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2011年6月25日 (土)

再び、コメント欄雑感

ブログを始めた頃、国語辞典、カタカナ語辞典、慣用句辞典をパソコンの横に置き、誤字や誤用などに注意していました。それぞれインターネットからも調べられる便利な時代ですが、ブログの入力画面から別なサイトに切り替える手間よりも本をめくるほうが、ずっと手軽な作業でした。いっそ広辞苑でも必要かなと考えていた時、少し値段がはってもコンパクトな電子辞書のほうを購入していました。

その後、ずっとブログの投稿を重ねる上で電子辞書を愛用してきましたが、数日前に文字入力キーの不具合から使えなくなっていました。欠かせないアイテムとなっているため、さっそく購入した店舗に持ち込み、修理を依頼しているところです。そのため、今回の記事を書き始める際、以前使っていた辞書などを探しましたが、山積みされた書籍の中に埋もれているようでした。今回限りの対応であり、探すのをあきらめ、パソコンの横には辞書の類いがないまま新規記事に取り組んでいます。

まったく自信のない語句はネット検索で確認するつもりですが、いつもより誤字や誤用が目立っていましたらご容赦ください。ところで最近、改めて言葉の組み合わせ方一つで、読み手の皆さんに与える印象などが枝分かれし、投稿者の思いが適確に伝わらないことの難しさを痛感していました。直接会って話せれば、表情や仕草などからの予備的な情報も得られます。特に誤解されそうな点は、お互いが即座に確認しながら会話を進めることができます。

それに対し、インターネットを介した意見交換は当たり前なことですが、書き込まれた文章のみでお互いの考え方を理解し合わなければなりません。その際、表現方法や文字の並べ方一つで与える印象が大きく変わりがちです。また、その言葉に誤字や誤用がなくても、まったく違った意味合いで伝わる場合もあります。前回記事「ベターをめざす人事制度 Part2」のコメント欄で気になった点でしたが、「外発的動機よりも内発的動機を大事にしたい」という主張が、働かないことの言い訳や組合の都合による詭弁だというような印象を一部の方には与えていたようです。

なぜ、そのように受けとめられてしまうのか、もともと公務員はしっかり働いていない、さらに働かなくても良いという環境を守るために組合が存在している、このような先入観があるからだろうと推察しています。この言葉に対しても、共感される方々と「思い込みではなく、その通りの実態ではないか」と強く反発される方々に分かれることも覚悟しています。いずれにしても公務員の働き方の現状や今後について、いつでも当ブログは意見交換できる機会を設けています。

一方で、これまで雑談放談の場として、様々な話題を記事本文で取り上げてきました。このブログの位置付けやコメント欄の性格を綴った記事も数多く、「コメント欄雑感」「ネット議論への雑感」「2009年末、改めて当ブログについて」「もう少し当ブログについて」「微熱状態でのコメント欄雑感などがありました。今回、久しぶりにコメント欄に関する個人的な思いを綴ろうと考え、安直な「再び、コメント欄雑感」というタイトルを付けさせていただきました。

この題材を取り上げようと考えた理由として、実は最近よく拝見している三つのブログの影響がありました。一つは「【小泉一真.net】一小役人のち作家」ですが、長野県職員だった小泉一真さんが実名で職員・組織の意識改革をめざし、長野県庁の「不都合な真実」を明らかにしていました。二つ目は「阿久根市議会へ行こう」というブログで、阿久根市の竹原信一前市長の妹であり、4月の阿久根市議選でトップ当選した竹原えみさんが運営されていました。

綴られている記事内容は、たいへん謙虚で、誠実さが表われている印象を受けていました。兄妹でも随分タイプが違っていたため、たいへん驚いていました。ただ最近、周囲からの助言が何かあったのかも知れませんが、「コツコツと勉強していきます。」という一言を最後に更新が止まっていました。もう一つは「あくね みどりの風」で、「さつま通信」というハンドルネームの方が管理されているブログでした。かなり前、阿久根市に絡む当ブログの記事に対し、さつま通信さんからコメントをお寄せいただいたこともありました。

さつま通信さんはネット上で非常に有名な方で、その名前を様々な場所で見かけることができます。ご自身が本名や住所などもネット上で明らかにしていたため、実名での投稿と変わらないスタイルとなっていました。そのため、「あくね みどりの風」と「阿久根市議会へ行こう」のコメント欄で、さつま通信さんが「匿名によるコメント投稿は無責任だ」というような持論を頻繁に展開されていました。小泉一真さんも同様な発想であり、実名での発信だからこそ、より説得力を持った提起となるというものでした。

このような発言に触れ、それぞれ実名で発信を続けるという信念を否定するつもりは毛頭ありません。その一方で、コメントを投稿される他の皆さんに対し、実名を明かさないのは「フェアではない」という切り返しには違和感を持っていました。この傾向は、さつま通信さんが顕著でしたが、私自身は次のように考えています。前掲した以前の記事の内容を紹介する形で、改めて閲覧されている皆さんにコメント投稿などに関する考え方をお伝えさせていただきます。

まず大多数の人たちが匿名によるコメント投稿となる「掲示板」的な場として、様々な議論に触れられることを歓迎しています。その匿名の利点は、飾らない本音の議論ができることだと思っています。遠慮のない言葉や誹謗中傷の応酬となるリスク、「諸刃の剣」的な側面がつきまといますが、おかげ様で殺伐とした雰囲気になることが極めて少なく、これまで続けてくることができました。

一方で、匿名で発信できるということは、立場などの成りすましや都合良く情報を操作することも可能となります。それはそれでモラルの問題となりますが、このようなネット上の私的な場では特に何か問われるものではありません。したがって、誰がどのような立場で書いたかは、それほど大きな問題ではなく、その人が書き込んでいる言葉、つまり内容がどのように他の閲覧者の皆さんの共感を呼ぶのか、真偽が判断されていくのかどうかだと考えています。

なお、このブログの管理人である私自身は、プロフィール欄に記しているような立場を明らかにしています。政治家やタレントなど著名人は自分の名前を売るのが本業であり、間違いなく実名で運営しています。一般の人たちが運営する場合は、実名を伏せてハンドルネームで発信していることが大半です。当ブログも後者であり、管理人名を「OTSU」としていますが、私どもの組合員の皆さんらに対しては実名での発信と変わらない位置付けとなっています。

勤めている自治体名も伏せていますが、記事の中に出てくる地名などから簡単に特定できてしまうはずです。必ずしも隠し通さなければならない訳ではありませんが、個人の責任によるブログ運営の一般的なセオリーにそったものでした。当たり前なことですが、個人情報など守秘義務にかかわる内容をブログに書き込んだり、自分の組織の信用を失墜させるような記事を投稿した場合、公務員でも民間会社でも許されるものではありません。したがって、ブログの中で具体的な主張を展開する時など、このような留意点を絶対失念しないように注意しています。

以上のような考えのもとで運営していますが、コメント投稿される際、必ず名前欄の記入にはご協力くださるようお願いしてきました。当然、ハンドルネームで結構ですが、あくまでも意見交換をスムースに行なうための理由からでした。加えて、できる限りのお願いとして、コメント投稿を継続的に行なっていただける場合などは、識別しやすい個性的なハンドルネームを付けられるようご協力ください。ちなみに「あまのじゃく」さんなどは、そのハンドルネームとともに当ブログの中で、強烈な存在感を発揮していただいていました。

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コメント

初めまして。小泉一真でございます。

小泉は、匿名よりも実名の発言の方が、より責任とリスクを負担しているものであるとの趣旨は、申し上げたことはあります。しかしながら、言論において「実名を明かさないのは『フェアではない』」との趣旨の発言は、記憶がありませんので、申し上げておきます。
畢竟、言論とはロジックでありまして、それがしっかりしたものであれば、匿名だろうと実名だろうと、価値に違いはありません。自分の発言について、実社会で責任を負うのがお嫌なら、せめてスクリーンネームでも名乗られればいいんじゃないですかね。それだけでも名無しの権兵衛よりは、百倍ましです。発言がぶれたりしたら、そう論難される責任を負うているわけですから。
結局、何のための言論であるのかという、考え方や覚悟の違いではないでしょうか。小泉にとっての言論とは、社会を変える武器です。それを最も研ぎ澄ましたものとするために、実名を選択しました。当然、そのリスクも負っていきます。名無しの論者とは、リスクがないかわりに、世の中への影響力もないものと、小泉は考えています。それはそれで、いいんじゃないですか。
まあ、もっとも、私見ではありますが、ネット上の言論を概観すると、実名>筆名>名無しの順に、ロジックの優劣も並んでいるとは思います。優れた文章なのに名無し、というのは、あまり見たことはないですね。駄文、やっぱり名無しかよ、というのは、沢山ありますけど。
2ちゃんには、小泉を叩く板がありますが、その雑言は誹謗中傷に終始し、言論の名に値しません。名誉棄損罪・侮辱罪を回避するための「名無し」発言は、フェアでないと申し上げることにまで、このブログ主さんがご批判されているのではないことを、祈念しています。

ブログの宣伝、ありがとうございました♥

投稿: 小泉一真 | 2011年6月26日 (日) 14時26分

小泉一真さん、はじめまして。コメントありがとうございました。

実は昨夜、今回の記事を投稿した後、小泉さんのブログへ2回ほどコメントを試みました。結果としてコメント送信できませんでした。そのため、紹介させていただいたことについて報告ができず、申し訳ありませんでした。逆に小泉さんからコメントをいただき、報告の機会を与えていただき、少しホッとしたところです。

さらに言論において「フェアではない」という発言についても、小泉さん自身の直接的な言葉ではない中で、ご指摘のとおり不適切な引用だったものと反省しています。たいへん申し訳ありませんでした。

また、匿名かどうかにかかわらず、ネット上で発信する言葉に関しても、その範囲内での責任に対する思いは私も感じているところです。そのため、今回記事の最後に書き込んだことですが、せめて識別しやすいハンドルネームという協力依頼に繋がっていました。

最後に、退職という大きな転機を選択され、いろいろご苦労も多いかと思われますが、お体には留意され、頑張ってください。これからも貴ブログの更新を楽しみにしていますので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年6月26日 (日) 15時26分

お久しぶりです。(^_^;)


私の場合はハンドルネームでも継続してブログを書いている人は信頼しますよ。(^_^;)

自分のブログを示してコメント欄に書き込むような人はだいたいコメント欄でそう無礼な発言はしないものですから。

自分のブログの記事の信頼を守る必要がありますから必然的にそうなりますよね。


私が無礼だと言う連中は、自分じゃ守るべきものを示していないただの匿名の連中ですよ。

そんな連中が「質問に答えろ」などとブログの管理人と同等の立場であるかのように要求するような行為は誰が考えてもおかしいんじゃありませんかね?

そんな連中のために時間を割く義務があると思います?


ちょっと考えてみればわかることだと思うのですがね。

投稿: さつま通信 上之原稔 | 2011年6月26日 (日) 22時21分

さつま通信 上之原稔さん、お久しぶりです。コメントありがとうございました。

本来、私のほうから「あくね みどりの風」にコメントし、貴ブログを紹介させていただいたことを報告すべきだったものと思います。少し迷いましたが、結果として無精してしまい、たいへん失礼致しました。

個別のテーマについて、論評した場合、かなり距離があることを自覚しているため、敷居を高く感じていた事情もありました。現時点でそのような違いを際立たせても、平行線をたどりがちだろうと思っています。その意味で時々、このブログのことも思い出していただければとも考えていました。その上で、お時間がある際、のぞいていただければ幸いなことですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年6月26日 (日) 23時00分

強烈な存在感を発揮している(らしい)あまのじゃくです(笑)。

自分の答えが唯一無二に正しいと信じるから議論は美しい。
こんなバカな事を言ってる奴はタダじゃ済まさん!と考えるから真実が見えてくる。

余り瑣末な事に囚われると魅力を失いますよ。

投稿: あまのじゃく | 2011年6月27日 (月) 11時42分

あまのじゃくさん、コメントありがとうございました。

自分の「答え」が最も正しいと思っている点は私も同様です。その「答え」を立場や視点が違う方々から賛同を得られるためのアプローチの仕方には、あまのじゃくさんと私の考え方は以前から異なっているようです。相手の「答え」を論破することよりも、こちらの「答え」に対して共感が広がることを大事にしています。このような考え方に対しても、私自身のこだわりであって、「正解」かどうかは読み手の皆さんの判断に委ねているつもりです。

ところで「余り瑣末な事」というご指摘は、匿名か実名かの話のことでしょうか。そのような話を取り上げたということで、とらわれているという見方なのかも知れませんが、私自身は匿名の発言でも、実名の発言でも、その内容が肝心であるという主張です。その意味では、とらわれていないタイプだと思っています。なお、ピントの外れたレスでしたら申し訳ありません。

投稿: OTSU | 2011年6月27日 (月) 21時31分

ディスカッションは「何が正しいか」の為に行います。ディベートは「共感」と「説得」の為に行います。

この2つ(ディスカッションとディベート)は交わる部分が多くはありません。
私はディスカッションしかやりませんので、共感を求めません。ディスカッションにおいて「君は間違っている」と指摘しない事ほど不誠実な事はありません。
若し私の刺激的な言葉使いに逆上して、論理が迷走するような者に興味はありませんし、そもそもその様な御仁はディスカッションに参加する資格はありません。

同じような場面を幾つか経験します。
組織運営において「成果をフェアーに評価すべき」に賛同いただいた時点で議論は終了します。それは同時に下記を意味するからです。

動機・手段・成果の内、「成果」を基準に運営するのですから、動機を基準に運営しては「ならない」のです。
そんな事をすれば「ダブルスタンダード」を作り、運営が迷走するからです。

成果主義において最も重要な事は、「組織にとって成果とは一体何なのか?」「成果をどう正確に評価するのか」「評価に対してどの様な信賞必罰を与えるのか」を周知徹底する事にあります。

ディスカッションにおいて「共感」は瑣末であり、成果主義において「動機」は瑣末な事なのです。
尤もOTSUさんには「正解」に対する真摯な態度が見えるので、つい書き込んでしまうのですが・・。

投稿: あまのじゃく | 2011年6月28日 (火) 09時53分

ディスカッション(ディベートではなく)における「誠実さ」とは「全ての疑問に答え、全ての疑念に突っ込む」事です。

何故ならディスカッションにおいて「正しさ」「正解」「真実」は全ての「疑問」に耐えられる事でしか確認できないからです。

投稿: あまのじゃく | 2011年6月28日 (火) 17時14分

あまのじゃくさん、コメントありがとうございます。

この話は以前も交わした論点ですが、時と場所に応じ、きっと「正解」は変動するのではないでしょうか。また玉虫色のような意見となりますが、あまのじゃくさんの考え方を否定しているつもりはありません。特に組織として一つの「答え」を出さなければならない時、ディスカッションが重視されるものと思います。

相反する立場の相手が交渉相手だった場合、相手側の言い分などを論破したからと言って、交渉がまとまるとは限りません。こちらの主張に理解や納得してもらわない限り、交渉は平行線をたどり、決裂、対立という結果を招くのかも知れません。

このブログの場も、一人ひとり違う「答え」を持っている方々が閲覧くださっているものと受けとめています。当然、私の「答え」は一つで、正しいと信じ、このブログで様々な主張を展開しています。しかし、その「答え」と異なる主張が数多くあることも想定し、あえて「(私は)このように思っています」という論調を基本としています。

とりわけコメント欄で、異なる意見の方々に対し、「そのような考え方はあり得ない」という反論を加えれば、ますます「溝」は深まっていくような思いを持っています。長々と書き込んでしまいましたが、この考え方も私自身の一つの「答え」に過ぎません。したがって、このコメント欄で、あまのじゃくさんが重視されるディスカッションは控えて欲しいという訳でもなく、他のブログと比べれば制約が極めて少ない場となっているはずです。

結論として、幅広い立場の方々から気軽にコメントをお寄せいただける場になれるよう願ってています。いろいろなブログを訪問していながら、コメント無精、内弁慶となっている自分が言うのも勝手な話ですが、ぜひ、多くの方からコメントいただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年6月28日 (火) 21時53分

やはりそうでしたか・・。OTSUさんのやっている事は「ディベート」です。当然これも1つの重要な方法です。
ディベートとは正に「説得と合意」を得ることを主目的にした考えですね。

今回OTSUさんは前々回の返事に「自分の答えが最も正しいと思っている」と書いています。私の記憶する限り、そう書いたのはこれが最初です。
しかしその後の説明を読む限り「正解」の意味が私とは全く違う。
本来「正しさ」とは合意や理解や共感などとは全く無縁な存在です。溝が深まろうが対立が深刻になろうが何の関係も無い。

「刑事罰」という考えがあります。被害者が訴えなくても刑事罰はあり、被害者と合意しても刑事罰はある。
「正義」は共感や同意とは全く関係が無いのです。

私も1000兆円の借金が無ければ、このような話はしないだろう。

では、最後に・・
『1000兆円の借金を解決する為に、公務員として自治労として日本人として、どうすれば正しい』と思いますか?
『日本人全員が良い生活を送りたいが為に合意した1000兆円の借金を子孫に付け回す事を』どう思いますか?

この質問にOTSUさんの「正解」は耐えられますか?

投稿: あまのじゃく | 2011年6月29日 (水) 09時12分

久々に参加させて貰います。

「ディスカッションは「何が正しいか」の為に行います。ディベートは「共感」と「説得」の為に行います。」


私の経験から言いますと、公務は、正しく「ディベート」だったと思っています。

公務員を批判される方々が結構多いのですが、公務員は「ディスカッション(政治による)」において決められたことを忠実に実行することが任務だったと思っています。(OBになった今でも)

忠実に実行しょうととすれば、必ず相反する方が実現します。このような方々に如何に説明、説得できるかが問われました。このような事が仕事の大部分でした。

何を言いたいかと申しますと、「ディスカッション」は出来ても公務員には決定権はありません。

逃げるわけではありませんが、公務員は色々企画立案しますが、最後に決めるのは政治の力だという事をあえて言いたくて久々に参加しました。

投稿: 昔公務員 | 2011年6月29日 (水) 18時59分

私から多少気になった点を指摘させていただきます。
あまのじゃくさんのコメントを見ると、ディスカッションの意味を多少間違えているように感じます。
ディスカッションで一番重要とされるのは「相手の意見や考え方を聞いて理解する」ことで、
>ディスカッション(ディベートではなく)における「誠実さ」とは「全ての疑問に答え、全ての疑念に突っ込む」事です。
正直こうした考えをディスカッションでの誠実さと考える方はまずいないと思いますし、
ディスカッションの場で本当にこのような態度(特に全ての疑念に突っ込む態度)をとると無視されるか嫌われるだけだと思います。
少なくとも、ほとんどのディスカッションでは参加者に「共感」もしくは「納得」を持ってもらうことが一番重要な目的とされています。
そもそも、ただの意見交換でもディスカッションそのものは普通に成り立ちますので反論が必ずしも必要と言うことではありません。

投稿: COM | 2011年6月29日 (水) 23時39分

あまのじゃくさん、昔公務員さん、COMさん、コメントありがとうございました。

昨夜の私からのレスの延長線でとらえれば、このように多様なご意見を寄せていただけることが非常に貴重な機会だと思っています。つまり絶対的な「正解」を私は、この場では判断しません。それぞれ書き込んでいただいた内容を閲覧されている皆さんが、どのように受けとめるかが重要なポイントだろうと考えています。

納得できない指摘の場合、個別に反論されること抑えるつもりもありません。このコメント欄では誹謗中傷の類いではない限り、おおらかに持論を述べ合えることを望んでいます。要するに議論にならなくても結構だと思っています。ぜひ、そのようなアバウトな場であることをご理解いただき、それ以上でも以下でもないことをご理解賜れますようよろしくお願いします。

以上のレスで終わると、あまのじゃくさんからの最後の質問をスルーしたことになります。ただ耐えられるかどうかの評価は分かりませんが、その質問に対する私なりの「答え」を記事本文を通して綴っていました。やはり端的に答えようとすると誤解を招きますので、その時の記事を紹介し、レスに代えさせていただきますので、よろしくお願いします。

2010年8月8日(日) 国債問題に対する私見
http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2010/08/post-aacf.html

投稿: OTSU | 2011年6月30日 (木) 00時22分

私はこの場で厳しい追及をするつもりはありません。OTSUさんの方針を知っているからです。誤解なきよう。

最後の「質問風」も答えて貰うというより、ご自分の頭の中で自問自答して戴ければそれで結構。

投稿: あまのじゃく | 2011年6月30日 (木) 11時34分

素人考えの一般庶民から見ておりますと、昔公務員さんの言われる
>公務員は「ディスカッション(政治による)」において決められたことを忠実に実行することが任務
が正しい公務だろうと思います。

しかし、正しい公務が行われていると本当に皆さんお思いなんでしょうか?それは建前ではないですか?
箱モノ行政主義の真っ最中に将来への借金のツケに対して税収や予算に対して一番情報を持っている公務員同士でディスカッションする必要性はないのでしょうか?
天下り先を増やす事に対して、危険だからと窓口手当を作ることに対して、縦割り行政と言えばそれまでですが、その意識のままで同じ公務員同士性善説で口を挟まないのではなく、公務員同志こそもっとディスカッションするべきだと思います。

でないと議員に対しての資料や情報もいくらでも恣意的にできてしまいますから。計画停電のようにw

投稿: 青二才 | 2011年6月30日 (木) 20時32分

あまのじゃくさん、青二才さん、コメントありがとうございました。

あまのじゃくさんのお考えからすれば、物足りない場だろうと思っています。それでも当ブログに対する私の一つの「答え」に対し、ご理解いただき、ありがとうございます。ぜひ、これからも、このような場であることを飲み込んでいただきながら、お時間が許せる範囲でお付き合いくださるようよろしくお願いします。

青二才さんのご指摘に関してですが、確かに大きな方針は政治の場で決められていきます。しかし、日々の公務を執行する際、公務員同士で喧々諤々の真摯な議論を交わす場面も決して少なくありません。その他のご指摘についても、きめ細かく説明すべきなのかも知れませんが、青二才さんは「そのように見ている」という意見表明がされたものと、この場では理解させていただきます。

投稿: OTSU | 2011年6月30日 (木) 23時07分

 ずっと気になっていたんですが、あまのじゃくさんが使っている「ディベート」と「ディスカッション」。
用法が逆だと思うんですが。

wikipedia(ディベート)によれば
「ディスカッションとディベートとは、意見対立の有無という点で異なる。ディスカッションとは、ある公的な主題について議論することをいうが、それに加えてディベートでは当事者間の意見対立が前提とされる。例えば、ある公的なテーマについての単なる意見交換は、ディスカッションとしてならば成立する余地があるが、ディベートとしては成立しない。この帰結として、意見対立を何らかの形で解消する必要がある場合には、ディベートでは第三者に、ディスカッションでは当事者に、その役割が期待されることとなる。
なお、単なる議論では、通常、主題の特定は必要ないし、それが公的なものである必要もない。また、意見の対立が前提されない議論も、議論と呼びうる。以上のことから、ディベートは、ディスカッションの一種であり、議論の一種でもあるともいえる。他方、ディベートとはいえないディスカッションや議論もあり得ることになる。」

 とされています。あまのじゃくさんの議論では、必ず自らの持つ「正解」から派生した意見のみが示されており、相手方との意見対立を前提としていますし、また意見対立を当事者同士で解消することを意図していません。以上から考えれば、あまのじゃくさんの議論は「ディスカッション」ではなく「ディベート」によるものかと思います。

 ちなみに、あまのじゃくさん意見そのものにはどうこう言う気はありません。ただ、議論がただただループしているなあとは思いますが。

投稿: FAZZ | 2011年7月 1日 (金) 01時27分

ははは、妙な所(?)で盛り上がってます。言葉の使い方ですので敢えて承るだけにしたのですが、お二人から指摘されたので説明を。

『1年後に火星人が攻めて来て、地球人を奴隷にしようとしている』

あなたがこの情報を知ったらどうします?
「地下壕をつくろう」とか「核ミサイルを準備しよう」とか「逆にこちらから攻めよう」とかの意見が噴出するでしょ?
これは「ディスカッション」です。
「奴隷になりたい」と「奴隷になりたくない」の意見対立ではないからです。

「神に祈る」とか「女房に愚痴る」との意見に「お前はアホか」とは言いません・・とOTSUさんにお約束しただけです。

『1000兆円の借金があって、このままでは財政破綻するぞ』

これに対して「ディスカッション」を求めているのです。
「あまのじゃくの意見に言う事はありません」では・・少々困るのです。
「あまのじゃくの意見なんてレベルが低すぎて解決策にはならない。俺の意見はこうだ!!」が今必要なんです。

私は本丸の「ディスカッション」で盛り上がるのを期待してます。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 1日 (金) 09時03分

あまのじゃくさん、返信をしていただいてありがとうございます。
その上で未だに誤解されている所があるようなので、もう少し詳しく説明したいと思います。

根本的な問題として、そもそもディスカッションでは何が正しいかを決めることを第一目的として行う討論ではありません。
結論を出す必要はありませんし、主題を決めれば改善策を主張するものでもなく、感想や返答を語るだけでも成立します。
例えに挙げた火星人の話をするなら、「そんな話は信用ならない」と言おうが「できることはない」と言おうが成立します。
非常に味気ないと思われるでしょうが、元々ディスカッションは多種多様な意見を聞いて考え方を理解するための集まりなのです。
もちろんより良いものを目指すことを副次的な目的として設定してあるものは多いですが、
それにも暗黙の了解として多種多様な価値観を理解し、他人の主張や考え方を真っ向から否定しないことを前提としています。
ですから、「あまのじゃくの意見に言う事はありません」でも一応の理解としてディスカッションが成立しています。

その上で、あまのじゃくさんが考えている盛り上がる(改善策や案を出してくれる)ディスカッションを作り上げるのであれば、
あらゆる人間に有意義な意見を述べたくなるような場を作ることが重要です。
①事実・価値観・思い等を強要しない。対立した場合どちらも正しい(少なくとも一理ある)と考える
(理由・強要すると様々な意見を聞けなくなったり、議論が進まなくなる。また柔軟な発想が生まれにくくなる)
②否定的な意見を述べるときは、相手の考える事実や価値観を傷つけないように注意する(理由・①とほぼ同じ)
③結論を決めつけない(理由・多様な意見を求めるディスカッションではどれが正しいかを決めることに向かない)
例として財政問題を語るのであれば、まず結論を決めつけない為に「このままでは財政破綻するぞ」の文言を消して
「あなたならどのような方法でどんな財政状態を目指すか?」といった形式にしたほうが有意義な意見が出やすいでしょう。

長々と述べましたが難しく考える必要はありません。現実社会で友人に助言を仰ぎたいときにとるべき言動を考え、
その上に相手の意見を阻害しないように気を使えば自然と良い態度を保つことができるでしょう。

なお、ディスカッションとディベートは多くの違いを持つ一方、共通点として「絶対的な正しさは一元化できない」と考えるところにも注意を要します。
特にディスカッションでは少なくとも提言者はある事実(と感じること)を決めつけない態度が絶対に必要です。
私見ですが、こうした点においてOTSUさんの姿勢はディスカッションの司会役としてとても参考になると感じました。

投稿: COM | 2011年7月 1日 (金) 21時22分

FAZZさん、あまのじゃくさん、COMさん、コメントありがとうございました。

自分自身の思うところは発信してきました。したがって、直接的な問いかけではない場合、閲覧者の一人として興味深くロムさせていただいています。その上で一言だけ、COMさんのコメント内容の方向性が私の問題意識と相通じ、とても丁寧な説明に感心しています。

今晩、少し(?)酔いも残っているため、本当に一言だけとなりますが、明日か明後日に投稿する新規記事の中で、改めて当ブログについて掘り下げてみる予定です。ぜひ、またご訪問いただければ幸いです。よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年7月 1日 (金) 23時39分

 ほとんどCOMさんのお話で言い尽くされていますが、若干追加を。

 ディスカッションでは、途中で参加者の意見が変わることは妨げません。
例えば、Aさんが「地下壕を作ろう」→「核ミサイルを作ろう」に変わってもかまわないし、「核ミサイルを配備しつつ地下壕を作ろう」になることも許容されます。
 (もちろん、定見無く変わると議論が成り立たない可能性があります)
 一方でディベート(特に競技ディベート)では、もともと意見対立が前提とされていますので、参加者の意見が中途で変わってしまうのは問題があります。その意味では自らの「正解」にこだわるあまのじゃくさんの議論は「ディスカッション」的ではなく「ディベート」的です。
(個人的には意図的に混同させているのではないかという疑念が抜けませんが)

 (追記すると、ディベートの意見対立は、それぞれの意見が背反することとは限りません。例えば、「夕食後飲むべきは」「ビールであるべきか」「ワインであるべきか」でもディベートは成立します。)

 ついでにいうと、「あまのじゃくさんの意見に言う事はありません」というのは、あまのじゃくさんの意見そのものには興味がないということです。どうせループだし

投稿: FAZZ | 2011年7月 2日 (土) 07時28分

困りました・・。ディベートもディスカッションも「成立」する事自体は簡単です。どんな意見も意見は意見。

その中の意見でどれが正しいかを「自分の頭」が判断するのがディスカッション。更に付け加えると「全体の総意として、どれが正しいかを決める作業」は「議決を取るか否か」の問題で、ディベートやディスカッション本体とは別の次元の話でござる。

この辺で宜しいでしょうか。

それと「1000兆円の借金問題」は「私の問題」ではなく「皆の問題」なのですよ。
ついでにいうと、興味を持つべきは「あまのじゃくの意見」ではなく「1000兆円の財政赤字問題」でござるよ。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 2日 (土) 09時34分

 ここまで前提が異なる(故意に?)と、正直これ以上やっても無意味かとは思いつつも・・・
 「その中の意見でどれが正しいかを「自分の頭」が判断するのがディスカッション」などという考え方を少なくとも私は聞いたことがありません。
 私が理解するところでは、ディスカッションにおいては「正しい」かを「自分の頭」の判断にとどめておいてはいけないのです。積極的にディスカッションの場に提示するとともに、また自分の中の「正しい」ことが場の議論を受けて替わること、「正しい」ことが「誤った」ことになることも厭わないことが必要なことであると思います。
 また、「全体の総意として、どれが正しいかを決める作業」が必須だとは、私もCOMさんも主張していないはずですが、これは一体なんでしょうか?

 ついでに言えば、「それと「1000兆円の借金問題」は「私の問題」ではなく「皆の問題」なのですよ。
ついでにいうと、興味を持つべきは「あまのじゃくの意見」ではなく「1000兆円の財政赤字問題」でござるよ。」ですが、それを理解した上で「あまのじゃくさんの意見」には興味がないといっているわけです。あしからず。

投稿: FAZZ | 2011年7月 2日 (土) 23時08分

FAZZさん、あまのじゃくさん、おはようございます。コメントありがとうございました。

実は次に投稿する記事が400回目を迎えます。そのため、今回記事のコメント欄で交わされたご意見などを踏まえ、改めて当ブログの目的や位置付けについて掘り下げてみるつもりです。昨夜、少し取りかかりましたが、「明日も時間が取れる」と考えてしまうと早めに寝てしまい、投稿までに至りませんでした。

この場でお二人のコメントについて、具体的な論評や感想は控えさせていただきますが、新規記事の中で関連した思いを綴る予定です。ぜひ、またご訪問いただければ幸いですので、よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2011年7月 3日 (日) 07時58分

全てを踏まえて「あまのじゃくの意見に興味を持つ必要は無い」です、悪しからず(笑)。

人は自らが正しいと信じて発言し行動する。この程度の人間観察力すら持っていないらしい。
「信じる正しさ」が変われば発言や行動も変わるのがディスカッション・・といった説明を繰り返している事自体、ディスカッションの本質を理解していない証左とも言える。
そんな話はディスカッションはおろか、全てに当てはまるからだ。
同時に私が「1000兆円の財政赤字の解決」に拘ってる事も理解できていない事がよく分かる。

間違っているのは前提じゃなく・・(笑)。

因みにCOMさんは「ディスカッションは結論を出す必要はない」と書いています。逆に見ると「あまのじゃくはディスカッションは結論を出すものである」と主張していると理解されているとしたら、「参加者の中で(総意として)どの意見が正しいか」を決めるのは「ディスカッション本体」とは次元の違う話です・・と「COM」さんにお伝えしたのです。

OTSUさんやCOMさんが主張する「正しさの追求にも緩急もバリエーションもある」という主張はその通りです。
COMさんの表現を『様々な人(が正しいと考えている)意見を理解するのがディスカッション』に変えてみれば、実は私の言い分とそう変わらないのです。私の場合はトコトン追求しますが(笑)。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 3日 (日) 09時24分

記事が変わるらしいので、こっそり付け加えます。

OTSUさんやCOMさんに見られる優しさが・・
「年金をもっと欲しい」「医療費は下げろ」「介護も充実してほしい」「道路も作れ」「子育てに支援を」
こういった要求に「財政を考えたら、そんな事が出来るか!」という「強い糾弾」をソフトにし、結果的に巨大な財政赤字の遠因になった事は確かでしょう。

繰り返すように「優しさと残酷さは表裏一体で紙一重」でござる。

投稿: あまのじゃく | 2011年7月 3日 (日) 09時37分

あまのじゃくさん、いつもコメントありがとうございます。

新規記事を投稿しましたが、このコメント欄でのやり取りも踏まえた内容となっています。何か補足したい点などがありましたら、新規記事へお寄せくださるようお願いします。と言いながら、暖簾に腕押しとなるような記事本文で恐縮ですが、ご理解ご容赦ください。

投稿: OTSU | 2011年7月 3日 (日) 17時08分

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