リーダーシップのあり方は?
金曜の夜、自治労都本部の旗開きに参加しました。自治労本部委員長、連合東京会長、国会議員や自治体首長ら来賓挨拶が多数あり、乾杯まで1時間近くかかります。立ったまま耳を傾けている訳ですが、それぞれ興味深い話が披露されるため、それほど苦痛とは思わない時間でした。挨拶に出てくる話題の中では、やはり菅政権に対する辛口な注文が示されがちでした。
その中で、菅政権への直接的な批判ではありませんでしたが、田中良杉並区長の言葉が最も印象に残りました。田中区長は昨年、民主党の都議会議員から杉並区長に転進された方で、区政を進めるにあたっての心構えが示されました。要約すると、部下が一人でも反対する施策であれば、立ち止まって考え、全員から納得を得られるように努めているというお話でした。さらに「下意上達」を歓迎していると述べられ、職員一人ひとりを大事にした組織運営の丁寧さが伝わってきました。
だからと言って、杉並区政が停滞しているような話は耳にしません。トップの独断で物事を即決していくほうがスピード感ある行政運営であり、そのことが選挙を通して得た住民からの負託に応えていく政治主導という見方が成り立ちます。しかし、政策判断する際、必ず多面的な検証が欠かせず、肯定的な評価と表裏一体のマイナス面の有無についても見極めなければなりません。
そもそも多種多様な行政における様々な情報や問題点を首長一人で、すべて適確に把握できる能力は持ち得ないはずです。中にはオールマイティーな知識や識見を兼ね備えたスーパーマンのような首長もいらっしゃるのかも知れませんが、得意分野がある一方、門外漢だった領域もあるほうが一般的な姿だろうと思っています。したがって、田中区長のように部下の言葉を謙虚に受けとめていく姿勢は、首長に求められている大事な資質の一つであるものと感じています。
また、トップダウンで決められた事案よりも、部下の意見も踏まえて意思決定された事案のほうが結果的に素早く実施できるケースもあり得ます。瑕疵や否定的な側面が残った条例案だった場合、議会で否決や修正を求められるからです。万が一、そのチェック機能が充分果たされず、問題点をはらませたまま政策が実行された時、迷惑を被るのは住民の皆さんとなります。
そのため、一つの案をまとめる際、幅広い視点から問題点の有無を検証できる意思決定の過程が非常に重要であることは間違いありません。さらに上司の顔色をうかがうことなく、部下が「非は非」であることを率直に指摘できる組織のほうが健全で、自治体の執行機関に限らず、あらゆる組織に求められている運営のあり方だと考えています。私自身、市職員労働組合という組織の責任者として、そのような心構えを常々意識しているため、田中区長の言葉が印象深く刻まれたようです。
この心構えと間逆に位置付けられる筆頭として、阿久根市の竹原前市長を多くの方が思い浮かべるのではないでしょうか。実は最近、菅首相に対してもリーダーシップの発揮の仕方が誤っているように強く感じ始めています。正直なところ最近と言うよりも、総理大臣になってから徐々に芽生えている残念な思いと歯がゆさの主因であるように見ています。菅政権が発足した直後、このブログでは期待を託した内容(“強い財政への雑感”や“もう少し「第三の道」の話”)を綴っていました。
前回記事「2011年、兎年に思うこと」のコメント欄で、高田さんから現政権は「理念なき集団」という厳しい意見などが寄せられました。それに対し、私からは「第三の道」や雇用政策の重視など基本的な方向性を一定評価しながらも、「理念がないように見られがちであり、つぎはぎな面が多々あることは否めず、たいへん歯がゆさを感じています」とお答えしていました。加えて、言葉足らずの点などは次回以降の記事で掘り下げることも記していました。
そのような位置付けを想定しながらも、田中区長の挨拶からリーダーシップのあり方について話を続けてきました。したがって、今回の記事では民主党の理念や政策面の評価まで手を広げず、菅首相のリーダーシップ発揮の仕方について、個人的な感想や要望を書き添える内容に絞ることとしました。なお、一国の総理大臣に対し、このような話をネット上に掲げることは僭越で、非礼なことだろうと思います。それでも菅首相に期待している一支持者の声として、ご本人にも届くことを願いながら綴らせていただきます。
前述した内容の繰り返しとなりますが、トップ一人の価値感で物事を決める場合の危うさを謙虚に受けとめるべきものと思っています。最終的にトップの決断が尊重されなければならない局面もあるはずですが、最低限、自分の足元である民主党内での意思一致を果たしてから外部へ発信して欲しいものと願っています。消費税やTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の問題などが顕著な例としてあげられます。
小沢元代表の「政治とカネ」の問題は、それこそ党内で見方が二分されています。小沢元代表を擁護する声にもしっかり耳を傾けた場合、今のような「小沢切り」の強硬な姿勢には立てないはずです。もちろん、明確な「悪」を擁護することは論外です。しかしながら検察の意図的なリークなどで、マスコミがかもし出してきた「何となく悪いことをしてそうだ」という雰囲気に流されることは明らかに問題です。いずれにしても「小沢切り」が支持率回復の切り札だと考えているとしたら残念な話です。
自治体の首長とは比べられないほどの責任を持つ領域の広さが総理大臣には背負わされています。財政、外交、防衛、社会保障など多岐にわたる課題に対し、待ったなしの判断が求められていきます。だからこそ、専門分野に長けた官僚や有識者、各層の当事者からの声を日常的に吸い上げられるような仕組みを築いて欲しいものと願っています。「情報が入らない」とぼやきが出るような首相では、たいへん心もとない話だと言わざるを得ません。
「総理は最近、吹っ切ったようであり、これからは自分のやりたいようにやる覚悟を決めている」という話が伝わってきました。「ぶれている」「何をやりたいのか見えない」「実行力がない」などという批判の声を意識し、そのような決意を固めたものと見ています。しかし、現在の菅首相に対しては上記のような懸念点があるため、その覚悟はもっと混乱に拍車をかけるように思えてなりません。ぜひ、自分一人で決めることが強いリーダーシップの発揮だと考えないよう謙虚に幅広い意見に耳を傾けながら、丁寧な党運営に努めて欲しいものと心から願っています。
今回の記事も長くなりましたが、最後に一言。丁寧な党運営に努めることは、多岐にわたる課題の意思決定ができず、結果的に国政が停滞するという批判も示されるのかも知れません。しかし、民主党国会議員の背には多数の国民の声があることも押さえなければなりません。そのように考えれば、民主党内での合意形成がはかれないような法案などは、やはりどこか大きな問題点があるものと見るべきなのではないでしょうか。同時に菅首相の発する言葉が、常に党内から批判されるような構図こそ、冷ややかに見られがちな現況であることも指摘しなければなりません。
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コメント
リーダーにしか出来ない事、それが「決断」でしょう。そして決断に対して結果責任を負う。
これが「基本骨格」であろうかと思います。勿論「今は決断すべきではない」と決断する事も「決断」であろうかと思います。
その基本骨格に対して、(出来るだけ)正しい決断が出来るように附帯条件を付けて行く。この事に全く異論はありません。
しかし、附帯条件に囚われるが余り、決断すべき時に決断しない・・つまり基本骨格を違える事は大変悪い。
誰が正しい決断が出来るのか分からないのです。正しい決断を知っているのは神様だけである。だから人類は「民主主義」を選択したのです。
何時ぞやの議論のように「選ばれた市長」の行動が気に食わないからと言って、「どこかの権威者」が介入出来る・・つまり「屋上屋を架す」のなら、「民主主義」ではなく「権威主義」でやれば宜しい。
権威者が正しい決断が出来るのなら、総理も議長も議員も全て「権威者」にお任せするのが正しい。
正しい決断を知っている権威者が、自分の良心に従って自由に決める・・つまり権威者が恣意的に決断する事こそ正しい。
「ご都合主義的に権威者が介入できるが、その場合も恣意的に介入出来る訳ではない」などという「二重の誤謬」の論理など論外だ。
公務員の多くは真面目だろう。能力も高いと思う。余りの愚かさに「愚民思想」に傾く気持ちも分からないでは無い。
しかし「RISK」は「取る」ものであり「避ける」ものでは無い。避けてばかりいると、トンデモナイ所に漂流するだろう。それが「今」だ。
最後に「TPP」についてのご意見を伺いたい。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月11日 (火) 12時26分
自治労・傘下団体、パーティー券で「脱法献金」
地方公務員らの労働組合「自治労」出身の民主党参院議員・江崎孝氏(比例選)が、2009年に資金管理団体
主催の政治資金パーティーを開いた際、約300人収容の会場に対し、約2000枚ものパーティー券(1枚1万円)を
自治労やその傘下団体などが購入していたことがわかった。
枚数の割り当ては自治労本部が決めていた。
政治資金規正法は、資金管理団体が労組などの団体から献金を受けることを禁じている。
出席した300人分以外は、パーティー券購入を装った献金と取られかねず、識者は「政治資金の透明性を
害する脱法行為」と指摘する。
自治労や江崎氏によると、江崎氏の資金管理団体「えさきたかし後援会」は09年8月25日、自治労の定期大会が
開かれた熊本県益城町の展示ホールで、「後援会設立記念パーティー」を開催した。
その際、自治労が各県本部や関連企業などにパーティー券を計約2000枚売却したという。
えさきたかし後援会の09年分の収支報告書にも、92の団体・個人がパーティー券を購入、計1978万円余りの
収入を得たと記載されている。
読売新聞の取材で、団体・企業から少なくとも計約1800万円を得たことが確認され、個人が購入したケースは
ほとんどなかった。
しかし、会場となった展示ホールの2階会議室の収容人員は約300人。
取材に対し、自治労本部も「来場者は延べ約300人だった」としている。さらに、同本部はパーティー券購入を傘下団体に
要請したことを認めたうえで、「こうした手法は『グレーゾーン』と指摘されれば、その通りだが法には触れていない。まとまった
政治資金を作るためにはパーティーに頼らざるを得ない」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110110-OYT1T00819.htm
法に触れなければ問題なし。ですか
これはまさに「政治とカネ」に関わる問題であり、労働組合の価値を自らおとしめる行為だと思いませんか?
どうか、あなた様の御見解を賜りたく存じます。
投稿: 全労連系組合員 | 2011年1月11日 (火) 20時30分
あまのじゃくさん、全労連系組合員さん、コメントありがとうございます。
リーダーが「決断すべき時に決断しない」ことを推奨しているように読み取られる内容だったかも知れません。しかし、あまのじゃくさんも最初に述べられているとおり周囲が「(出来るだけ)正しい決断が出来るように附帯条件を付けて行く」という点に重きを置いたつもりでした。その上で、周囲や部下が強く異論を示した場合、改めて自分の判断が本当に正しいのかどうか振り返れる謙虚さや包容力を求めた内容でした。
言葉を補足すれば、リーダーには自分の判断の正しさを周囲に納得させるカリスマ性や調整能力も必要であるものと思っています。確かに物事を右か左か決める時、全員が納得できる答えを出せないケースも多いはずです。それでも重要な問題に関しては、せめて自分の党内は意見を一致させるような努力を尽くすべきだと考えています。つまり党内の機関手続き等を重ねていくことで、自分の答えと違った方針が党として決定されたとしても、組織の構成員としては従わざるを得ないはずです。
最近、その手順や努力が見えないまま、重要な判断が先行して示され、民主党内からも批判が出る事態の多さを憂慮していました。TPPの問題も私へのお尋ねだと思いますが、民主党内でも異論が多く示されています。私自身、絶対反対とまで固まっていませんが、やはり懸念点が残されていることも確かです。農業の課題が焦点化されていますが、その他の分野への影響も想定されています。そのため、規制緩和の流れに功罪があったことと同様、正直なところTPPに対しても身構える気持ちが少なくありません。
続いて、全労連系組合員さんからの質問にお答えします。政治資金パーティー券の購入に際し、読売新聞の報道のような扱いが指摘されるとは考えていませんでした。「グレーゾーン」だとも見ていませんでした。自治労都本部を経て自治労本部の見解がFAXで送られてきました。その中でも改めて政治資金規正法に詳しい弁護士に確認したところ、「合法的かつ適切な処理である」との法的判断を確認したとの報告がありました。したがって、なぜ、読売新聞があのように1面トップと社会面まで使い、自治労のみを「悪者」に仕立てた報道を行なったのか不思議に思っています。とは言え、この報道によって労働組合の価値をおとしめるような事態にならないよう非常に心配しています。
投稿: OTSU | 2011年1月11日 (火) 22時19分
もうOTSUさんには全てが伝わっているでしょうから、独り言を書きましょう。
『リーダーが決断し、その結果責任を負う』
これが基本骨格であり、これが全てだ。
(より)正しい決断が出来るように、次のような附帯条件や修飾語を書きくわえて行く。「謙虚に」「人の話に耳を傾けて」「慎重に」「包容力を持って」「十二分に説得させて」・・。
しかし、極論すると基本骨格が正常に作動している限り、附帯条件や修飾語は不要と言っても過言ではない。
何故ならリーダーは「経過責任」を負うのではなく「結果責任」を負うからだ。
基本骨格が正常に作動している限り、(結果的に)リーダーにそぐわない者は必ず淘汰されるからだ。
何故、私が繰り返し同じ事を書き込むかと言うと、今の日本は基本骨格が壊れてしまって漂流しているからだ。
附帯条件や修飾語が不足しているのでは無い。否、附帯条件や修飾語が基本骨格を凌駕しているとさえ言える。
市長が悪いのなら、その結果責任を問うて不信任やリコールや選挙を行うのが筋だ。竹原氏もこの方向には賛同している。
裁判官が口をはさんだり、ましていわんや、どこの誰かも分からん「○○委員会」風情が市長に命令するなど、基本骨格を壊す物でしかない。
そして基本骨格を問う流れは、もう止まらない。
首相が「決断した事」だけは評価している。しかしマダマダ決断すべき事は多い。憲法改正、日米安保、核武装、Post中央集権・・等々。
TPPは善悪の問題では無い。日本人が困難に立ち向かう勇気を持っているかが問われているのだ。勇気が無いなら鎖国もやむを得ない。
「フードマイレージ」や「地産地消」って言葉があるが、意味が分かります?一種の鎖国政策なんです。
既得権益者の中に知恵者がいて、上手い言葉を生み出した。まあどの辺りかは想像がつきますが・・。
私は鎖国政策が悪いと言っている訳ではない。巨大な借金を背負ったまま鎖国すると(内向きになると)、子孫が大きな荷物を背負い苦しむだけだ。
少なくとも借金を作りだした我々の世代で解決した「後」に初めて(鎖国するかどうかの)選択肢が登場してくるのです。
大きな問題を「見なかった事」にして、わが身の事ばかり考えてはいけない。
その程度の自尊心くらいは持ってもらおう。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月12日 (水) 09時38分
あまのじゃくさん、いつもコメントありがとうございます。
総論としてのリーダーシップに対する個人的な思いを今回の記事で綴りました。その上で、日々、目の前で見させられている現在の菅政権への願いを託していました。本日午後開かれた民主党の両院議員総会の模様も報道されていますが、噴出した批判意見をどのように納得させていけるのか、その手腕をリーダーに求めたいものと切望しているところです。
あまのじゃくさんのご意見とかみ合わないコメントで恐縮です。さらに日記風ブログのような個人的なつぶやきを発する機会をいただき、その意味合いからも感謝しています。ありがとうございました。
投稿: OTSU | 2011年1月12日 (水) 21時46分
OTSUさんへ
全労連系組合員さんのコメントに対し横レスのようになり申し訳ありませんが、
少し意見と質問をさせて頂きます。
先に例示された読売新聞の事例に限らず、自治労という組織は法律上グレーな
部分に敢えて踏み込むような(政治や平和運動と称する)活動を多く行ってい
ます。それに対して自制を望む(少なくとも私の周りにある)内外の声を無視
し続けており、それはこのブログでも過去に散々やりとりがあった通りです。
しかも今回のエントリーでは、
> 部下が一人でも反対する施策であれば、立ち止まって考え、全員から納得を
> 得られるように努めているというお話
上記にOTSUさんは賛同されているし、さらには自身も「下意上達」を歓迎
する意を書かれて結んでいます。
そして改めて新聞記事に戻るのですが、この様なグレーな法解釈に対して自治
労の中からは誰からも反対する声は出なかったのかという疑問がどうしても心
に引っかかるのです。
確かに、記事にもあるように”法には触れていない”との反論があるかも知れ
ません。しかし立法の趣旨を尊重すべき立場の者が語れる理論とはどうしても
思えないし、そう考えるならば公務に携わる適正を欠いていると思うのです。
政治資金規正法が、資金管理団体が労組などの団体から献金を受けることを禁
じているという趣旨と、全労連系組合員さんの発した
> 法に触れなければ問題なし。ですか
というコメントの意味を十分に考えて先日のOTSUさんのレスは不適切だっ
たと反省すべきと思います。
法を尊重しない為政者が話題になる昨今ですが、自治労関係者も立法の趣旨の
尊重からやり直しが必要なのではないでしょうか。
常々疑問に思うのですが、なぜ一般と職員組合関係者ではこうも価値観が掛け
離れてしまうのでしょう。どうしても理解ができません。
弁護士に確認して、いくら「合法的かつ適切な処理である」との法的判断がさ
れていても、それは全く関係ないし正当化の理由にはならないのですよ。
熊本県で開催されるパーティー券を全国の単組が購入したという点、そして定
員が300人の会場にも関わらず2000枚の券が買われたという点、これが
「合法的かつ適切な処理である」という言葉一つで問題ない行為とされる実態
が社会通念上有り得ない感覚だと言われているのだと思いませんか。
他もやっているなどと言わないで下さいね。
もう一つの新聞記事を紹介します。
> http://www.asahi.com/national/update/0111/TKY201101110229.html
疑問の声は現実にはあったようです。でもOTSUさんが理想というように自
治労という組織が、一人でも反対すれば立ち止まるものならば、今回の様な事
態は起らないはずです。
だからOTSUさんに質問です。自治労という組織は、実際には組合役員の顔
色をうかがい組合員が「非も是」であると黙認してしまう組織なのではないで
すか。
最後に今回の「リーダーシップのあり方は?」という記事ですけれど、OTS
Uさんにだけは言われたくないと考える組織の長は数多いと思いますよ。それ
くらい自分と自分が属する組織が見えていないように思えてなりません。
全労連系組合員さん
横レスしてすみませんでした。
自治労に属する単組から除名されており、今は管理職となったため自治労とは
既に関係のない私ですが、この様に考える自治体職員も少なくない数居るとい
うことはご理解頂きたいと願っています。
投稿: 組合嫌いの管理職 | 2011年1月12日 (水) 23時42分
組合嫌いの管理職さん、おはようございます。コメントありがとうございました。
まずリーダーシップのあり方ですが、組織の規模が大きくなればなるほど、構成員全員が同じ考えで一致することは難しくなります。杉並区長の趣旨も、私自身の記事内容も方針の土台を議論する執行機関における心構えを想定しています。
その上で一昨日のコメントで記した「党内の機関手続き等を重ねていくことで、自分の答えと違った方針が党として決定されたとしても、組織の構成員としては従わざるを得ないはずです」という民主的な進め方につなげるべきものと考えています。つまり多数決などで決めた場合、構成員すべてが賛同していない案件も組織としての意思となり得る現状も理解しています。
組合嫌いの管理職さんの自治労組合員だった頃の事情は、これまで再三教えていただきました。自治労の立場や運動を真っ向から否定されていたことも充分承知しています。その一つとして、組合活動の中に選挙への取り組みがあることへ強い反発を示されていた経緯も承知しています。
そのような趣旨の指摘に対し、私自身からは「法的にも認められた範囲内で、組合活動の範疇として取り組むべきもの」とお答えしていました。その答えも組合嫌いの管理職さんにとっては残念ながら「グレー」だったのだろうと思います。しかしながらパーティー券の問題と同様、違法性の高い認識があった場合、そのような答えは行なえません。
制限速度40キロの道路を45キロで走行した場合、摘発されないかも知れませんが明らかに「違法」です。パーティー券を団体が購入することは「合法」とされながら、突然「違法」と言われれば戸惑います。自治労の熊本の例も、自治労大会が開催された時のパーティーだったものです。実際には「出席しないことを前提に購入した」ケースが圧倒多数を占めてしまっていますが、「熊本県で開催されるパーティー券を全国の単組が購入した」という批判は少し外れています。
「政治資金規正法が、資金管理団体が労組などの団体から献金を受けることを禁じているという趣旨」のご指摘に対しては、改めて率直に考えなくてはならないものと受けとめています。法律論や運用面から掘り下げる課題だろうとも思いますが、自治労が率先して「今後、やめます」という判断もあり得る話かも知れません。
投稿: OTSU | 2011年1月13日 (木) 08時17分
パーティ券の話を聞いて「そんな面倒な事せずに、直接献金すりゃ良いじゃないか」・・と考えた、知識も認識も欠いている私が言うのも何ですが・・(笑)。
次は堺屋太一氏の意見です。私も同感する。
人は自分の得意な分野で政治に関わり、政治的主張をするものだ。体力と時間が余っている者はボランティアとして関与し、文筆業の人は文章で関与する。体力も時間も得意技も無いが、お金を持っている者はお金を通じて政治に関与する。
ボランティアは美しい行為で、献金は汚い行為・・というのは変な話だ。・・というのである。
「見返りを期待する事」が悪いのなら、当然ボランティアも含めて全ての分野で制限すべきだろう。
それ以上に「純粋な者しか政治に関与できない」という考え自体に与する事ができない。
何を問題視しているかが分からずに、つい書き込んでしまいましたが、若し議論が自治労内部の意思統一の問題なら、私の関与する話では無いので忘れてください。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月13日 (木) 10時43分
言葉足らずだったので補足。
賄賂などで「まつりごと」を捻じ曲げる事は良くないし、金によって疑念を持たれないよう心がけてる態度は立派だ。
しかし同時に「献金をことさら貶める」発想も(同じ位)危険だ。
「政治と金」と何回も繰り返す内に、「献金=悪」という情緒的全体主義(ファシズム)が広がれば、失う物は遥かに大きい。
既に(私から見ると)同じ事が起きている。「法治」「独裁」「ルールを守れ」「人権」「障害者を軽んじるな」「対決より対話」・・これらの情緒的言葉遊びをしている内に、本当に大切な物を見失っている。否、寧ろ、不都合で巨大な問題を封印する為に、情緒的言葉遊びをしている・・と表現した方が正確だな。
阿久根市議会で「情緒的言葉遊び」に信憑性を持たせようと「泣いた馬鹿」が2名いたそうだ。竹原氏が「子供がいたずらして怒られる時に流す涙と同じだ」と喝破しているが、相当幼稚化しているのは間違いない。まあ竹原氏の対抗馬は「幼さと狡さ」を併せ持っているようだが・・(笑)。
「日本の大きくて深刻な問題は何か?」「政治家や公務員とは何をする人達なのか?」「リーダーには何が求められているのか?」
これらの事を大きな視野を持って考える「しか」ない。
若し「パーティー券のような事をするから、公務員や自治労が批判される」と本当に考えているなら「視野狭窄」に陥っているのは間違いない。
全く逆だ。批判されているからパーティー券が記事になった。パーティー券を改善しても、他の何かが記事になるだけだ。
だから上の3つの問題に絡めて、公務員(国民や議員や政治家達も)は何をすべきなのかを広い視野で考える「しか」ない。
この事を本当に理解しているのは、(一見)私と対極に居ると思われるOTSUさんだとは何とも皮肉な話ではある(笑)。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月13日 (木) 16時09分
あまのじゃくさん、コメントありがとうございました。
最後の「本当に理解しているのは…」のくだりは買いかぶりな面があろうかと思っています。それでも、あまのじゃくさんの言葉や見方に今まで「なるほど」と感じる場面も少なくありませんでした。今回も自治労に対して「批判されているからパーティー券が記事になった」というご指摘は、「批判されているから」に関しての見方は異なっても自治労だから記事になったという思いは私自身も抱いていました。
いろいろな意味で、「なぜ?」が先行せざるを得ない「この時期の読売新聞の取り上げ方」という疑念が拭えていません。このように書き連ねてしまうと、また強い批判にさらされるのかも知れませんが、現時点での率直な気持ちでした。火中の栗を拾うような恐れもありますが、次回の記事はこの問題を取り上げてみようと考えています。
投稿: OTSU | 2011年1月13日 (木) 21時56分
「権力志向」「覗き見趣味」「大衆迎合」の権化である新聞に「なぜ?」と言葉を発しても「やまびこ」が返ってくるだけでしょう(笑)。
紙面に「あき」があったから。強いて言えば「公務員改革の露払い」。
芸術家→経営者→市民→政治家→公務員の順で変化する。もうじき政界は再編成されるでしょう。そして殿(しんがり)は公務員改革。これは「不可避」です。
この国は良くも悪くも「お上」の国ですね。つくづく感じます。公務員を改革しないと(改革は)完結しない。
私が「無意識に」このHPに書き込んでいるのも、公務員諸氏にその(改革の)重要性を伝えたいからなのかもしれません。(本当に無意識ですから不確かですが・・)
火中の栗は「わしづかみ」が「正解」です(笑)。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月14日 (金) 09時31分
え~、民主政治というのは、「正しい政策を実行する優れた独裁者(と、そこへの権力集中)よりも、間違うことがあっても権力分立の下で、合議による決定を下す方が、より良い政体である」という価値観が根底にある筈で、『あえて、手間と時間をかけて、物事を決めて進めていく。多少は振子が振れても(結果としての後知恵では、時間を浪費しただけだったり、政策的に迷走を繰り返したりしても)、少なくとも振子が振り切れないようにする。』のが本質的な部分ではあるっしょ。
とは言いながら、”何事にも限度はある”とも思いますけど。
ただ、今の内閣総理大臣は、「民主主義=期限を区切った独裁」発言とか「立法機関と行政機関の権限の分立と、議院内閣制下での両者の結合密度や調整・協働関係」への理解とか、、、”ある意味で危うさを内包する”価値観とか統治論が垣間見える点について、危惧を抱いたりもします。
また、政治(政治家というべきか?)の現状が”戦前の政党政治が崩壊する過程に類似している”という危機感が個人的にはありますね。当時の”軍部”に相当するものが、現在では”なに”なのかは判りませんが、、、。
少なくとも政党(政治・国会)の側の状況は、”戦前の政党政治の崩壊過程からは、議員は(或は議員を選び出す権能を唯一有する有権者も)、何も学んでないのかな。。。”という感想を抱かないでもなく。。。。
※ちなみに、私は前回の衆院選終了時点で、”何らかの増税無しでは、多分、平成23年度予算は編成不能だろう。マニフェストの完全実施に一切の妥協をしないなら、平成22年度予算だって編成不能。”と思っていたので、今後の国会審議で”増税項目が散在する予算案”が”予算”となり、”執行のために必要な法律の改正法案”が”改正法”となるかどうかを注視してます。
----ところで、パーティー券の関係
まぁ、「法的に問題がない=完全な黒ではない≠完全な白である」ですから、「法的に問題がない」という”個別事案毎に濃度の異なる、非常に広汎な領域を包含する概念”としては、正しいのではないでしょうか。
いや、当該議員の関係者や自治労本部の対応については、「違法でなくても脱法的だし、社会通念に照らして問題のありすぎるやり方」だとは思うんですけど、照会を受けた弁護士先生の回答も間違いでないと言えば間違いでないだろうと。
だからといって、「300人しか動員しない心づもりでも、せめて1000人収容できる会場を使えば、1000枚のチケットを売り切ることが出来たとしても、現状よりはもう少しは理があるでしょう」けど、最初から300人収容の会場を用意するなど報道されている通りの実情なら(というか、最大300人動員の計画で、1000枚のチケットを売る事自体が)、ちょっと賛同できない。
ただ、こうした割り当てとかって、上部団体から割り振られた数を淡々と捌くのが下部団体のつとめみたいなところがあって、上部団体レベルでの全体としての割り当て数量なんて、下部団体では知らないし、知らせて貰えないみたいな部分があってもおかしくは無いでしょうけど。(そう言う組織風土に対する是非の論点とは別として。)
投稿: あっしまった! | 2011年1月14日 (金) 10時10分
『リーダーが決断し、その結果責任を負う』
この主要項目・・つまりリーダーの選択と結果責任の追及に「市民が主体」になる制度が民主主義ですね。
リーダーが1人で決断するのか、複数の合議で決断するかは方法論・・つまり附帯条件です。
決断すべき立場の人・或いは合議体に対して、市民が主体的に選択し、責任追及できるかが民主主義では大事です。
戦前の広田弘毅内閣において「軍部大臣武官制」が復活します。陸軍海軍大臣は軍人の大将級でなければならない・・という制度。
政策の決定過程に「市民が主体的に選択・責任追及できない人達」が入ってきた。
戦後アメリカは、この制度の復活が日本を戦争に駆り立てたと判断する。民間人で唯一絞首刑に処された広田弘毅は制度復活の首謀者として殺された・・と噂されている。
今で言えば「市民から審判を受ける市長の決定」に「市民から審判を受けない裁判官」が決定を変更できる事に相当します。
仰る通り、本当に戦前の過ちに学んでいない。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月14日 (金) 17時01分
>「市民から審判を受ける市長の“(違法な)”決定」に「市民から審判を受けない裁判官」が決定を変更できる事に相当します。
それ自体は何も悪くない事ですね、日本は立法・行政・司法がそれぞれ権限を持ってお互いを監視しあう仕組みですから。
戦前の軍隊が批判されているのは議会が法的に正しい処置を行い司法がその処分を認めても、
軍部が三権の上で実質的な拒否権を所持したから問題視されているのですよ。
投稿: ブラック反対派 | 2011年1月14日 (金) 19時16分
>軍部が拒否権を所持していたから問題視
?多分、統帥権干犯問題の事を指しているのでしょう。
問題の本質は同じです。まあ当時は陛下が「生き神様」という特殊な時代でした。軍の統帥権は陛下が持っておられるから、国民(及び国民が選択した人達)の干渉は許さない。
この部分だけ民主主義から逸脱していた。
軍部大臣武官制と構造は同じです。他の事を指しているなら話は別です。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月14日 (金) 20時43分
以下のようなものの見え方もあるという程度で。
”統帥権干犯”論が政治の舞台に登場した発端は、当時の野党が当時の与党を攻撃する政争の手段・(決して政策論や統治論ではなく)政局として帝国議会(今でいう国会)の場で、政権批判として持ち出したのであって、軍部が創造した概念では無いという歴史的経緯がある筈。
与野党が二大政党だった当時、政党が政策ではなく政局や政争に現を抜かして、(おそらく自覚の無いままに)政争の具にしてはいけないものを政争の具にしてしまったという話で。
で、最初に”統帥権干犯”論を持ち出した当時の野党は、政権の奪取に成功するものの、『軍部に”統帥権干犯”という(当時の政治体制下における)万能の魔法の杖を与えてしまう結果となり』、政治が軍部を押さえる術を無くしてしまったと。
で、結果的には、与党となった当時の野党の党首が暗殺されて、戦前の政党政治は終わってしまう訳でしょ。
そこには、帝国憲法が本質的に内包していた”拙い部分”が顕在化したという側面は確かにあったけれど、その引き金を引いたのは、”政争や政局に現を抜かした政党自身”であって、『戦前の政党政治は、自壊した。少なくとも崩壊の最初の引き金は、政党自身がひいた』という側面が確かにあるという話で。
背景には、国民生活の困窮等々の重要な内政問題をないがしろにして、政争ばかりやってた政党に愛想をつかした国民が、”統治論的には正当である筈の政治勢力より、軍部を支持した”という側面もあったのは事実であるけれど、それとて”政党自身による政党政治の自壊現象の帰結”という視点だってある訳で。
投稿: あっしまった! | 2011年1月14日 (金) 22時14分
あまのじゃくさん、あっしまった!さん(お久しぶりです)、ブラック反対派さん、おはようございます。コメントありがとうございました。
具体的なレスに至らず恐縮ですが、一人のリーダーの結論に対してチェック機能が働く社会制度を望ましいものと私も考えています。その一言だけ改めて添えさせていただきます。
投稿: OTSU | 2011年1月15日 (土) 08時27分
あっしまった!さんの見方は面白く、全くその通りだと思います。
しかし、私は若干違った見方をしています。
あっしまった!さんは「ボス猿が醜い争いに現をぬかしていた」のが最大の問題と捉えている様ですね。
同時に持ってはいけない武器を持ってしまった・・と。
私は別の事を考えている。
「ボス猿の戦い」など、卑弥呼の時代から古今東西「醜い物」である。こたつの中で蹴り合い、部屋では罵り合い、外では殴り合い、そんなもんだ・・と。ボス猿を支持する民衆からして、「酒を飲ませてくれたから支持する」「息子の就職でお世話になったから投票する」「握手してくれたから応援」・・そんなもん(笑)。
それでも結果的に「鼓腹撃壌」・・つまり社会に大きな不安や貧困や苦痛が無ければ、醜い争いも又楽しからずや。まるで昔の自民党の(醜い)ボス猿争いのように。
つまり醜い猿を賢い猿に変える良い方法は無い(笑)。
最も必要なのは次の事です。
社会の不安や苦悩が増大すればするほど、「より強い」結果責任追及がリーダーに対して向けられる制度を完備している事。
今までは世話になったAさんを支持していたけど、こんなに社会が悪くなったから有能なBさんを支持するばい!・・の声が実際に社会を変えていく制度を完備している事。その1つが民主主義です。別に民主主義に拘る必要はない。民主主義を金科玉条とするつもりもない。
しかし、民衆に右顧左眄しない組織、流行に流されない組織、ころころ方針が変わらない組織が必要だとも、同時に思う。
これら「頑固な組織」の取り扱いについては、将来に渡り充分な議論がなされるだろう。
これらの「頑固な組織」が決断過程に入り込み、一部の条件が揃うと、あっしまった!さんが指摘するように大変まずい事が起こるでしょう。
裁判員制度はまさにこの点に留意した制度改革だったと思います。まだまだ不完全ですが(当たり前)、きっと進化していくでしょう。
管政権はついに財政再建に舵を切りました。今までは「子孫が可哀想だよね」とノンビリしていた現役日本人に厳しい追及の手が及ぶ。
人間はサモシイ。自分に危害が及ぶと分かると、それを作りだした者、助長した者、恩恵に浴する者に対して厳しい嫉妬と弾劾の声が上がるだろう。そして、それは避けられないし、避けるべきでも無い。南無阿弥陀仏。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月15日 (土) 09時33分
あまのじゃくさん、おはようございます。コメントありがとうございました。
今回のようなテーマに対する見方や評価は、やはり千差万別であり、たいへん貴重なご意見をお寄せいただいています。引き続き深めていくべきところかも知れませんが、今日中に更新する記事内容は政治資金パーティーについて取り上げるつもりです。また来週は、阿久根市長選の結果を見届けた記事を考えています。ぜひ、これからもよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2011年1月16日 (日) 08時09分
>「市民から審判を受ける市長の決定」に「市民から審判を受けない裁判官」が決定を変更できる事に相当します。
ここでいう裁判官は「法律の専門家」であって、それ以上でもそれ以下でもない。「法律」から「答え」を導くにすぎません。
民主主義だからと言って、多数決で「1+1」の答えを「3」にする訳にはいかないのです。むろん、裁判官自身が恣意的な判断を
するならばそれは問題ですが、そうならないよう、三審制があるわけで。
選挙で選ばれたことを自らの依って立つ術にするならば、その選挙自体が法律に基づくものである以上、法律およびその裁定者を
軽視することは、すなわち自分の立場自身を軽視することに過ぎません。
法律自体がおかしい、というならば、地方でなく国会に出て与党を取り、議員立法で成立させれば良いのです。阿久根市の数千名の
支持者しか得られず落選する程度では、国政に出られるとは思えませんし、仮に当選しても、相当数の議員の支持が得られなければ、
成立させられないでしょうが。それも民意ということで。
投稿: とーる | 2011年1月16日 (日) 23時00分
全労連系組合員さんの提起された議論については、あっしまった!さんの意見と同一です。
まあそれ以前の問題として「むしろもうパー券なんて名目やめて献金okにしたら?そもそも献金てそんなに悪いことかいな」という気もします。
投稿: とーる | 2011年1月16日 (日) 23時07分
とーるさん、おはようございます。コメントありがとうございました。
阿久根市では一つの節目を迎えました。来週の記事は、その結果を踏まえた内容を考えています。ぜひ、これからもお気軽にコメントくださるようよろしくお願いします。
投稿: OTSU | 2011年1月17日 (月) 07時10分
「裁判官は法に基づいて、自分の信念と良心に従って判決する」・・これで宜しいですね。
私は「信念と良心に従って」を「恣意的に」と表現しましたが、「恣意的」の言葉に違和感があるのなら、冒頭の言葉に変えて貰っても結構だ。
裁判官が信念と良心に従って判断するから三審制の意味があるのでしょ?。法の範囲内で画一的に判決するのなら一審制だけで充分です。
裁判官の恣意的な(信念と良心に従った)判断で「社会通念上、著しく逸脱する場合」は行政に介入できる事こそ、三権分立に違反しているでしょ?・・という問題提起をしているのです。
「確かに変だ」と思うのなら(法律を)変えるべきだけど、皆さんはどう考えますか・・と問うているのです。
「変では無い」との意見が多数寄せられるが、反論を聞いて「なるほど」と全く思えない。それだけだ。
この種の介入が成立するのなら「議会が社会通念上、著しく逸脱していると判断した『判決』に対して、当然議会は信念と良心に従って司法に介入出来る」筈だし、これこそ三権分立を犯すものだ。
裁判官だけは許される・・ってのは、どこか「統帥権干犯問題」と似ているような(笑)。
パーティー券なんて小さな問題にそれ程興味がある訳ではないが・・
皆さんに置かれましては、せめて「特定の組織が特定の候補を支援する事」を、どう考えるべきかに立ち返って判断したら如何でしょうか。
「パーティー券は社会通念上、問題がある」・・としながら「いっそ、献金にしたら」といった話を聞くと、一体何を問題視しているのかも分からない。
最初の全労連系組合員さんの論旨は「少なくとも金銭的支援は問題あり」ですが、その後「自治労内のガバナンスに問題あり」に論旨が変わり、その後も論旨が変遷するが、結論だけは奇妙に一致する。魑魅魍魎なり(笑)。
おっと言い忘れました(笑)。阿久根では結果が出ました。残念ですが致し方ありません。南無阿弥陀仏。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月17日 (月) 11時56分
>「裁判官は法に基づいて、自分の信念と良心に従って判決する」・・これで宜しいですね。
・よろしくないですよ。ちゃっかり信念とか入れないで下さい。裁判官は法と良心にのみ縛られる、です。
>法の範囲内で画一的に判決するのなら一審制だけで充分
・法の現場を知らない人でないと、こういうことは言えません。私は法律学科卒ですが、同じ条文でも
「判例・通説」「有力説」「少数説」くらいの3通りの解釈があるのが普通です。そして時々有力説が
判例になることもある。それが法律のちょっと数学と違うところでもあります。ただ、法体系・解釈可
能な範囲を超えた「信念」とかで判決が下ることはまずありません(地裁レベルではたまにトンデモ
判決はあるようですが)。「司法」は法の裁定であって、解釈による立法をする訳ではありません。
だからこそ「1票の格差訴訟」ですら「違憲判決」に留まり、「無効」とまではしていないのです。
言い換えますが「法の裁定者」が「違法」というのは、「決まったルールに則っていない」と言っている
に過ぎません。ルールを変えたければ、国会で、「法を定めれば良い」のです。(憲法違反の法律を除く)
それこそが「三権分立」なのです。
そういう手順があるのに無視していることこそが、「三権分立を犯す」以前に、「日本の法律を無視」した
行為なのです。投票という民意に基づく行動、なのであれば、そもそも「国会」にて法律を変えればよい。
パーティ券の話も同様です。「社会通念上問題がある」のは、「300人しか入らない」のに「1000人分の
チケットを売った」ことです。アイドルグループのコンサートが同じ、あるいは航空会社が同じことをやったら
どうしますか。批難されるでしょう?パーティ券の場合、実質的な被害者はいませんが、「パーティに参加しな
いことが前提のパーティ券」は、事実上献金と同じではないか?それは脱法行為ではないか?という批判です。
私はそもそも団体が寄付をすることが違法なのかどうか実際のところ知らないので、間違っているかもしれません。
「献金okなら、パー券買わなくても、献金で済む話。こんなことをやるのは、献金が禁止されているからだろう。」
と思うのですが、それなら普通に献金を認めればいい(禁止する社会的利益が不明)、と思っているのです。
要は「ルールをかいくぐろうとしているようにしか見えない行為」を問題にしているので、それ以上でも以下でもありません。
言いたいことは、「ルールは守れ。変えたければ手抜きすんな。きちんと手続きは踏め。オレ流解釈で勝手な行動するな。」です。
投稿: とーる | 2011年1月17日 (月) 20時33分
あまのじゃくさん、とーるさん、コメントありがとうございました。
阿久根市長選、リーダーシップのあり方、政治資金パーティーの問題など、それぞれの話題は錯綜しながらも、本質的な部分で似通った議論につながっていくのかも知れません。申し訳ありません。組合の旗開き(新年会)の後に帰宅し、コメント欄に向かっています。今一つ意味が伝わりづらいレスとなって恐縮ですが、直感的な一言を添えさせていただきました。
投稿: OTSU | 2011年1月17日 (月) 22時50分
OTSUさんの直観は当たっています。私ととーるさんでは細かい所には違いがありますが、根底の部分にそれほど違いはありません。
私は日本が改革する際に、司法から行政に対して不当な干渉制度が残っていると改革に支障をきたす事を考えて問題提起を行っているが、反論する人達は微妙に阿久根市と竹原市長を念頭に話している。悪い事は言わん、もっと大きな目で問題を探ってください。
日本人が「大きな問題」を不問にすれば改革が遅れます。
「信念」とは「自らを信じる心」です。どの様な法解釈をすると正義を保てるかを判断するのは「信念」でしかない。
自らを信じる心を持たずして「被告人を死刑に処する」なんてセリフは吐けるものではなかろう。
尤も最近「死刑に処する、但し上告する事を薦める」と裁判官にあるまじき者(信念が欠如した者)が出現しているからな~(笑)。
パーティー券を自由な商行為と見做せば、これは当事者の問題です。買い手が売り手に、券を買ったけど入場できんから金返せ・・と文句を言えば良い。第三者が介入する話では無いから「社会通念」などでは判断できませんし、判断すべきでもない。これを過度に行うとファシズムに繋がる。
同時に税務署への申告が必要だろうし税金も発生するだろう。
つまりパーティー券を議論するなら「政治資金供与」と見做す前提で議論するしかない。その場合の社会通念とは「金額」「供与方法」「供与趣旨」「供与側の組織の性格」などから何を制限するかを考えるべきだろう。実態はこちらでしょうから、私も資金供与と見做す方に賛成。
しかし、これは「自治労」に訴えるより「立法府」に訴えるべき話だ。
300人の会場に300枚なら商行為、2000枚なら政治資金供与と区分けする考えは、混乱に拍車をかける。
「一流歌手が来れば商行為、三流漫才師なら資金供与」の区別が法律の最も苦手とする所でしょうから。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月18日 (火) 10時18分
しかし、裁判官の個人としての信念は、法律を超越してはいけない。裁判官の持つべき信念とは、「眼前の事案に対して、私情や私的信条より、法律の規定に従う」というものでないと。
法律と良心以外には拘束されないが、しかし、良心”だけ”に拘束される事は許されない。
近代における司法権の行使とは、現実に生じた事象の、法律との対照の結果でないと。。。
裁判官に「大岡越前」や「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」を期待してはいけない。
裁判とは、立法権の行使の結果としての「法令」と現実世界の事象とを対照した、「裁定を決するもの」でなければ。
三権分立を前提とするなら、裁判官の判断が法令に則しないなら、責められるべきは裁判官。
しかし、裁判官の判断が法令に則しているなら、論じられるべきは「立法機関の立法内容と、その前提である立法機関の構成を決する有権者集団全体としての価値判断の是非」でなければ。
投稿: あっしまった! | 2011年1月18日 (火) 10時33分
あまのじゃくさん、あっしまった!さん、いつもコメントありがとうございます。
昨夜の雑感に対し、自分なりに後付けのようなことを書き足してみます。すべての物事に当てはまることですが、表面上に見えるもの、見えないけれども奥底にあるもの、阿久根市長選の結果や政治資金パーティーの問題など、議論していけば非常に深い話まで広がるように感じています。その際、奥底まで見えている人、見ているつもりの人、あえて見ない人、本当に見えない人、対象物によって異なるのでしょうが、個々人で大きな差があるのではないでしょうか。さらに奥底にあるものが人によって異なっている場合もあり得ます。
このような見方も私自身の勝手な思い込みかも知れませんが、善し悪しではなく、そのような現状があることを当たり前だと受けとめています。当然、自分自身がすべて「見えている」などというつもりは毛頭ありません。逆に見えていないものを見える切っかけにしたいため、このようなブログを続けているとも言えます。「多面的な情報への思い」という記事なども綴っていましたが、このような現状を踏まえることの大切さも数々の記事やコメント欄で記してきました。
加えて、完全無欠なリーダーも存在しないものと思っています。そのため、様々な判断を下す際、辛口な意見などにも耳を傾け、より「正解」に近い「答え」を出そうとする度量や資質をリーダーに求めていました。それでも「不正解」というケースがあり得るため、制度的なチェック機能も欠かせないものと考えています。そのような意味合いから二元代表制や三権分立などの制度が築かれてきたものと見ていました。
今夜は特に酔っている訳ではありませんが、取りとめのない話を書き連ねてしまいました。もう少しクリアにまとめられる場合は、改めて別な機会に掘り下げてみようと考えています。本当に雑談放談で、たいへん失礼致しました。
投稿: OTSU | 2011年1月18日 (火) 22時45分
「あ、しまった!」さんの考え方は筋は通っていると思うのですが、多分「あまのじゃく」さんの議論とはかみ合わないと思います。
個人的に「あまのじゃく」さんの意見とは、このようなものだと考えています。
「民主主義国家において、民主的な手段で選ばれたリーダーの意見は「民主主義的」に絶対的に(妥当ではなく)「正しく」、民主主義的に選出されなかった司法の「恣意的な」判断より上位にある(あるいはあるべき)。であるならば、司法は「民主主義」で選ばれたリーダーによる行政的判断については妥当である、あるいは行政権の裁量と見なすべきであり、行政的判断に反するような司法の判断はいかなるものでも「民主主義」に対する反逆である。」と。
つまり、「あ、しまった!」さんは司法における法の構造性とそれに伴う司法判断の中立性の意義を示しているのですが、「あまのじゃく」さんは行政-司法間の優越性とその根拠に関する彼の考えを主張しているので、多分納得する意見ではないかと思います。
(ここで、「地方自治法における行政訴訟」や「最高裁判官の国民審査」、「裁判官弾劾裁判」、「国会の国政調査権(派生して浦和事件の議論)」の話をしても知らないから意味はないと思います。念のため)
ちなみに、私がどちらの意見に与するかと言えば・・・私が「あまのじゃく」さんに「公務員」扱いされていることから自明だと思いますが。
追)こう示していくと、「改革」の有無について「あまのじゃく」さんは主張されるかもしれません。個人的には行政的判断に関する「改革」の意味とは、生物学の「進化」における「退化」の意味に関する議論と同レベルには検討されるべき話だと考えますので、ここでは省略させていただきます。
投稿: FAZZ | 2011年1月19日 (水) 00時47分
FAZZさん、ご提言ありがとうございました。多分、皆さんと逆の見方をしている部分がある為に「噛み合っていない」と感じるのでしょう。
私と「あっしまった!」氏、「とーる」氏、などと意見の根底が対立しているとも思っていない。(名前出し損った人はゴメン)
「正しいか間違っているか」「認めるか認めないか」・・これを判断する「基準」が必要ですね。
人間個人においては、これを「信念」と呼びます。社会運営に於いては○○主義・・と呼ぶ事が多い。
つまり「悪魔を信仰する」のも「死刑を宣告する自分の判断を信ずる」のも「信念」です。
あっしまった!さんは裁判官の信念は「こうあるべきだ」と主張しているし、全くその通りなのですが、実は「信念が裁判官の資質に合致しない者を更正するか排除する」しか、それを担保出来ないのです。
言っている意味が伝わりますか?信念が裁判官の資質に合わない者を排除する仕組みを作った後に「信念に従って判決せよ」です。
人間は必ず「信念」に従って行動するから、信念の内容に注文付けても、良い結果は得られないのです。見方が「逆」とはそういう意味です。
人間は必ず信念に従って行動するから、逆に言えば「わざわざ」言葉にする必要もない(笑)。
民主主義にも同じ事が言える。民主主義で決めた事が「絶対に正しい」のではなく、「正しいと信じよう」と決めたのです。
口では「民主主義」と声高らかに謳っていながら、民主主義で選ばれた首長の判断を「妥当」と受け入れないのなら、民主主義を信じていないのだ。
更に私は裁判官が法律に従わなかったと非難しているのではない。(条文の存在を知るまでは、そう非難していた・・笑)
「社会通念上、著しく逸脱した・・」と裁判官が判断した場合、行政に介入出来る・・という条文は「民主主義」或いは「三権分立」から相当かけ離れた物だと私は考えている。
その実情を最も知りうる裁判官が、立法府に対してその旨を「助言」「提言」するのが裁判官の役目であろうと思う。
それを放置している裁判官の気概の無さ・資質の低下に腹を立てているのだ。更に、条文の違憲性を認識していながら、この法律を利用しようと考えている人達にも、きっと腹を立てるだろう。
その「条文」が民主主義や三権分立に背いていないと考えるなら、その旨を反論して戴いて結構だ。
確かに裁判官の堕落や退廃の程度はそれ程大きいとは考えていない。しかし(司法の)権力の大きさを考えると、正しておくべきであろうと思う。
最後に私はFAZZさんと話した記憶がありません。否、きっと話したのでしょうが、私の頭は日本の問題点とその行く末にあって、あまり話し相手を意識した事が無い(笑)。又、私は公務員や自治労に対して特別な感情を抱いてもいない。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月19日 (水) 10時03分
伝わったか不安だから、もう少し・・(却って惑わせたりして・・笑)
民主主義が正しい物を選びだすのではない。民主主義が選んだ物を「正しい」と信じよう。
従って「裁判官の資質を持たない者を排除する」方法についても、相当民主主義を取り入れた制度で無ければならないだろう。
「どの様な物が価値が高いか?」
社会主義国では「エリートなら価値の高い物を見つけ出せる」と考えた。自由経済を謳った国は「大衆が選んだ物が、価値が高い」と考えた。
考え方が「真逆」でしょ?
投稿: あまのじゃく | 2011年1月19日 (水) 11時29分
FAZZ 様には、ご指摘深謝致します。ご指摘はご尤もかと思います。
それとは別に。一連の流れとは若干外れているのですが、呟きを少し。
今の憲法の下では、「地方自治は法律の範囲内で行われる。(第8章)」であって、「国会は唯一の立法機関(第41条)」とされているのだから、「国会議員選挙の結果という有権者集団の政治的判断として、具現化した民意(という何か)」に究極的には帰結する話だと。行政は「法案」を創れても、「法律」を創る権限は無いのだから。
確かに、憲法の地方自治に関する規定を変えてしまえば、現状を大きく変えることは可能であるけれど、それには「国会の発議と国民投票の結果」が必要なわけで。
結局のところ、国の行政活動にしても、司法判断にしても、地方自治にしても、「国会を構成する国会議員を選んだり候補者を出したりする、有権者集団の投票行動の結果という民意(と呼ばれる何か)を逸脱出来ない」と考える訳です。(振り出しに戻るという話では無いけれど、統治体制や法体系は、国政選挙における有権者集団の政治的選択の結果という民意(と呼ばれる何か)に帰結してしまう。)そういう建前になっているんだから、この国の法体系が維持される限りは、そうなるしか無いだろうと。
ただ、”集団ヒステリーを起こしたかのような、民意(と呼ばれる何か)の暴走”も、政治を舞台にした”多数による独裁”も、極めて危ういと感じますけど。
民主主義においては、”民意の暴走”を止める術はないにも拘わらず、この国では全体的な雰囲気として”民意の暴走の結果、何が起こっても、責任は暴走した民意に帰結する”という覚悟は無さそうに思いますし。(故意か過失か、自覚してか無自覚にか、何らかの人身御供に全てを押しつけて終わるのではないか?と。)
投稿: あっしまった! | 2011年1月19日 (水) 17時28分
帝国憲法の下でも、元老(中でも元勲と呼ばれた第1世代)が存命の頃は、その後に比して、比較的上手く行っていた様な気がします。で、日本国憲法の下でも、戦後第0世代(第1世代もかな?)が存命の頃は、その後に比して、比較的上手く行っていた様な気がします。
結局のところ、政治家は有権者集団の選択の結果であるし、選挙の立候補者も有権者集団からしか生じ得ない事を考えると、「主権が国民にある・国の行く末について究極的責任を負うのは、有権者集団であるにも拘わらず、有権者集団からしか生まれ出る事のない政治家の、”政治家としての資質であるとか、その資質の涵養”について、無頓着に過ぎる」のではないかと、思い始めて久しいんです。
壊滅的に大きな国難を経験した世代が退場した後の、後継世代の問題として。有権者集団全体として、「政治家としての資質をもった政治家、政権の補欠(政権交代後、直ちに政権を担いうる戦力を有するという意味で。)としての資質を持った野党」の再生産に失敗してるんじゃないかな?という話かと。
投稿: あっしまった! | 2011年1月19日 (水) 17時49分
>民主主義にも同じ事が言える。民主主義で決めた事が「絶対に正しい」のではなく、「正しいと信じよう」と決めたのです。
ここまでは同意なのです
民主主義は絶対的に良いものではない。欠点も多い。今のところこれより相対的にマシな仕組みが無い、だけ。
ただ、だからこそ、多少の欠点に目をつぶってでも、守らないといけない。
>口では「民主主義」と声高らかに謳っていながら、民主主義で選ばれた首長の判断を「妥当」と受け入れないのなら、民主主義を信じていないのだ。
「民主主義」で選ばれた首長の判断、は、所詮「1万人前後」の投票結果に過ぎません。一方で、これで問題ない、とするならば、他の自治体にも
当然その影響は及ぶところとなります。他の首長が同じようにしたらどうなるか。東京都知事が「専決規定」により、議会を開かずに予算を決めたら
どうなりますか。地方自治法の適用対象は、1億人を超す訳です。その「1万人前後」の投票結果が、「1億人を超す」住民に影響を与える。
1万人前後の投票結果が、法解釈をねじ曲げる。地方自治法を所管する大臣の解釈より、1万人前後の投票結果が、法の解釈を決めることになる。
選挙で選ばれた議員の、過半数の賛成がなければ、法案は成立しない。それはすなわち、5千万人以上の賛成と同義です。その多数の賛成があって
ようやく成立する法律の解釈を、1万人の投票結果で変えてしまう。それは決して民主主義とは言えないのではないでしょうか。
投稿: とーる | 2011年1月19日 (水) 20時10分
FAZZさん、あまのじゃくさん、あっしまった!さん、とーるさん、コメントありがとうございました。
それぞれのご意見を興味深く読ませていただいています。「なるほど」と思うところ、「うーん?」と難しすぎて簡単に理解できないところ、個人的な感想もありますが、中途半端なレスは避けようと思います。ちなみにFAZZさんからは、昨年8月の記事「混迷を深める阿久根市の夏」のコメント欄の後半で複数のコメントをお寄せいただいていました。その点だけ、一言補足させていただきます。
投稿: OTSU | 2011年1月19日 (水) 23時27分
個人的に思うのは、民主主義が構成員の持つそれぞれの意思が異なることを前提にしている仕組みであることを考えるならば、民主主義においては絶対的な「正しさ」というものは存在せず、権力(行政のみならず司法等も含む)が提示できるのはあくまでも「妥当である」ことしかないと考えています。
だからこそ、権力の施策に対する様々なチェックシステム(行政不服審査法、住民訴訟、最高裁判所裁判官に対する国民審査、国政調査権)が許容、整備されているのであり、民主主義においては常に権力の判断が「妥当である」か否かを問い、より「妥当である」方向性を模索しながら日々歩んでいるものと考えます。
(もしも民主主義で決めたことが「正しい」とされるならば、これらのチェックシステムは元来不要でしょう?)
逆に言うと、「民主主義」で選ばれたことのみを理由に自らの「正しさ」を喧伝し、主張の異なる者を無視・圧迫するような態度というのは、実は本当の民主主義から一番ほど遠い態度ではないかと思うのです。
投稿: FAZZ | 2011年1月20日 (木) 01時18分
FAZZさんとの会話はOTSUさんの指摘で思い出しました。実務に精通し、法律も諳(そら)んじていたので、てっきり公務員だと思ってしまいました。間違っていたらゴメンなさい。
私が「見方・考え方が逆だ」と指摘し、例まで出したけど、それ以降の書き込みを見ても、理解したとは言い難い。
先ず、次の私の主張に反論して貰いたい。
『裁判官が社会通念上、著しく逸脱していると感じた場合は、行政に対して介入出来る』とした「法律」は「三権分立」や「民主主義」から逸脱している。
まあ後は、指摘だけにしておこう。
民主主義を謳いながら、民主主義で決めた事を「正しい」と信じなくて、一体君達は「何が正しい」と考えて社会運営を行うのかね?
民主主義で決めた事を重視し、民主主義で却下された事を軽視・無視しなくて、一体民主主義が成り立つのかね?
民主主義で「正しい」とされた事は、民主主義で「やっぱり正しく無かった」と訂正されるべきとは考えないのかね?
過去と現在を分析するのは、将来の道筋を探す為である。従って、その分析方法も将来に活かせる「切り口」でなければならない。
それを欠いたものは単なる懐古として取り扱うので宜しく。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月20日 (木) 09時32分
以下、誰に対してという訳でも無く。。。(”主権を持つと言う事は、無関心でいられても、無関係ではいられない”事を意味するという前提で。)
民主主義は他の政治体制に比して、(完全無欠ではないとしても、相対的に)一番優れた政体だと思う。
ので、民主主義は維持される必要があるだろうし、「機能する必要」もあると思う。しかし、歴史上”民意の暴走による悲劇”というものが、あるのも事実。
民主主義に対して、寧ろ積極的に支持して機能すべきと思うが故に、しかしこの国においても、民主主義の歴史がある他の国々のように”民意の暴走の結果”とか”民主主義の失敗の結果”について、”有権者集団全体の責任・民主主義の失敗として向き合う覚悟”がないと、何にしたって結局は歴史は繰り返す(endless loopする)のだと思う。(ぼそっ
”自分たちの投票行動や候補者擁立(政治的無関心)への反省”無しに、”政権とか政党とか行政とか、特定の何かを人身御供にして終わらせる”だけの状態なら、何処まで行っても一緒のような気がするという個人的な感想。。。というだけの話。
で、社会の問題として、”立候補する者を育て選ぶ”と”立候補者の政治家としての資質・識見を見極める眼”の問題が、社会全体に広く深く認識され無いことには、何も始まらないだろう。という発想でいるのが現時点での考え。。。とか思ってみる。
投稿: あっしまった! | 2011年1月20日 (木) 15時09分
『リーダーが決断し、その結果責任を負う』
これが基本骨格で、この主要項目に対して「市民が主体」となる制度が民主主義だ。
リーダーが決断→実行→評価→結果責任→リーダーの選択と決断→実行→評価・・この無限の「フィードバック」の関係を出来るだけ正常に保つ為の「必要条件」がある筈である。「人の話を聞く」・「慎重に」などは必要条件というより附帯条件と呼ぶべきだろう。フィードバックの関係を減弱させる可能性もあるからだ。リーダーに充分な参謀を付ける事も附帯条件に属すと私は思う。
では必要条件とはどのような物だろう。これを分析して制度設計を行うべきなのだ。思いつくままに・・
1:決断し実行する組織の上意下達の命令系統が正常に作動している。
2:実行した結果が市民に(多様な方面から)公開され、充分な判断材料がある。
3:(当たり前だが)市民に判断の自由がある。
4:市民が選択した結果責任が充分反映される。
5:サイクルの時間幅が適当な幅を持っている。(30年に一回の選挙では困る)
6:(意外と大事?)教育が行き届いている。
その他にも沢山ある筈だ。(過去の歴史に照らし合わせて)考えてみたらいい。
これらの必要条件が壊れてしまった時に、民主主義は評判の悪い状況に陥っているように思う。
この必要条件の中に「人智が及ばない」事を入れない事です。入れても「せんなき事」だからだ。
これが英知という物だ。神頼み・・ならぬ裁判官頼み・・では地獄を見るよ(笑)。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月20日 (木) 17時06分
あまのじゃく氏が、相も変わらず高所(識者)の立場で発信されていますが、私は国民の皆さんが氏の言っていることが、どれだけ理解できるのだろうかと疑問に思います。阿久根市出身者として、反竹原氏の私はあまのじゃく氏に泥棒あつかいされました、(泥棒と警察の関係で)その泥棒集団(彼曰く)が今回、阿久根市ではわずかながら大勢を占めた。この状況を、どのように論ぜざれるのか、しかも公正な選挙が終わった後の竹原氏集団の醜態、あれが正義なのか、あまのじゃく氏の議論の終局は日本の借金で有るはず、場所を変えて、有能な経済学者と議論されたらどうでしょうか。
投稿: 昔公務員 | 2011年1月20日 (木) 19時41分
「節子、それ民主主義やない。「民主集中制」や」
てなわけで、個人的には「あまのじゃく」氏に是非、民主集中制の先駆けであるJCPという政治団体に学ぶため、代々木に見学に行ってもらいたいものだと思います。
・・・ま、実は鹿児島でもきっと学ぶことは出来るんだけどね。
投稿: fazz | 2011年1月20日 (木) 22時59分
閑話休題
ひとつ、荒っぽい思考実験をしたいと思います。
ある街にAとBというそれぞれ異なる主張をする集まりがあったとします。人数的にはA>B。ここで選挙が行われ、Aの側から自分が当選したら「Bの人間を皆殺しにする」ことを公約とした人間(a)が立候補し当選したとします。そのばあい、この街ではBの人間を皆殺しにすることが「正しく」、Bの人間は黙ってaに首を差し出さなければならないのでしょうか?
自分はそうは思いません。民主主義において大事なのは、構成される個々の人間の意見が尊重されることであり、選挙という「儀式」を経てもなお権力はそれを尊重する必要があるのです。
(ちなみに、これは常に自分と反する側に媚びろという意味ではありません。自らの意見と異なる意見のものがいることを常に意識し政策を実行しろという意味です。)
そうでなければ、選挙のたびに当選し権力にいる立場の側は自らと意見の異なる立場を「民主主義」の名のもと排除していき、残るのは個人の意見の差異を排除したmonoな「民主主義らしきもの」でしかないでしょう。
投稿: FAZZ | 2011年1月20日 (木) 23時33分
FAZZさん、あまのじゃくさん、あっしまった!さん、昔公務員さん、おはようございます。コメントありがとうございました。
限られた時間での投稿となりがちなコメント欄では、個人的な思いを中途半端に披露することを避けるようにしています。今回の論点もそのように考えていますが、阿久根市長選の結果を振り返る新規記事の中で、私なりの感想や意見を述べてみるつもりです。ぜひ、その記事へも貴重なご意見をお寄せいただければ幸いです。
投稿: OTSU | 2011年1月21日 (金) 07時47分
先ず、昔公務員さんから私宛ですので。
私は公務員や自治労に特別な感情を持っていない、しかし日本の現状や将来の日本人を心配しない者には怒りにも似た感情を持っている。
返事になりましたか?
それと私の提起した問題に反論せずに、又何かしら新たな話が・・。「民主」に修飾語を加えるのがお好きなようですね(笑)。否、不安・・と表現した方が適切かもしれません。本心では民主主義を信じていない事が見てとれる。
しかし、私から見ると完全に論理展開が壊れている。
民主主義で決めた事を委員会が「引っくり返す」のは「委員会主義」と呼ぶ。
若し、それが正しいと思うなら、そう主張すべきだ。「民主主義なんて危うい、委員会主義にしよう」って(笑)。
民主主義を補完したり修飾する制度を沢山設けても、それは全く問題が無い。しかし補完制度や修飾語の「上位」に民主主義が無いと困るのだ。
私は「民主主義が必ず上位だよ」って話を繰り返しているだけだ。
>Aが過半数なら、Bは首を差し出すのか?
バカバカしい。当然徹底的に抵抗すればいいじゃないか。場合によっては殺し合いが起こるだろう。大戦争にも発展するかもしれない。
騙し合い、裏切り、暗殺。人類の歴史その物である。
そしてそれを解決する様々な制度が生まれては消え、生まれては消えた。最後に何が残ったのかね?それが「民主主義」というものだ。
あなたが考えている事は、自分の考え通りに進まないからと言って、「生まれては消え」た制度を「民主」の「頭」にくっ付けようとしているだけだ。
今までの書き込みを見ていると、「考え方が逆」だといった意味は理解出来ないかもしれんな。
民主主義とは過半数の意見を正しいとして、社会運営をする制度だ。抵抗してはならない、反論してはならない・・なんてセリフは書かれていない。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月21日 (金) 09時27分
FAZZさんは以前、私に「刑事と民事を理解していない」と私に論陣を張った事がある。
私の記憶する限り、真正面から論戦を挑んできたのはFAZZさんが最初で最後だ。
結果はFAZZさんが正解です。・・というより、他の事を言いたいが為に私が嘘をついていたのです(スミマセン)。
確か、もう1つ位、「嘘っぽいけど、こう書いた方が論点が際立って、分かりやすい」とした部分があったかと思います(笑)。
しかし、99.99%は正しいと信じている事を書いておりますので、誤解の無い様に(笑)。
しかし、その後はいただけない。私の論陣を避けて、次から次へと言葉を変えて、話を変えて、視点を変えて、論点をぼかしている。
真正面から向き合えないのなら、もうそろそろ止めたいんじゃがね。疲労感ばかりが貯まるから。
上の文章の最後の部分を、少し追加変更する。
『民主主義とは過半数の意見を正しいとして、社会運営をする制度だ。抵抗してはならない、反論してはならない、殺してはならない・・なんてセリフは書かれていない。それどころか、その性格上、「批判と対立」こそ正常な運営をするにあたっての不可欠な要素だ。』
投稿: あまのじゃく | 2011年1月21日 (金) 12時28分
根本的なところで、1万対1億の話をしましたが、完全に無視されましたね。ではもう一つ。
「投票の結果選ばれた」ことは同じなのに、「市長」は民意、「議会」が民意でない、とするのは何故?
という疑問を、あまのじゃく氏は全く答えず、「委員会主義」など訳の分からないことを言うのが理解できません。
議員を選んでいるのは市長と同様選挙であり、それを無視するのは、民主主義を無視することにならないんですか?
投稿: とーる | 2011年1月22日 (土) 12時46分
とーるさんへ
?はて、私は議会は民意では無い・・と言った記憶はありませんが?
それと1万対1億の話ですね~・・・。困りました。無視した訳ではありません・・。まあ是非とも答えろとの事ですから・・。
この話は、もう最初から最後まで変だから、答えに窮したのです。
>とーるさんが書き込んだ「1/19:20;10」を参照
先ず「前段」は民主主義は守るべきだ・・と主張しています。これに異論はありません。
問題は「後段」です。これを「論法」に分解すると奇妙な事が分かります。
前提:1万前後の投票によって選ばれた首長の判断が「妥当」とするならば・・ですね。
つまり「前提」は「阿久根市で民主主義が守られるならば」です。
これに伴う「小結論」は「他の自治体も(1万の自治体に)に従う」です。・・突然「阿久根主義」に変わる。
阿久根市が「白」と言うと、何故他の自治体が「白」と言うのか全く分からない。これを説明するには日本中が「阿久根主義」でなければならない。
そして「大結論」は読んでもらうと分かるが「日本中でとても困る事が起こる」です。
この話を端折って言うと「阿久根で民主主義が実行されると、日本中で混乱する」
つまり、後段は民主主義を否定しているのです。
まあ敢えて答えれば、そういう事です。では私の主張・・もういいです。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月22日 (土) 18時23分
>はて、私は議会は民意では無い・・と言った記憶はありませんが
委員会主義は、議会のことかと思いましたので。まあそれはさておき、
議会を民意とするならば、対等な民意であるはずの議会を招集せずに
専決で運営するのは、民意を無視することであり、民主主義に反しませんかねぇ。
それと
>前提:1万前後の投票によって選ばれた首長の判断が「妥当」とするならば・・ですね。
>つまり「前提」は「阿久根市で民主主義が守られるならば」です。
前提が違ってます。
民主主義(国政)で決められた法律を、法律制定権を持たない執行者(一自治体)が守らない。
それがまかり通ればどうなるか、です。
阿久根市の市長に法律(日本すべてに及ぶ)の解釈権限はありません。
それともあまのじゃく氏は、市長に「法の解釈権限がある」とお考えですか。
もしあるならば、事実上「市長に法律の制定権」がある、ということになりますが。
法に関する権限は、
1.「立法府」(法律を制定)
2.「行政(所管省庁)」(条文および立法趣旨並びに関連法により、明文化されていない部分を判断)
3.「裁判所」(法に従い事実関係の是非を裁定)
の三者のはずです。
あくまで市長・市議会に委ねられていることは、「市の行政・条例に関する裁量権」の範囲に過ぎません。
県知事、県議会に委ねられることは、更に大きくなり、総理・国会議員には、国の行政・立法が委ねられる。
そういう構造になっている以上、市長・知事には立法権は無く、解釈権もない。
当事者として裁判で争うことはできるが、裁定権はない。
バスの運転手には道交法などに従って道路状況を判断し、安全に運行することは委ねられているが、
道交法の解釈権は無いのです。この違いを言っているのですが・・わかりますか?
投稿: | 2011年1月23日 (日) 06時33分
すみません。上の記事は私です。
投稿: とーる | 2011年1月23日 (日) 06時33分
とーるさん。
私は1000兆円の話をしてきた。何故、この様な愚かな事になったのか?その原因の1つは、あっしまった!さんを始め多くの人が指摘している様に「人間が愚かになったからだ」。
しかし愚かになったと嘆くばかりでは問題は解決しない。愚かになった事を分析指摘しても、それは「せんなき事」だ。
事態が悲惨になった理由はそれだけではない。民主主義が正常に作動しなかったからだとも考えている。だから民主主義たる物はどういう物かについて書き込んできた。
私が1/20:17:06に書き込んだ「民主主義の必要条件」のどこかが停滞していたのではないかとも考えている。
竹原氏は改革者足り得るから応援しているが、私の目的は「日本の現状と将来」をより良いものにする事である。少なくとも民主主義を正常に作動させる事だ。
それに対して貴方は「竹原氏の専決処分」という話ばかりをしてないかね?竹原氏の話ばかりをしていないかね?
それは私が話している民主主義とは次元の違う話だ。
今回、竹原氏がリコールを受けて、解職された事がそれを物語っている。専決処分がどうのこうの、懲戒処分がどうのこうの。個別の案件には大騒ぎ。小さな事には敏感だが、大きな事は「見なかった事」に。想像力が及ばないのかもしれないな。
小さな問題も大きな問題も、民主主義を回復する事で解決する。否、民主主義を回復する事でしか解決出来ない。
君たちが大騒ぎしてくれたお陰で、「リコール」という民主主義の一形態が作動した事は大変にめでたい。
出来れば、これを最後にしたい。あなたの虫眼鏡で見た景色の話など、殆ど私には興味が無い。どこかの法学者と論争でもやってくれ。それとも、私には(その)虫眼鏡の景色が見えないとでも思っていたのかね?
投稿: あまのじゃく | 2011年1月23日 (日) 09時45分
おっと、念の為に追加しておこう。多分、気づかないだろうから。
私が職員の懲戒処分と裁判官の介入に殊更反応し、専決処分に関心を寄せなかったのは、竹原氏とは何の関係もない。
これらが1/20:17;06に書き込んだ「民主主義の必要条件」に抵触するからだ。
職員の張り紙剥がしが「1」に書いてある「組織のガバナンス」、裁判官介入は「4」の「市民の判断が重要」である点に抵触するかだよ。
専決処分なんて話は「結果責任がリーダーに対して正常に向けられている限り」、私にとっては「瑣末」な問題なんだよ。
皆さんには天変地異ほどの驚きかもしれんが・・。
だから竹原氏もこう言っているし、私も同意する「リコールによって、市民が覚醒すれば、それが最も嬉しい」・・と。
そして、最後に言っておこう。民主主義の意味を基本から考えずに、虫眼鏡ばかりで(逆行して)歩いてきたから、1000兆円の借金を作った。まあ理解は出来んだろうな(笑)。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月23日 (日) 12時22分
反論しなければ「私の提起した問題に反論せずに」といい
反論したら「あなたの虫眼鏡で見た景色の話」といい。
ややこしい方ですね。
>民主主義の意味を基本から考えずにというが、
「基本を考える」からこそ「専決規定」の話になったまで。民主主義対民主主義になった時に、どちらを優先するのかの話。
とりあえず「専決規定」には反論なしのようなので「張り紙はがし」について思うことを述べます。
>職員の張り紙剥がしが「1」に書いてある「組織のガバナンス」、裁判官介入は「4」の「市民の判断が重要」である点に抵触するかだよ
民法では「権利の濫用はこれを許さず」といいます。刑法の量刑は、犯罪の軽重によって決まります。
張り紙はがしへの処分が組織のガバナンスとしても、どこまで許されるかは別の話です。
そしてこれこそ「当事者として裁判で争うことはできるが、裁定権はない」ということです。
論理的な話を抜きとして、私自身がどう思うか、財政論と公務員の労働への対価としての
賃金体系等については、以前に述べたところなので割愛しますが、例え結論が近かったとしても
目の前のことに妥当な判断・取るべきを下せないのならば、それは現実問題には解決にならない。
独り部屋でブツブツ独り言なら誰も気にしないからかまいません。多くの賛同を得たいならば、
穏当な手段か、多数の同意を得られる方法を採るしかないのです。
そしてあなたの持論が多数の賛同を得ているか・・もうおわかりでしょう。
投稿: とーる | 2011年1月23日 (日) 16時46分
あまのじゃくさん、とーるさん、いつもコメントありがとうございます。
お二人のレベルに遠く及びませんが、今回の論点について少しだけ最後に盛り込んだ新規記事「市長選後の阿久根市」を投稿します。ぜひ、そちらの記事もご覧いただければ幸いです。
投稿: OTSU | 2011年1月23日 (日) 17時15分
??とーるさんが私に反論した事など「一度も」無いよ。
「裁判官の介入は、民主主義と三権分立に逸脱しているから、止めるべきだ」・・と私が主張しているから「その必要は無い」が反論だ。
貴方のは「今の決まりは、こうこうです」・・って解説だけでしょ?
何か「根本的な問題」と大騒ぎしていた「1万と1億」の話も、竹原氏が解職にあって結論は全く違ったんですよね。おまけに「論法」も間違ってた。
張り紙剥がしも反論と言い張っているが、これも「反論」では無いんですよ。相も変わらず「今まではこうですよ」って虫眼鏡の(解説の)話。
しかも「組織のガバナンス」の意味を・・。
どうも相手の論旨を読み取れないのでは無いのですか?或いは「反論」の意味を取り違えているか・・。相手が「白だ」に対して「白では無い」が反論ですよ。
相変わらず賛同者の多さが気になるようですね(笑)。賛同者が多いと「正論」で少ないと「誤論」?議論とは多方面から光を当てて、何が正しいかを探る事を目的にする。
なんとなく「議論」の意味も・・。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月23日 (日) 18時24分
とーる氏とは完全にかみ合っていない。頼みのOTSUさんも去って行った(笑)。私としては終わりにしたいが、とーる氏も言い分があるだろう。
中途半端な書き込みは良くない。スミマセン。
組織のガバナンス。
>張り紙剥がしの処分が組織のガバナンスとしても、どこまで許されるかは別の話だ。
当然、処分の量刑こそ「ガバナンス」ですね。
殺人罪での判決は日本の裁判所で受けるが、量刑はアメリカで受ける・・は困るのです。
当然、処分を行ったリーダーが結果責任を民主主義的に問われるべきですね。
裁判に訴えるのは勝手だが、「処分の取り消し」を裁判するのではなく、「損害賠償」の形で行われるしかない。
「議論」についてはもういいですね。賛同者の多さを競うものではないし、賛同者を得る為に論旨を変える程、恐ろしい物は無い。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月23日 (日) 19時03分
もう言ったついでに「専決処分」についても・・もうヤケクソです(笑)。
専決処分が違法か合法かは、はっきりしない。
これは「二元代表制」という一見慎重だが、その実相当な問題点を含んでいる制度の狭間で揺れ動いているだろうからだ。政府が見解を出せないでいるのも、そのせいだろう。
では「相当な問題」とは?
二元代表制をそのまま受け入れると、場合によってはとんでもない事が起きるかもしれない。
例えば「予算案」が全く議会を通過しない場合は、どうするのか?どのように調整しても議会が「No」と言い張った場合、どうするのか?
じゃあ1年間、お金を使わなければいい!とニヒルに流せば問題は無い。しかし現実的には、そうもいかない。
つまり、最後の最後には「二元」と言いながら、僅かな優先度を決めておかねばならないのだろう。
その伝家の宝刀が「専決処分」なのかもしれない。
まあ、私としてはこれを追求する気は全くない。寧ろ「二元代表制」についての議論を広げるべきかと思う。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月23日 (日) 20時29分
もう論戦はおわったかも知れませんが、
首長を選ぶのも民意、議員を選ぶのも民意に相違ない。首長を一般市民が選ぶ時と、議員を選ぶ時にチョツとした差異があるではと思っています。
先ず、首長選は、数人の候補者が立候補し、有権者はその中の一番良いと思う候補に投票します。でも、その場合、全てその人に委ねるかと言えばそうではなく、他と比較してアンタに頼むよ、テナ感じだと思います。(私だけの場合かも知れませんが)
次に議員の場合、決められた定員の中、案外身近な地域(区)単位に候補者が立候補されると思います。一般的に地域のためを考えてくれそうな候補者に、自分の代弁者として一票を投じるのではないかと思っています。このことからして、首長が民主的に選ばれたからといって、自分の思うままにしてはいけないと考えます。でないと、議員は全く必要ないことになり、阿久根市の場合、議員の資質がどうであれ、首長が議員を無視したのが問題であり、現状に至っています。首長が圧倒的な票差で、当選されたとすれば其れに投じなかった人も同意されるかも知れませんが、わずかな差で当選されても、多数決とはいえ蟠りが残るのは普通の考えと思う。やはり首長(行政のリーダー)たる者は、このような場合双方の主張をコントロールしながら行政を行うべきではないでしょうか。スポーツ的なリーダーと政治的なリーダー像は異なるるのではないでしょうか。
投稿: 昔公務員 | 2011年1月23日 (日) 21時08分
追記
当然、西平市長には半数近くの批判者がいるということを、常に意識しながら粘り強く市政運営に努力して頂きたい。
投稿: 昔公務員 | 2011年1月23日 (日) 21時19分
あー、はっきり言えばいいのね
「裁判官の介入は、民主主義と三権分立に逸脱しているから、止めるべきだ」。
それを問題と考えているのは日本中で多分貴方だけだと思います。
ついでにいうならば、貴方の使われている用語(「民主主義」「三権分立」)は、あまりにも「オレ定義」が強すぎて議論になりません。他人と議論するならばせめて辞書なりwikipediaなりで用語を確認し、すりあわせをする努力をしてください。
さらに言うと、貴方、自分が示した「民主集中制」について、知りもしないし調べもしなかったでしょう。「民主集中性」は確立された政治用語です。正確に言えば共産党の組織原則です。共産党の政治用語は人によっては非常に反発をするのでぼかして記載した(ただ、ある程度示唆する言葉は入れてあります。(「JCP」「代々木」))のですが、まさか自分の造語として扱われるとは思いませんでした。
他人の意見を把握することなく、壊れたレコードみたいな反論を出さないでください。あまりにも知的に不誠実です。
<独り言>
・・・いい年こいて、「僕は「ミンシュシュギ」で選ばれたんだぞー。何してもいいんだ。あ、先生、僕のやったことにケチをつけるなー。それは「ミンシュシュギ」の違反だぞー。結果がよければいいんだい」などと繰り返すガキの繰り言には付き合いきれない。
投稿: FAZZ | 2011年1月24日 (月) 01時14分
あまのじゃくさん、昔公務員さん、FAZZさん、おはようございます。コメントありがとうございます。
「去って行った」訳ではありませんが、今回の論点について私なりの考え方を新規記事の中で触れました。常々、多様な考え方を認め合った議論へのこだわりがあるため、少し引き気味な書き方で恐縮です。いずれにしても自分の言葉がどれだけの人から共感を得られるのか、決して数を競い合うものではありませんが、そのことが大事な点だろうと思っています。
投稿: OTSU | 2011年1月24日 (月) 08時20分
otsuさんへ
去って行ったと表現したのは冗談です(笑)。正確には「捨て去っていった」です(スミマセン、これも冗談ですから・・笑)。
しかし私が「民主主義は批判と対立こそ運営に不可欠だ」と書き込んでいるのも関わらず、「あまのじゃくは民主集中制だ」とノタマっているご仁も居る。又「解説」を「反論」と訴える御仁もいる。
1/20、9;32にも「裁判官の介入は・・」と明確に書いているのに、「最初から書けばいいのに」なんて話も飛び出す。
以前「この場所は理解の場所としてotsuさんが作っている」と書き込んで、私が去った事がありましたね。私の語気も荒くなりますので、そろそろ店仕舞にしましょう。
因みに、私は演説する事はありません(共感を求めてはいない)。あくまで議論を通じて真実に迫りたいのです。
otsuさんが考える「yes,but」・・でしか共感出来ないような(弱い)人間は、肝心の時に役に立たない・・と思っている所がありますから・・。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月24日 (月) 09時45分
>どうも相手の論旨を読み取れないのでは無いのですか?
これは正直その通りかも知れません。出来るだけ大意は読み取ろうとしたのですが、
おそらく私はあまのじゃく氏の考えている前提条件を全く理解出来ていない可能性が高い。
私は今のルール・考え方を前提にしています。それを完全に無視するのは、革命でもない限り
不可能なのであり、そういうことを考えている訳ではないので。
あまのじゃく氏がそれを飛び越えているのならば、私のことは虫眼鏡の世界に思えるのかな?
そして、自分は空を飛べる鳥であり、私は地を這う蟻のように思えるのかもしれません。
実際、地に足を付けた感覚が虫眼鏡の世界と言うなら、私はそれを受け入れます。体が蟻である以上、
感覚も蟻である方が良いのです。
あなたには世の中の常識を打ち破れる素晴らしい発想力があるのかもしれません。
ただ、、残念ながらあなたには賛同者がいない。おそらく、実行力もない。
心は鳥であるのに、体は蟻なのです。不幸ですね。
それから「私の提起した問題に反論せず」はあなたが昔公務員氏に投げかけた言葉です。
私に言った言葉ではありませんが、同じことだと私は思っています。
民主主義=多数決ではない。多数を取ったから正しい訳でもない。少なくとも、そういう世界もある。
が、一般的にはある程度の人数の共感すら得ることのない意見には、たいした意味も価値もない。
多数が必ずしも正しい訳ではないの例示とした裁判所ですら、「判決」には、多数決の論理を用いるのです。
まああまり書いても意味が無いので、とりあえず一旦こちらはここで筆を置くことにします。
投稿: とーる | 2011年1月24日 (月) 22時54分
ひとつだけ。
あまのじゃくさん、私は貴方自身が「民主集中制」だなんて思っていませんよ。それは、共産党の方々に失礼だ。
共産党の方々は少なくとも方針を定めるまでに民主的に討議を重ねているし、社会の諸問題については十分に研究をしている。
(しかし、共産党って街頭で宣伝するときはなんであそこまで画一的になるのかね?)
生半可な理解で、自分(リーダー)に都合のいい理論を組み立てている貴方の「民主主義」とは雲泥の差があります。
・・・だからこそ、書いてあるでしょ。「JCPという政治団体(共産党)に学ぶため、代々木に見学に行ってもらいたいものだと思います。」
と。人の文意(論理)はしっかり読んでください。
投稿: FAZZ | 2011年1月25日 (火) 01時21分
どうも店仕舞の後になって、返品が多くて(笑)。最後の話を
とーるさん。
私は1000兆円の話ばかりしてきました。そんな悲惨な事になったのは(多分)「今の社会制度」に悪い点があって、それを是正すべきだとも書き込んできました。
とーる氏が現状分析をしている事は分かっていましたが、「悪い所は手続きを踏んで変えればいい」と書いていたので、根底の部分で対立していない・・と書き込んだのです。
酒の飲み会で不満を言っても社会は変わらないので、ここに書き込んでる。それも特別な話では無く、当たり前の話を。
他に他意はない。愚公山を移す。それを理解して戴ければ、それでいい。
どこが悪いかが分かれば、とーるさんの様な方が活躍すればいい。私などには歯が立つまい。
それとFAZZさん
だいぶ論旨が変遷しているが、単に絡んでいるだけのように見受けられるから、これにて終了。
投稿: あまのじゃく | 2011年1月25日 (火) 10時00分