2014年7月26日 (土)

再び、いがみ合わないことの大切さ

ウクライナ東部でマレーシア航空機が撃墜され、乗客乗員298人の命が奪われています。親ロシア派の武装集団が敵の軍用機と見誤り、地対空ミサイルで撃ち落としてしまったという見方が強まっています。パレスチナ自治区ガザではイスラエルの侵攻によって800人以上が死亡し、その75%は女性や子どもを含む民間人であることが明らかになっています。シリアの内戦、イラクにおける宗派間の対立でも数多くの住民の犠牲が余儀なくされています。

たいへん悲しく、痛ましい出来事が途絶えることがありません。なぜ、人間同士が殺し合う、このような事態が繰り返されてしまうのでしょうか。どうしたら戦禍は減らしていけるのでしょうか。上空1万メートルもの高さを飛ぶ航空機を撃墜できるミサイルが開発されていなければ、もしくは手渡されていなければ、ウクライナ東部での悲劇は起こりようがありませんでした。そもそも人間同士が対立し合う、いがみ合うことを減らしていけるのであれば、武力での衝突、それに伴う悲劇の数々は確実に減らしていけるはずです。

残念ながら「言うは易く行なうは難し」という現実が際立ち、人類の長い歴史の中で戦争や紛争が途絶えたことはありません。利害関係の対立があり、自衛のため、攻められる前に攻める、その時々の背景があります。加えて、それぞれの置かれた立場や主義信条などによってお互いの「正義」が違ってくるため、譲歩できず、激しく対立し合うことになります。歩み寄れない場合、相手の「正義」を力で抑え込むことを正当化した過去の戦争も数え切れません。

これまでブログを長く続ける中で平和にかかわる記事を多数投稿しています。「平和の話、インデックスⅡ」「普通に戦争ができる国について」などから関連した過去の記事をたどれるようになっています。大半の方は戦争を忌み嫌い、平和な社会を望んでいるはずです。ただ平和の築き方への考え方や具体的な安全保障に対する「答え」は個々人で枝分かれしがちです。このブログのコメント欄一つ取っても、そのような傾向を強く感じ取ることができています。

集団的自衛権の問題でも賛否は大きく分かれています。私自身は日本国憲法の「特別さ」を堅持するというのであれば、集団的自衛権という言葉に固執した閣議決定を疑問視しています。外務省主任分析官だった佐藤優さんは「この閣議決定の全文を5回、精読したが、なぜ集団的自衛権に踏み込まなくてはならないか、その根拠がまったくわからなかった。この内容ならば、外務省と内閣法制局の頭の良い官僚ならば、個別的自衛権と警察権でまとめあげることができたと思う」と語られています。

さらに安全保障に詳しい外務省OBも「こんなに縛りがついているんじゃ米国に要請されても、自衛隊を派遣することはできない。今までは憲法上容認できないという言い訳ができたが、文言の上では集団的自衛権を認めているので、今後は政治判断で自衛隊を派遣しないことになる。日米の信頼関係にマイナスになる危険をはらんでいる」と述べられていました。先々を見通した安倍首相の用意周到な布石なのか、単なる前のめりな個人的なこだわりなのか、真意は分かりません。いずれにしても「特別さ」を残しながら、たいへん危うい一線を越えてしまったように憂慮しています。

一方で、「普通の国に一歩近付いた」「安倍首相の英断だった」と評価する声が多いことも承知しています。また、このまま本当に「特別さ」を守り抜ければ、今後も自衛隊が海外での戦争に直接参加することはなく、「戦争をさせない」というスローガンが杞憂になることも充分考えられます。この問題に限りませんが、物事一つ一つに対して個々人での見方や評価があり、信じている「答え」があります。しかし、信じている「答え」が必ずしも絶対的な「正解」とは限らない可能性にも留意していかなければなりません。

このことは私自身も常に心がけているつもりです。異なる意見や批判にも真摯に耳を傾け、その考え方を頭から否定したり、蔑むようなことを慎んでいます。とは言え、まずは自分自身の「答え」の正しさを信じているため、反論されたからと言って、すぐに考え方が変わるものでもありません。他者の意見に簡単に左右されてしまっても自分自身が最初に主張した「答え」に対し、ある意味で無責任だと言えるのではないでしょうか。

もちろん今回の記事で主張している私自身の考え方も絶対正しいと言い切るものではありません。異論や反論が加えられることも覚悟しています。さらに今回のような主張すること自体に何か深読みされ、いろいろ批判されてしまうことも考えられます。もともと当ブログでは意識的に「考えています」や「思っています」という表現を多用しています。自分の「答え」に自信がない訳ではなく、不特定多数の方々が読まれる場として持論を押し付けるような印象を少しでも和らげるための心構えでした。

当然、自分の「答え」が一人でも多くの方から共感を得られることを願っています。そのためにも言葉は選ぶべきものと考えています。「こうあるべきだ」と断定調に書き、自らの価値判断をもとに「そうでなければ職を辞すべきだ」というように他者を一方的に批判する言葉が広く共感を得られるものとは思っていません。相手を罵倒することが目的であれば仕方ありませんが、自分自身の「答え」の正しさを訴えたいのであれば他者の心に届きやすい言葉を選ぶべきものと私自身は考えています。

しかし、どれほど届きやすい言葉を選んでも、もともとの視点や考え方が異なる者同士の場合、議論が平行線となりがちなことも痛感しています。このブログのコメント欄であればいろいろな「答え」を認め合った場にとどめることができますが、現実の場面では多数決やリーダーへの一任などによって「答え」を一つに絞らなければならない時が多いはずです。その際、自分自身の「答え」とは異なる決定が下されても、通常の組織の構成員であれば従わなければなりません。そして、結果に不満があっても、構成員同士、いがみ合わないように努めることが大切だろうと思っています。

交渉の場面でも同様です。話し合いで決着が付かないからと言って、いがみ合い、暴力で自らの「答え」の正当性を押し通すことなどは論外な話です。しかし、たいへん残念ながら冒頭に綴ったとおり国際社会の中では話し合いの場さえ持たず、武力行使による悲劇が繰り返されている現状です。お互いの「答え」の正しさを競い合う際、いがみ合わない関係性が非常に重要だと考えています。小さなコミュニケーションの場ですが、そのような点について当ブログのコメント欄でも心がけていただけるよう皆さんにお願いしています。最後に、常連の皆さんからのご理解ご協力にいつも感謝していることを申し添え、今回の記事を終わらせていただきます。

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