最近、運動不足?
「最近、運動が不足しているんじゃないの?」と言われた場合、スポーツなどで体を動かすことが減り、健康面を心配した話だろうと思います。
一方、「運動」という言葉の前に「市民」「学生」「労働」などの単語を組み合わせれば、まったく違った意味の「運動」となります。そのため「運動不足?」との投げかけに対し、「組合の運動は毎日欠かしてないけど…」と事務所内が冷え込む冗談を聞く時もあります。
「運動」を辞書で調べると「ある目的のために人々へ働きかけること」とあり、以前投稿した記事「骨っぽい挨拶の菅直人さん」を思い起こしました。「今までの歴史の中で、社会を動かしてきたのは農民運動であり、労働運動、学生運動、市民運動だったはずである」と述べられていた菅さんの言葉が印象深かったことを思い出しました。
今回、「運動」について取り上げるのは、前回記事「チェルノブイリの祈り」へのコメントが切っかけでした。菊池正人さんから以前のコメントと同様、たいへん力のこもった貴重な問題提起となるコメントをお寄せいただきました。
東海村や美浜の事故があっても反原発の声が世論から沸きあがらないのは何故でしょう?運動に携わる人々は、そういう事は考えないのでしょうか?
必ずしも原発に限らないのですが、過去の運動が思い通りにいかなくても、このやり方でよかったのだろうかと振り返る事をせず、私たちが世論の代弁者で、私たちの主張=世論の主張だから、黙っていても世論は追い風になり、いずれは自分たちの望む方向に世の中が向かう、そんな勝手な考え方に各種の労働組合や活動家は陥っていませんか?
こういう態度が官民関係なく、世論との乖離を生んで労働運動の衰退につながっている…と言うのは考えすぎでしょうか?
核心部分と判断した箇所のみ抜粋したため、菊池さんの真意が充分伝わらなかった場合はご容赦ください。なお、菊池さんのコメント全文は今回記事中のリンクをはった下線箇所をクリックし、ご覧いただけるようになっています。
今回の菊池さんの問いかけに対し、取り急ぎコメント欄で次のとおり端的なお答えをさせていただきました。
まず今までの反原発運動などが充分なものだったとは私も思っていません。世論との乖離、確かにその通りかも知れません。ただ現地の反対運動が中心となり、新規原発建設を阻止してきた成果もありました。とにかく「原発がなければ電力需要は賄えない」などの宣伝合戦に反対派は圧倒されている現実を踏まえ、今後、効果的な運動を模索する必要性を感じています。
ここでも以前の記事(佐高信さんの言葉「呼びかけの競い合い」)を思い浮かべながら「運動」とは宣伝合戦だと改めて考え始めています。原発を必要不可欠又は必要悪とし、容認していくのか、廃絶に向けて現実的なシナリオを提示していけるのか、両派の「呼びかけの競い合い」が行方を左右するはずです。
菊池さんのコメントは原発問題の各論よりも、とりわけ労働組合の「運動」論全体に批判の目を向けているようでした。過去の「運動」のあり方への評価や総括が不充分であり、世間の意識を低く見ている独善的な「運動」だと思われている様子がうかがえました。
労働組合一つとらえても幅広く、その組織の考え方も様々です。したがって、菊池さんの問いかけに対して労働組合全体を代弁するものではありませんが、私自身の「運動」を進める際の留意点を述べさせていただきます。
第一は「呼びかけの競い合い」に象徴されますが、反対を押し付ける「運動」は避けようと心がけています。なぜ、反対しているのか、相反している立場の方からも共感を得られる言葉や中味を常に意識する必要性を感じています。
次に「運動」を通して、どのような成果があるのか、必ず総括や検証を行なうべきものと考えています。「継続は力」という言葉もありますが、「運動」そのものが目的化され、その「運動」を成功させるために労力が費やされるマンネリズムは避けなくてはなりません。
続いて一つ目と関連しますが、事実や歴史認識を適確に把握し、そのことを広く伝えていく「運動」が大事だと考えています。その共通認識があってこそ、各論に対する有意義な議論や判断が行なえるものと思っています。
最後に自分たちの事実認識や「運動」に誤りがあった場合、率直に反省した上で速やかに軌道修正する柔軟さも必要だと考えています。つまり自分たちの考え方が「絶対正しい」と確信した「運動」だったとしても、場合によって「絶対」はあり得ないと思う謙虚さも欠かせないはずです。
以上は、あくまでも個人的に心がけている「運動」論だとご理解ください。ちなみに菊池さんにとって「チェルノブイリの祈り」のイベントはマンネリな印象だったようですが、手前味噌ながら私にとっては意義深いものだったと思っています。
事故20年の節目の年、立体講談という独特な手法で、チェリノブイリ原発事故の悲惨さや重大さを伝えられたことは貴重な取り組みだったと総括しています。また、会場へ足を運んでいただいた方は120名ほどでしたが、このイベントのPRを通して数多くの方々へチェルノブイリ原発事故20年をアピールすることができました。
膨大な宣伝費をマスコミに使える電力会社の「原発PR」に比べれば、本当にささやかな「運動」だと言わざるを得ません。それでも自分たちの身の丈に合った小さな「運動」の積み重ねも、原発推進へ加速しそうな流れに少しでも歯止めをかけているものと信じています。
菊池さんのコメントを受け、長々と書いてきましたが、結局のところ持論を展開したに過ぎないかも知れません。問いかけに対して充分答え切れず、たいへん申し訳ありませんでした。また、以前要望いただいた「年金」「自治労不祥事」「組合の路線対立」問題、時機をみて記事本文で取り上げたいと考えています。ぜひ、これからもよろしくお願いします。
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