが、ぜひ、またご訪問いただければ幸いです。

投稿: OTSU | 2011年7月 8日 (金) 23時38分

あまのじゃくさんのいわんとするところがなんとなく分かりました。

投稿: 地方の公務員 | 2011年7月 9日 (土) 02時06分

ありがとう。

「弱くて劣ったもの」は母性では「抱擁すべきもの」だが、父性では「切って捨てるもの」だ。
だから「弱くて劣ったもの」を色眼鏡を通して見てはならない。「ありのまま」で見る事だ。

最も弱くて哀れなのは、自分の意見も表明できない「今から生まれる子孫」だ。
それに気づかないのは想像力が欠如しているか、色眼鏡のせいで「見なかった事」にしているか・・だ。

全ての調和の為に「何が正しいのか」を自分の頭で「虚心坦懐に」判断するのが「ディスカッション」の本質でござるよ。

くどい?ごもっとも(笑)。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 9日 (土) 08時13分

地方の公務員さん、あまのじゃくさん、おはようございます。

宝くじの例などは、自分で自由に使えるお金があれば、豪遊しても構わない、大きな借金があるのならば、そのことを踏まえながら質素に暮らすべきという主張だろうと理解しています。つまり「ありのまま」を受けとめる重要さの提起だろうとも思っています。

すべてそのようなシンプルな提起に繋がるのかも知れませんが、また今朝の母性や父性の例示で分かりづらくなっています。一閲覧者に戻るつもりでしたが、地方の公務員さんの「いわんとするところがなんとなく分かりました」というコメントに触発され、自分なりの「分からなさ」を示させていただきました。

投稿: OTSU | 2011年7月 9日 (土) 08時39分

なぜこんな簡単な事が伝わらないのか分からんが・・

「弱者」は「弱者」でしかない。「金持ち」は「金持ち」でしかない。「犬」は「犬」でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。

それらを「助けるのか」「罵倒するのか」「無視するのか」「叱咤激励するのか」・・それは全体の調和の中でしか判断できないし、全体の調和の中で判断すべきである。
それを私は「中庸」と呼ぶ。これを怠るから「偏り」が生じ、悲惨な事になるのである。

OTSUさんの借金と質素の話はその通りですよ。その「ありのまま」を全てに当てはめるのです。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 9日 (土) 10時22分

あまのじゃくさん、コメントありがとうございました。

「全体の調和の中で判断」とは、弱者を助けられる余力があれば助け、余力がなければ見捨てるということでしょうか。一面では当たり前な理屈ですが、あえて複雑な世の中全般に当てはめようとした場合、いろいろ分かりづらい話となります。

どうもエンドレスなやり取りになりそうな気もしています。これ以上煩わせるのも恐縮ですので、今回のコメントに関しては特にお答えをいただかなくても結構ですので、よろしくお願いします。ちなみに先ほど新規記事を投稿しましたので、ぜひ、そちらもご覧いただければ幸いです。

投稿: OTSU | 2011年7月10日 (日) 01時22分

 「調和」ってなんだろう。
 この言葉を用いると、あたかも神の視点としての平衡状態が実在するかのように見えるけど、実はそれって自分の視点を神の視点として詐称して語っているだけじゃないのかな。

投稿: FAZZ | 2011年7月10日 (日) 03時10分

単純に、収入と支出がイコールになる点が平衡状態ではないですかね。別に神の視点でもなんでも無いことと思いますよ。収入の範囲内で弱者を見捨てるのも一つの選択、自分の収入を下げて弱者に分け与えるのも一つの選択、他の方の収入を減らして分けるのもまた一つの選択、このどれかを選ぶべきと聞こえますけど、そう聞こえるのは私だけですか。なんで、管理人さんも他の方も無理に難解にしようとするのでしょう。
私には「弱者を見捨てる度胸も無いけど、自分や他人の収入を減らして分けるのも嫌だ、だから借金で全てを満たそう」という厭らしさを、難解な言葉で煙に巻こうとしているように見えてしまいます。

投稿: 名無し | 2011年7月10日 (日) 21時39分

FAZZさん、名無しさん、コメントありがとうございました。

私もシンプルに解釈しようとしていますが、次のような言葉が付け加えられることで分かりづらくなっています。

>「金持ち」は「金持ち」でしかない。「犬」は「犬」でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。

無理に難しくしている訳ではありませんが、上のような言葉が加わるため、疑問符が残っている話ですので、念のため。

投稿: OTSU | 2011年7月10日 (日) 22時12分

それも言葉どおりの解釈で良くないですか、と思うのです。
よく言われる「貧乏人の気持ちは判らない」とか「貧乏人の生活の実態を知らない」という批判的な言葉には、金持ちは無理に貧乏人になる必要はないし貧乏人の境遇に同調する必要もない、金持ちは金持ちの立場で平衡状態を模索すればよいと解釈しています。
また、弱者は自分で這い上がろうとしない限りは弱者でしかないとも思います。だから、こちらも言葉どおり、犬は犬という立場に自らが疑問を持たなければ、それは犬であると思います。それを無責任な他者が平衡状態を無視して「いや違う、あなたは人間なんだ」とか「もっと良い生活をするべきだ」と横槍を入れようとするから、話が複雑になり借金のみが積みあがるのかなと思うのですよね。向上心無き者はほっとくのが自然なのに、度胸が無いから無責任に横槍を入れている。
つまるところ、収入の範囲内しか使わないのが当たり前で、それ以上でもそれ以下でもないとのことでは無いでしょうか。これらは至極当たり前の事なのに、複雑怪奇な言葉で煙に巻こうとしているように見えて仕方ありません。
加えるなら、報酬は能力の範囲内が当たり前だし、提供する成果の範囲内の待遇が当たり前です。もっと加えると、提供したものから借金返済の原資を引いた残りの範囲内を分配することが、これからは当たり前なんだと思いますよ。それを一人一人が自覚して、範囲を超えた要求は辞めなさいと言われていると解釈しています。
要は、いつまで未来の他人に借金をさせて、ご自分の報酬やご自分の満足を得ることを続けるのですかと問われているのだと思います。

投稿: 名無し | 2011年7月10日 (日) 23時06分

>「弱者」は「弱者」でしかない。「金持ち」は「金持ち」でしかない。「犬」は「犬」でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。それらを「助けるのか」「罵倒するのか」「無視するのか」「叱咤激励するのか」・・それは全体の調和の中でしか判断できないし、全体の調和の中で判断すべきである。
それを私は「中庸」と呼ぶ。これを怠るから「偏り」が生じ、悲惨な事になるのである。

上の事は、あまのじゃく氏の個人的な考え(言葉)であり、それが全てではないと考えています。

投稿: 昔公務員 | 2011年7月10日 (日) 23時18分

名無しさん、昔公務員さん、おはようございます。コメントありがとうございました。

私にとっては、あまのじゃくさんの言葉のほうが「複雑怪奇」に感じがちでしたが、名無しさんのように理解される方がいらっしゃることは認識できました。

昔公務員さんの「あまのじゃく氏の個人的な考え(言葉)であり、それが全てではないと考えています」というご指摘もその通りですが、ここ数日間、あまのじゃくさんの言葉の奥底について掘り下げていく展開となっていました。

投稿: OTSU | 2011年7月11日 (月) 07時44分

まあ愕然とするしかない。これは議論以前の問題だ。
多くは名無しさんが説明してくれたので割愛する(本当は説明しようとする気持ちも起こらない)が、最後に一言だけ付け加えてあげましょう。

「犬」を「人を咬む怖い動物」という「色眼鏡」で見るから「首輪をしろ」と条例を作る。
「犬」を「可愛い動物」という「色眼鏡」で見るから「虐待禁止条例」を作る。
そのくせ野犬は集めて殺す。

色眼鏡で見るのは別に構わないが、全体の調和が壊れてしまっている。これを「群盲、象をなでる」と言う。
本来は「犬」を「ありのまま」に見て、社会全体の調和からどう取り扱うかを考えるべきなのです。(言っても分からんだろうが)

この板で私が今まで評価出来る書き込みは(記憶する限り)1つしかない。名無しさんの下記の書き込みだ。

『日本にはフリーライドが沢山居る。その為に巨額の借金を背負った。フリーライドの問題を解決して「入るを計って出を制す」という財政の基本に立ち返るべきである』

この短い文章の中にさえ「労働と対価の不調和」と「収入と支出の不調和」という(最も)大きな問題が書かれている。
本当は他にも沢山ある。具体的に書けば多岐に渡るから抽象的な表現にしただけだ。

私の抽象的な表現が理解出来ないのなら聞く必要は無い。
しかし、せめて名無しさんの上記のような真っ当な(具体的な)書き込みを議論したらどうかね。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月11日 (月) 09時45分

私はまたもや、あまのじゃく氏を愕然とさせてしまった。
彼の言う事は間違いなく正論で有ると私は思っています。

ただ、そう言われてもなあ・・・・が常に次につきまとう。
例えば、現実福祉において、弱者を救うか、切り捨てるか、と考えたとき、どの人が弱者で、どの人が弱者でないかを判断する訳であるが、これも人が判断するわけであり、非常にむずかしい問題で、理論の通りはなかなか解決しない。真の弱者、偽りの弱者も存在するでしょう。これが現実だろうと思っています。生活保護者を判断するも同様。だから、偽りの弱者も救っている可能性が有ると思っています。つまり、世の中(社会)は正論だけで動いていないと言いたいのです。正論(正義)を全国民が周知意識したら、法律・警察・裁判なんて不要。(現実は必要としている)

借金の話であるが、ある意味国民の合意で積み重ねられた結果だと思っている。政治でもない、官僚でもないと。破綻したら全国民の責任だと(そうならないように願うが)
私は借金を返すべく術は分からないが、正論だけでは不可能と思っています。(国民の大多数がその意識を持つようになれば別であるが)


投稿: 昔公務員 | 2011年7月11日 (月) 19時38分

大多数の意識が変わるには、まず一部の意識から変えなければならないと思います。逆に、一部の意識すら変わらないなら、大多数の意識が変わることもありませんよね。つまり「ただ、そう言われてもなあ・・・・」とは、元より大多数の意識を変える必要もないという人の言葉に聞こえてしまいます。
公務員は、真っ先に変化する一部とするには非常に適している存在と思います。だから民間に先んじて成果主義を導入すべきだったと私は考えておりました。もっとも、本来は公務員が自ら変化を求め変わるべきでしたが、もう時間は残って居ないでしょうね。今後、数十年は強烈な外圧的動機にさらされることになると思っています。もちろん、組合が今のまま残ることも許されなくなるでしょうね。

投稿: 名無し | 2011年7月11日 (月) 20時37分

お久しぶりです。しばらくROMらせてもらいましたが、あまのじゃくさんの議論の進め方で問題を感じたので
無礼を承知で議論を止めていると感じた箇所とそれを改善する方法を述べたいと思います。
(議論する気のない、ただの意見表明として語ったのであれば大変申し訳ありません)

厳しい言葉になってしまいますが、おそらくあまのじゃくさんの方法では望んでおられる議論をするのはほぼ不可能だと思われます。
まず、提言者が自身の考えを理解してもらえるような努力を放棄してはいけません。これは絶対です。
「理解できないなら聞く必要がない」と語るなら、そもそも議論を行う意義そのものが壊れてしまいます。
次に、たくさん言いたいことがあると仰っていますが、議論を目的にするなら必ず一つの主題に絞るべきです。
主題は基本的にあらゆる人間の主観が混じりにくくできるだけ正確に理解できるものが良いです。
財政なら政府債務等キーワードを固め、富の再分配なら広範化せず年金や生活保護に細かく限定しないと手段の高度化を目指す議論ができなくなります。

また、「かくあるべし」とする理想論や正しさを語るなら内容の議論はやめ、あくまで意見表明だけに留めるべきです。
手段の良し悪しは客観視できるために高度化が可能ですが、考え方の高度化(考え方に高度の差は本来ないが)を議論で進めるのはまず不可能です。
参加者がある理想や現実(と本人が考えていること)を語れば別の参加者はその考え方がある事を把握するだけに留めるのが正しい対応です。
ここでその考え方自体を肯定したり批判しても、議論は深まりません。
また、他人の考え方を批判しても説明する力がつくだけで正しさそのものは成長しません。結局人が正しいと感じるかどうかでしかないからです。

人が批判するときは、「理想は正しいが、どうやって達成するのか?」といった手段を問うのが合理的であり、一般的でもあります。
仮に具体的な手段の議論を求めるなら、まず提言者が理想をもとにした手段を語り、その手段に意見を求めた方がよいかと思われます。

ついでになりますが、あまのじゃくさんの考え方(本人の考える事実)がいくつかの他者に伝わりにくくなっていた原因について私見を述べると、
その考えに至る関連付けの説明が飛んでいたり繋がりがおかしくなっており、説明に無理があったからではないでしょうか。
一文一文は正論でも、結論に至る思考が飛んでいては思考方法が繋がらず大抵の人は困惑します。自分の考えを伝えるのに、正論を入れる必要はありません。
例えば「所得再分配は必要ない」とする考えを述べる場合なら、「ありのままを見つめるべきだから」と解釈があいまいになる一般論や正論を述べるより
「働く人間に適切な報酬が渡されるべきだから」と結論にいたった思いを限定して、具体的に、関連付けて、簡潔に述べた方が伝わりやすくなります。
自分の考えを他人に伝える事は議論を始めるうえで何よりも重要なので、あらゆる人に理解してもらえるようがんばってみてください。

投稿: COM | 2011年7月11日 (月) 21時54分

成果主義はすでに私の職場で導入されています。
成果主義が公務職場になじまないことは実感しますね。

公務職場を民間企業と全く同列にあつかうべきとするならば、労働基本権も民間企業と同様に付与すべきでしょう。

我が国の財政状況の解決方法、これは「増税」です。この一点。
社会保障は「財源調達問題」です。
国民負担を増やさなければ社会保障の機能強化はおろか、維持すら危うい、この現実を国民は直視しなければなりません。
フランス料理のフルコースを定食屋の値段で食べるような我が儘はもはや通じないという現実を直視するしかありません。

それがいやなら、社会保障の大幅カットしかありません(年金の国庫負担1/2をなしにするとか)

投稿: | 2011年7月11日 (月) 22時05分

あまのじゃくさん、昔公務員さん、名無しさん、COMさん、コメントありがとうございます。

COMさんから丁寧なコメントをいただきましたが、私自身、次のように考えています。労働組合に対する基本的な理解が違っていた場合や、財政における借金の問題の見方の前提が違っていた場合など、どうしても議論の論点が充分かみ合わないことを当ブログを続ける中で肌身に感じてきました。

そのような経験を踏まえ、今回の記事本文で書き込んでいるような考え方に至っています。その意味では今回、あまのじゃくさんと1対1でのやり取りが続いたため、中途半端に深入りしていたことを反省しています。このように記していくと、議論から逃げるというネガティプな見られ方をされてしまうのかも知れません。

今回の場に限っては強く否定できませんが、これまでコメント欄や記事本文を通し、あまのじゃくさんの主張に対し、私なりの考え方を正面から訴えてきていました。結局、あまりお互いの歩み寄りがないまま、現在に至っていました。

その上で、絶対的な「正解」は、この場では判断できないという割り切り方があります。書き込まれた内容を閲覧されている皆さんが、どのように受けとめていくのかが重要なポイントだろうと思っています。この言葉は7月6日の夜、あまのじゃくさんへのレスの中で記したもので、振り出しに戻る話で恐縮です。

今から考えれば、その言葉の後に続けた「私にとって難解に感じる時が少なくありません」が余計であり、失礼な言葉だったものと思っています。その後も結果として、不愉快にさせる言葉が多かったとしたら失礼致しました。

投稿: OTSU | 2011年7月11日 (月) 22時07分

2011年7月11日(月)22時05分に投稿された方、コメントありがとうございました。

たまたまハンドルネームをお忘れになったのでしょうか。意見交換をスムースに行なうためにも、ぜひ、次回もコメントをいただける場合は名前欄の記入にご協力ください。

投稿: OTSU | 2011年7月11日 (月) 22時21分

>大多数の意識が変わるには、まず一部の意識から変えなければならないと思います。逆に、一部の意識すら変わらないなら、大多数の意識が変わることもありませんよね。

上記もまさしく正論ですね。

では、お尋ねします。
私は「大多数の意識を変える必要もない」とは毛頭思っていません。
どうしたら「大多数の意識を変えることができるか」が分かりません。
今の世の中、正論を並べても、大多数の意識を変えられると思えないから言っているのです。

投稿: 昔公務員 | 2011年7月11日 (月) 22時27分

OTSUさん、返答して頂いてありがとうございます。
私も自分の企業でディスカッションの方法を指導しているのですが、自身の力不足もあって不十分な結果に終わってしまうケースもありますね…。
人によって効果を最大限に高めるアイデアは様々ですが、無用の紛争を生まない一つのやり方として
「考え方は、全て(最低でもその人の中では)正しいと受け止める」方法を取り入れていました。
ただ、経験上では一度考え方そのものの議論が始まって成功した例は一度もありません。本来正義は一元化できるものではないのに、
無理に話をすると大抵こじれてしまうので我が社のケースでは歩み寄り以前に自身の考え方をまとめる事もできなくなっていました。
それでも、そうした考え方がある事を理解するだけでも大きな進歩になると思いますし、閲覧者に考え方の視野を広げる事には大きく役立つと思います。
私の方も、これまで突然長々と話題がずれかねない説明を述べてしまい申し訳ありませんでした。

最後に、OTSUさんのように意見を受け止めて自分の視野を広げる姿勢は素晴らしいですし、
このサイトでの記事は毎回楽しみにしております。また当分はROMになるかと思いますが、これからも頑張ってください。

投稿: COM | 2011年7月11日 (月) 22時44分

私も、今の財政状況の解決には「増税(と社会保障の抑制)」に尽きると思います。しかし「増税の前にやるべきことがある」の一言で何も進んでいないのも事実です。その事実を見れば、成果主義をとことん導入して職員Ⅱの排除が欠かせないと思います。そして「増税の前に・・」と言わせない環境を作るべきです。
現状が何も進展しないならば、成果主義の導入が徹底されていないだけではないでしょうか。ここでの言葉は成果主義の「振り」をした時間稼ぎに聞こえます。
借金は借金であり、それ以上でもそれ以下でもありません。ほっといて無くなることはないし、見方や前提が違うなどの言葉も意味のないことです。それらも含めて公務員に成果が足りていない証左と思いますよ。
公務職場はすぐにでも目に見える成果を出すべきでしょう。それには職員Ⅱを排除し得る成果主義の導入以外に道は無いと思っていますし、それが結果として全体の黒字化につながると、私は確信しています。
公務員が少なくない声で批判されていることは、色々な意味で成果が足りていないのではないでしょうか。仮に、増税を拒む理由として公務員待遇が便利に語られているならば、その声を覆す色々な意味での成果を出すべきと思っています。
この国の今の状況ならば批判される要因を排除し、多数から理解されることも「成果」で「公益」だと思うのですけどね。
最後に今週の「上司としての菅首相」ですが、成果さえ出ていれば評判は変わっているでしょうね。例えば「緊急型の人間が総理で良かった」とかね。嫌いなタイプの人間ではありますが、成果さえ出せれば批判の声も小さくなるものだと思います。さて、賞が足りなかったのか罰が足りなかったのか。

投稿: 名無し | 2011年7月11日 (月) 22時56分

昔公務員さんへの回答も含めて書いたつもりでしたが、理解されないかもしれないので噛み砕きますと、大多数の意識を変えるには先ず自分が変わることです。そして変わったことをハッキリ見せることです。それ以外の方法はありません。それを強制的に成すのが成果主義ですから、あとは今までのコメントで書いたとおりです。
厳しく指摘すると「どうしたら「大多数の意識を変えることができるか」が分かりません」という言葉は、自分の変化を拒む職員Ⅱが常用する方便以外のなにものでもありませんね。

投稿: 名無し | 2011年7月11日 (月) 23時05分

名無しさん
有り難うございました。

>大多数の意識を変えるには先ず自分が変わることです。そして変わったことをハッキリ見せることです。それ以外の方法はありません。

上記もまさしく正論(正しい行動)ですね。
分からないと言ったのは、何か他に方法があるのかなと思っていました。

投稿: 昔公務員 | 2011年7月11日 (月) 23時31分

昔公務員さんへの言葉に付け加えるならば、私個人では既に変わっているし、それをハッキリ示しています。しかし、それが「増税の前にやるべきことがある」の声を減らす事には繋がりません。むしろ声を増幅させる効果を生んでいます。
しかし、個人としてこの国の競争力を保つ為にやっている方向は間違っていないと思うし、公務員に「増税の前に・・」と言わせない環境を作る外圧的動機の一助にはなるのでしょう。だからといって、自分の行いが公務員への風当たりが日増しに強くなる要因だと、自惚れてもいませんけどね。
公務員への風当たりが強くなるのは、成果を求められているのに、それを提供できていないからだけです。さて、それは内外のどちらへの賞ですか罰ですか。多岐にわたる回答を明示するのは不可能ですから、担当する個々で考えるしかありません。ただ、批判の声が無くならない限り成果は足りていないと考え変化を続けるしかありません。

投稿: 名無し | 2011年7月11日 (月) 23時50分

 かなり出遅れた感がありますが・・・
 自分が一連の議論の中で気になるのは、抽象化された「強者」、「弱者」や「ありのまま見る」といった言葉の裏の自分の恣意性に無自覚であるように見えることです。
 例えば、「犬」を「ありのまま見る」と簡単に言いますが、そこにあまのじゃくさんの選好は全く入っていないのでしょうか・・・そんなはずはありませんよね。では、それが当てはめられ語られる「調和」とは本当に正当な調和なのでしょうか?自分が「調和」を「自分の視点を神の視点と詐称している」と発言したのはその意図です。
 あるいは、簡単に「弱者」といいますが、その裏にはいろいろな人間がいますよね。働きたくないニート、子供がいて働けないシングルマザー、無年金の高齢者、障害者・・・。それらの人間の多様性を意識した上で議論を組み立てていますでしょうか。あえて無味無臭な抽象語としての「弱者」を用いて逃げていませんか?

 もちろん、政策の立案に際してはある程度の抽象化は必要です。だけど抽象化の過程で恣意的に取りこぼしているものに無自覚である限り、その政策は齟齬をきたし結局は住民や国民を圧迫することになると思います。

投稿: FAZZ | 2011年7月12日 (火) 02時29分

昔公務員さん、COMさん、名無しさん、FAZZさん、おはようございます。コメントありがとうございました。

一つ一つのご意見に対し、この場での論評は控えさせていただきますが、今後の記事本文を重ねることで、引き続き自分なりの問題意識を発信していくつもりです。ぜひ、これからもご注目いただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年7月12日 (火) 05時33分

ワッ、盛り上がってる!(笑)。私の名前が出た分だけ返事を・・。

昔公務員さんへ
「国の借金は公務員だけの責任じゃない!」・・これは立派な意見です。そして同意する。同時に公務員「にも」責任はありますので、その分はお願いします・・と軽い「ジャブ」を打っときましょう。右ストレートは封印しておりますので(笑)。

COMさんへ
COMさんの「議論のべき論」は承知しております。それと・・
>がんばってみてください。
私は頑張ってるよ!!(笑)。

FAZZさんへ
私の意見に興味無いとの事でしたが、興味津津のようですね(笑)。実は「単に絡みたいだけ」との疑念を持っておりましたが、最後の意見を聞いて「若干」払拭されましたのでお答えします。

先ず・・>調和とは神の視点ではないのか?
そもそも、全ての領域は神の領域です。学問とはどれだけ「神の視点」に近付くかです。社会の調和を模索する「社会学」も「政治学」も本来「神の領域」です。「科学」も同様ですし「哲学」もそうです。
そして人はアタカモ自分の視点が「神の視点」として意見表明を行うのです。それを「神様には従順」と言います。

同時に愚かな人間にも「調和は取れていない」くらいは分かるでしょう。それを無視すると「神様に傲慢」と言います。
今の社会は調和がとれていますか?なぜ借金が巨額になったのですか?それを直視していますか?

それと・・>「弱者」との観念自体が恣意的ではないのか?

全くその通りでした。私の書き方が明らかに間違っていました。
『人間をありのままに見なさい。「弱者」とか「金持ち」とかの色眼鏡で見るべきではない』・・と書くべきでした。

最後にFAZZさんが指摘しているように「抽象的政策を具現化する過程で、恣意的に無自覚に取りこぼした結果」、年金家庭より生活保護家庭の方が贅沢だったり、子孫が黙っている事を良い事に借金を重ねたのですよね?

最後のあなたの意見は私の言っている事と同じです。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月12日 (火) 09時28分

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