再び、多面的な情報への思い
今年5月に「多面的な情報への思い」という記事を綴りました。同じモノを見ていても、見る角度や位置によって得られる内容が極端に違ってきます。一つの角度から得られた情報から判断すれば明らかにクロとされたケースも、異なる角度から得られる情報を加味した時、クロとは言い切れなくなる場合も少なくありません。クロかシロか、真実は一つなのでしょうが、シロをクロと見誤らないためには多面的な情報をもとに判断していくことが非常に重要です。
このように書き込み、このブログも多面的な情報を提供する一つのサイトとしてインターネット上の片隅に加わり、公務員やその組合側の言い分を発信してきました。とりわけ自治労への手厳しい見方がインターネットを通して散見できますが、思い込みや事実誤認による批判だけは避けて欲しいものと願っていました。したがって、客観的な議論の土台を築くためにも多面的な情報の発信が欠かせないものと考えています。
再び、そのような思いについて今回の記事で取り上げようと考えたのは、民主党の小沢元代表が検察審査会の議決によって強制起訴される報道に接した時です。定められた制度に基づき示された結論ですので、そのことに対して不当だと批判するつもりはありません。審査会委員11人の平均年齢が30.9歳という極端な偏りも、くじ引きによる偶然だろうと信じています。しかし、その11人の委員がどの程度、多面的な情報をもとに判断されたのかは非常に興味がある点でした。
これまで当ブログで何回か紹介している「永田町異聞」の「検察審の欠陥をさらした小沢強制起訴議決」や「検察審議決の重大な欠陥を無視するマスメディア」という最近の記事のような事実関係を押さえるだけでも、違った結論の出る可能性が高まることも否定できません。そもそも検察は贈収賄という本丸をめざし、政治資金収支報告の不備を虚偽記載として捜査に切り込んでいました。さらに検察は自ら描いたシナリオに対し、世論の追い風を得ようとして数々の情報をリークしていたことが明らかです。その結果、小沢元代表が「何か不正を働いている」というイメージを作り出すことに成功していました。
その検察も大阪地検特捜部の証拠品捏造問題で、捜査手法などに対する信頼が失墜しています。このような検察の体質が明らかになっていますが、これまでマスコミは検察情報を鵜呑みにした論調で報道を繰り返しがちでした。そのため、全員一致ではなかったようですが、「起訴相当」に至った今回の議決は、マスコミ情報から一つの見方を固めていた委員の多さの表れだったことが想像できます。とは言え、植え付けられた疑念を拭えるような適切な情報発信が、小沢元代表側に不足していたことも指摘しなければなりません。
ちなみに今回記事の主題は、小沢元代表がシロかクロかを扱うものではありません。今後、司法の場でシロクロが争われることになりますので、その行方を関心を持って見守っていくだけです。今回、提起したい問題は多面的な情報の大切さです。言うまでもありませんが、裁判官に対しては多面的な情報を適確に把握され、必ず公正な判決を下されるよう誰もが期待しているはずです。それでも冤罪はなくならず、無実の人が理不尽な処罰を受けてきたケースも決して少なくありません。
新党大地の代表だった鈴木宗男さんの「ムネオ日記」もブックマークし、よく閲覧しているサイトです。先月、斡旋収賄罪の実刑判決が確定していますが、鈴木さんの日記を読み続けていると、この事件も検察の描いたシナリオをもとに作られた構図が感じ取れてしまいます。本人が発する情報や主張ですので慎重に受けとめるべきものなのかも知れませんが、検察への不信が強まっている中、裁判所側の供述重視の判断にも疑問を持つ必要性が生じているのではないでしょうか。
特にその供述内容が真実なのかどうか、検察の言い分がすべて正しいのかどうか、これまで以上に裁判官には多面的な情報をもとにした検証能力が求められていくはずです。もう一つ、違った角度からの情報を得たことで、これまで認識してきた印象が変わった事例を紹介します。やはり最高裁まで争った結果、収賄罪の実刑判決が確定した防衛省の事務次官だった守屋武昌さんに絡むエピソードとなります。
時々、図書館から本を借りています。最近、借りた本の中に守屋さんの著書『「普天間」交渉秘録』がありました。官僚の立場から普天間飛行場の移転問題などを生々しく綴ったドキュメントでした。収賄事件に関しては「便宜を図ったことはない」と一言のみを添え、守屋さんは「防衛が国の重要な問題となり、それを当事者たちがどのように考え、どう対応したかを記録に残したい」と述べ、在日米軍再編や防衛庁省昇格の問題を中心に著した書籍となっていました。
在職中の日記をもとに正確な日時とともに、すべて実名が記された文字通り様々な交渉に関する秘録でした。失うものがなくなった守屋さんだからこそ、ここまで踏み込んだ記述ができたものと思え、たいへん興味深い内容でした。辺野古への移転問題の是非は横に置きながら読み進めましたが、単なる暴露本ではなく、一定の自制心が働いた文章の中から関係した政治家に対する評価も感じ取れていきました。
例えば防衛通と目され、防衛大臣経験者である自民党の石破茂政調会長の評価は決して高くないようでした。「どれだけ我々が沖縄の現地に足を運び、苦労して辺野古の案をまとめたか」というような言葉を石破政調会長から聞いた記憶があります。しかしながら守屋さんの秘録の中では、石破政調会長の存在感は希薄であり、逆にピントの外れた発言を行なう場面などが描かれていました。同様に女性初の防衛大臣を務めた自民党の小池百合子総務会長も、官僚の視点からは厄介な我がままな上司に過ぎなかったようです。
当然、自分自身の言動が正しく、それぞれの人物評も個人的な距離感や関係性の中から語られていることを踏まえなければなりません。そのように割り引いたとしても、私自身の守屋さんに対する評価は少なからず変わりました。防衛省に長く君臨し、利権をむさぼっていた「悪人」としか思っていませんでしたが、守屋さんの職務に対する熱心さや使命感がヒシヒシと伝わり、それまで抱いていた印象を変えざるを得ない機会となっていました。
今回、具体的な事例を示しながら、多面的な情報について考えてみました。つまり自分自身の体験上、仮にマスコミ情報だけで判断していた場合、小沢元代表の強制起訴は当たり前、鈴木さんや守屋さんは「悪人」というイメージを固定していたものと思っています。真実がどうなのか言い切れるものではありませんが、インターネットや書籍から多面的な情報を得たため、違った視点でそれぞれの人物を評価できるようになっていました。そして、冒頭に述べた意味合いから、このような点の意義を見出しているところでした。
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コメント
私もOTSUさんと同様に、「司法の場でシロクロが争われることになりますので、その行方を関心を持って見守っていく」ことにしています。推定無罪の原則と判決が出た場合のみ「政治生命」が左右されるといった冷静な対応が報道等で行われることが望ましいと考えています。
「裁判官に対しては多面的な情報を適確に把握され、必ず公正な判決を下されるよう誰もが期待しているはずです。それでも冤罪はなくならず、無実の人が理不尽な処罰を受けてきたケースも決して少なくありません。」
最近、『パル判決書』、(講談社学術文庫)を読みましたが、「極東国際軍事裁判」(いわゆる東京裁判)における「刑罰法規不遡及」、「事後法禁止」の原則を無視した「勝者の裁き」に対しパール判事は当時の国際法の基準で起訴内容を検証し判決下しました。当然、連合国の意にそうものではなく、インド初代首相ネールより特に辛辣なメッセージを受けました。しかし、返答は「理非曲直」(道理にかなっていることと反していること)によって裁判の審理をしているというものでした。
当時のマスコミの報道は当然、戦勝国の検閲を受けており、一方的な報道を行っていました。パール判決書の内容が日本国民に広く知られるようになったのはサンフランシスコ講和条約による主権回復の後でした。(占領中は出版は検閲等で不可能でした。)
多面的な情報に基づき「理非曲直」な判断がされることを希望するとともに、国民も冷静な判断を持つことが必要であると感じています。
投稿: ためいきばかり | 2010年10月10日 (日) 23時19分
ためいきばかりさん、おはようございます。コメントありがとうございました。
検察への信頼が大きく失墜している中、ますます推定無罪の原則を重視していく必要性が高まっているものと思っています。さらに裁判官にもその原則などを改めて省みていただける機会になることも願っています。
高知白バイ隊員がスクールバスに衝突した死亡した事故(下記にURL)で、校長ら民間人の証言は信用できない、警察官や検事の主張は全面的に採用、最高裁まで一貫した論理によって止まっていたバスの運転手だった片岡さんは1年4か月間も交通刑務所に収監されることになりました。実は今回の記事を綴りながら、この事件のことも思い浮かべていました。
http://hanzaikochi.web.fc2.com/
投稿: OTSU | 2010年10月11日 (月) 08時32分
OTSUさんの勤勉ぶりには頭が下がります。何がOTSUさんを、このような求道活動に導くのか・・・。
私は本来「いい加減」な人間で、1000兆円の借金がなければ、きっと唯の酒飲みです(笑)。折角OTSUさんが問題提起をしたので、私が「控えていた」話をしましょう。
OTSUさんは以前から『思い込みや事実誤認による批判は避けて欲しい』・・と訴えていますね。しかしOTSUさん自身が吐露しているように「全ての人は思い込みと事実誤認から逃げられない」。
もっと突っ込んで言うと「思い込み」の存在は、「思い込みでは無い物」の存在を前提にしていますね。・・そんな物、あります?
ではどうするかの私の結論から書いておきます。
『全ての思い込みと事実誤認を公衆の前でぶつけ合う』・・・これを「万機公論に決すべし」と言いますね。
つまり人類は「多くの思い込みの中から」正義を探し出す「英知」を持っている(らしい)。だからこそ、人類は生き延びたのです。まあ原爆戦争で死滅したら、その前提も間違いですが(笑)。
投稿: あまのじゃく | 2010年10月11日 (月) 12時02分
あまのじゃくさん、コメントありがとうございました。
ブログのカテゴリーを「日記・コラム・つぶやき」としています。あまり難しく位置付けず、単に個人的な感想を書き込んでいます。なお、あまのじゃくさんの今回のご指摘、『全ての思い込みと事実誤認を公衆の前でぶつけ合う』という点などについて、その通りだと思います。
そのように考えた時、今回の記事内容も私の思い込みで書かれていることを否定できません。その上で、多面的な情報や問題提起の一つとして、読み手の皆さんに受けとめていただければと願っています。
投稿: OTSU | 2010年10月11日 (月) 21時21分