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2006年7月23日 (日)

チェルノブイリの祈り

神田香織さんの立体講談「チェルノブイリの祈り」を一昨日の夜、地域の労働組合の皆さんと実行委員会を発足し、120名の参加者を得て催すことができました。立体講談とは音響や照明による演出効果を加え、よりリアルな衝撃が舞台から伝わる神田さん独自の講談のスタイルです。

1986年4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で史上最悪な事故が起きました。その事故から今年は20年経つ節目の年でした。神田さんは20年の大きな節目の年に「チェルノブイリの祈り」の全国100か所公演をめざしています。

その取り組みに賛同した三多摩平和運動センターが中心となり、三多摩地区の6会場でも連続上演することになりました。その一つを私たちの地区が担い、会場ロビーではフォトジャーナリスト広河隆一さんの写真「チェルノブイリ20年の刻印」のパネル展示も行ないました。

チェルノブイリ原発事故の放射能汚染は気流に乗って地球規模で重大な被害を及ぼしました。ガンなどの疾病による犠牲者は100万人以上とも言われ、この事故は決して過去形とならず、今も被曝で苦しむ人たちが数多く存在しています。

放射能に汚染された村の人たちは強制的に移住させられ、大半の人たちが二度と生まれ故郷に帰れなくなっています。また、放射能の悲劇は新しく生まれてくる子どもたちにまで継承されていく残酷な連鎖があります。

神田さんの立体講談「チェルノブイリの祈り」は、ウクライナの原作者スベトラーナ・アレクシエービッチさんが事故の犠牲になった消防士の妻の独白を聞き取った内容です。したがって、大量の放射能を被曝した夫の悲惨な病状の描写など、耳をふさぎたくなる生々しい神田さんの語り、すべて実際にあった真実として直視すべきものでした。

お腹には赤ちゃん、幸せな新婚生活を送っていた「原発推進派」のエリート消防士夫婦。原発事故の重大さを知らされないまま事故直後の消火活動に従事した夫、突然、その日から夫婦の人生は暗たんたるものに切り裂かれました。

夫の残された数日間、医師の制止を振り切り献身的に看病する妻、「チェルノブイリの祈り」は夫から二次被曝する恐怖をも超越した夫婦の純愛が描かれていました。その実話を神田さんが立体講談に構成し、たいへん感動的な舞台に接することができました。

参加者アンケートでは「感激した」「来て良かった」など神田さんの立体講談を絶賛した声が多数寄せられました。そして、原発事故の悲惨さや影響の大きさを強く思い起こしたとの感想も多くあり、原発の危険性に対して改めて一石投じた催しとなり得ました。

その一方で「それでも原発は必要である」と思われている方が多数であることも率直に受けとめなくてはなりません。平和をめざす運動でも心がけていることですが、「なぜ、反対しているのか」広く共感を得られるための工夫や努力が大事な時代を迎えています。そのためにも事実や歴史を適確に伝えていく取り組みが非常に重要だと考えています。

そもそも原発を稼動していくためには半永久的に厳重な管理が必要とされる放射性廃棄物の問題などがあり、チェルノブイリの事故を転機に反原発や脱原発の運動が活発化しました。しかし、残念ながら日本の原発は停まることなく、その間、いくつかの重大事故を起こしてきました。

1999年9月30日に東海村でJCOの核燃料加工施設の臨界事故、2004年8月9日に関西電力美浜発電所で2次冷却系から蒸気漏れ事故があり、それぞれ尊い命を奪った悲惨な事故でした。

「日本の電力需要を賄うため、クリーンなエネルギーの原発は不可欠である」との強い声がありますが、原発が存在するリスクも絶対見過ごしてはいけないはずです。そのような危険性を思い返す機会として、事故から20年の節目の年に神田さんの「チェルノブイリの祈り」を催せたことはたいへん意義深いものだったと思っています。

最後に、参加者の皆さん、実行委員会の皆さん、神田香織さんをはじめとしたオフィス・パパンの皆さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。

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コメント

 非常に申し訳ないのですが、最近はこの手の「活動報告」を読むと、非常にマンネリな印象を抱いてしょうがないのですが…。
 「反原子力発電」を訴えるには、現代の日本人は余りにもどっぷりと電力の恩恵に浸りすぎました。
 現に私たちはこうしてパソコンでいろいろ意見のやり取りもしますが、個人レベルでパソコンや携帯が普及すれば当然消費される電力もバカにならないでしょう。
 また、これから暑くなればクーラーの需要も懸念されます。私は私鉄で車掌をしていましたが、少しでもクーラーの効きが悪ければ乗客からクレームが殺到したものです。最近の大手私鉄ではサービス向上の名目で冷暖房完備の待合室をホームに設ける所も目立ちます。地方のローカル線では冷房車を投入しなければ利用を繋ぎとめられません。
 いわゆる「バリアフリー」もそうです。公的な場所においてエスカレーターやエレベーター…OTSUさんの「職場」にもあるかもしれません…の整備が叫ばれていますが、それらは当然電力がなければ動きません。
 さらに小耳に挟んだところでは、各地に散らばる飲料や煙草等の自動販売機の総電力消費量は、原発2基分に相当するとか。(正確なデータはないので正しくないかもしれません。ゴメンナサイ。)ここ数年、夏になると決まって「過去最大の電力消費量…。」とかいうニュースが流れますが、こういうのを見ると、正直「反原発」と言われても説得力がないなあと思ってしまうのです。
 第一、原発をなくすのはいいとして、ではその後の膨大な電力の供給はどうするの?火力は二酸化炭素の排出は言うまでもないし、ひょっとしたら大事故が発生すると、原発並みの破滅的な環境破壊を惹き起こすかもしれません。水力はダムをたくさん造らなければなりません。これも環境破壊です。(まさか放射能や二酸化炭素を撒き散らさないからいい…とは言わないですよね?)さらに風力や太陽熱は現状では原発の代わりにはとてもなりえません。
 ではどうすればいいの…?今までの反原発運動は、この点についてなにも触れてきませんでした。(少なくとも私は聞いた事がない。)ただ原発はキケンだから止めようと叫ぶだけ。もちろん、リスクは重大です。でも、そんな事は実はみんな知っています。しかしリスクを犯さなければ、今の日本では個々の暮らしが回らなくなってしまっているのもはっきり事実です。その事を考えない、ただ原発をなくせばみんな幸せ、と言う運動はもはや通用しなくなりました。
 反原発運動に携わる人々ははそろそろ、ただ情に訴えた反対だけでなく、では原発を廃止した後どうするのか、その後の私たちのライフスタイルはどうあるべきかという事を、明確なプランを立案した上でキチンと世論に示すべき時が来ていると思います。もちろん、ひょっとしたら原発廃止によって国民生活が大々的に制限される事になるかも知れません。私たち一人一人がかなりの不便を甘受しなければならない場面も生まれるでしょう。それはそれで正々堂々と訴えるべきです。破滅につながる重大なリスクを背負ったまま豊かな生活を維持するのか、それともかなりの不便を我慢してでも放射能の心配がないクリーンな世の中を築くのか、はっきり世論に問うのです。
 もちろん私も原発に諸手を挙げて賛成などとは言いません。かつて、旅行先の新聞の一面を飾ったチェルノブイリ事故の記事に、SF的な恐怖を感じたのも事実です。しかし、反原発の人々が説得力あるポスト原発のプランを示せない、示さないのなら、「原発、是か非か?」と問われた時、私は「現状では原発止む無し」と答えざるを得ません。
 もう一つ。残念ながらチェルノブイリ後も日本の原発は止まる事はなかった…と嘆いておられますが、ではチェルノブイリから20年も経つのに何故日本では原発が一つも止められなかったのでしょう?東海村や美浜の事故があっても反原発の声が世論から沸きあがらないのは何故でしょう?運動に携わる人々は、そういう事は考えないのでしょうか?必ずしも原発に限らないのですが、過去の運動が思い通りにいかなくても、このやり方でよかったのだろうかと振り返る事をせず、私たちが世論の代弁者で、私たちの主張=世論の主張だから、黙っていても世論は追い風になり、いずれは自分たちの望む方向に世の中が向かう、そんな勝手な考え方に各種の労働組合や活動家は陥っていませんか?こういう態度が官民関係なく、世論との乖離を生んで労働運動の衰退につながっている…と言うのは考えすぎでしょうか?
 また今日も長々と駄文を連ね、申し訳ありませんでした。
 

投稿: 菊池 正人 | 2006年7月26日 (水) 23時29分

菊池正人さん、お久しぶりです。今回も鋭い問題提起となるコメントありがとうございました。
まず今までの反原発運動などが充分なものだったとは私も思っていません。世論との乖離、確かにその通りかも知れません。
ただ現地の反対運動が中心となり、新規原発建設を阻止してきた成果もありました。とにかく「原発がなければ電力需要は賄えない」などの宣伝合戦に反対派は圧倒されている現実を踏まえ、今後、効果的な運動を模索する必要性を感じています。
以前、要望いただいたテーマと合わせ、記事本文でも近いうちに取り上げさせていただきます。ぜひ、これからもよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2006年7月27日 (木) 07時31分

お久しぶりです。
原発についてですが、菊池さんの言われるとおり私たち運動を提起する側も多くを学ばなければいけないと思います。
私は原発も含めた『反核』派ですが、一方的に原発反対を訴えても大衆の同意を得ることは難しいと感じています。
いくら「危険だ」、「大量の核廃棄物を出すから問題だ」と叫んでも電気の多大なる恩恵にあずかっているのは事実です。また、事故の起きた地元から運動が盛り上がらない一因として、原発関連施設が地元における多大なる経済的影響を有していることもあるでしょう(そうした意味では、在日米軍基地の問題とも重なると思います)。
私が反原発の話をする場合に、『原子力の時代は終わった』という本から多くを引用させてもらいますが、この本を読むと原発のからくりや課題がよく分かります。
簡単に内容を言えば、欧米の原子力政策を紹介しつつ原発廃止=生活レベルの低下とはならない、原発が抱える多くの課題について等々が書かれています。
ただ大前提として「原発に賛成(容認)」とか「反対」という以前に、原発とはどういうものかを私たち国民がきちんと知らなければいけないと思います。そこから双方(もしくは私たち運動する側)が話し合う(提起する)べきではないかと思います。

個人的には、体制側(電力資本)の宣伝に負けているなぁと思います。
「原発は、二酸化炭素も出さないクリーンなエネルギーです」と某電力会社がTVCMを流していますが、放射能の影響を受ける原発で使用された部品やそこで働く人たちの衣類(低レベル放射性廃棄物)ですら放射能の半減期は300年、使用済み核燃料の半減期は5000~7000年と言われます。
そんなエネルギーが、決してクリーンなエネルギーとは思えないのですが。
地域経済の問題も含め、私たちが丁寧な提起(なぜ反対なのか?なぜ問題なのか?では、どうするのか?)をしていくことが、これからの運動に求められていると思います。

投稿: アンディ・ベム | 2006年7月31日 (月) 17時50分

アンディ・ベムさん、お久しぶりです。
いつも私の記事が踏み込み不足な点を適確に補足いただき、ありがとうございます。
確かにヨーロッパでの動きなどを参考とし、脱原発は現実的なシナリオとして描けるはずです。それが核利用の技術維持や向上、様々な権益などが絡み、原発推進の大きな意思が働いているものと思っています。その流れを変えるためには、運動する側の本当に丁寧な情報発信が求められています。
また機会を見て、原発の問題も取り上げるつもりです。これからもアンディ・ベムさんのたいへん参考となるコメントを楽しみにしています。よろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2006年7月31日 (月) 21時58分

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