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2009年12月27日 (日)

2009年末、改めて当ブログについて

最近、ある執行委員から「いつも記事本文しか読んでなくて、久しぶりにコメント欄にも目を通したんですが、たいへんですね」と声をかけられました。確かに先週は普段より労力と気力を使った1週間だったかも知れません。また、その執行委員の言葉にもありましたが、定期的に当ブログを訪れてくださっている人たちが必ずしもコメント欄までご覧になっていないようです。

そのため、時々、コメント欄で交わされていた内容を改めて紹介しながら、最新記事を綴ることがありました。前回の記事「竹原市長の問題点」の中でも、あまのじゃくさんのご意見を数多く引用させていただきました。前々回記事「阿久根市長の常識、世間の驚き」のコメント欄で、あまのじゃくさんから「市長は特権や既得権益を開放しているように見えるから、権利の議論をすべきである。まずその議論を行なわなければ、市長の言動が理解できない」という趣旨の投げかけがありました。

この提起に対し、私から「あまのじゃくさんのコメントに対するレスを意識しながら新たな記事をまとめてみるつもりです」と答えていました。その経緯を踏まえた上で、私は「権利」問題の議論は横に置かせていただきました。この判断は結果として、あまのじゃくさんを怒らせ、意図的な「論点ずらし」を行なっているように見られてしまいました。私としては、前回の記事でも記したとおり以前の記事(公務員批判への「答え」は? Part2)などの議論を通し、あまのじゃくさんへ公務員の「権利」問題に対する自分なりの考え方を示していたつもりだったからでした。

前回記事のコメント欄で、あまのじゃくさんから「特権の是非を保留するのなら、私の問題提起と異質な話と見做すしかありません」と指摘を受けました。それに対し、私からは「権利」問題の終着点が正しいものだったとしても、その目的を達成するために「何を行なっても許される」という発想や手法を強く批判していることを改めて説明させていただきました。さらに余計な一言として、「竹原市長の手法の是非が土俵であり、相撲を取ろうと思っている相手にボクシングを挑まないようご協力ください」と付け加えていました。

この私からのレスは、あまのじゃくさんを「多様な意見を期待すると言っておきながら、突然ここは相撲場だ、ボクシングなんて認めんとは不愉快極まりない。これにて失礼する」と憤らせ、「自分の都合の悪い話に耳を傾けない者は誰なのか?」という残念な誤解を与えてしまったようです。このような別れ方は非常に不本意なものであり、私からは次のようなお詫びと釈明を加えさせていただきました。なお、引用を多く使うと、いっそう長い記事となりそうですが、ご容赦ください。前回記事のコメント欄からの転載部分は赤字で示していますので、一度、ご覧になった方は、読み飛ばしてください。

初めに誤解を与えた点などは謝らなければなりません。あまのじゃくさんの前回記事へのコメントに対し、「権利」問題を中心にしたレスを行なうような印象を与えた点はお詫びします。合わせて、その内容の議論を横に置くと言いながら今回の記事で、あまのじゃくさんのコメントを多数引用していた点も適切ではなかったかも知れません。

また、「多様な意見を認め合った議論ができることを願っています」と書きながら、あまのじゃくさんのコメント内容に対して「土俵上でのボクシング」と表現した点は非常に不適切なものでした。不愉快な思いを与えてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。

なお、繰り返しのような話となりますが、公務員の「権利」問題など是正すべきものは是正すべきというのが私の考え方です。その上で、使用者の視点のみで労働条件の問題などが一方的に改められる手法には反対の立場です。このような基本的な立場は、今回の記事本文でも紹介した以前の記事(公務員批判への「答え」は? Part2)などで述べてきたものです。

阿久根市職員の賃金水準が地場の相場との乖離があり、見直しが必要な場合、大きく二通りの方向性が考えられます。一つは公務員制度全般の改革です。もう一つは、独自な労使交渉を尽くした上での労使双方が合意できる決着点を探ることです。その際、当然、労使それぞれが阿久根市民の皆さんの声を重く受けとめた中で判断していくことになるものと思っています。

そして、ここから先が論点の枝分かれになっていくのだろうと見ています。このような方法では、大胆な削減はできないと思われる方々がいらっしゃるはずです。同時に以上のような主張が結果的に自分たちの既得権を守るための方便だと言われるかも知れません。

しかし、社会全体の雇用が劣化した中、本来「平均」と見なしてきた公務員賃金を下へ引っ張る力が強まっていけば、先ほどの述べた手法でも大胆な見直しがあり得るものと考えています。ちなみに私自身の思いとしては、社会全体の賃金水準が底上げされていく方向性を理想視しています。

公務員賃金の問題に対する個人的な見解を改めて述べさせていただきました。このような面からも竹原市長の職員組合を敵視する姿勢は不当だと思っています。職員組合を本当に敵だと見ている皆さんにとって、竹原市長の破壊的な手法は喝采の対象となっているようですが、たいへん残念な構図だと感じています。

長々と書きながら、かえって分かりづらくしているのかも知れませんが、私自身の中では前回と今回の記事も一貫した主張を展開しているつもりです。めざしているゴールが本当に正しいものだったとしても、竹原市長の手法は大きな問題であるものと考えています。特権の是非を留保と述べたのは、そのゴールが正しくても間違っていても、手法が誤りという論点は同じだからでした。

そのように考えている中で、あまのじゃくさんのご意見は「めざすべきゴールが正しいのだから、手法の誤りは許される、些細な問題だ」というように聞こえ、「だからゴールの正しさを認識し合うべきだ」と指摘されているように受けとめていました。つまり論点をずらそうとしているのは、あまのじゃくさんだと感じてしまい、いろいろ失礼なレスにつながってしまいました。日頃から言葉遣いは注意しているつもりですが、不愉快な表現などがあった点は冒頭申し上げたとおり反省しています。

残念ながらその後、あまのじゃくさんからコメントは寄せられていません。ただ【竹原信一という男】BBSでの書き込みを拝見していると、引き続き当ブログを訪れてくださっているのかも知れません。今回の記事でも、あまのじゃくさんとのやり取りを大きく取り上げさせていただきましたが、たいへん重要な論点だったため、私なりの判断でまとめています。ぜひ、ご理解ご容赦ください。

なお、あまのじゃくさんから「私に異論のある方は件のBBSに書き込んでください」と言われていましたが、私自身、週1回の記事更新とコメント欄での対応が手一杯という現状です。このブログの話題が取り上げられているのを目にし、そのBBSに初参加しようかどうか少し迷いましたが、前述したような事情から見送っていました。言うまでもありませんが、BBSで議論されている方々が当ブログを訪れてくださることは心から歓迎する立場です。

前回記事のコメント欄には、他にも多くの皆さんから貴重なご意見やご指摘が寄せられました。その中で、mobileSEさんからのコメントには大きなショックを受けました。これまで当ブログの記事内容を読まずに先入観で批判される方々も少なくありませんでした。それに対し、mobileSEさんは「このブログの全ての記事を2回ずつ目を通しています。一度目はコメントも含めて時間をかけて読みました。二度目は本文のみ最初から最後まで一気に読んでいます」とのことでした。

そして、熟読された結論として、mobileSEさんは「これだけの長い期間、多種多様な意見を目にしているのに、主張にぶれがまったく現れない。たしかに見事ですが、これが何を意味していると思いますか?」と述べられ、「自分の考えが絶対で異論を受け付けていないのはどちらの方なのか」という厳しい口調で問われていました。この問いかけは当ブログの基本的な土台にかかわるものであり、私から次のようにお答えさせていただきました。

mobileSEさん、そこまで当ブログをお読みいただいたことについて、本当に有難く思っています。この気持ちは正直なものです。

ただmobileSEさんが抱かれた印象に対しては、とても残念な思いは昨夜述べたとおりです。これまでブログのコメント欄を通し、また、実際の場面でも、そのような見られ方をされたことはありませんでした。内容面での批判は数え切れず、私のレスの歯切れの悪さを非難されたこともありましたが、全体を通して「自分の考えが絶対で異論を受け付けていない」という指摘は初めてでした。

確かに私自身の考えは、基本的に一貫しています。公務員も含めて労働組合の必要性について、この点に関してはぶれていません。そこに疑念を抱くようでしたら、組合役員を続けていません。その上で、私自身は「このように考えていますが、皆さんはどう考えますか」という基調で常に記事を綴っています。つまり結論を押し付けるような物言いを意識的に避けています。

私の文章を読まれた方々が、少しでもその主張に対して理解いただければ幸いだと願いながら続けています。自分の主張が絶対正しく、そのことを理解できない方々が問題あるというような押し付けもしていません。あくまでも読み手の皆さんにどう判断いただくかという点を重視してきました。

このような基本的な考え方があり、「多様な意見を認め合った議論ができることを願っています」という言葉につながっています。このスタイルが「議論を期待しない」となるのかどうか私自身には理解できません。この場合も、あくまでも「私はこのように考えている」であって、mobileSEさんがそのように感じたことを否定するものではありません。

「言葉が綺麗」かどうかも分かりませんが、インターネット上で匿名での意見交換となりますので、できる限り言葉遣いには注意してきました。重ねて残念に思うのは、開設当初からの記事を熟読いただいたmobileSEさんから、このブログの文章から「先入観を持たずに考えてみてもらえないでしょうか」という言葉が投げかけられてしまう点でした。何か欺瞞に満ちた文章のような言われ方ですが、私自身は立場の異なる人たちにも少しでも届くような言葉を重ねてきたつもりでした。

そして、mobileSEさんは私自身が変わっていないことに最も憤られているようですが、なぜ、そのように断定されるのでしょうか。mobileSEさんが描いている公務員像と離れたままであるという点が大きいのでしょうが、もしかしたら確かにその価値観とは一致できないのかも知れません。

その上で、確実に私どもの市役所は変わり続けています。以前の記事に書いたとおり10年前、20年前と比べての話となりますが、そのことを体感しています。20年前が「ぬるま湯」すぎたという強い批判を受けるかも知れませんが、現状のまま立ち止まっていないことは確かです。

また、このブログを通し、厳しい率直な意見に数多く触れる機会があることで、公務員組合の置かれた立場などを以前より客観視できるようになっていました。ブログの記事からは伝わらないのかも知れませんが、そのことが非常に重要な判断材料になっています。いずれにしても、まったく私自身に変化がないように決め付けられることにも大きな違和感がありました。

市内の方だと伺いましたが、実際に私どもの役所の日常をご覧になって批判されているとしたら、まだまだ至らない点が多いことを猛省しなければなりません。長々と「泣き言」のようなことを書いてきましたが、やはりインターネットを介して伝え切れない思いも残ります。

mobileSEさんがよろしければ、いつでも直接お会いしたいものと思っています。誤解を解ける場となるのか、私自身の不充分さを改めて認識する機会となるのか、たいへん興味深いものがあります。この問いかけがネット上での議論におけるルール違反のように感じられたら申し訳ありません。黙殺してくださって結構ですので、失礼致しました。

私からのお願いを「ルール違反」と受けとめられずに安堵したところでしたが、時間を置いた上で機会があればお会いすることとしています。この二人のやり取りについて、kさんらから温かい言葉のコメントもいただきました。常に賛否が交わされるコメント欄であるからこそ、ここまで心が折れることもなく、このブログを続けられてきたものと思っています。なお、あくまでも私の判断で各コメントの一部分を切り取った紹介となっていますので、ぜひ、お時間が許される方は当該のコメント欄を一読いただければ幸いです。

さて、2009年も数日を残すのみです。今年最後の記事となる予定ですが、いつものことながら、たいへん長くなって恐縮です。さらに続けますが、上記に示した2点のコメント内容の中に私なりの様々な問題意識を詰めていました。そのため、若干繰り返しのような話も含まれていますが、改めて当ブログの目的や位置付けなどについて次のとおり整理してみました。

  1. 公務員やその組合の言い分をインターネット上に発信し、不特定多数の皆さんに少しでも理解いただけることを願いながら続けています。その際、多様な考え方があることを前提としているため、意識的に断定調の表現は避けています。私自身が正しいと思っている内容を訴えていますが、ブログを閲覧された人たち全員から賛同を得られることは稀だろうと見ています。あくまでも当ブログの記事内容やコメント欄での議論に接した人たちが、どう受けとめるのかであって、全員が納得できるような結論を出すことを目的としていません。
  2. コメント欄を通し、様々な立場や視点からのご意見を伺えることを貴重な目的としています。厳しい批判意見があることを受けとめ、日常的な活動を進められる意義を大きなものと認識しています。そのような本音の声を把握できないまま、公務や組合活動を担うのは、街路灯のない夜道を歩くようなものだと考えています。
  3. 相反する意見の対立は平行線をたどりがちです。上記1で述べたとおりコメント欄で結論を出すこと目的としていませんので、「多様な意見を認め合った議論」をお願いしてきました。自分自身の考えが絶対正しいと思い込み、他者の意見に耳を傾けないような姿勢だった場合、相手を論破することが目的となりがちです。その結果、感情的な非難の応酬となり、殺伐した議論につながる懸念があり、一般論として常に申し上げてきた点でした。ちなみに一つの結論を必ず出さなければならない実生活の場でも極力、このように心がけるべきだと考えています。
  4. 匿名で率直な意見を交わせることは利点だと前向きにとらえています。一方で、匿名で発信できるということは、立場などの成りすましや都合良く情報を操作することも可能となります。それはそれでモラルの問題となりますが、このようなネット上の私的な場では特段何か問われるものではありません。したがって、誰がどのような立場で書いたかは、それほど大きな問題ではなく、その人が書き込んでいる言葉、つまり内容がどのように他の閲覧者の皆さんの共感を呼ぶのか、真偽が判断されていくのかどうかだと考えています。
  5. 私どもの組合員の皆さんに対しては、組合活動を身近に感じてもらえるような目的も持って続けています。そのため、組合の機関紙などで当ブログについて時々PRしてきました。あくまでも個人の責任による運営ですが、私どもの組合員の皆さんから見れば、匿名での発信とはなっていません。一つ一つの主張を言い放しとできず、一つ一つの言葉に責任を持って発信しています。そのような側面があるため、歯切れの悪いレスだと感じられる場合もあるかも知れませんが、自分の思いと離れた内容を記したことは一度もないことを強調させていただきます。

先ほど述べたとおり今回が2009年の最後の記事となります。コメント欄での議論は続くものと思いますが、この1年間、多くの皆さんにご訪問いただきました。本当にありがとうございました。どうぞ来年もよろしくお願いします。ちなみに次回の更新は、例年通り元旦を予定しています。ぜひ、早々にご覧いただければ誠に幸いです。それでは良いお年をお迎えください。

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2009年12月19日 (土)

竹原市長の問題点

前回の記事は「阿久根市長の常識、世間の驚き」でした。その後、竹原市長の問題発言は阿久根市議会の中で追及されるなど、全国的なマスコミ報道の中でも連日取り上げられていました。市議会の答弁では一貫して強硬的な態度を示していた竹原市長でしたが、次のニュースのとおり問題となったブログの文面の修正には応じることを受け入れたようです。

鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が障害者の出生を否定するような文章を自身のブログに掲載した問題で、竹原市長は18日、障害者の地方議員ら3人と面会し、文章の修正に応じる意向を示した。同日午後、ブログの問題部分は削除され、「ただいま修正中」と書き込まれた。

障害者の県議や市議らで作る「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」(約40人)の平野みどり・熊本県議(51)ら3人が約30分間、非公開で面談した。平野さんらによると、竹原市長は「誤解を招きかねない表現だった」とブログの記述の修正を約束した。しかし、謝罪については「ブログの文面を否定し、社会の現実を打ち消すことになる」と拒否した。

また、平野さんらが「差別する意図がなくても、人を傷付ける言葉があれば差別になる」と指摘したところ、竹原市長は「それでは『めくら千人めあき千人』という言葉はどうなのか」と、視覚障害者を差別する言葉を使って言い返し、「言葉を制限すると文化がしぼむ」との持論を展開。抗議を受けても発言を撤回しなかったという。読売新聞は、この件に関して竹原市長に取材を申し込んだが、応じなかった。【読売新聞2009年12月18日

前回記事のコメント欄へ、もっと竹原市長の発言を支持される人たちの声も寄せられるものと思っていました。早い段階では、よっちゃんさんから「あんたら国語力がホントに無いんだな?」とし、「弱者切り捨て」とは読み取れないというコメントが届いた程度でした。普段より多くの人たちが当ブログを訪れてくださっている中、よっちゃんさんのようなご意見のコメントが続かないのは、さすがに竹原市長の言動に疑問を持たれる人たちが増えている証しなのだろうと受けとめていました。

そのように書いた翌日、あまのじゃくさんから非常に奥深い内容のコメントが寄せられました。阿久根市に絡む以前の記事のコメント欄でも、あまのじゃくさんから多くのコメントを頂戴していました。久しぶりにお寄せいただいたコメントも、高尚な提起が含まれている難解なものでした。さらに竹原市長の言動を支持される意図も明らかであり、私自身のレスも含め、核心となる箇所を紹介しながら今回の問題提起につなげてみます。

私が竹原市長を見て感じるのは「特権にあぐらをかいている者」への嫌悪感があるという事です。それは同時に「既得権益の陰に隠れて犠牲になっている者」へのせつなさを伴っている・・という事です。しかし特権や既得権益など、何時でも何処でもある。しかし「俺の(貧弱な)才能と努力ではこの結果は止む無し」とか「努力の賜物として誰にも文句は言わせない」といった、人間として許容できる範囲を超えてしまった「特権や既得権益」が現在存在するのではと思います。

何故こんなに努力しても報われないのか。あんな奴が何故あれほどの評価を受けているのか。・・・が許容を超えているという意味です。そして、更に重要なのは「不当に報われない者」の生活基盤が破壊されている点です。日蔭者でも食っていければ「愚痴」で収まるでしょう。しかし、それさえも超えている。ためいきの中に、この部分を直視し、メスを入れない場合、何が起こるか。恐らく恵まれた者への限度を超えた、ヒステリックな、場合によっては暴力を伴う騒乱でしょう。そうなっては止める手立てはない

あまのじゃくさんのコメントに対し、私は次のように答えていました。

阿久根市についての記事を書き始めてから、ずっと【竹原信一という男】BBSの議論を拝見しています。その中で、あまのじゃくさんのご意見は、いつもハイレベルで私の読解力では正直なところ難しすぎるようです。なお、最近の「虫眼鏡」と「望遠鏡」の例えは、よく分かりました。確かに「虫眼鏡」で山の紅葉は見れません。その意味で、「虫眼鏡」と「望遠鏡」を持たれている人たちは、私のようなレベルの者が見れない、もしくは気付くことができない風景を見渡しているのだろうと思います。

竹原市長を支持されている皆さんは、竹原市長がその卓越した一人だと受けとめていらっしゃるのかも知れません。しかし、そのような真意や本質などを「虫眼鏡」しか持たない人たちにも適確に伝えられなければ、軋轢や混乱を引き起こすだけではないでしょうか。小学校の先生が小学生相手に大学の授業内容を教えても仕方ありません。「虫眼鏡」しか持っていない私たちが問題だと言われれば、それまでですが、もう少し付け加えさせていただきます。

今回の竹原市長の言葉で傷ついた人がいることは事実です。「勝手に誤解して批判されるのは冗談ではない」という言い分もあるようですが、それならそれで、抗議している人たちが理解できるような説明や釈明を竹原市長は行なうべきではないでしょうか。「どうせ説明しても無駄だ」と切り返されていくのでしたら、このような提起も余計なお世話でしかありませんが…。

上記の私自身のレスは、あまのじゃくさんから問われた「特権や既得権益」の問題を論評していません。決して逃げているつもりはありません。その是非は留保した上で、次のように考えています。あまのじゃくさんや竹原市長が適切で、正当な主義や主張を持っていたとしても、そのことを適確に説明できなければ単に対立心を煽るだけだと思っています。したがって、あまのじゃくさんへのレスであるとともに竹原市長の言動に対する私自身の意見だったと言えます。なお、このコメントに対し、あまのじゃくさんから次のようなご指摘を受けました。

傷ついたから謝罪せよ。うらを返すと人を傷つけずに生きていける。或いは傷つかずに生きていける。しかしそれは無理です。何故なら人間の存在自体が矛盾しているからです。私が目の前のリンゴを食べたら、あなたはリンゴを食べられないのですから。これを突き詰めると「なぜ差別してはいけないのか?」・・どうです変ですか?

私はいたずらに挑発しているのではありません。ここまで一旦ひも解いて議論しないと、実は「障害者」が既得権益になりかねないのです。それは多くの人を不幸にする。但し、全ての特権と既得権益を解放しようとしているのではありません。「ベクトルが反対向きの特権」や「人間の許容を超える既得権益」は開放すべきだと思う。「ベクトルが反対」とは、人は「志は高く」を望む。低い所に特権を設ける事です。

正確に理解できているのかどうか自信はありませんが、あまのじゃくさんのご指摘の趣旨は伝わってきました。ただ出勤前の限られた朝の時間に踏み込んだレスはできそうになく、金曜の夜は忘年会が予定されていました。そのため、土曜以降に私自身の考え方などを改めて示させていただくことをお伝えしていました。また、たいへん難しい提起だったため、新規記事の本文を通して自分なりの思いをまとめているところです。

私自身も「ベクトルが反対向きの特権」などを改めていくことに異論ありません。このような一致点について、あまのじゃくさんにも以前の記事(公務員批判への「答え」は? Part2)などからご理解いただけるものと信じています。その上で、先ほど述べたとおり問題提起の中味の是非を議論することは横に置かせていただきます。あまのじゃくさんとしては、その議論を望まれ、本質的な議論を省いて、竹原市長の問題は語れないものと判断されているのかも知れません。

しかしながら私自身、これまでの竹原市長の言動問題は、常に手法の是非が最大の論点だったと見ています。竹原市長自身の独特な世界観や価値観について、「虫眼鏡」しか持ってない人たちにも、分かるように伝えられない言葉の乱暴さや稚拙さが目に付きます。そして、何よりも大きな問題であるのは、竹原市長が法律をはじめ、当然守るべきルールや規範を無視していく姿勢です。

これまでも繰り返し指摘してきた点ですが、常識や前例にとらわれないことが竹原市長の持ち味だとしても、首長という立場上、あまりにも常軌を逸しています。ちなみに竹原市長のブログ「住民至上主義」の過去の記事から、いつも独特の世界観を垣間見ることができます。2008月11月16日の記事「真実があなたを自由にする」の中で、次のような竹原市長の言葉に接しました。

私は自分が嫌いで、自分を嫌っている自分が好きだ。だから自分の為に生きようなどと思わない。長生きもしたくないし、眠る時にそのまま目覚めなければ良いのになどと思ったりもする。「刺されるぞ」などと言われる事もあるが、「いつでもどうぞ」という気持ちでいる。皆さんに好かれたいなどとも思ってはいない。仕事上面倒だから、どちらかと言えば嫌われない方が良いというくらいのものだ。

上記の文章を読み、竹原市長の覚悟や潔さなど肯定的に評価される人たちも多いはずです。しかし、私にとって竹原市長の数々の問題点のバックボーンが、この文章に含まれているように感じています。「好かれたいなどと思ってはいない」ということは、相手を思いやる気持ちを不足させ、独善的な発想や行動につながっているはずです。状況に応じて敵を作ることを厭わない突破力も必要ですが、敵を作らず目的を達していく調整能力や交渉力もリーダーに強く求められる資質ではないでしょうか。

つまり自分の言動によって、相手がどのように感じるかを想像できないリーダーにそのような能力が備わるとは到底考えられません。障害者団体に抗議を受けるような今回の事態は、いみじくも竹原市長の欠点が浮き彫りになったものと見ています。加えて、いつ刺されても良いという言い方は、攻めてくる相手側にもその覚悟を強要する響きが感じられます。実際、張り紙をはがした職員に対し、労働者への極刑である懲戒免職処分を下せる非情さがそのことを裏付けていました。

あまのじゃくさんのコメントへお答えする形を取りながら、竹原市長の問題点を改めて提起してきました。お二人に共通する主張に対する懸念として、大きな目的を達成させるためには、手段を選ぶ必要はないというように聞こえてくる点がありました。私の誤解だった場合、たいへん申し訳ありませんが、目的のためには「対立や軋轢も辞さず」という発想よりも、目的を成し遂げるためには「何をすべきなのか」が重要であるはずです。

あまのじゃくさんからの貴重な提起に対し、必ずしもかみ合った議論につながらないかも知れませんが、私自身の問題意識を綴らせていただきました。念のため、申し添えなければなりませんが、決して公務員の「特権」議論の論点をすりかえるための投稿ではありません。このように竹原市長を見ている者がいることをご理解いただきながら、ぜひ、多様な意見を認め合った議論ができることを願っています。

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2009年12月12日 (土)

阿久根市長の常識、世間の驚き

瞬間風速的に1日のアクセス件数が1万を超えた時もありましたが、普段は千件に届くかどうかで推移しています。その中で、いつもより極端にアクセス数が増えた日は、必ず何か理由がありました。最近、そのように感じた時、「阿久根市」という検索ワードから訪れる人たちが増えていました。これまで5回ほど次のような阿久根市に絡んだ記事を投稿していました。

現在、Googleで「阿久根市」と検索すると当ブログの記事が1ページ目に並んでいます。したがって、阿久根市が注目を浴びると検索エンジン経由で、このブログを訪れる人たちが増えるようになります。やはり阿久根市と言えば、竹原市長が全国的な知名度を上げていました。その竹原市長の言動が、またしても大きな注目を集めるニュースの発信源となっていたようです。

「高度医療が障害者生き残らす」阿久根市長ブログに波紋

鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が自身のブログ(日記形式のホームページ)に「高度医療が障害者を生き残らせている」などと、障害者の出生を否定するような独自の主張を展開している。障害者団体は反発、市議会でも追及の動きが出るなど波紋が広がっている。

ブログは11月8日付。深刻化する医師不足への対応策として、勤務医の給料を引き上げるべきだとの議論に対し、「医者業界の金持ちが増えるだけのこと。医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない」と批判。そして、「高度な医療技術のおかげ」で機能障害を持ち、昔の医療環境であれば生存が難しい障害児を「生き残らせている」などと述べ、「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」と主張している。

知的障害者の家族でつくる「全日本手をつなぐ育成会」(本部・東京、約30万人)の大久保常明・常務理事は「人類繁栄のため、優れた子孫だけを残そうとするかつての優生思想そのもの。命の重さを踏みにじり、公人の意見とは思えない」と批判。阿久根市身体障害者協会(約1050人)の桑原祐示会長も「差別意識も甚だしい」と反発、役員会で対応を協議し始めた。

同市議会の木下孝行市議も市長に説明と謝罪を求め、14日から始まる市議会一般質問で追及する。竹原市長は取材に対し、「養護学校に勤めている人から聞いた情報をそのまま書いた。事実と思う。障害者を死なせろとかいう話ではない」と説明している。読売新聞2009年12月3日

問題となった竹原市長のブログ「住民至上主義」の記事は、先月8日に「医師不足の原因は医師会」というタイトルで書かれていました。この記事の内容に対し、複数の障害者団体から「福祉政策を預かる首長としての資質に疑問と失望の念を禁じ得ない」「障害者の家族の心を土足で踏みつけにした」という抗議が相次いでいます。しかしながら市長は庁内にいながら「用がある」とし、それぞれの団体との面会には一切応じていません。

つまり竹原市長にとって謝罪も撤回も選択肢にはないほど、確信した発言だったようです。阿久根市役所などに寄せられる電話やメールも、批判的な内容が圧倒的に多い中、自分のブログには賛同した意見を掲げ続けていました。ネット上の掲示板などの意見も圧倒的に竹原市長の発言を批判する内容が多い中、それでも市長を支持する根強い声があることも確かでした。

そもそも「市長の発言は障害者を差別したものではない」と擁護される声も少なくありません。特に竹原市長を熱烈に支持されている皆さんが多数訪問している「竹原信一という男」のBBSにおいては、賛否が真っ二つに分かれ、たいへん激しい議論が交わされています。確かに新聞などの引用は一部を切り取ったものとなりますので、真意が充分伝わらない場合もあります。このブログを読まれている皆さんからフェアな判断をいただくためにも、問題となった文章のほぼ全文を紹介します。

勤務医師不足を解消する為に勤務医の給料を現在の1500万円程度から開業医(2500万円程度)に近づけるべきなどとの議論が出てきている。しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。

医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった。

「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事」というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために。

レイアウト上、改行だけは当ブログのスタイルに揃えましたが、誤字などは原文のままとしています。さらに投稿直後に寄せられた批判メールに対し、11月9日の記事の中で「慎重さを欠く見解に見えたかもしれない」としながらも、「先ずは健康な人々が多く居なければ心を支える社会作りもできはしない。社会作りは人工的に意図的にしなければならない」と竹原市長は答えていました。

前述したとおり竹原市長独特の世界観による本心を表明したものであり、単なる失言の類いではないことが分かります。だからこそ、障害者団体らの抗議に対して、決して頭を下げようとしない竹原市長の姿勢が浮き彫りになっていきます。この一般的な常識では考えられない竹原市長の型破りさが熱狂的な支持者を獲得していることも否めません。私自身の思いは、これまで5回にわたる記事で訴えてきました。

やはり竹原市長の常識には到底ついて行けません。自治労と対立している市長だから非難するものではありません。これほど世間を驚かせ、批判を浴びるような発想や規格外の常識さを持った人物であるため、自治労阿久根市職労や市議会との対立が続くものと思っています。竹原市長を支持されている皆さんにとって、不愉快に感じられるかも知れませんが、ぜひ、このように考える人が多いはずであることをご理解ください。

「阿久根市のその後」のその後を綴る記事となっていますので、最後に、もう一つだけ竹原市長絡みのニュースを紹介します。張り紙をはがして懲戒免職となった職員との裁判での争いは、予想通り竹原市長が負け続けています。しかし、ここでも竹原市長は独特の常識さを発揮し、裁判所の命令を拒み続けているようです。

職員免職効力停止、阿久根市側の即時抗告棄却

竹原市長が、庁舎内で職員人件費の張り紙をはがした元係長の男性(45)を懲戒免職処分にした問題で、福岡高裁宮崎支部(横山秀憲裁判長)は、処分の効力を停止した鹿児島地裁の決定を不服とする同市の即時抗告について、棄却する決定をした。決定は4日付。

決定によると、市の懲戒免職の基準は長期欠勤や贈収賄、横領などで、「張り紙をはがしたことでの懲戒免職処分にした例は過去にない」と指摘。「処分は不適法の可能性がある」とした鹿児島地裁の判断を支持。市側が「市長の指示に従わない職員を職場復帰させれば、民主主義システムが崩れる」とした主張についても、「認めるに足りる証拠はない」として退けた。

市側は、鹿児島地裁の決定以降も男性の復職を認めていない。自治労鹿児島県本部の高橋誠書記次長は「市側は棄却という結果を受け止め、復職など必要な対応を早急に行うべきだ」と話している。【読売新聞2009年12月8日

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2009年12月 6日 (日)

年金機構への採用問題

実は前回記事の中で紹介した筆坂秀世さんの言葉は、あくまでも本題に入る前のイントロダクションのつもりでした。さらに紹介したかった言葉の前に昔話を置いてしまい、イントロの前にイントロを入れるような始まり方となっていました。いつものことですが、たいへん長い文章となるため、途中で予定していた記事タイトルを変更することとしました。

そのような顛末があり、記事タイトルを付けるのには思いのほか苦労しました。結局、「卵が先か、鶏が先か?」というマスコミの論調の移り気を主題としたタイトルに落ち着いたところでした。ちなみに前回記事のコメント欄で補足した言葉ですが、そのタイトルには「マスコミが世論を作るのか、世論がマスコミの論調を決めるのか」という意味合いをこめていました。

ここで改めて今回記事の本題に入る訳ですが、来年1月に社会保険庁の後継組織となる日本年金機構が発足します。その際、約1万人の職員の移行が決まっています。ただ前政権は過去に懲戒処分歴のある職員を一律不採用とする方針を掲げていました。この方針に対する私自身の考え方は、以前の記事「過ちとその処分のあり方」で示したとおり非常に不本意な話だととらえています。

年金のぞき見や交通事故などで戒告以上の処分を受けていた約300人の処遇が最終局面での課題となっていました。連合と自治労は、前政権の時から分限免職を回避するよう舛添厚労大臣らに要請していました。政権交代後の9月24日には古賀連合会長(当時は事務局長)と徳永自治労本部委員長が長妻厚労大臣に対し、何らかの形での雇用維持を強く求めていました。

しかし、長妻厚労大臣は「過去に懲戒処分を受けた職員は移行させない」とする従来の政府方針を踏襲することを表明しました。判断した理由として、長妻大臣は「世論の反発を懸念」したことを強調していました。この言葉を聞き、改めて長妻大臣の「ミスター年金」と評されてきた立場を思い返した上で、前回の記事「卵が先か、鶏が先か?」のような内容を当ブログで取り上げようと考えていました。

冒頭に述べたとおり前回は本題に行き着く前の記事内容にとどまりましたが、最近、「世論とは何だろうか?」との思いを巡らすようになっていました。そのような時、筆坂さんの「アンケートを取るなら、まず説明を聞いたか、から問うべきである」という言葉に接し、前回記事で世論の作られ方を自分なりに掘り下げてみました。つまり正確な情報や全体像が伝わっていない中で、物事の白黒が判断されているケースの多さを筆坂さんの言葉を借りて問題提起させていただきました。

とは言え、決して世論を軽視するものではなく、ことさらマスコミの報道の仕方を批判する提起でもありませんでした。私自身も含め、多種多様な情報の受け手となる側の当たり前な現実を踏まえ、さらに白黒の「印象」を先行させがちなマスコミ報道の習性や限界を理解した内容だったつもりです。要するに以上のような点を意識し、世論というものをとらえていく大切さを感じ取っていました。

先日の事業仕分けの中で、蓮舫参院議員が女性教育会館の神田理事長から「私の話を聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外です」と反発を受けました。この場面は繰り返しテレビで報道され、蓮舫議員は「生意気」「何様のつもりだ」などとの批判を浴びました。しかし、実際はその場面に至る前、神田理事長は30分近く一人で延々と話し続けていたため、蓮舫議員が一方的に説明をさえぎったという見方は少し違うようです。

それでも多くの人たちに対し、蓮舫議員は「気が強い」という印象を与えてしまったはずです。一方で、「切り込みの鋭さ」など肯定的な評価も高かったため、今回の蓮舫議員のケースは損な役回りだけではなかったことで救われています。過去、マスコミの偏った報道の仕方で、事実から離れた批判を浴び、ダーティーな印象を植え付けられた人たちの名前が数多く思い浮かびます。

反対に一度だけでも、たいへん価値あるホームランを放ったことによって、その好印象が保たれるケースも少なくありません。言うまでもなく、年金記録の問題を明らかにした長妻大臣もその一人ではないでしょうか。また、攻める側に回っている時の弁舌の切れ味は確かだろうと思います。それでも内閣の中で最も激務と言われる厚生労働省の最高責任者を担うことと、それまでの実績が見合ったものなのかどうかは正直なところ疑問を持ち、荷が重いように見ていました。

そのため、長妻大臣が年金機構への職員採用問題で「世論の反発」を口にした時、世論の力で押し上げられてきた立場を考えれば予想通りの話でした。「さすが長妻大臣」と評価する声も聞こえ、そのような判断が下されることを覚悟していましたが、やはり残念な結論でした。そもそも連合や自治労の要請は、組合員の雇用を守ることが大きな使命である労働組合として当たり前な行動であり、決して理不尽な圧力を加えていた訳ではありません。

日本弁護士連合会も昨年12月、懲戒処分歴を理由に一律不採用・分限免職とするのは「二重の不利益処分で、違法の疑いが濃厚」との意見を表明していました。国労のような集団訴訟に発展し、国が敗訴する可能性の強さも指摘されていました。最終盤の局面では、連合や自治労の意向を受けとめた平野官房長官が、そのような対立や混乱を回避するためにも、長妻大臣に再考を促していきました。

不祥事を重ねた「社会保険庁は解体」「職員は総入れ替えすべき」という根強い世論があることを承知しています。しかし、感情論に流されることなく、冷静で客観的な判断ができることは政治家としての大事な資質の一つであるはずです。幸いなことに長妻大臣がその判断能力を発揮し、12月1日、最終的な決着をはかったことが報道されました。

「ヤミ専従」による処分を受けた職員約20人は厚労省にも再雇用しない方針が確認されましたが、その他の職員は非常勤職員への応募が認められました。この結果を受け入れた自治労の徳永委員長は「不当であり、訴訟を起こす職員はいるだろうが、労組が全体で裁判をするという立場ではない」と述べ、組織的な裁判闘争には否定的な考えを示しています。双方が歩み寄った解決策ですが、今のところ「連合や自治労のゴリ押し」などという世論の声は強まっていません。

このような事例に対しても「公務員は恵まれている」という感情的な反発を招くのかも知れませんが、こそこそ隠す話ではなく、前述したとおり自治労らの行動の正しさを確信しています。逆に連合や自治労が組合員の雇用を守るために最大限努力したこと、民主党を支援している組織として訴訟リスクを回避する責任を果たしたことなど、堂々と世論へアピールすべきものと考え、今回、あえて賛否両論あるようなテーマを投稿させていただきました。

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