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2010年2月28日 (日)

鳩山首相の軽率な発言

このところブログを続けている意味合いを改めて問われる厳しい場面が増えていました。そのため、いつもより言葉一つ一つに神経を使いながら新たな記事をまとめていました。たいへん貴重な提起を受け、それに呼応しながら様々な物事を掘り下げていくキャッチボールは、非常に意義深いことだと思っています。ただ常に全力で駆け抜けていくのは息が切れる心配もあり、今回は少し角度を変えた題材の取り上げ方とさせていただきます。

鳩山由紀夫首相は26日夜、2010年春闘で連合が日本経団連に対し、定期昇給(定昇)などによる賃金水準の維持を主張していることについて「連合の考えとすれば理解できる。ただ、経済状況はそう簡単ではない。経営者にとってみて、簡単に昇給できるという状況ではないと思う」と述べ、定昇凍結も視野に入れる経団連側の立場にも理解を示した。首相官邸で記者団に語った。

一方、首相は「それぞれの立場で主張し、最終的に労使が意見を交換しながら結論を出していくことになる。私から今、どうすると言う立場ではない」とも述べ、交渉の推移を見守る考えを示した。10年春闘は26日の経団連と連合のトップ会談で、労使交渉を本格スタートさせたばかり。連合は民主党最大の支援組織で、同党代表の首相の発言は、交渉に影響を与える可能性もあり、連合や傘下労組の反発も予想される。

08、09年の春闘では、それぞれ当時の福田康夫、麻生太郎両首相が経団連の御手洗冨士夫会長を首相官邸に呼び、直接賃上げを要請する異例の対応をしていた。【時事ドットコム2010年1月26日】

1か月ほどの前のニュースですが、「何、これ?」と気に留めていたエピソードでした。最近の記事「言葉にすることの大切さ Part2」の冒頭で、「今年の春闘は統一的なベースアップ要求を控えながらも賃金カーブの維持、つまり最低限、定期昇給の確保を求めた取り組みが重点化されています」と紹介していました。したがって、上記のような鳩山首相の発言を耳にした時、本当に驚きました。

日本経団連は、経営労働政策委員会報告で「総額人件費の抑制」を理由にベースアップどころか「定昇の凍結もありうる」という姿勢を打ち出していました。この財界の姿勢に対し、連合は経団連とのトップ会談で、古賀伸明会長が「定期昇給の確保・賃金カーブ維持は最低限の方針であり、ここに手を付けることは労使関係を揺るがすことになる」と強調していました。

この会談の後、記者団から感想を求められ、経団連側の立場に理解を示した鳩山首相の発言が飛び出していました。連合加盟の産別組合の幹部は「耳を疑った。経団連とのトップ会談当日にする発言か。労働者の気持ちを分かっていない。KY(空気が読めない)にもほどがある」と憤りを抑えきれない様子だったようです。

連合は翌日、「首相が定期昇給を軽視するかのような発言をされたとすれば残念」と官邸に申し入れていました。官邸からは「懸念は理解した。与党議員の質問で首相に発言の真意をただす」と返答し、さっそく同日の参院予算委員会で辻泰弘議員が首相への質問に立っていました。それに対し、鳩山首相は「すでに経営側が主張していることを単に紹介しただけ」「自分の立場からどうこう言う立場ではない」と弁明していました。

紹介したニュースの記事にあるとおり連合は民主党の最大の支援組織と見られています。その民主党が政権与党となり、初めての春闘を迎え、いろいろな期待感が広がっていた矢先、連合へ冷や水を浴びせる発言だったことは間違いありません。福田元首相、麻生前首相でさえ、経団連の御手洗会長を官邸に呼び、内需拡大のために賃上げを直接要請する異例の対応を行なっていました。

このような動きと対比すれば、産別組合の幹部から「介入しないという立場では弱い。自公政権でも経団連に賃上げ要請をしていたのに」と不満の声が出るのも当然だろうと思っています。いずれにしても連合が応援してきた政党の政権であるため、様々な労働の問題に対し、きめ細かく適切な気配りが行なわれていくことを期待していました。しかしながら今のところ国家公務員の皆さんの過労死の心配も否めないような職場実情などは、逆に以前より悪化しているような話が聞こえがちであり、たいへん残念なことだと感じています。

水曜の夜、「2010春季生活闘争を成功させる連合三多摩の集い」に参加しました。毎年、著名人による講演の時間があり、今年は読売新聞社会保障部次長の左山政樹さんから「2010総合生活改善闘争の取り組み~社会全体の底上げに向けて~」という演題のお話を伺うことができました。連立政権をめぐる情勢や「全労働者」で取り組む春闘の重要性などが語られ、「政治は必要だが、政党に頼るな」というメッセージも託していただきました。

定期昇給確保の要求など、やはり労使交渉の積み上げによって相場を高めていく必要性の提起でした。官邸に太いパイプがあるからと言って、政治の力に依存しすぎれば「癒着」という批判を招きかねないことへの警鐘だったものと受けとめています。とは言え、今回の記事で取り上げた鳩山首相の軽率な発言に対し、連合が取った迅速な行動に関しては、さすがに左山さんも「やりすぎ」とは見ていなかったことを付け加えさせていただきます。

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2010年2月21日 (日)

襟を正してきた具体例

このブログを始めた頃、「襟を正すべき点は、すみやかに正しながら、主張すべき点は主張する」という言葉を頻繁に使っていました。その思いは今も変わりませんが、ことさら強調する場面が減っていることも確かでした。これまで「主張に比べて、襟を正した具体的な内容の記述が少ない」という指摘を時々受けていたため、あえて違和感を与えるような言い回しを控えるようになっていました。

前回記事「言葉にすることの大切さ Part2」のコメント欄の中でも、「修正すべき部分があれば素直に外部に見せる必要がある」「貴方の意見を受け止めると言ったならば、こちら側で何か明確に変わった事を明示する必要も有る」「判りやすく理解できる様な実例の提示がありません。この実例の提示はすごく重要な要素で、これが無いとしょせん世間の評価は変わっていかない」というご意見が寄せられていました。

以上のような問いかけに対し、コメント欄では踏み込んだレスに至っていませんでした。決して「スルー」していたつもりはなく、以前の記事(「襟を正す」記載の難しさ)を紹介していたため、当方の立場や見解は理解いただいているものと解釈していたからでした。合わせて「変わり続けている市役所」という記事も綴っていましたが、改めて疑問を呈する人たちにとって紹介した記事のような内容では、適切な「答え」になっていないという認識を新たにしています。

つまり相手方に伝わらない言葉は何も発していないことと同じという点を意識し、今回の記事に臨んでいます。もともとインターネット上に発信する言葉は、不特定多数の方々から閲覧される、基本的に「永久保存」の扱いとなる、このような点を常に意識して一言一句を大事にしてきました。とりわけ記事本文は表現の仕方をはじめ、誤字脱字などにも注意しながら推敲を重ねた上で投稿しています。

自覚していることですが、そのような表現方法の配慮などは回りくどい言い方につながり、結果として分かりづらい記述が多くなっていたはずです。それでも最大限、苦心しながら言葉を選び、私自身が伝えたい内容をそれぞれの記事に託してきたつもりです。その上で「襟を正す」記載の難しさを綴った以前の記事で、訴えていた点は次のような内容でした。

退職手当をどれだけ削減したか、特殊勤務手当をどれだけ見直したかなど、今までが恵まれていたと言われれば、それまでの話であり、さらに組合役員の立場からすれば「組合があったから、このような決着をはかれた」との表現となります。つまり個人の責任で運営しているブログとは言え、組合委員長の立場を明らかにしている限り、襟を正した内容そのものを誇示するようには扱えないものと思っているからでした。

その記事の直後が「変わり続けている市役所」であり、具体的な事例を示しながら綴っていました。それ以降、襟の正し方に対するコメントが寄せられた際、この2つの記事の紹介をもってレスに代えてきたことが少なくありません。ただ残念ながら冒頭に申し上げたとおり、決して充分納得いただける内容にはなり得ていないようでした。そこで今回、もう少し踏み込んだ記述ができるのかどうか、もしくは単なる補足記事にとどまるのか、いろいろ考えを巡らしてきました。

まず過去の資料にあたり、退職手当の数字などを調べてみました。公務員批判の火に油を注ぐような話かも知れませんが、たどってきた事実は事実として明らかにさせていただきます。もともと公務員には定年の制度がなく、退職手当の支給月数も青天井でした。私どもの市では1976年に63歳(管理職は60歳)での退職勧奨制度を導入し、その時に最高支給月数を給料の95月分と定めました。ちなみに全国的なニュースとして、ある市役所の給食調理員の「退職金が4千万円」と騒がれたのが1983年でした。

1985年に60歳定年制が施行され、最高支給月数を86月分に改めました。その後、私どもの市では上限を1987年に68月分(算定基礎から調整手当を外す見直しも)、1992年に62.7月分、2005年に59.2月分とし、現在に至っています。なお、1987年以降、国や東京都と上限を同じ月数とする引き下げが続いています。このような水準で退職手当が支給されること自体、まだまだ恵まれているものと思っていますが、4半世紀の間で最高支給額を2千万円近く下げてきたことも事実でした。

国家公務員の賃金水準を100とし、地方公務員の賃金水準を比較する目安としてラスパイレス指数というものがあります。かつては三多摩各市、軒並110を超えていましたが、今では、より100に近付く傾向をたどっています。昔、よく組合は賃金交渉で「人材を確保するためにも、官舎などの劣った福利厚生面を補うためにも、国や都を上回って然るべきだ」という主張を行なっていました。今では、あまり強調することのない言葉となっています。

このような記述がどのような反応をいただくのか予想できないところですが、続いて特殊勤務手当にも触れてみます。以前、このブログで「特殊勤務手当の見直し」という記事を投稿していました。その時の見直しで、批判を受けがちだった技術手当や保育手当などを廃止し、18項目から5項目に絞っています。残った手当は、滞納整理、福祉現業、行旅病人取扱、不快危険、災害時緊急出動手当でした。

職員の待遇の切り下げは人件費の圧縮につながるため、「これだけ行政改革を推進した」という成果として公表されます。組合の立場からは「これだけ後退を余儀なくされてきた」という表現となります。しかし、私自身も、組合員の皆さんも公務員に対する逆風を強く感じているからこそ、この間、「既得権」に固執しない判断を受け入れてきています。要するに給料明細の額が減ることをやむを得ないものとしてきました。

時代の巡り合わせとも言えますが、私が書記長から委員長を務めている最近10年間の変化のスピードは、本当に目まぐるしいものがありました。ただ最低限、労働条件の変更は労使交渉を尽くしながら、合意点を探るという労使の信頼関係は維持してきました。同時に組合員の皆さんとも情勢や問題意識の共有化に努めながら、数々の後退局面において合意形成をはかった上での決着を基本としてきました。

組合員の目の前の「利益」を守ることが労働組合の重要な役割であることも間違いありません。しかし、とりまく全体的な情勢を見誤り、時代状況の変化に対応できなかった場合、より大きな組合員の「利益」を損ねる可能性もあり得ます。最近では農水省の「ヤミ専従」の問題などが象徴的な事例だと感じていました。いずれにしても今回の記事が、どこまでmobileSEさんらの要望に答えられたのかどうか自信ありませんが、ここで一つの区切りとさせていただきます。

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2010年2月14日 (日)

言葉にすることの大切さ Part2

金曜の夜、連合は春闘開始宣言中央集会を日比谷公会堂で開きました。今年の春闘は統一的なベースアップ要求を控えながらも賃金カーブの維持、つまり最低限、定期昇給の確保を求めた取り組みが重点化されています。また、これまで以上に非正規や未組織労働者の待遇改善に力を注ぐことを方針化し、連合は今春闘を「全労働者の労働条件改善に取り組むスタートの年」と位置付けています。

毎年、この時期に当ブログでも春闘に関する話題を取り上げてきました。昨年は「季節は春闘、多忙な日々」という記事を投稿していました。そろそろ春闘についても触れようと考えていましたが、このブログを続けている上で、そのような季節ネタよりも重要な問題に向き合うこととしました。誤解されないものと思っていますが、当ブログにとって春闘より重要な問題という意味合いであり、念のため、春闘を軽視したものではないことを一言添えさせていただきます。

さて、むかし民間、今・・さんとmobileSEさんからは、いつも厳しい投げかけがあり、コメント欄だけでは充分お答えできない重い内容が寄せられていました。なお、むかし民間、今・・さんとmobileSEさんの問題意識は必ずしも同一視できないようであり、加えて、お二人の疑念点すべてに対して、たいへん恐縮ながら適確に答え切れない心配もありました。合わせて、お二人が抱くような問題点について、直接コメントされない人たちの中にも同じように見ている可能性が考えられました。

そのため今回は、このブログへ数多く寄せられるコメントの傾向を振り返りながら、これまで繰り返し述べてきた見解の棚卸しのような記事としてまとめてみるつもりです。個々の具体的なコメント内容を私の勝手な解釈により、的外れな答えを示し、迷惑や不快な思いを与えないためにも総括的な内容のほうが適切だろうと判断しています。したがって、前回記事「言葉にすることの大切さ」に寄せられた具体的なご指摘などに対し、網羅的にお答えする記事とはならない点をあらかじめお断りさせていただきます。

改めて前回の記事で強調したかったことについて

前回の記事は、公務員やその組合の政治的な活動の是非などを問いかけたものではありませんでした。不特定多数の方々の閲覧を前提としたブログ上において、私自身が切実に願っている議論のあり方について心構えなどを提起していました。立場や視点の異なる者同士、それぞれの主張を言葉にして語り合わなければ、歩み寄る可能性は皆無だろうという問題意識からでした。

その「溝」が途方もなく深い者同士が議論しても、絶対近付くことはなく、逆に不信感を広げてしまうとの見方があることも否定しません。だからこそ、相手の言い分にも率直に耳を傾けた「Yes、But」の呼吸が、とりわけネット上には求められているものと考えています。確かに私自身も自分の考え方が正しいと信じながらブログ上で発信しています。コメントをお寄せいただく皆さんも、それぞれの持論に自信を持って投稿されているものと受けとめています。

その際、相手方の意見を頭ごなしに否定せず、「そのような見方や考え方があるのだな」という謙虚な姿勢を持ち続けるように心がけています。その上で、自分自身の考え方と異なる部分について、「私はこのように考えています」という返し方を重ねてきました。そして、このような意見交換を経て、お互いがどのように感じ取っていくのか、同時に閲覧されている人たちがどのように感じるのか、それこそ言葉を大切にした「腕の見せ所」だと思っています。

一つの価値判断で結論を押し付けられることの違和感について

これまで「公務員はこうあるべきだ!」という膨大な数のコメントをいただいてきました。大半は真摯に受けとめるべき意見でしたが、中には組合役員の立場から反論を加えなくてはならない場合もありました。時々、「こうあるべきだ」と思い描く公務員像と一致しない点があるからと言う理由で、「役所を辞めろ」という辛辣なコメントも受けていました。

繰り返し述べてきましたが、そのような耳の痛い話を聞ける機会は貴重なことだと思っています。それでも当ブログの目的や位置付けそのものを否定するような批判の声に接すると、大きな無力感にとらわれがちでした。一方で、私自身の主張に一定理解くださる皆さんも多く、励ましの言葉も数多く頂戴してきました。このようなコメントは、民間にお勤めの方々からも多数お寄せいただいているため、市民の皆さんの声も多様な幅があることを確かめる機会となっていました。

ブログを4年以上続け、たくさんの批判意見を受けながら「まったく変わっていない」と非難する声があります。「まったく変わっていない」と決め付けられるのも本意ではありませんが、公務員組合の立場性などについても様々な評価があります。繰り返しのような話となりますが、批判の声もあり、賛同の声もあるという構図をたどってきました。つまり私の言い分が常に四面楚歌の状態だった場合、すみやかに「誤り」を自覚し、全面的に現状を否定しなければならなかったものと思っています。

木を見て、森全体が判断され、別の木まで批判される風潮について

飲酒運転の問題など、よく見られる傾向でしたが、一部の公務員の不祥事が公務員全体の批判につながりがちでした。言うまでもなく、公務員全体の声を代弁しているブログではありませんが、何かあるたびに関連した批判コメントが寄せられていました。同じ公務員の立場として「関係ありません」とは言えないため、「対岸の火事としないように戒める機会とします」という対応に努めてきました。

いずれにしても直接責任を取れる範囲と到底関与できない批判が雑多に寄せられています。送る側もそのことを承知の上なのかも知れませんが、前述したように私自身が答えられる言葉で接してきたつもりです。また、同じ産別に所属していても、地域性やその歴史など様々な要素が異なり、まったく作風が違う組合である場合も珍しくありません。産別が異なれば、同じ公務員組合でも詳しい情報さえ、つかんでいないのが当たり前な関係でした。

このような現状の中、他の組合の運動の進め方などに対する批判をもって、自治労の全体像が決め付けられるのも悩ましい点です。さらに私どもの組合に対し、「どこも同じだ」という決め付けからの批判意見ほど悩ましいものはありません。そもそも情報の適否を判断するためには、批判を受けている当事者からも事情や考え方を聞く必要があるものと思っています。以上のような視点を欠いたまま、断定調の批判を行なうことは避けなければならないはずです。

仮にそのように批判しがちな人が、非常に建設的な提言を続けていたとしても、前提としている批判内容の事実関係が間違っていた場合、相手方への説得力が乏しくなることは言うまでもありません。まだまだ述べたいこともありますが、書き連ねていくと止めどもなく続きそうですので今回は、この辺で終わらせていただきます。最後に一言、今回の記事タイトルは、やはり前回からの続きでもあり、安直な「Part2」とすることとしました。

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2010年2月 7日 (日)

言葉にすることの大切さ

いつものことですが、前回記事「岐路に立つ民主党 Part2」も非常に長い書き込みとなっていました。いつも文字ばかりが並ぶ当ブログの記事をお読みいただいている皆さんには本当に感謝しています。大勢の皆さんに閲覧いただいていることが、週1回欠かさず更新していく大きな励みとなっています。また、多くのコメントが寄せられることで、幅広い視点や立場からのご意見に接することができる貴重な機会となっていました。

当然、長々と書き進めれば、いろいろな内容を盛り込んでしまうため、訴えたい点が拡散しがちでした。前回記事のコメント欄で多様な中味のご意見やご指摘を受けていますが、たいへん恐縮ながら今回の記事では政治的な話題を取り上げることの是非に絞って、まとめてみるつもりです。実は水曜の朝、とおるさんと九州男児さんからのコメントに対し、私から次のようにお答えしていました。

お二人の心遣いが感じられるコメントをいただき、改めて前回と今回の記事が大多数の方々に違和感を与えていたということを重く受けとめています。昨夜、記したことですが、政治的な話題の取り上げ方については、より慎重にならなければと考えています。とおるさんのご指摘について、「公務員側の言い分」を理解いただくという第一の目的からすれば、あえて「火中の栗」を拾うテーマ選択がマイナスに働く意味合いも充分理解できます。ただ今回の記事本文で触れたような趣旨も重視しているため、今後、一切「封印」するとまで言い切れませんが、前述したような姿勢を強く心がけていくつもりです。

その後も、元役員さんから提起された沖縄の基地問題などに対する議論が続く中、とおるさんから次のようなコメントもお寄せいただいていました。

こういう話は、価値観を全く異にする人間同士でいくら議論してもわかり合えないし、話が解決に向かわないのです。それが「基地問題を含めた政治全般」のテーマで語ることの難しさで、OTSUさんには「火だるまになってほしくない」し、そのことで「公務員に対して敵意を持つ方を増やす結果につながりかねないことは、OTSUさんが望む結果なのだろうか?」と思うのです。是を非とはいいませんが、「今後、一切「封印」するとまで言い切れませんが、前述したような姿勢を強く心がけていく」に期待しています。

とおるさんのご心配や述べられている趣旨について、たいへん有難く思いながら真摯に受けとめています。合わせて、むかし民間、今・・さんの自治労に属する組合が「市民から見ればカルトと思われるのも仕方のない」という問題意識も理解しています。以前、このブログへもコメントをお寄せいただいたさつま通信さんが、実質的に運営されている「竹原信一後援会」というサイトがあります。よく閲覧していますが、自治労を敵視した記事の多さには非常に残念な思いを強めています。

当事者である自治労に属する組合の役員の立場として、基本的に自治労に対する思い込みや先入観による批判が多いように感じていました。このような傾向は一部のマスコミやインターネット上でも、よく見受けられる話でした。一方で、むかし民間、今・・さんは自治労の組合員ですから、その批判は実際に見られている事例に対するものであることも間違いありません。ただその中には、すぐに改めなくてはならない事例もあるのかも知れませんが、視点を切り替えれば組合として「守るべきもの」も多く含まれているはずです。

さて、政治的な話題の取り上げ方について、慎重を期する考えをお伝えしました。したがって、今回の記事で普天間基地の問題など、具体的な内容に踏み込むつもりはありません。あくまでも当ブログにおけるテーマ設定や位置付けに関し、改めて私自身の心構えなどを綴らせていただきます。先ほど述べたとおり前回記事は内容を盛り込みすぎたため、訴えたかった点が散漫になっていました。そのような訳で、今回の論点につながっている箇所については、そのまま再掲させていただきます。

公務員組合の政治的な活動そのものに様々な評価があることも承知しています。しかし、現状の組合方針は政治的な活動も大切な一つの領域としています。このような位置付けがあるため、このブログを通し、あえて選挙戦や平和の問題に関しても数多くの記事を綴ってきました。組合員の皆さん、さらに不特定多数の皆さんに対し、自治労や私どもの組合が考えていることを発信していく大切さを感じているからでした。

以上のような問題意識があったとしても、とおるさん、むかし民間、今・・さんらのアドバイスに従うことが賢明な判断なのかも知れません。しかし、視点や立場の異なる方々に対し、自分の考えていることを言葉にして伝えない限り、接点を見出す機会は永久に訪れないことも確かです。この考え方は組合の内部に向けても当てはまる話でした。むかし民間、今・・さんのように見ている自治労組合員は、決して少数派ではないはずです。

現在の組合方針に対して様々な評価があり、組合員の中でも賛否の分かれている面があることも否めません。それでも組合の方針は、執行部だけで決めているものではなく、運動の方向性にも決定的な誤りがある訳ではありません。さらに法的な面からもコソコソ隠し立てするようなものはなく、「なぜ、私たちはそのように考えているのか」という論点を適確に発信していく努力こそ、大切な試みだと思っています。

なお、これまでブログを通して主張している内容は、実際の場面でも同じように主張しています。先日、平和運動の地区センターの連絡会が発足しました。強く固辞していましたが、最終的には代表を引き受けることとなりました。担う限りは自分なりの思いを率直に示そうと考え、発足にあたって様々な問題意識を訴えさせていただきました。経験豊富な他の産別や単組役員の皆さんを前にし、たいへん僭越なことであり、失礼に当たる言葉も多かったかも知れません。

幸いにも白けた雰囲気にはならず、前向きな一つの議論ができたものと受けとめています。その会議に参加された皆さんの懐の深さに心から感謝しています。私が提起した主な論点は、平和運動に対する組合員の認識が多様化している現状、反戦平和に関する取り組みの目的とその効果の問題などでした。その上で今後、「なぜ、この運動に取り組むのか」というとらえ返しを重ね、その議論などを踏まえ、組合員へ効果的な情報宣伝活動に努める必要性を訴えました。

また、運動が毎年の恒例行事のようになり、「運動そのものが目的化していないかどうか」という意見も投げかけました。組合員から見た組合費の使われ方の問題と合わせ、組合役員の任務への負担が増している現状を考え、「運動の仕分け」の是非も提起させていただきました。それに対し、「継続することの大事さ」や「一地域だけで判断できない問題が多い」というご指摘を受けています。

さらに連合の中で、始めから議論そのものができないという垣根を作らず、様々なテーマに対して産別間で率直な議論を進めていくことの大切さを述べさせていただきました。逆に連合内でも意見がまとまらないような方針だった場合、国民全体へ共感の輪を広げることも期待できず、まして政権与党の政策判断に影響を与えることは非常に難しいという意見を付け加えていました。

ここでブログの話に戻ります。以上のような問題意識があり、広く共感の輪を広げるための一つの手法として、インターネット上での情報発信の重要性を認識しています。その中で、政治的な話題を取り上げる際は、より慎重さに留意していかなければなりませんが、これからも必要に応じて「火中の栗」は拾っていくつもりです。付け加えれば、ネット上に掲げることで、その方針や考え方が普遍化していけるものなのかどうか、とらえ直す機会につながる意義も感じています。

このブログを開設して間もない頃、「2本のレールなのか?」という記事を投稿していました。今回の記事を書き込むにあたって、その「2本のレール」という言葉を思い出していました。とおるさんが懸念されているとおりテーマによっては、永久に交わることがない「2本のレール」なのか、近付く可能性もあるのかどうか分かりませんが、言葉にすることの大切さを信じたいものと考えています。

2009年末、改めて当ブログについて」という記事で、コメント欄での議論において「結論を出すことを目的としていません」と書きました。最近、『竜馬がゆく』(司馬遼太郎・著)の中で、次のような記述があることを知りました。この話は単に議論を否定するものではなく、「相手を尊重し、相手を否定しない」という竜馬の人柄を表しているそうです。私自身も議論することを無意味だとは思っていません。ただ簡単に結論を見出せない場合などは、それぞれの答えを押し付け合うのではなく、「なぜ、そのように考えるのか」という言葉を大切にし、いかに共感の輪を広げられるかどうかの競い合いだと考えています。

竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬ、と自分にいいきかせている。もし議論に勝ったとせよ。相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。

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