砂川闘争は終わっていない、70周年のつどい
前回記事は「斎藤知事、給与50%カットの条例案提出」でしたが、その後『斎藤元彦知事の給与50%カット案、兵庫県議会「説明責任を果たしていない」と採決見送り』という経緯をたどっています。『斎藤知事・片山元副知事を背任疑いで書類送検 阪神・オリ優勝パレード還流疑惑めぐり刑事告発』という新たな動きもありましたが、今回の記事は兵庫県政から離れます。
先週の土曜夜に参加した「砂川闘争70周年のつどい」について取り上げます。このブログでは10年前に「砂川闘争から60年」という記事を投稿していました。70年という節目の年、今回の集会についても当ブログで取り上げようと考えていました。
すると集会の前日、私どもの組合の委員長から原稿の執筆を依頼されました。A4の組合ニュースの裏面半分に今回の集会報告を掲載したいとのことでした。昨年末の記事「『戦雲』から平和を願う2024年末 」で触れた映画の時と同様、書くことを苦手としていませんので協力委員という立場でもあり、今回も引き受けることにしました。
ただ今回は事前に注文を付けました。前回の440字以内という字数の制約は厳しかったため、ある程度融通を持たせて欲しいと要望しました。了解を得て臨んだ訳ですが、たいへん中味の濃い集会であり、砂川闘争について今の組合員の皆さんにしっかり伝えたいという思いが募りました。
「ある程度」の幅が想定以上に膨らむことは確実となり、週明け、委員長と相談しています。参加報告自体、A4両面の分量まで使わせてもらい、全員配布の組合ニユースではなく、別途回覧資料とすることを提案しています。文章中心の参加報告だけでは手に取ってもらえないだろうと見越し、青年婦人部の機関誌「いぶき」に掲載したフォトストーリーを添付することも提案しました。
砂川闘争を背景にした1985年の『明日の風に…』という作品です。委員長と話し合う中で、その回覧資料すべて私自身が責任を持って作成することになりました。このようなやり取りについて、現執行部の情宣担当に逐次伝え切れていなかったことを反省しています。たいへん申し訳ありませんでした。
いずれにしても今週水曜夜の執行委員会で確認を得られた後、各職場の回覧資料として印刷する運びとなっています。ちなみに今回は記名原稿とし、組合員の皆さん全体に個人的な思いを伝える機会を得られたことに感謝しています。
その回覧資料は『砂川闘争は終わっていない―「砂川闘争70周年のつどい」参加報告―』という見出しを付けています。昨年末の記事のようにブログを通して補足する内容はないため、A4両面にまとめた参加報告の全文を紹介し、今回の記事は終わらせていただきます。
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今年、砂川闘争が始まった日から70年という節目の年を迎えています。6月7日土曜の夜に「わたしたちに基地も戦争もいらない! 砂川闘争70周年のつどい」が、たましんRISURUホールで開かれました。
市と市教育委員会も後援している催しであり、実行委員会を代表した開会挨拶の後、来賓として市長も挨拶されています。全体で約620名、私どもの組合からは6名が参加しています。
司会を私どもの組合の委員長が務め、組曲「砂川」と「桑畑」の合唱から始まっています。基調報告として、大学生の時に砂川闘争に駆けつけた元立川市議の島田清作さんが自らの経験を語られました。
記念講演では、砂川闘争の調査を続けている成城大グローカル研究センター研究員の高原太一さんが自身の研究成果を報告されています。最後に、高原さんをコーディネーターとしたパネルディスカッションがあり、パネラー3名はそれぞれ砂川闘争のリーダーだった方々の子や孫でした。
今回の集会を通し、改めて砂川闘争の意義や成果を知ることができます。70年前、1955年5月、米軍は日米安全保障条約の附属行政協定に基づき、立川基地の滑走路を拡張するための土地収用について東京調達庁を通じて砂川町に通告しました。
それに対し、砂川町議会は全会一致で拡張反対を決議し、町長をはじめ各種民主団体の老若男女が一丸となって町ぐるみで反対運動を展開することになりました。その背景として、「土地は百姓の命」とされていながら戦前から数えて15回も日本政府や米軍に土地を接収されてきました。今までは泣き寝入りのかたちでしたが、これ以上は自分たちの生活権を脅かすことになるという危機感が高まっていたからです。
さらに今回の計画では町の動脈である五日市街道が分断されることになり、行政的にも経済的にも被る打撃がはかり知れませんでした。わずかな補償では到底補い切れない深刻な計画内容だったと言えます。加えて、この拡張がB52などの原子爆弾搭載のジェット機の発着のためであるという理由が重なり、町中で反対闘争の機運が高まっていきました。
9月14日、地元住民らの必死の抵抗も警官隊の出動で破られ、拡張予定地の第一次測量を許してしまいました。その日の報告大会の中で行動隊長だった青木市五郎さんが「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」という有名な言葉を発しています。
翌1956年10月、無抵抗の抵抗でスクラムを組む地元住民に対し、全国から労働組合員や学生らが支援に駆けつけました。武装警官は狂暴化し、スクラムを組むピケ隊に襲いかかりました。鉄カブトとコン棒に身を固めた警官隊が一方的に無抵抗のピケ隊に暴行を加える姿はマスコミを通して全国に伝えられました。警官の暴状に憤怒した世論は地元支持、政府批判の声につながっていきました。
10月14日の夕方、政府は「諸般の状況を考慮して残余の部分についてはこれを後日に期することとし、測量はこれにて打ち切る」と発表しました。砂川闘争が勝利に向かう歴史的な瞬間でした。
それ以降も闘争は断続的に続き、1963年には砂川町と立川市が合併しています。1969年、ついに政府と米軍は立川基地の拡張を断念します。このように私どもの自治体では地元住民を中心とした反対運動で基地拡張を阻止するという画期的な歴史を刻んでいました。
さらに1977年、米軍は横田基地に移り、580万平方メートルに及ぶ立川基地は日本政府に全面返還されています。砂川闘争がなければ、現在の私どもの市の姿は間違いなく変わっていたはずです。市役所の庁舎が泉町に移転することもなく、三多摩地域の中でもトップクラスと目されている発展も遂げられなかったかも知れません。
砂川闘争が始まった時、基地拡張予定地の地権者は120軒ほどでした。測量を阻止できた以降、10年数年に及ぶ年月によって地権者は一軒また一軒と砂川の地から去り、最後は23軒となりました。基地拡張反対同盟の方々の多くは2世、3世に変わっています。
基地拡張予定地に散在する国有地を含め、どう活用していくべきか協議する場として、1998年に砂川中央地区まちづくり推進協議会が発足しています。青木市五郎さんの孫である元市職員の青木英司さんが、まちづくり推進協議会の事務局長を務められています。
この集会の代表委員である青木さんは閉会挨拶の中で、砂川闘争の成果として立川駅北口を中心に発展してきましたが、基地拡張予定地だった土地の「平和のまちづくりがなされなければ砂川闘争は終わりません」と訴えられています。私自身、砂川闘争を歴史としてとらえていたため、たいへん印象深い言葉でした。
立場は違っても誰もが戦争はなくしたいと思っているはずです。しかし、ウクライナやパレスチナでは戦火が上がり続けています。残念ながら願っているだけで戦争はなくせません。それでも願うことすらやめてしまえば、望ましい明日を絶対築くことはできません。今回の集会名のとおり「基地も戦争もいらない」社会が訪れることを心から願っています。
集会の締めくくりとして、コーラスグループと参加者全員で「赤とんぼ」を合唱しています。70年前の砂川の地を思い浮かべ、なつかしい歌詞を口ずさみながら、そのような願いを新たにしていました。
★3年前に回覧した「平和や人権にかかわる組合方針の確立に向けて(参考資料)」の中で、砂川闘争を題材にしたフォトストーリー『明日の風に…』を紹介しました。70周年の節目の年、改めて今回の回覧資料にも添付します。今から40年前、砂川闘争に関心を持ってもらうため、小説仕立てに制作したものです。現職の組合員の若かりし頃の姿を拝見できます。ぜひ、ご覧になってください。当時の機関誌から転写しているため、文字が不鮮明な点はご容赦願います。
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