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2006年5月15日 (月)

佐高信さんの言葉「呼びかけの競い合い」

日記形式のブログでもあり、一つの記事を通して主張したい内容はあまり多くしないように心がけています。と言いながら昨夜投稿した記事(思い起こすのが「国旗」「国歌」法)は、少し内容を盛り込みすぎたかなと感じていました。

すると翌日、同じ役所の方から「なかなかの内容でしたね」と言われ、別な方からは「少し主張したい点が分かりづらかった」と対照的な感想をいただきました。また、WontBeLongさん、「どうでしょう」さん、ハマーさんから問題提起となるコメントをお寄せいただきました。いろいろな主張を盛り込んだ記事だったため、人によって受けた印象は様々だったかも知れません。

WontBeLongさんからは「いずれにしても多様な考え方や思想が認め合っていける社会こそ、民主主義の国だと考えています」との文章に対し、難しい問題であると葛藤しながら次のようなご意見をいただきました。

ひとつの宗教を完全に信じている人にとって、他の宗教の信者は、最大限に寛容しても「誤ったものを信じている哀れな人」としてしか捉えられないのではないでしょうか。要するに、「他人の自由を侵害しないで自由に振る舞う」、または「自由と自由の共存」とでもいうべきことは、完全な実現は不可能だと思います。

ご指摘の通りなのが一般的なことだと思います。私の言い分は理想論だったり、きれい事過ぎる主張なのかも知れません。世界中の人々が国家、宗教、民族、思想などの違いを尊重し合いながら対立よりも対話を重視できれば、世の中から悲惨な戦争はなくなるはずです。

そこまで一気に話を誇張してしまうと単なる夢想家だと失笑され、現実的な意見交換につながりません。とりあえず直面する課題である「共謀罪」や「愛国心」などについて、どのように議論していくべきなのか「運動論」としての願いを託したつもりでした。

ここで評論家の佐高信さんの言葉をご紹介します。佐高さんが編集委員を務めている「週刊金曜日」3月17号のコラムで述べられていた言葉で、私自身、非常に共感した文章でした。

硬派の人たちは、保革の対立を「正しさの競い合い」のように思いがちだが、私はそう見ていない。保守の側も自分たちの意見を「正しい」と思っているのであり、「呼びかけの競い合い」をしなければならないのである。

実は最近、この記事を目にしました。私自身も最近の記事「多様な価値観Part2」で「大事な点は小泉首相の支持者からも共感を得られる言葉や中味を意識すること」と書いていましたので、佐高さんの言葉と相通じる考え方だったと手前ミソに解釈して勇気付けられていました。

このような考え方を基本としていますので、このブログを通した私自身の主張が分かりづらく感じられる時があるものと思います。前回記事で「日の丸」「君が代」を否定する教育も論外としながら、極端に強制する教育も行き過ぎだと主張した点なども分かりづらかったかも知れません。続いて「どうでしょう」さんのコメントをご紹介します。

選挙で選らばれた首長が任命し、同じく選挙で選らばれた議会で同意を得た教育委員の業務指示に、何故試験に受かっただけの官僚の反抗が許されるのかが不思議です。

「日の丸」「君が代」に反発してきた教員に対する憤りが伝わってくる「どうでしょう」さんからのコメントに対し、ハマーさんが次のようなコメントを寄せています。

選挙で選ばれた奴が常に正義を行うわけじゃないかんねぇ。むしろ逆でしょ。教育委員会にしろ、多様な人間じゃなくて、首長が気に入った人“だけ”が選ばれてるんだから似たような思想傾向を持っていて多様性を前提にした議論をしないから、教育委員会が機能しないのよ。

お二人のコメントを踏まえ、前回記事で分かりづらかった私の言葉の補足をさせていただきます。まず誤解のないよう「日の丸」「君が代」に反対してきた教員の皆さんの行動やその組合の方針を批判するものではありません。私も、私どもの組合の方針も「日の丸」「君が代」の強制には反対の立場です。

その上で、「日の丸」「君が代」を頭から否定する教育が行なわれていたとしたら問題だと個人的には思っています。大半の教員の皆さんは賛否両論あることも含めて教えていたと伺っています。もし、そうでなかった場合は子どもたちへ「反対することの強制」となり、偏向教育と批判されてしまいます。

最後に、入学式や卒業式の場面では、それこそ「正しさの競い合い」ではない両者の折り合いが実現することを願っています。以上のような優柔不断な意見は、双方の立場の方から批判を受けるかも知れません。とにかく難しい問題だからこそ、「呼びかけの競い合い」となる議論を交わしていくことが重要だと考えています。

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コメント

OTSUさん
前回の書き込みでは挨拶もせずに失礼いたしました。

>「日の丸」「君が代」に反発してきた教員に対する憤りが伝わってくる…

うーむ。そんなに憤っているように感じました?
どちらかというと自分は民主主義を厳密に捉えようとしているだけだと思っていたのですが(笑

だから逆の例で普通に国旗掲揚、国歌斉唱をしている学校に教育委員会が廃止の圧力をかけたとしても、それが法令に則った行為である限り反発する先生の方を非難するでしょうね。

まあ杓子定規に考えすぎなきらいはあるのですが、法治は民主主義の基本であり、民主主義国家の権力の源泉は国民(自治体なら市民かな)にあることを意識する、こんな意見もあるということで。

投稿: どうでしょう | 2006年5月16日 (火) 00時59分

どうでしょうさん、さっそく新しい記事へのコメントありがとうございました。
前回いただいたコメントに対し、的確な返信記事になっていなかったようで申し訳ありません。今回のコメントで、どうでしょうさんのご意見のポイントが充分理解できました。
機会がありましたら改めて記事本文で取り上げるべき大事なポイントだと受けとめています。ここでは一点だけ述べさせていただきます。法治=守らねばならない、だからこそ賛否が分かれる問題に対しての法律を作る際、より慎重に幅広い議論が重要だと考え、最近の記事を投稿しています。
ぜひ、また貴重なご意見をよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2006年5月16日 (火) 08時26分

コメントを取り上げて下さりありがとうございました。

「呼びかけの競い合い」,佐高さんがどのような文脈で使われたのかわからないので,この9文字だけに基づいて書きますが,これを理性的に行うのもかなり難しいように思います。
「呼びかけの競い合い」であることを本人達が自覚していればよいのですが,そうでなければ,どこまでいってもお互いに「話のわからないヤツ」と思い議論が平行線になるように思います。
そして,「呼びかけの競い合い」を自覚して議論できるのは,養老孟司氏のいうところの「バカの壁」をいくつも乗り越えた,藤原正彦氏のいうところの「成熟した」人だけではないかと思います。
しかし,藤原氏は「国民は永遠に成熟しない」と述べています。
ですから,構成員を選べない組織のリーダーは,構成員が未成熟であることを前提に置く必要があるのではないかと考えています。そして,その前提で組織を問題なく運営することは,専制的に行うならまだしも,民主的に行うのは極めて難しいとも思います。
何かまたイチャモンぽいですが,まだまだ迷いもある率直な思いです。

投稿: WontBeLong | 2006年5月18日 (木) 00時09分

WontBeLOngさん、コメントありがとうございました。
確かに考えを深めれば深めるほど、ご指摘のような「迷路」にはまってしまいます。私の考え方や考える方向性がベストだと言い切れませんので、このような議論のキャッチボールを重ねることで、自分なりの考え方がもう少し整理できればと願っています。
ぜひ、これからもご意見をよろしくお願いします。

投稿: OTSU | 2006年5月18日 (木) 00時50分

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