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2009年10月24日 (土)

お役所バッシング

ココログのアクセス解析機能は比較的充実しているため、どのような検索ワードで当ブログを訪れてくださったか分かるようになっています。最近では「公共サービス基本法」や「阿久根市」という言葉からの訪問が増えています。この「公務員のためいき」は、ブックマークされている常連の皆さんにはお馴染みとなっていますが、記事タイトルとは関係ない話題で始まる傾向が多いブログでした。

したがって、何か調べようとして当サイトを訪れた人に対しては、肩透かしを与えていることが多いのかも知れません。そのため、数行だけ見て別なサイトへ移ってしまう人が少なくないものと思っています。先日、むかし民間、今・・さんからは「初めの3行」の大切さのアドバイスを頂戴しました。「批判も賛同も判り易くなければ共感は得られない時代です」とのご指摘も本当にその通りだと受けとめています。

それでも当ブログのカテゴリーは「日記・コラム・つぶやき」とし、最後までお読みいただいた中で、何かを伝えることができればと考えてきました。記事タイトルとは別な話題から入ることも、このブログの一つのスタイルとしています。その記事を投稿した時、世の中の動きや身の回りの出来事、自分が何を考えていたのかを残すことによって、以前の記事を読み返した際、たいへん感慨深くその頃を思い出すことができています。

また、自分自身が書きたい内容やスタイルをこだわることは、やはりブログを続けていく上での必要なポイントだろうと感じています。いずれにしても伝えたい主張は、できる限り分かりやすく綴ることが大事ですので、そのような工夫や努力は今後も重ねていくつもりです。と言いつつ、今回も記事タイトルと直接関係ない話を長々と書いてしまい、たいへん恐縮しています。

さて、以前の記事(「公務員」議論のあり方)の中で、公務員の不祥事や様々な問題が語られる時、全体に共通する一般論なのか、個別の役所における事例なのか、整理して進める必要性を提起したことがありました。このブログのコメント欄へ手厳しいご意見が寄せられることは覚悟していますが、私自身の責任で答えられる内容と踏み込んで答えられない場合がありました。

いつもこのような問題意識を抱えているところですが、ある日、書店で『お役所バッシングはやめられない』という新書を目にしました。著者は「『実は悲惨な公務員』を読み終えて」で紹介したことがある山本直治さんでした。山本さんは文部科学省のキャリア官僚でしたが、現在は人材紹介会社に勤務されています。公務員の経験を持ちながらも、今は民間人であるという立場から様々な公務員批判をお役所バッシングと称し、その新書の中で大胆な分析や解説をされていました。

お役所バッシングとは、一種の依存性薬物である。政治家や公務員を激しく叩いているうちに「正義の自分」に高揚感・陶酔感を持ってしまうのだ。しかし、過度の批判が政策を歪め、少しずつ日本社会を蝕んでいることに気づいているだろうか? 何事も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。近年の耐震強度偽造問題にしてもそうだ。これは個人保護の目的で行われた法改正が、逆に企業の経済活動を縛ることになってしまった典型例であり、政治家に法改正を決断させたのはマスメディアに扇動された世論に他ならないのだ。

以上は、その新書の内容を紹介した文章ですが、お役所バッシングの功罪を論じつつ、山本さんは建設的なお役所バッシングの方法を提案されています。感情に任せた批判は卒業し、想像力とバランス感覚を兼ね備えた「バッシングリテラシー」を身につけるべきだと説かれていました。私自身、共感した内容と少し違和感を持った箇所がありましたが、今回の記事では「なるほど」と感じた点を中心に取り上げてみます。

山本さんは、お役所バッシングの定義と分類について、次のように述べています。端的には「公務員や役所のケシカランおこないに対する非難・攻撃」としていますが、その公務員とはどの範囲の誰か?ということまで意識して声を上げている人がどれだけいるのか疑問視していました。お役所バッシングと考えているものは意外に範囲が広く、攻撃の対象となる題材を基準として三つに分類しています。

  1. 役所のミッションに直結することがらに対して向けられる批判 … 各役所が担当すべき政策・事業の実行に伴って、その方針や内容が不適切であるとして非難されるもの
  2. 公務員一般が持つ地位・待遇に対する批判 … 倒産やリストラによる失業の可能性がほとんどない上、給与や福利厚生などの待遇も優れ、民間ほど仕事がきつくないイメージを持たれており、それらが批判の対象となっている。
  3. 個々の公務員の問題行動に対する批判 … 汚職や性犯罪など個々の公務員の不適切な行動、いわゆる不祥事への批判

上記のように類型化した上、山本さんはバッシング自体が自己目的化していることも少なくないと指摘しています。役所に対する不満や怒りを解消する手段として、バッシングしてカタルシス(癒し)を得る場合があると述べています。感情に任せてバッシングをすると冷静な議論ができなくなり、不正・不公正の解明や改善という目的から離れてしまうことを懸念されていました。

類型の1番目の事例として、耐震偽装の問題が発覚した際、事件の再発防止のために国交省は建築基準法を異例のスピードで改正しました。その結果、住宅着工に非常に時間がかかるようになり、建築・不動産不況を招いていました。健全で建設的なバッシングをするためには、感情(怒り)はいったん脇へ置いて細かい事情を認識することが重要だと山本さんは説かれていました。

また、山本さんは「役所を批判するのであれば、ぜひ同じような厳しさで批判してあげなければいけないかもしれない組織が日本にはあります」と書かれていました。税金から補助が出ている私立大学、放送局開設の免許制や出版物の再販制度といった規制などに守られ、激しい競争が生じないため、高コスト体質が維持されているマスコミ業界などを例示されていました。

「役所以外の問題を放置し追及しないままにしておきながら、公務員だけがこんなに叩かれ続けるのは不公平ではないか」と記し、「あまり目を向けてこなかった他のものも役所や公務員並みに批判すべきかも含めて、しっかりお考えいただきたいのです」と提起されていました。このような視点からの主張は、山本さんが元公務員であり、現在は民間人であるからこそ発せられる言葉だろうと受けとめています。

その新書の最後の章で山本さんは、是々非々の改革をするために必要なのは、行政に対する「監視」をキーワードに掲げていました。中立的な立場の行政監視要員を配置し、公務員の日常的な業務遂行に目を光らせるような案などを示されていました。以上は、あくまでも山本さんの著書に書かれていた内容の一部であることをご理解ください。私自身の勝手な取捨選択のため、山本さんの真意を適確に伝え切れていない心配もあります。興味を持たれた方は、ぜひ、新書そのものを購入いただければ幸いです。

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2009年10月18日 (日)

「投資」となるパワハラ対策

爽やかに晴れ上がった土曜の午前中、箱根駅伝の予選会に47校が参加し、本大会への出場権11を巡って熱戦が繰り広げられました。その熱気が冷めやまぬ昼過ぎ、会場に近接したターミナル駅のデッキ上では、予選会の結果を速報する号外も配られていました。駅前にあるホールに向かう途中だった私も迷わず、「駒大、日体大が本大会進出」という見出しが躍った号外を手にしていました。

私の向かったそのホールでは、行政側が主催した平和学習事業として「アフガンの大地の再生を願って~ペシャワール会の25年」と題した講演会が午後2時から開かれました。講師はペシャワール会事務局長の福元満治さんでした。「アメリカの顔色をうかがうのではなく、相手側が何を望んでいるのかが大事」という言葉は、医療から用水路の確保まで現地に根差した活動を続けている福元さんが発するからこそ、たいへんな重みと適確さを痛感しました。

強い感銘を受けた貴重な機会となりましたが、今回の記事は標題のとおりパワーハラスメント、略してパワハラについて掘り下げてみます。前回の記事は「橋下知事が批判職員を処分」という内容でしたが、パワハラを考える一つの材料として前置き的に取り上げてみました。書き進めるうちに話が膨らんでしまい、途中で記事タイトルを変える経過をたどっていました。結果的には多くの皆さんから幅広い視点でのコメントを頂戴でき、話題を絞った記事内容がタイムリーな形となっていました。

さて、前回記事の最後にも書きましたが、最近、パワハラについて関心を強め、『そこが知りたい!パワハラ対策の極意』(西日本新聞社)というブックレットを読んでいました。パワハラとは「職務上の力によって、人格と尊厳を傷つける言動」を意味します。最近はパワハラに関する訴訟の話もよく聞くようになっています。そのブックレットは、セクハラやパワハラの問題に取り組むNPO法人福岡ジェンダー研究所(福岡市)のメンバーがまとめていました。

職場で良好な人間関係を築くためのヒント、パワハラが起きた場合の相談や解決の方法など、パワハラについて総合的に理解し、対策を取るための具体的な方法を分りやすく紹介していました。パワハラは従業員のメンタルヘルスに大きな影響を与え、深刻な場合は自殺まで引き起こします。2006年10月に施行された自殺対策基本法に「事業主は、国及び地方公共団体が実施する自殺対策に協力するとともに、その雇用する労働者の心の健康の保持を図るため必要な措置を講ずるよう努めるものとする」と事業主の責務が盛り込まれました。

企業側にとってパワハラ対策は、セクハラ対策と同様、労務管理の責任が厳しく問われるようになっています。これらの対策は「コスト」がかる厄介なものだと敬遠され、「あれはパワハラ、これはセクハラと言われたら、逆に職場がギスギスしてしまう」とネガティブにとらえられがちです。しかし、そのブックレットの中で、パワハラ対策は「コスト」ではなく、生産性向上のための「投資」である、良好な人間関係を築いていくパワハラ防止対策は、従業員のやる気や目的意識を高め、組織の生産性の向上につながる、と書かれています。

上司の言い分は通るけれど部下の意見は通らない押し付け型のコミュニケーションが当たり前になっている職場では、パワハラが起こる可能性が高いのです。部下であっても職場の仲間として上司に尊重され、上司の意見に対して「なるほどそうだ」と部下が心から納得するようなコミュニケーションがとれている職場では、パワハラはほとんど起こりません。それどころか、このような職場では、従業員の士気が高まることが多いでしょう。

以上のような記述があり、パワハラ対策は「投資」であると強調されていました。確かにその通りだと実感しています。そして、パワハラは組織における力関係を背景にした人権侵害だと記されていました。加害者と被害者は対等な関係ではなく、被害者が加害者の報復の恐れなしに自力で解決することは不可能に近いと言われています。また、表面的な言動だけが問題にされ、周囲からは「それくらいのことで」「毅然としていれば防げるはず」「嫌ならそう言えばいいのに」などの発言が無責任に飛び出し、被害者を再び傷つけることが少なくありません。

被害者に追い討ちをかけるような言葉が出るのは、加害者との力の格差を理解していないことによるものだと説明が加えられています。組織において管理監督者は職務遂行上、必要な権限を与えられています。この力を用いることで、上司は部下に影響を与え、自分の思う方向に動かすことが可能となります。部下に報酬を与えられる「アメ」やペナルティを課せられる「ムチ」以外にも、正当勢力と呼ばれる「上司の言うことに従うのは当然」という力関係などもあります。

仕事上のミスに対して上司が部下を指導する際、人格全般を否定するような叱責は指導の域を超えています。その部下が叱責の仕方を不当だと思う以前に「自分が無能なので迷惑をかけた」と自分自身を責め続けてしまった場合、自殺という最も痛ましい結果につながる危険性もはらんでいます。上司に与えられた職務上の権限が本来の業務の範疇を超え、濫用されたケースがパワハラだと位置付けられます。

パワハラ加害者は、ある意味ではごく普通の人です。きちんと仕事をこなし、それなりの地位に就いている人です。ただ、相手の気持ちを理解したり、配慮したりすることができずに被害を与えてしまうのです。人の気持ちを理解する能力はあるのですが、もっぱらその能力を自分より立場が上の人に対してのみ使い、相手が自分の下の立場の人には使わない人、使う必要がないと思っている人です。

ブックレットに書かれていた文章をそのまま引用しましたが、確かにパワハラの加害者となっていることに気付いていない人が少なくないのかも知れません。さらに至らない点は手取り足取り指導することが「部下のため」であり、称賛されるべき行為だと考え、パワハラであることを自覚していない上司は意外と多いのではないでしょうか。自分自身も省みなくてはなりませんが、特に組合活動の中で書記長らに対し、パワハラのような言葉を発していないか、常に注意していくつもりです。

パワハラを許さない職場づくりのためには、まず皆がパワハラについての知識を深めることが必要です。セクハラと同様に「それって、パワハラじゃないですか?」と気軽に指摘できるようになれば、自覚のなかった加害者に自制を促す機会となり得ます。そのような意味合いを込め、金曜日に開いた安全衛生委員会で私からパワハラ対策に関して次のように提起しました。

「パワハラによる自殺が労災認定されるようになっています。パワハラは、職場から撲滅すべきものであることは言うまでもありません。これまでセクハラ防止についても安全衛生委員会の課題としてきました。今回、具体的な事例の有無を問うものではありませんが、今後、パワハラ対策も安全衛生委員会の重要な課題とすべきものと考えています」と発言しました。

私からの提起に対し、委員長である副市長から即座に賛同を得られ、安全衛生委員会としてパワハラ対策についても取り組んでいくことを確認しました。今後、労使双方でパワハラに対する定義を共通理解し、実態の点検を進め、パワハラと認定すべき行為が発覚した際は適切な対応に努めていきます。職員が健康でいきいきと働き続けられ、組織の士気や業務効率を高めるためにも、パワハラを許さない職場づくりが重要であり、その一歩を踏み出したものと受けとめています。

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2009年10月11日 (日)

橋下知事が批判職員を処分

このブログで何回か大阪府の橋下知事について取り上げてきました。「橋下知事の人件費削減案」や「橋下知事絡みの二つのニュース」など、強引な手法を批判的に指摘せざるを得ないものでした。いずれにしても府知事に就任以来、それだけ注目される話題が多い証しですが、今も大阪府民から高い支持を得ている点は重く受けとめなければなりません。その橋下知事に関する話題として、最近、次のようなニュースを目にしました。

反論メールの職員を処分 橋下知事「物言い非常識」

大阪府の橋下徹知事が全職員にあてて税金に対する意識の低さを嘆くメールを出したところ、ある職員が反論する返信をした。知事は「物言いが非常識だ」と激怒して8日、この職員と直属の上司を府の内規に基づく「厳重注意」にした。府庁内からは「知事の態度は度量が狭い」との声も聞かれる。

発端は1日夜に知事が送信したメール。利水からの撤退によって府の損失が386億円に上った紀の川大堰(和歌山県)をめぐり、議会で原因を淡々と説明するだけだった府幹部について「何事もなかったかのよう。給料が保障される組織は恐ろしい」などと書いて全職員に送った。

2日昼、職員の一人が「責任は(投資を)決断した人にある。こんな感覚の人が知事である方が恐ろしい」と返信。「愚痴はご自身のブログ等で行ってください。メールを読む時間×全職員の時間を無駄にしていることを自覚してください」とたしなめた。

これに怒った知事は同夜、この職員に「上司に対する物言いを考えること。トップとして厳重に注意します。言い分があるなら知事室に来るように」と送信。職員も返信で「公務をどけてでもお邪魔します」と応酬した。

知事は一連のやりとりを府幹部らに転送。8日、報道陣に「社長に『メール読むのは時間の無駄です』と言えますか。一般常識を逸脱している」と語った。一方、職員の間からは「知事自身が『メールを送って』と言っていたのに、気に入らなければ処分なんて」とおびえる声も出ている。【asahi.com2009年10月8日

世間の反応として「知事は大人げない」「(職員は)非常識」などと賛否両論あり、8日夕方までに府庁へ寄せられた電話やメールは計93件で、橋下知事の対応に批判的なものが53件だったそうです。「処分で意見が出にくくなるのではないか」「厳しすぎる」などの声が多かったようですが、今回の問題に関しては橋下知事の判断を頭から否定できないものと思っています。

まず首長が職員に対してメールを送ること自体、私自身は好ましい話だと考えています。自分の所属している組織のトップが日々、どのように考えているのかを職員が知ることの意義は決して小さくありません。それが「愚痴」のような話題だったとしても、それほど批判されるものではないはずです。ブログで行なえば良いという反論も、全職員に伝えられるのは庁内メールが確実な手段となります。

「時間の無駄」という指摘は、首長の問題意識を職員が知り得る機会を有意義ととらえるのかどうかで分かれる見方だろうと思います。そもそもメールを読む時間など、よほどの長文ではない限り、1分もかからず、一人ひとりの業務に大きな支障は出ないはずです。勤務時間中に読めないのであれば、昼休みなどにサラッと目を通す程度の手間だろうと考えています。

以上は、問題となったメールの内容に対する評価は横に置いた上で、橋下知事が職員にメールを送っていることの私自身の受けとめ方です。今回、橋下知事は利水撤退での府の負担約380億円に関し、「僕の感覚と役所の感覚は違う。民間なら組織挙げて真っ青。何があっても給料が保障される組織は恐ろしい」と書いていました。

知事に就任して1年半以上経っていますが、部下である職員らとの「壁」をことさら当て付けるような言葉だったように見受けられます。橋下知事の正直な気持ちを吐露しているのでしょうが、メールを受け取った職員は「思い込みでの批判ではないか」「だから、どうすれば良いのか」など、確かに今回の文面では不満や不信のみ芽生える恐れがありました。

処分の対象となった女性職員が「配信の意味が分からない。こんな感覚を持つ人が知事であることの方が恐ろしい」と感情的に反発したメールを送った背景は、このような印象を抱いたからだろうと見ています。しかし、その女性職員が書き込んだ内容の是非はともかく、言葉遣いは確かに不適切であり、特に上司へ返信するメールの書き方としては「非常識」だと批判されても弁解の余地がないものと思っています。

また、橋下知事が一方通行でメールを送るだけではなく、職員側からの送信を受け付けている姿勢も評価すべき点です。したがって、その女性職員が書き方さえ注意すれば、反論や異論も聞く耳を持っていたのではないでしょうか。言葉遣いにカチンと来て、すかさず「非常識さを改めること。言い分があるなら知事室に来るように」と返信した橋下知事も少し冷静さを欠いていたようですが、女性職員側に「非」があったことは否めません。

その結果、女性職員と直属の上司が「厳重注意」処分を受けた訳ですが、「見せしめ的な処分であり、さらに独裁化が進む」などという非難の声も上がっていました。「非」があった限り、一定の処分も仕方ないものと思っていますが、そのような中でも軽微な「厳重注意」だったことが橋下知事の「常識」さをうかがえます。

最近、どうしても阿久根市のことが頭に浮かんでしまうのですが、竹原市長の「常識」では懲戒免職という処分もあり得たのでしょうか(苦笑)。冗談ではなく、竹原市長の手法や考え方をよく知るようになってから、橋下知事の進め方などは段違いに「常識」的であるように受けとめています。このように書くと竹原市長を支持されている皆さんから強い反発を受けるのでしょうが、それほど阿久根市での問題は「常識」では考えられない出来事の数々でした。

なお、橋下知事からメールを受け取った時、その女性職員は「一方的に送り付けられ、未知の経験で恐怖(を感じた)」と語っていました。顛末として処分まで至った経過について、私自身の見方は以上のとおりでしたが、パワーハラスメント、略してパワハラだったのかどうかという側面から考えるエピソードとしても見ていました。

実は最近、パワハラについて関心を持ち、『そこが知りたい!パワハラ対策の極意』(西日本新聞社)というブックレットを読んでいました。今回の記事は、その内容をもとに綴るつもりでしたが、前置き的な話として取り上げた橋下知事絡みの書き込みが思った以上に膨らんでしまいました。あまり長すぎる記事もどうかと考え、途中で記事タイトルも変えていました。したがって、パワハラに関しては改めて次回以降の記事で取り上げる予定としています。

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2009年10月 4日 (日)

NO NUKES FESTA 

このブログのカテゴリーは「日記・コラム・つぶやき」としています。週1回の更新間隔であるため、「日記」というよりも「週記」のようなものですが、書き込むテーマは様々でした。「公務員」に関する話題が中心となっていますが、これまで自分が参加した催しの報告や読んだ本の感想など幅広い題材を取り上げてきました。

それでも自治労に所属する組合の役員という立場を明らかにして綴っていますので、幅広いテーマを扱っているようでも一つの目安を自分なりに決めていました。前置きの中で触れる時もありますが、これまで個人的な日常の風景や趣味の話などをメインに取り上げることはありませんでした。

ブログを続けている目的として、公務員側の言い分の発信と合わせ、組合の方針や活動などを伝えていくことも大切な位置付けとしていました。したがって、当ブログはそのような位置付けを踏まえ、各記事内容の題材を選んできました。その中で、特に政治や平和の問題に関しては、不特定多数の方々への訴えよりも私どもの組合員の皆さんへの呼びかけを強く意識してきました。

なぜ、公務員の組合が政治的な活動に取り組んでいるのか、違和感を持つ人が少なくないものと思っています。「組合の平和運動」など数多くの記事を通し、職場内の労使交渉では到底解決できない社会的・政治的な課題に対し、たくさんの組合が集まって政府などへ大きな声を上げていくことの必要性を訴えてきました。

とは言え、反戦反核などの運動について、どこまで組合員の皆さんと目線を一致できているのか常に手探りな思いがありました。そもそも組合員の皆さんと問題意識などを共有化できない運動だった場合、世間一般の中で広く浸透させていくことは、もっと難しいはずです。運動そのものに何か問題があるのか、アピールしていく手法に誤りがあるのか、謙虚に見つめ直す姿勢が大事だろうと思っています。

このような個人的な思いがあるため、「チェルノブイリの祈り」や「ルワンダの悲しみ」など「公務員」の話題からガラッと趣きが変わる記事もいくつか投稿してきました。集会参加への呼びかけなどが中心となる組合ニュースを補う意味合いとともに、やはり組合員以外の皆さんからも共感を少しでも得られることを願いながら、今回、記事タイトルに掲げたイベントについて綴らせていただきます。

昨日の土曜日、「10.3 NO NUKES FESTA 2009」というイベントが明治公園で開かれました。多くの著名人や団体による実行委員会の主催となっていますが、自治労も積極的に関わってきたイベントでした。NUKE(ニューク)を電子辞書で調べると「核兵器。原子力発電所。核エネルギー」と記されています。つまり原発に依存しないエネルギー政策の転換を求めた集まりでした。

午前10時から始まり、第1部のステージでは音楽や踊り、トークが続き、広場では様々な地域からの物産やオーガニックフードなどを販売するブースが並んでいました。午後2時から第2部となり、ステージから実行委員会の挨拶や原子力をめぐる状況の報告が行なわれました。国会議員の挨拶として、民主党から相原久美子参議院議員、社民党から福島瑞穂党首が駆けつけていました。

私どもの組合からの参加はわずかでしたが、第2部が始まる頃、ほぼ会場内は満杯となっていました。「FESTA」というスタイルが成功しているようであり、若い人の顔も目立っていました。その集会が終わった後、順次パレードに繰り出し、青山通りから表参道を通り、「ノー、ニュークス!」と声を上げながら代々木公園まで向かいました。

さて、このイベントが開かれた目的などについて述べさせていただきます。最近、ますます地球温暖化の問題が注目を集めるようになり、さらに私たち一人ひとりが具体的な対応を迫られています。CO2の排出量を2020年までに25%削減(1990年比)するという民主党のマニフェストは、国際的な公約と呼べるほどの切実な課題として解決策が求められるようになっています。

そのような中、原子力発電はCO2の排出が少ないクリーンなエネルギーと宣伝され、地球温暖化対策の柱の一つに位置付けられがちです。民主党のマニフェストでも「安全を第一として、国民の理解と信頼を得ながら、原子力利用について着実に取り組む」と書き込まれていました。しかしながらトータルで考えれば、決して原発がCO2削減の切り札にならないものと言われています。

原発が火力に比べ、発電時にCO2の排出が少ないことは確かです。しかし、ウランの採掘から放射性廃棄物の管理面までとらえれば、その見方も違ってきます。そうであるならば、半永久的に厳重な管理が求められる放射性廃棄物の問題が残り、常に放射能汚染の脅威にさらされる原発という選択肢は外し、新しい政策への転換が強く求められているのではないでしょうか。

このような問題意識を持った人たちが声をかけ合い、新政権が発足したタイミングを好機ととらえ、放射能を出さないエネルギー政策への転換を訴えるため、今回のようなイベントを催していました。私自身は脱原発の考え方に賛同する立場ですが、どうしても社民党や民主党の中でも「左派」の運動に見なされている点が非常に残念なことだと思っています。

エネルギー政策の問題にイデオロギーは関係ないはずです。本来、地球温暖化の問題と同じように基本的な立場などを越え、一緒に解決策を探っていくべき課題ではないでしょうか。しかしながら原発に対する一定の「答え」を出すことが、それほど単純ではないことも充分理解しています。連合の中でも、脱原発の自治労と原発推進の電力総連との意見対立などがありました。

そのため、これまで連合としては「現状の原発は維持する」という程度で、明確な態度は示していませんでした。ただ温室効果ガス削減に向け、昨年12月に連合の内部にエネルギープロジェクトを設置し、原発の問題なども議論を重ねてきました。そのプロジェクトの報告が9月17日に開かれた連合中央委員会に示されましたが、連合が原発の新設を容認したような一部の報道もありました。

しかし、その報道内容は誤りであるというファックスが自治労都本部から送られてきました。あくまでも新増設の歯止めをかけるためにも「安全確保と住民の合意が得られない以上進めるべきではない」とする自治労の主張も踏まえ、プロジェクトの報告書は「現在計画中の原子力発電所の新増設については、地域住民の理解・合意を前提に、これを着実に進める」という表現になっていました。また、連合としての最終的な意思決定は、まだ先であることもファックスには書かれていました。

いわゆる玉虫色の文章にとどまったようですが、今後、実際に新増設される動きを止められるのかどうか、先ほど書いたように立場を越えた一つの「答え」が求められていくものと考えています。簡単な話ではないことを承知していますが、仲間である電力総連の皆さんらとの相互理解が進まず、脱原発を連合の方針にまとめ切れない限り、新政権の政策を大胆に転換させることも非常に難しいはずです。そのためにも、まずは私どもの組合員の皆さんと脱原発の思いを共有化できるよう丁寧な情報発信に心がけていきます。

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