2015年8月29日 (土)

安保関連法案に絡む問題意識

少し前まで気温35度を超える猛暑日が続いていました。まだ8月だと言うのに一転して、秋が深まったような25度にも届かない涼しさに変わっています。株価も世界的に急落しています。さらに下がっていくのかどうか不透明感が漂っています。一方で、下降線をたどっていた安倍内閣の支持率は戦後70年談話の内容が一定の評価を得たためか、ここにきて下がり方は鈍化しているようです。安保関連法案の行方とともに内閣支持率が今後どのように動くのか気になるところです。

さて、前回記事「8月30日に全国100万人行動」の最後に「実は今回のブログ記事、全国100万人行動のことは前置き的な取り上げ方とし、そこから個人的な問題意識に繋げていくつもりでした」と記していました。明日日曜の行動を控え、今回の記事を通して安保関連法案に絡んだ自分なりの問題意識を書き進めてみます。これまでの記事の中で訴えてきた内容の焼き直しとなるはずですが、前回記事の最後に掲げた次の一文に尽きるような思いを改めて整理してみるつもりです。

誰もが世界中から戦火が消えることを願い、戦争で人を殺したくない、殺されたくないと考えているはずです。安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している、反対する者は利己的な「一国平和主義」という決め付けは論外です。この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか、そのような視点や立場から判断し、専守防衛を大原則としている日本国憲法の「特別さ」を大切にしていくことが強く求められているのではないでしょうか。

前回記事で紹介したとおり上記は、私どもの組合員の皆さんに8月30日の行動への参加を募った時の組合ニュースからの抜粋です。短い文章ですが、今、私自身が考えていることを凝縮したものとなっています。補足や解説という訳ではなく、この文章から派生していく個人的な思いを綴ることで改めて私自身の安保関連法案に対する立ち位置や問題意識を示させていただきます。

まず「誰もが…」は文字通りの話であり、立場や思想などが異なっていても戦火を歓迎する人は皆無だろうと思っています。中には戦火が上がることで「武器が売れる」と喜ぶ人もいるのかも知れません。そのような人々は自分自身が戦場に行かないことを前提にしているはずです。逆に戦場に行くことで収入を得るような人々は戦火をビジネスチャンスだととらえているのかも知れません。

しかし、そのような人々は極めて例外であり、通常、誰もが戦争を嫌い、平和を願っているはずです。もちろん安倍首相もその一人であることをまったく疑っていません。安保関連法案を成立させることで抑止力が高まり、戦争を避けるために必要な法整備であるという説明も虚言や詭弁だとは思っていません。ただ後ほど触れますが、そのことの実効性や評価は別の問題として考えています。

安倍首相が戦争を肯定している訳ではないため、反対する側が「戦争をさせない」と声高に叫ぶことには以前から少し違和感を覚えています。とは言え、この法案が成立し、限定的とは言え集団的自衛権が行使されるようになれば、これまでより日本が戦争に関わる可能性は高まります。そのような意味合いで見れば「戦争をさせない」という端的な反対スローガンも間違いではないため、それほど強く問題視してきた訳でもありません。

とても与党議員のように「平和安全法制」とは呼べませんが、私自身は「戦争法案」という言葉も使わないように心がけています。このことは最近の記事「安保関連法案の論点」の中でも説明していました。固有名詞を別の名前で呼ぶことには注意を払うべきものと考えているからでした。そのように心がけている中で「普通に戦争ができる国」という言葉は多用しています。この言葉は個々人の評価や見方を反映した形容詞であり、「戦争法案」という固有名詞の使い方とは一線を画しているつもりです。

さらに私自身のこだわりは「普通に」という言葉に重きを置いています。現状でも日本は戦争ができる国だと考えています。個別的自衛権の行使となる自衛戦争です。今後、限定行使とは言え、集団的自衛権まで認める場合、国際社会の中で「普通に戦争ができる国」に繋がるものと理解しています。この言葉も他の国は好戦的であるという批判的な意図を含んでいません。あくまでも国際社会の中で認められた自衛権の範囲内の問題でとらえ、普通なのか、特別なのかという意味合いで表現しています。

ちなみに他の国の憲法でも一定の制約を設けている場合があり、日本だけが唯一「特別だ」と強調している訳ではありません。いずれにしても直接的な戦火から距離を置くことができた戦後70年の歩みは誇るべきものであり、これまでのスタンスを変えるのかどうか重大な選択肢として今回の安保関連法案の是非が問われているものと認識しています。前置きのような話が長くなって恐縮ですが、要するに「安保関連法案に賛成する者は戦争を肯定している」という見方は論外なことだと考えています。

その逆に反対派は利己的だという見方も同様です。さらにネット上では反対派を「反日」や「他国に操られている」という言葉で貶めるケースも散見しています。事実関係を完全に把握できる訳ではありませんので断定調な書き方は私自身も慎まなければなりません。それでも思い込みや決め付けが先走った「レッテル貼り」は賛成派も反対派も控えることが大事な心構えだと考えています。このような「レッテル貼り」が前面に出た場合、まず理性的な議論が期待できなくなります。

以上のような関係性を踏まえ「この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか」、この言葉に私自身の最も強い問題意識を託しています。問題視している理由は最近の記事「問題が多い安保関連法案」「安保関連法案が衆院通過」「安保関連法案の論点」などを通し、私なりの言葉で訴えてきました。立憲主義や抑止力の問題などの論点について人によって賛否や評価が大きく分かれていくものと思っています。そもそも周辺国の脅威をどのように認識するかどうかで議論の出発点も枝分かれしていくようです。

「日本が攻撃されれば、米国はすぐに助けに行かなければならないが、われわれが攻撃を受けても、日本は助ける必要はない。条約は不公平だ」。2016年米大統領選に出馬している不動産王ドナルド・トランプ氏(69)は25日夜、アイオワ州の集会で数千人を前に演説し、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約は不平等だと訴えた。日本をはじめとする諸外国への強硬発言が止まらないトランプ氏。共和党指名争いの首位を独走している背景には、保守層の一部がこうした強気の姿勢に共鳴している面もあるようだ。【時事通信2015年8月26日

上記は多くのアメリカ人の本音だろうと思います。日米安保条約は集団的自衛権に位置付く性格のものであり、アメリカ側からすれば片務性の不公平感が生じがちです。日本側からすれば沖縄を中心にした米軍基地の負担や「思いやり予算」の問題などの言い分もあります。そのバランスがアメリカ側を納得させ続けられるものではなく、少しでも片務性を解消するため、今回の集団的自衛権行使の問題が浮上しているという見方は間違っていないはずです。

今回の法案が成立した場合、これまでと大きく異なり、集団的自衛権行使のもとに後方支援が自衛隊の任務に加わります。後方支援も戦争参加であり、敵対する相手国からの標的になります。それにも関わらず、安倍首相は「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と説明しています。私自身の誤解なのか杞憂なのか分かりませんが、このような後方支援は「なぜ、日本の軍隊だけ安全な場所にいて、最前線に出てこないのか」「戦闘を前に撤退するのか」という批判の声にさらされてしまうことを危惧しています。

これまで繰り返し述べてきたことですが、戦争や武力衝突の事態に至った際、「限定的」や「必要最小限」という理屈が通じるのかどうか疑問視しています。そのような場面では相手側を圧倒するまで総力を尽くすことになるのではないでしょうか。だからこそ日本国憲法では明文化されていなくても、個別的自衛権までを許容する範囲内とし、専守防衛という明確な線引きが非常に重要な点だったものと理解しています。

今年5月、安倍首相はアメリカの上下両院合同会議で演説し、日米同盟強化のための安保法制を「この夏までに成就させます」と約束していました。アメリカ側の負担が減る話であり、大歓迎されていました。しかし、いつも懸念している安倍首相の発する言葉の重さに関わることですが、アメリカ側に誤ったメッセージを伝えてしまったようです。過剰な期待感を与えすぎているため、実際の運用面の問題になった際、信頼を裏切る形になりそうな話を耳にしています。

このような問題点を上げていけば尽きることがありません。そもそも武力の行使に前のめりになりがちなアメリカに対し、日本がブレーキ役になる関係性も欠かせないはずです。軍事面での風呂敷は広げすぎず、もう一度、日本国憲法の「特別さ」を前向きに評価し、日本のできること、できないことを率直に謙虚に示した上でアメリカとの信頼関係の維持に努めていくべきではないでしょうか。そのためにも国民の多くが反対している安保関連法案は、いったん白紙に戻し、違憲の疑いを持たれない範囲内で解決すべき現状の課題を議論していくことが肝要だろうと思っています。

前回記事のコメント欄でnagiさんから興味深いサイトをご紹介いただきました。「解釈改憲」自体が悪だと言えることなのかというテーマについて、憲法学者である慶応義塾大学の山元一教授のインタビューをまとめた記事でした。山元教授は安保法制の違憲論に対して「違和感を感じる」と語っています。このような見方があることも受けとめた上、今回の記事では「この法案の成立が本当に望ましいことなのかどうか」という問題意識を前面に出していました。最後に、山元教授の言葉の中で最も共感した箇所をそのまま紹介させていただきます。

今回のような解釈を行い、法案の成立を目指す安倍内閣は、「戦後レジームからの脱却」というスローガンを掲げています。この言葉は、日本国憲法の意義を否定し、過去の戦争が侵略戦争であったことを否定的にとらえるという意味で使っています。しかし、本来的な「戦後レジーム」は、国連体制によって形作られた国内外の秩序のことをいうはずです。敗戦国扱いされ、アメリカから憲法を押し付けられ、真正面から軍事力を持てなくなったことに不満があるから、これを変えたいという動機だけが透けて見えますが、これは隣国との緊張感を高めるだけで、本来的にあるべき姿から外れています。このような状況では、国連体制によって作られている「戦後レジーム」から導かれる概念である「積極的・能動的平和主義」や「集団的自衛権の行使」を提案するため、憲法解釈を変更していく主体として、安倍政権は全く適任ではないと考えます。

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