たまには気ままに雑談放談
中国の四川大地震による死者は5万人を超え、日を追ってその数が増えていく悲惨な状況となっています。ミャンマーを直撃したサイクロンによる死者数は13万人超と言われていますが、軍事政権が外国人の立ち入りを制限しているため、被害状況の全容が明らかになっていない現状です。自然の猛威によって、平穏な生活が引き裂かれた被災者の皆さんに対し、心からお悔やみ申し上げます。
その中で、手抜き工事によって崩壊した学校が多かった問題など、社会的な理不尽さから人命の明暗を分けた悲劇は明らかに「人災」だったと言わざるを得ません。同様に国際的な援助を拒んでいたミャンマー軍事政権の姿勢も、そのことによって救われる命が手遅れとなっているのならば厳しい批判は免れません。人間が大自然の力をコントロールすることは基本的に不可能です。しかし、人間の手が届く力によって、被害を最小限にとどめることは充分可能なはずです。地震大国である日本は、とりわけ四川大地震から改めて教訓化すべき点が少なくないものと感じています。
大自然の話でつなげれば、地球温暖化の問題が避けて通れません。昨日、連合三多摩主催の政策制度学習会があり、地区協役員の立場で参加してきました。CO2削減に向けた環境問題をテーマとし、『不都合な真実』の上映を中心とした催しでした。アメリカのアル・ゴア元副大統領の講演風景を柱とし、北極や南極をはじめとした地球全体の異常な変化を映し出し、温暖化問題の切迫さを思い知らされた映画でした。
私たち人類全体の愚かさはもちろん、京都議定書の批准を拒絶し、CO2の大量排出を続けるアメリカの不当さ、さらにゴア候補がブッシュ大統領に敗れた2000年の選挙結果の重大さなど、いろいろな思いをめぐらす機会となりました。それでも「まだ間に合う」とのメッセージと合わせ、私たち一人ひとりができる小さな積み重ねの重要さも伝えてくれる映画でした。レジ袋を使わない、冷暖房の設定温度を注意する、なるべく燃費の良い車に乗るなど、身近な行動の積み重ねが地球を救い、未来を救うことを痛感しています。
さて…と話題転換する接続詞を置き、記事タイトルの内容に入るパターンの多さが当ブログの特徴です。週1回の更新ペースとなっているため、一つの記事の中に複数の話題が盛り込まれがちです。触れたい話題があるのならば、小刻みに更新すれば良いようなものですが、なかなか一度定着した投稿サイクルやスタイルを改めるのも簡単ではありません。いつも長々とした文章にお付き合いいただいている皆さんへは本当に感謝しています。
さすがに今回は、四川大地震から『不都合な真実』まで引っ張ってしまった手前、記事タイトルを途中で変更しました。変更したついでに気ままな記事をたまには書いてみようと考えました。もともと当ブログのサブタイトルは「逆風を謙虚に受けとめながら雑談放談」としています。スーパー大辞林が収録されている電子辞書で、雑談とは「様々なことを気楽に話し合うこと」、放談とは「言いたいことを自由に語ること」と書かれています。
当然、その趣旨は率直な意見交換がはかれるコメント欄を含め、当ブログ全体を通したコンセプトだと考えています。立場や視点の異なる者同士で議論できるのは貴重な機会であり、仮に接点を見出せなかったとしても、多様な考え方をつかめる場であることに意義深さを感じています。一方で、直接相対しない匿名でのコメント投稿となるため、本音の意見を聞ける反面、きつい言葉の応酬となる場面も時々あります。
そのような場合、結果として溝が深まったことになるのかも知れませんが、対話の機会を持たない限り、もともと存在している双方の溝が埋まることはあり得ません。したがって、中国の胡錦濤国家主席が来日し、福田首相と友好ムードで会談を重ねたことは歓迎すべき動きだと思っています。しかし、福田首相がチベットの人権問題などを直言しなかった点について、「媚中」外交だと批判する声も聞こえていました。
このような言われ方に対し、福田首相が敏感に反応したものと思える発言を耳にしました。「日中青少年友好交流年」開幕式で、胡主席講演の後、福田首相は「友好を深めるには相手のありのままを理解することが大事だ。特に若者はステレオタイプの国家観や国民像で満足するような知的に怠惰な姿勢ではいけない。お互い努力することで心に響く対話ができるようになる」と挨拶されたそうです。
日本と中国政府は、国内世論の排他的ナショナリズムという悩みを共有していると言われています。四川大地震後、被災地に日本の国際緊急援助隊が派遣されたことによって、中国での対日世論が劇的に改善しているようです。たいへん不幸な出来事の中で、幸な兆候だと思っています。ここでステレオタイプという言葉の意味も調べてみました。前述の電子辞書では「ものの見方・態度や文章などが型にはまって固定的であること」と記されていました。
ステレオタイプと言えば、公務員もステレオタイプの見られ方や批判を受けがちだと感じています。『公務員の異常な世界』という新書を購入しましたが、確かに面白く読める本でした。公務員以外の方が読めば、腹が立ったり、あきれたりする内容が満載だろうと思います。公務員の一人である私から見ても、あきれ果てる事例が数多くありました。つまり著者である若林亜紀さんの実体験や綿密な取材に基づき書かれている事実であることは間違いないのでしょうが、公務員職場の実態は千差万別だからです。
したがって、公務員の世界すべて、この本に書かれているように異常であるとの誤解を招きかねないことを懸念しています。公務員は一蓮托生で、大なり小なり同じようなものだと決め付けられたら身もフタもありませんが、ステレオタイプの批判につながる書かれ方には強い違和感を持っています。「たいして働かず、高給取りだ」との固定観念が非常に切なく、そのイメージの払拭に向けて地道に努力しなければならない現状です。
前回の記事「図書館の役割と可能性」のコメント欄でも、このような問題意識につながる議論の広がりが見受けられました。今回の記事は「たまには気ままに雑談放談」としましたので、あえて結論付けたまとめ方はしないつもりですが、どうも気ままに書き進めていくと話が終わりそうにありません。橋下知事による大阪府職員の賃金カット問題などにも触れてみようと思っていましたが、次回以降の記事で取り上げる予定とし、今回の記事はこの辺で終わらせていただきます。
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コメント
若林さんは、国費評議会にも触れて公務員労組批判を展開されてますよね。公務員労組とは結局のところ、国民を搾取する存在である、と。こういう批判に対して、「公務員の職場は千差万別だから」という言い方は説得的な反論になってないと思いますよ。
投稿: ERI | 2008年5月28日 (水) 09時32分
ERIさん、コメントありがとうございます。
『公務員の異常な世界』の箇所、一つ一つを取り上げれば、言いたいことは山ほどあります。その上で、全体を通した印象は今回の記事本文で書いたとおりでした。したがって、個別の内容に対して、反論したつもりはありませんでした。
確かに、その本のような書かれ方の国費評議会では厳しい批判にさらされてしまいます。当ブログの過去の記事で、労使交渉の結果が全否定される見方には一定の問題提起も示してきました。とは言え、当事者ではない自分自身が発信できる情報なども限られているため、あまり踏み込んだ議論には入れず、また、入りすぎることも適切なものではありませんでした。
そのような事情があるのですが、「公務員労組とは結局のところ」とステレオタイプにも論じられてしまうことに悩ましさを改めて感じています。
投稿: OTSU | 2008年5月28日 (水) 20時28分
こんばんは。OTSUさんの基本認識に同意しながら、一言だけ付け加えます。日中双方のナショナリズムの高揚は、さはさりながら質の相違があり、一方では政府批判をすると自分どころか家族にも政治犯として人体生命に危害を加えられる独裁体制であり、一方は政府なり与党を批判ようが自由な発言を許容する国家だという、共産国家とそうでない国家の人権に対する根本的違いがあります。ポーランドの連帯も元々はソ連の圧制的な干渉から祖国を解放したいという想いから生まれた労働運動だったと認識しています。
投稿: かでる | 2008年5月29日 (木) 23時59分
かでるさん、おはようございます。
「国内世論の排他的ナショナリズムという悩みを共有」について、ニュース記事の内容をそのまま紹介してしまいましたが、かでるさんのご指摘のとおりその質や至った経緯は、まったく異なるものと私も考えています。気まますぎて、誤解を招きかねない言葉不足の文章でした。たいへん失礼致しました。
投稿: OTSU | 2008年5月30日 (金) 07時20分